それはツングース異変から始まった


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投稿者 SP' 日時 1999 年 4 月 04 日 08:53:52:

 以下『ソ連のUFO研究』第三章より。 私=フェリックス・ユーリエヴィッチ・ジーゲリ(ジーゲル)博士
 
 ソ連で科学的なUFO研究が始まったのは1946年、第二次大戦が終わった翌年であった。
 その年、我国のUFO研究に火をつけたのはSF作家のA・カザンツェフであった。彼は、ツングース大爆発
は他の惑星から飛来した物体が何かの原因で地上に落下して起きたもの、という大胆な仮説を発表したので
ある。(中略)当時、全く空想的なものとみられていたが、時と共に強力な科学的根拠によって実証される事
になった。その口火をきったのが翌年にモスクワ・プラネタリウムで開かれた科学討論会であった。この会
で「ツングース隕石の謎について」という報告を行ったのは、仮説の提唱者である彼と私である。それは極
めてユニークで大胆な報告であった。その為、同じ内容の討論会が別の特設会場でも行われ、その発言が新
聞の紙面を飾る事になった。その後もツングースの謎について科学者達の発言が続いた。
 こうしてツングース大異変は大きな社会的関心の的になった。58年になるとソ連科学アカデミー隕石委員
会(議長、アカデミー会員V・フェセンコフ)がツングースの爆発現場へ学術探検隊を派遣した。この探検
隊は、その調査結果を分析して、爆発は地上ではなく、その上空で起きたとの結論を発表した。しかし爆発
物の正体については依然として謎のままに残された。
 1959年から、2つの研究グループがツングースでの常駐調査を始めた。
 一つは科学アカデミー・シベリア支部が組織したもので、同支部のG・プレカノフ、N・ワシーリエフの
両教授がリーダーとなった。もう一つはレニングラード工科大学が派遣したもので、A・ゾロトフ教授が調
査団長であった。当時の同工科大学長はアカデミー会員のB・コンスタンチーノフであったが、彼はUFO研
究の有力な理解者であった。(中略)
 69年になって、ゾロトフがミンスク市の科学技術文献出版所から『1908年のツングース異変の問題点』と
いう本を出した。この本の序言はコンスタンチーノフが書いた。更に彼は70年春、自分の研究テーマである
「ツングース現象の評価」について科学アカデミー物理研究所で講演した。このような彼の一連の研究につ
いて、優れた学者であり、アカデミー会員のM・レオントビッチが高く評価した。
 一方、ツングースの密林で苦労しながらデータを収集し、ゾロトフに提供してきたのはワシーリエフとプ
レカノフが指導するシベリアの研究者達であったが、彼らも独自に調査活動の成果を纏めて『ツングース爆
発の諸問題』と題するシリーズをトムスク大学出版部から出した。刊行が続けられ、第三集まで出たが、そ
の都度、隕石委員会に属するフェセンコフ一派から悪意に満ちた非難と攻撃が浴びせられた。(中略)
 71年4月、ノボシビルスク市でツングース問題に関する全国規模の学術討論会が開かれた。主催者は、ア
カデミー・シベリア総支部の隕石・宇宙塵委員会で、実質的な組織者はワシーリエフであった。討論を進め
るにあたって主催者は、ツングース爆発の原因について彗星説をとる学者から核爆発説を主張する研究者ま
で、様々な考えをもつ人々に対して、注意深く公平に発言する機会を与えた。
 “地球外の知的生物が造った惑星探査機の爆発”という仮説を代表してゾロトフと私が演壇に立つ事にな
った。私の番になった時、物体が飛来してきた軌道を詳しく分析した後、次のようにしめ括った。
「…以上のような、物体が大気中を飛行する時の複雑な空気力学的諸要素を考慮しながら、これまでに集め
られた全てのデータを詳細に分析した結果、私は、この物体が造られたもの、否正確には地球外の知的生物
によって製作されたものであり、恐らくは地球探査の目的で飛来したものであったと、十分な証拠をもって
断言するものであります」(中略)
 この討論会の報告はその後、委員会会報として印刷されたが、隕石委員会からの強い要求で、私の報告は
会報から削除された。但し、決議としての会報の中に、「ツングース異変の起きた地域の放射能の研究は必
要であり、可及的速やかにこの複雑な問題の解明に終止符を打つべきである」と記載された事は、一歩前進
であった。
 この研究は現在も行われているが、まだ結論は出ていない。ただ、中間的結論として「ツングース爆発の
残した放射能の特徴」に関するゾロトフの研究成果が隕石委員会によって証認された。彼の結論は非常に明
快である。つまり、「1908年6月30日のよく晴れた朝、中部シベリアの森林の中で起きた大爆発によって、
広い地域に渡りシベリア特有の針葉樹林が放射状になぎ倒されたが、その後、調査探検隊がこれらの倒木の
木質層を調べたところ、セシウム137の残留が確認された。周知の通りセシウム137は、地球上では自然に存
在せず、人工的にのみ造り出される放射性物質であり、しかも熱核反応によってのみ得られるものである。
従ってツングース爆発は、単なる自然現象ではなく、当時の人類がまだ手にしていなかった高度な核の技術
との関連でしか考えられない出来事である。では一体、何が起きたのだろうか、空から降ってきたものは何
であったのか、どこからきたのか、これらの疑問にはまだ誰も答えを出していない」というものであった。
 この討論会の後、私は、『ツングースの奇跡』という本の最終的な仕上げ作業を進めていた。それまでに
公表、記録されていた資料やデータを集めて、この歴史上稀にみる出来事を整理し、問題点を明示するのが
目的であった。私は、西シベリア書籍出版との契約で1974年中にこの本を出版する事にしていた。私の纏め
た原稿は予め、ワシーリエフをリーダーとするシベリアの研究グループ、レーニン賞受賞者で工学博士のE
・クネーギン、ロシア共和国功労科学者のM・プロトジャーコフ教授、その他の専門家達にも見て貰い、高
い評価を得ていた。そして正に印刷が始まろうとしていた時、思いがけない事が起こった。
 科学アカデミー隕石・宇宙塵委員会議長E・クリーノフ(フェセンコフの死後、ポストについた)が、ロ
シア共和国出版委員会を通じて、この原稿の内容を検閲する必要があると通告してきた。公的機関の要求は
命令であり、誰も拒否できない。私は渋々この要求に応じた。間もなく、検閲委員の内のV・ブロンシュテ
インやA・ヤブネーリらの否定的意見に基づいて、ロシア共和国出版委員会は、私の本の出版を禁止してし
まったのである。
 私はすぐ上部機関に抗議の手紙を送ったが、最早何の役にも立たなかった。そこで私は、出版を禁止する
決定を下した張本人、ロシア共和国出版総局長G・レーベジェフに面会を申し 入れた。私の抗議に対して彼
はこう言った。「誰からも文句のこないような本だけが印刷の許可を貰える事を覚えておきたまえ」と。こ
の言葉の後を追うように、この年の11月5日付で彼から手紙がきた。「あの本のテーマと推論は出版所にと
って甚だ苦手の部類に属するもの…」という、妙な言い訳であった。



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