『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【3】つづき

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:56:54:

回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【3】南京陥落 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:55:54:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【3】つづき

12月9日から11日にかけて日本軍は3度に渡りGuanghuamenへの進攻を強行しました。これに対して我々はまず軍事訓練部隊が抵抗し、そして第156番師団も激しく戦い、多くの敵を殺害して門を死守しました。しかし11日の午後を契機に悪い知らせが雨花台地域から頻繁に届きました。AndemenとFongtaimenが敵の手に落ち、第88番師団の前線を縮小して第74番隊と第71番隊を組み合わせ、直ちに第154師団の援助へ向かうように命じました。

しかしさらに悪い知らせが唐生智に待ち構えていました。しかも今回の知らせは敵の成功ではなく、蒋介石本人からのものでした。12月11日正午に唐生智のオフィスへかけられた電話をGu Zhutong将官が取りました。直ちにGuは唐生智へ蒋介石から命令が直接、下され全軍を撤退する指令が出されたことを知らせました。そして唐生智自身には、南京から川を横断した場所にある鉄道連絡船航路の浦口停車場(駅)まで船で待機している別の将官に安全に運んでもらうように指示されました。
唐生智は動揺を隠せませんでした。どの指導者においても美しくない選択である自分の軍隊を置き去りにするという依頼を別にしたとしても、彼はこれとは違う大きな難題を抱えていました。軍隊は激しい交戦攻防を行なっている真只中でした。唐生智はGuに日本軍は既に中国軍の前線を突破しており、整然と軍隊を退却することは今となっては不可能で、退却すれば軍隊は容易に総崩れになると言いました。
Guは言いました。「心配することはありません。とにかく貴方は今夜中に街を脱出して下さい。」
唐生智は再度、軽率な退却を突然行なうと最悪な結果を招くと述べましたがGuは今夜中に川を渡る命令が蒋介石から個人的に出されていると告げました。「必要ならこの状況を指揮する部下を残して下さい。そして貴方は今夜中に川を渡って下さい。」とGuは唐生智へくり返し言いました。
不可能だと唐生智は言いました。どれだけ速く揚子江を渡るとしても最短で明日の夜でした。しかしGuは急激に迫っている敵の現状を考えると直ちに街を脱出する必要があると警告しました。
その日の午後にも指令を再確認する蒋介石からの電報が届きました。「唐生智総司令官、現状維持ができない場合、将来の反撃に備えて直ちに退却の体勢をとれ。介 11日」。その後も苦悩する唐生智の手元に引き続き緊急退却を指示する蒋介石からの電報が届きました。


12月12日午前3時、唐生智は自分の家で夜明け前の会議を開きました。副司令官や最高参謀官たちがそこに集まっていました。そして前線が落とされ、もはや街の門を死守する手だてはなく、蒋介石は軍隊の退却命令を下したことを彼らへ悲しそうに告げ、部下たちに退却を通知する書類とそれに関連する他の書類を直ちに準備するように告げました。当日の午後1時になり、この退却命令書が中国軍の間へ配布されました。
しかしさらなる最悪な報告書が唐生智の手元に届きました。彼は軍隊を移動する際は揚子江を横断させようと考えていましたが、現今、日本海軍がBaguazhou島東部で掃海作業を行なっており、南京へ向かって蒸気を立てながら川を進んでいることを知りました。この日本海軍の到着は街を脱出する最期の道を閉ざすことを意味していました。この差し迫った状況下で、唐生智は再び5ningnai道の南京安全地帯国際委員会へ連絡し、ドイツ人商人のエドアードスペリングへ日本軍との休戦協定を結ぶ仲介を依頼しました。スペリングは横断幕を取ることに同意して日本軍へこの伝言を伝えましたが、その後、マツイ大将はこの申し出を断って来たという知らせが届きました。
当日午後、唐生智は司令官たちが二回目の会議に集まる数分前、家の窓から街全体が脱出にうめき、通り上は車や馬や全ての人々が若かろうが、年老いていようが、弱かろうが、強かろうが、裕福であろうが、貧しかろうがごったがえして避難している光景を見ました。皆、脱出することしか考えていませんでした。午後5時に開かれた会議はほんの10分で終わりました。高級士官の多くは、野戦司令官と中央司令官の間の情報交換が全く断絶されていたので、会議に参加すらしませんでした。また士官たちの中には状況判断して既に街から逃げており、会議の通知すら受け取っていない者もいました。
唐生智は会議に集まった者たちに、日本軍が既に街の門を打ち壊して三つの壁を突破したことを知らせ、そして皆に「まだ防衛戦を死守できる自信のある者がいるか?」と訪ねました。返答する者がいるか数分待ちましたが、部屋は沈黙したままでした。
しばらくしてから唐生智は穏やかに退却方針を述べました。撤退活動は数分後の午後6時より開始して翌朝午前6時には完了しておくことになりました。第36番師団と憲兵隊の一部は江口から川を渡り、向こう岸にある指定村へ集まることになりました。そして残りの軍隊はAnhwei省南部地域にいる生存者たちと共に日本軍の包囲網を突破しなければならないと発表されました。取り残す武器や弾薬や通信機器は破壊され、軍の退却で通り抜けた道や橋は全て焼き払われることになりました。
会議の席で唐生智はこの指令の修正を加えました。日本軍の包囲網を突破できなかった場合、第87番、第88番師団と第74番陸軍と軍事教育兵団は同じく川を渡ることを試みるようにと部下に告げました。これで唐生智は5つの師団に揚子江を横断する許可を与え、この作戦に参加する部下数は元の数の二倍になりました。当日の夕方に唐生智は波止場へと旅立ちました。彼の余生で忘れられない旅立ちの日でした。


予想通り、この撤退指令は中国軍に大きな騒動を引き起こしました。士官たちの中には誰であろうが、無闇に通知を知らせている者もおり、これを聞いた兵士たちは直ちに街を立ち去りました。また士官たちの中には自分の軍隊にさえ撤退指令を知らせず、代わりに自分自身の隠れ場所を確保している者もいました。何も知らないこの兵士たちは日本軍との戦いをそのまま続行し、中には軍服を着た他の兵士たちが大量に逃げるのを目撃した時には大脱走だと勘違いし、阻止しようと何百人の同志に向かってマシンガンを乱射する者さえいました。街を直ちに避難しなければならない混乱の最中、中国戦車が通り道で無数の中国人を踏み殺し、手榴弾で爆破するまで止まらなかった事態も起こりました。 
 さらに悲惨な策動がこの撤退を滑稽なものにした瞬間もありました。捕虜になることから逃れようと民衆の中に混ざり込もうとした兵士たちが店を壊して一般市民の服装を盗み、野外で軍服を脱いで着替え出しました。あっと言う間に通りは半裸の兵士たちの群で溢れ、その中には兵士と間違われることを恐れて制服を捨てている警察官たちもいました。男たちの中には、下着とおそらく裕福な政府役人の家から盗んできた帽子以外は何も着けずに歩き回っている者もいました。撤退の初期段階ではまだ指令に対する外観が残っており、中国軍の全部隊は一斉に軍服を脱ぎ捨てて一般服に 着替え、整然と編隊を組んで進んでいました。しかし撤退が総崩れになると、服装の取り合いが急増しました。街の至る所で兵士が歩行者たちに飛びかかり、服装を背中から引き裂いている光景が見られました。
日本軍と遭遇せずに街を安全に脱出する道は一つしか残されていませんでした。それは揚子江の北方港まで出て、最初に来た者から順番に乗せてくれる避難用ジャンク船へ乗船することでした。兵士たちは江口郊外の北方港へ到達するために、まず中山路道へ移動して把江門と呼ばれる街の北西門を通り抜ける必要がありました。
しかしこの門の前は信じがたい混雑で大騒ぎな状態になりました。問題の一つにトラックや車や荷馬車に乗った何千人もの兵士たちが細い70フィートのトンネルを押し潰し合いながら通っていることがありました。午後5時まで人波は川へ向かってゆっくりと流れていましたが、夕方遅くになると誰もが小さく開いた門を直接、通り抜けようとして大きな洪水のようになりました。さらに退却兵が川を渡る負担を軽くしようと無数の兵器や供給物を捨てて門近郊に手榴弾、バス、マシンガン、コート、靴、ヘルメットなどを積み上げていたので、その山が交通を遮断しました。門近くに立てられた防壁もまた道の半分を塞いでしまい、この周辺一帯は悲惨な状況と化しました。
唐生智は波止場へ移動中、運転手付きの黒い車の窓からこの大混乱の模様をしっかりと見ていました。車が混雑した人々の間をくぐり抜けようとすると歩行者たちの罵る声が聞こえました。何でおまえは車なんかに乗っているんだ?と彼らは車に乗っているのが唐生智だと気づかずに叫びました。彼は車が最終目的地に向かってゆっくりと進んでいる間、聞こえないふりをして目を閉じ、波止場に6時に到着する予定だったのが結局は8時になりました。
ある騒動が川岸で唐生智に待ち受けていました。兵士たちが戦車をボートにつなげてバランスを保とうとしている間、ある軍事士官たちがどの設備品を破壊して、どれをフェリーに積んで揚子江を渡らせるかについて言い争っていました。しかしどちらにせよその大半が転覆して沈むことになりました。
夜が深まると、兵士たちは自分自身が川を渡ることだけに集中し、戦車や設備などを置き捨て始めました。そして船数が乏しくなるに連れ、現場はさらに乱れ、最後には数万人の男たちが数台の船を巡り、無理矢理、人混みに体を詰め込んだり、空中に向かって射撃して他の人々を威嚇してもがき合いました。恐れた船員たちはジャンク船やサンパン船の横側にしがみついている兵士の指に向かい斧を振り下ろしてこの暴動の高まりを防ごうとしました。
大勢の男たちがこの夜に川を渡ろうとして死にました。多くの者たちは門を通過することさえできませんでした。夕方に火が中山路道まで広がり、その炎が家や乗り物を巻き込んで弾薬の山を一掃しました。交通麻痺の中で馬は狼狽して後ろ足で立ち上がり、大衆混乱を高めました。狂乱した兵士たちは前へ前へと押し寄せ、その勢いで何百人もの男たちが炎の中に押し込められ、さらに何百人もの人々がトンネル内で下敷きになりました。さらに閉ざされた門や荒れ狂う喧騒から脱出しようとした兵士たちが壁へよじ登ろうと殺到し、何百人もの人々が自分の服を引き裂き、それをベルトやゲートルで結んで手づるを作り上げ、そしてライフルやマシンガンを投げ出して順番にその銃眼付胸壁を登りました。そこでも多くの者たちが墜落して死ぬことになりました。
最終ボート出発後、兵士たちは当座凌ぎの浮遊物を抱えて川の中へ身を投げ入れ、木製の鉄道線路、丸太、板、バケツ、浴槽や、どこかから盗んできた戸口などに掴まったり座ったりしました。木製の物が何もかもなくなった後も、多くの人々が確実に死ぬと知りながら川の中へ身を投げ入れて渡ろうとしました。
唐生智は二人の副司令官たちと共に小さな石炭汽船に乗船して二人の軍員を午後9時まで待ちましたが、彼らは結局、現れませんでした。汽艇から大きく児玉している日本軍の大砲火音に混ざり、争い合う人々の騒音や叫び声が聞こえ、そして南京が炎に包まれている光景が見えました。大火が暗い空を明るく照らしていました。
 汽艇が川を渡る間、唐生智はすさまじい屈辱感を味わったに違いありません。彼が最後に垣間みた南京は炎に包まれ、半狂乱で生存しようともがいている人々が暗くて冷たい揚子江の水の中で流木にしがみついて、あてもなく漂っている光景でした。20年以上の間に何百回と戦ったことがあったが、この時ほど悲惨な体験をしたことはないと、彼は後日、友人に語っていたそうです。





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