Re: そっかー。長文はメールぢゃなくココに投稿しればいいんねー(棒読み)


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投稿者 にゃにゃ 日時 1999 年 1 月 09 日 21:02:39:

回答先: Re: そっかー。長文はメールぢゃなくココに投稿しればいいんねー(棒読み) 投稿者 にゃにゃ 日時 1999 年 1 月 09 日 20:58:45:

第5章 B型肝炎ワクチン試験(一九七八〜一九八一)


 今世紀のほとんどを通じて、医者は、同性愛者を精神に疾患をもつ人間として「分類」してきた。
ゲイの人々に対するこの医学的判断は、今もなお存在する、同性愛に対するユダヤーキリスト教的
厳格さに基づいているといっていい。しかしながら、事実を正しく見据えるならば、同性愛が病気
であるとか精神障害であることを示す確かな科学的証拠は、存在したためしがないのである。
 医学を業とする者たちが、同性愛を誤って精神病に分類したのは、「科学に携わる」人々が無知
や憎しみや宗教的狭量によって、いかに他人の人生を破壊しうるかを示す好例といえよう。残念な
がらゲイに対するこうした差別は、いまだに社会の隅々にまでゆき渡っている。その結果、いまで
も多くの医者が、そして一般の人々が、同性愛者を「病気」の人間とみなしている。
 同性愛は、宗教上の、社会上の、そして法的な非難を受けてきたため、アメリカのほとんどのゲ
イは男も女も、つい最近まで固く奥に閉じこもっていた。それが一九六〇年代の大きな社会変革を
経て、ようやく、社会の厳しい審判に対抗すべくゲイのコミュニティーがつくられるようになった。
黒人市民権運動、婦人解放運動、ベトナム反戦運動などに代表される大衆抗議運動の吹き荒れた一
〇年間に、ゲイのコミュニティーにも「ストレート」(同性愛でない人々)の社会からの抑圧に抗して
立ちあがろうとする革命の火種がともったのである。
 ゲイ解放運動が勃発したのは、 一九六九年六月二八日の晩、ニューヨーク市にある《ザ・ストー
ンウオール》というゲイパーを警察が手入れしている最中である。マンハッタンのグリニッチ・ヴ
ィレッジのクリストファー・ストリートにあるこのバーは、男性同性愛者たちの夜のたまり場の一
つだった。
 当時は、警察による情け容赦のないゲイバーの手入れが、これといった正当な理由もないのに日
常茶飯に行われていた。おびえきって震えている客が手当たりしだいに検挙され、署に運行されて
調書をとられた。逮捕された同性愛者の名前と住所が、他の性犯罪や狼築行為などの罪と並んで新
聞に載ったこともしばしばある。こうして公衆の面前にさらされ辱めを受けて(さらに精神病のそし
りまで受け)
、職場の地位を失ったり、生活を台無しにされた人は多かった。
 ストーンウオールの手入れのときは、どういうはずみか、逮捕しようとした警察と同性愛者のグ
ループとのあいだに小競り合いが生じ、怒った数十人の男たちと警察との乱闘へと発展した。
 暴動のうわさはたちまちグリニッチ・ヴィレッジじゅうに広まり、翌日の晩になると、憤慨した
ゲイの男性や女性が二〇〇〇人以上も、警察の嫌がらせに抗議してクリストファー・ストリートに
集まった。それから数日間にわたって、通りに喧嘩っ早い同性愛者の群がうろつきまわり、当局は
血なまぐさい暴動が再発するのではないかと危ぶんだ。結局、ゲイによるデモや計画的な市民的反
抗に押されて、ニューョーク市警が引き下がった。
 ストーンウォールの成功はゲイの人々の心を燃えたたせ、これが契機となって、ゲイ・プライド
運動が生まれたが、このようなことは歴史上に類のないことでぁった。そしてその一〇年後、マン
ハツタンを「ゲイの疫病」が襲ったのである。
 一九七〇年代の初め、アメリカ精神医学協会はゲイの活動家たちの政治的圧力を受けて、ようや
くゲイの人々から精神病の汚名をとり払った。現在はもはや、ゲイは精神病者として「分類」され
ないが、世界保健機関(WHO)は相変わらず同性愛を精神の障害として分類している。
(一九八七年にWHOは、天然痘のワクチン接種をとおしてエイズを中央アフリカに広めたとして、公然たる非
難を浴びた。しかし、WHOがアメリカのゲイのエイズ発生に関与しているという申し立ては、いっさいなかった。)

 ストーンウォールの事件から一〇年の間に、運動は信じられぬほどの高まりをみせ、ゲイの政治
勢力が生まれて影響力を持つに至った。 一九七〇年代の後半にはゲイ解放運動によって、それまで
奥にこもっていた同性愛の男性も女性も外に出てくるようになり、グリニッチ・ヴィレッジやサン
フランシスコ、ウェスト・ハリウッドなどで開放的なゲイのコミュニティーが隆盛をみせた。
 サンフランシスコやロサンゼルス、ニューョークにおけるゲイ・プライドの行進が何度も全米に
テレビ放映され、はじめてアメリカの「ストレート」の人々は、ゲイの人々がどこから見ても「正
常」で幸福なようすをしている事実を目の当たりにしたのである。いったん「外」に出たゲイたち
が、二度と密室に引きこもるはずはなかった。
 何百万というアメリカ人は、「おかま」や「ホモ」や「レズ」に自分の家の居間や棲室に踏みこ
まれるのをきらった。ある者は、わが国は現代のソドムとゴモラヘの道をまっしぐらに進んでいる
と嘆き、多くの両親が、わが子が新種の厚かましい倒錯者どもの餌食になるのではないかと戦々
恐々としていた。
 七〇年代後半におけるゲイ権利への闘争は、必然的にアンチ・ゲイの反動をもたらした。それを
象徴するのが、モラル・マジョリティーを代表とする政治グループである。この反動は、アンチ・
ゲイの右翼運動として、また「ゲイたたき」や「ゲイ殺し」といった悪意に満ちた悪ふざけのかた
ちで、今日まで続いている。
 ゲイ市民権運動は一九七八年の一一月にその絶頂に達した。この一一月という月は、カリフォル
ニアの住民投票によって「提案六号」が否決されたことに始まる、騒乱に満ちた月であった。この
提案は、ゲイが州内で教職に就くことを禁止するものであった。そして一一月は、サンフランシス
コのシティホールにおけるハーヴェイ・ミルクの暗殺という惨事で幕を降ろした。
 その一年前の一九七七年に、ハーヴェイ・ミルクはサンフランシスコ教育指導委員会の選挙に、
はじめて自分がゲイであることを公然と掲げて立候補し、当選している。ゲイの人々にとってミル
クは、ゲイ・プライド運動のなかで獲得できるもの、賞賛すべきものを身をもって示す究極的な政
治的象徴になった。
 このときの選挙ではまた、ダン・ホワイトも委員に選ばれている。彼は落下傘兵の経験を持ち、
元警察官で、アイルランドカトリック教の信者であり、ことに同性愛嫌いで有名な人物である。ハ
―プェイ・ミルクとダン・ホワイトは、サンフランシスコの政治と生活様式における二つの側面を
代表していた。ミルクが代表するのは、年老いつつあるヒッピーとゲイのユダヤ 自由主義であり、
ホワイトが象徴するのは、男っぽいいかにもアメリカ的な反ゲイ保守主義であった。
 選挙後の一年間に二人の敵意はしだいにつのり、政治的策謀がうずまくなか、ついにホワイトに
よるハープェイ・ミルクの冷酷な殺害という事件にまで発展した。事件が起こったのは一九七八年
一一月二七日の朝のシティホールで、このときはミルクと一緒に、同性愛者ではないジョージ・モ
スコーン・サンフランシスコ市長も殺害されている。一一月の議会選挙に向けて煽り立てられた反
ゲイ感情が、ダン・ホワイトの狂気じみた同性愛嫌いと殺人行為の一因になったと思われる。
 一一月の初めにはゲイの政治力は絶頂にあったが、ミルク殺害は悪い前兆であった。
 一九七八年一一月、実験用B型肝炎ワクチンの試験がマンハッタンで始まる。そしてこれがアメ
リカのゲイにとって、終焉の始まりとなった。

(アラン・キャントウェル・Jr「エイズミステリー」p.33-p.72、リブロポート、1993)


#あとは、ばいおさんお願い(爆)





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