ツタンカーメン発掘

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投稿者 SP' 日時 2001 年 11 月 03 日 20:29:26:

『ロスチャイルド家』(横山三四郎著、講談社現代新書1252)第一章「歴史を彩る」より抜粋。


 エジプトの考古学上の発見のなかで最も劇的なものはツタンカーメンの王墓発掘(第一八王朝、BC一三五八〜一三四五)だといっていいだろう。王墓は一九二二年、ほとんど手付かずのままに発見され、金色のマスクは三三〇〇年以上前の輝きをそのままにカイロ博物館に飾られて世界中から訪れる人々を魅了している。

カーナヴォン卿の資金の裏
 この世紀の発見のスポンサーが実はロスチャイルド家であった。同家の潤沢な資金があればこそ発掘は続けられ、考古学者ハワード・カーターはツタンカーメンの墓に至る地下への階段にたどりつくことができたのである。
 カーターがナイル川左岸の王家の谷での本格的な発掘作業を始めたのは、カーナヴォン卿(伯爵)というイギリスの貴族と知り合ってからのことだった。カーナヴォン卿は一九〇二年、ドイツで自動車に乗っていて事故を起こして重傷を負い、医者にエジプトで静養するよう勧められてナイル河畔を訪れ、古代文明に興味を抱いた。そしてカーターを顧問に迎えて大発見の夢を追うのだが、この貴族がとにかく大変な金持ちだった。当人が金持ちというわけではない。その夫人、アルミナという女性が途方もない金持ちだったのだ。一八九五年にカーナヴォン卿と結婚するにあたって、アルミナは五〇万ポンドの持参金を持ってきたほか、伯爵が抱えていた借金一五万ポンドを帳消しにしたといわれる。
 不思議なことに巨額の持参金などを出したのは、アルミナの戸籍上の両親であるフレデリック・ウオンベルとメアリーではなく、ロスチャイルドのロンドン分家のアルフレッド(一八四二〜一九一八)だった。スエズ運河株の買収資金を出したライオネル男爵の次男で、ロスチャイルド父子銀行の共同経営者であるとともに、イングランド銀行の理事を二一年間も務めたシティの有力者である。
 なぜアルフレッドはこのような行動にでたのか。他人の家の娘であるはずのアルミナにこれほど寛大な態度にでるからにはなんらかの理由があるはずで、それはアルミナが実はアルフレッドの実の娘であるために違いないと噂された。この噂はアルフレッドがアルミナの結婚後も無心されれば望むだけのお金をやっていたこと、一九一八年一月に死んだとき、遺言で一五〇万ポンドの遺産の大半をアルミナ一家に贈ったことで確かなものと信じられた。遺言状を開いてみると、ロンドン市内の豪勢な邸宅はカーナヴォン卿とアルミナ夫妻のものとされ、さらにアルミナに五万ポンド、伯爵に二万五〇〇〇ポンド、夫妻の二人の子供にもそれぞれ二万五〇〇〇ポンドを贈ると書いてあったのだ。
 アルミナが本当にアルフレッドの隠し子だったかどうかは今もはっきりしたことは分からない。ロンドン分家のなかには生涯独身だったアルフレッドが当時は禁制の同性愛者で、それを隠すためにわざとアルミナを実の娘でもあるかのような芝居を打ったのだという説も伝えられているという。ともあれカーナヴォン卿がそのころはまだ珍しく貴重な贅沢品だった自動車を乗り回して負傷したのも、遠くエジプトまで静養に来て大発見の夢にとりつかれたのも、大資産家ロスチャイルド一族のお金があってのことだったのである。

ファラオの眠りを覚ます
 カーターの発掘記などによれば、発掘作業は第一次大戦で中断した後、一九一七年末に再開されて五年目の二二年に入っても目ぼしい収穫はなく、予定の資金は使い果たしてしまった。打ち切りか、それとも続行か。カーナヴォン卿とカーターは額を集めて話し合った。誰もが「王家の谷は掘り尽くされたのだ」というなかで、カーターはまだツタンカーメンの墓がどこかにあるはずだという思いを捨てていなかった。そしてカーナヴォン卿には一九一八年に死んだアルフレッドからの思いがけない遺産がまだ残っていたのである。「もう一年だけやってみよう」──数百人のエジプト人労働者を使っての発掘が再び始まった。切り立つ岩山の狭間で、掘っては埋め、掘っては埋めの作業であり、強靱な意志と確信にも似た希望がたぎっていなければ続けられない事業だった。すべてを掘り尽くしたカーターはふと思い立って労働者の小屋の下を掘るよう命じた。
 その翌朝、カーターが現場に行くと、だれも働いていなかった。小屋の下の土台の下から石の階段が出てきたので、労働者たちはただちに重大な発見だと直感して作業をやめ、雇い主の到着を待っていたのである。異常な興奮のなかで、しかし慎重に掘り進んだ。一二階段まで掘ると、そこに封印された扉があった。
 こんどはカーターが作業を休む番だった。階段を埋め戻し、見張りを立てて急いでカイロに向かい、ロンドンのカーナヴォン卿に「大発見、無傷の印章をもつ墓。到着を待つ。おめでとう」と至急電を打った。二週間後、カーナヴォン卿が到着した。そして再び掘り進むと最初のもののすぐ下から別の印章が現れた。それがツタンカーメンの印章だった。
 世界中を興奮の渦に巻き込んだファラオ(古代エジプト王)の墓のその後の発掘物語については、多数の本があるのでここには繰り返さない。ただそれらの本の多くはこの発掘の金主としてカーナヴォン卿に言及するに止まっている。しかし実際にはツタンカーメンはロスチャイルド家の大金が注ぎ込まれることによって長い眠りを覚まされたのである。
 それがファラオの怒りに触れたのかどうか。黄金の柩に何重にも包まれていたツタンカーメンのミイラが発見されてから間もなく、カーナヴォン卿がポックリ死んだ。まだ五七歳だった。最後の苦しみの際に、しきりにツタンカーメンの名をうわごとのように叫んでいたという。死因は蚊に刺されたためとされたが、その後も発掘にかかわった人々が次々と奇怪な死に方をする。カーナヴォン卿の実の弟、カーナヴォン卿の看護婦、カーターの秘書、その父、さらにはツタンカーメンのミイラが安置されていた「死者の間」の部屋を開けたときに同席した考古学者、ミイラに手を触れた学者、怪死の調査に当たったエジプト政府役人……その数は一七人に上った。
 何が原因なのか。原因を調査しようとする人々までが死んでしまうという異常な事態に、墓の扉に刻まれていた「王を妨げる者は死の翼に触れるべし」というヒエログリフ(エジプト象形文字)が思い出され、“ファラオの呪い”がささやかれた。
 王家の谷で初めて見つかった手付かずのファラオの墓の全調査が終わるまでには一〇年かかった。それほどおびただしい財宝がつまっていた。これらの財宝は契約上、エジプト政府のものとされ、イギリスに運びたいと熱望していたカーナヴォン卿も急死したことから、ツタンカーメン王の金色のマスクはカイロ博物館に収められ、今日も訪れる観光客を見つめているのである。

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