独白―河上板の掲載記事を受けて

 
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投稿者 野田敬生 日時 2000 年 5 月 26 日 07:50:47:

 ”P”様=”Prosecutor”の意か、とも思われ、なんとなく”ある団体”の気配を感じますが、ともかく、以下の記事等についてコメントさせていただきます。軍事・諜報・警察板には余り関係のない情緒的な話かもしれませんが、話を振られたので一応書きます。かなり長くなるかもしれませんが、私にとっては大事な話なので書きます。
1  まず引用記事についてのコメント
  「野田容疑者はこの女性に交際を断られ」とあり、昨年9・22(逮捕の翌日!)に出た『週刊文春』等では「何度も交際を迫った」とか、「庁内中追いかけ回した」とか書いていますが、はっきり言ってそれは余りにも一方的なウソです。7・22に出た『週刊新潮』は、私を愚弄・嘲笑する内容だったのですが、その『新潮』ですら、一応「一時期、交際していたようだ」と書いていることをあえて記しておきたいと思います。記事はケッタクソ悪いので捨ててしまいました。関心のある方は大谷壮一文庫にでも行って調べてください。
  『新潮』の記事もそうですし、この記事もそうなんですが、「再三上司が注意した」とか「上司がしかった」とか書いてあり、この上司というのは戸澤和彦のことなんですかね。それでも中村宏のことですかね。この辺は、思いだすたびに今も爆発的な怒りを感じます。日々怒りを新たにしています。
  私は、平成10年の6月ころ、本当に精神的に辛い状態になってしまい、そのことで2−1総括の西田稔らにも相談したりしていたのでした。ところが、鼻で笑われてしまっただけで、幹部連はずっと面白がって見ていただけなのです(ちなみに私の退職後、『心の悩み相談室』なるものが設けられた由)。
  『新潮』の記事でも、「上司の再三の注意を無視して」などと、まったく事実無根の記事が書かれており、自らの保身を考えた戸澤、中村らが、デマを流していることは明白です。
2  事件の発端
  ちょっと口論になって、「おい待てよ」と言って、私がその女性の腕をつかんだのは事実ですが、すさまじい拒絶に会い、はっきり言って私のほうがショックを受けてしまい、二週間も無断欠勤してしまいました(退職理由は無断欠勤になっています)。で、はっきり言って私がバカだったんです。もう、それは分かりました。
  でも、退職時に、戸澤らから、その女性が実は、走って逃げたとき(私は追いかけてません!)に廊下で転んで診断書をとったと聞かされ、「仕事をやめてくれ」と言われたことよりも、むしろそのことに私は大いにショックを受けたのでした。というのも、女性のほうに、たとえ好意はなかったにせよ、しばらく席を並べ、少しでも”同情”があれば、そんな法的手段をとって、ていよく私を追いだしてしまおうなどという仕打ちはできないと感じられたからでした。廊下で転んだとは言っても、骨折したわけでも、流血したわけでも、擦り傷一つすらついたわけでもなく、2−1の部屋の人間によれば、週明けにはピンピンして出勤していたらしいのです。
  私は、当時、その女性に対して好意だけでなく尊敬に近い気持ちすら抱いていて、まあ、それがストーカーのストーカーたる所以なのですが、幹部の一言は、これまで私がその女性に抱いていたイメージを根本から崩してしまうよう内容だったのです(なお、平成11年3月下旬には、その女性と電話で長時間、話す機会があり、その女性の言によれば、「辞めさすつもりもなかった」「診断書をとった事実もない」ということでした)。
  結局、どういうことかというと、このままい座られてしまっては、処遇に困る。ショックを与えてでも、早いこと辞めさせよう、ということだったのです。実は翌1月半ばには、当時の長官・豊嶋秀直が高松高検検事長に栄転することとなっており、それまでにことを内密に処理する必要があり、人事課長・中村や戸澤らはその辺かなり上からせっつかれていた様子です。
  私も、それが組織の論理というものだ、ということは百も承知ですが、私にとっては一番大事なところを踏みにじられてしまった気持ちと、何もかも失ってしまった捨て鉢の気持ちで、徐々に報復の感情が芽生えてきたのでした。
3  事件の進展
  退職後1か月間は、鬱々としていたのですが、実は、この間、その女性は何事もなかったようにモロッコに遊びに行ってしまっており、11年の1月になっても何の連絡もありませんでした。取り調べの検事にはどうして被害者が加害者に連絡する必要があるんだと怒鳴られましたが、私にしてみれば、その女性が3月に語ったことがもし事実であったならば、つまり、「辞めさせる」ということが本意でなかったとしたら、せめて電話の1本ぐらいあってもいいのではないかと、淡い期待を抱いていたのは正直なところなんです。で、1月の間も何の連絡もなく、戸澤の言った診断書云々というのも事実のように思われてきて、この女だけは絶対許さないと思いを固めました。
  それで、11年の2月に入ってから女性宅や公調の幹部直通電話に無言電話をかけたり、女性宅に「呪」とか「オマエハ絶対ニ逃ガサナイ。怒リト執念ヲモッテ報復スル」とか書いて送りました。
4  動機は複雑
  この辺の機微はなかなか説明し難いのですが、私としては、公調の持つ矛盾というものを入庁当初から感じており、公調に対する期待を少なからず抱いていたにも関わらず、組織からは不当に処遇されてきたという不満をずっと持っていました。たとえば、オウムに対する取組は、公調の中でも例外的に早く、それは私が従前から教団資料を収集していたためですが、ために野田はオウムのスパイではないかなどという根も葉もない噂を立てられ、ずいぶん悔しい思いをしました。一度噂を立てられると、打ち消すことはできないので、退職する平成10年まで、ことあるごとに言われ続けました。
  近畿局にいた時には、京大にある京大マスメディア研究会というのが、どうやら実はオウムのサークルではないかと察知し、連絡先を割り出して、京都にある拠点を解明したりもしました。ちょうど長官狙撃事件のころのことです。私が不動産屋を訪れると、前日に京都府警の警備が同じ件で来ていたとのこと。その程度のもんなのか、とこれを読んでいる方々は呆れられるかもしれませんが、公調の中にあっても、しかも見習いのキャリアとしては、それなりに一生懸命やっていたのです。一方で、長官が狙撃されるという非常事態であるにもかかわらず、公調の中はまったく他人事のような雰囲気で、週明けには新人歓迎の宴会なんかやったりしていました。私は、京都の件があったので、少しでも早く、とその宴会をキャンセルし、そうしたことが重なって、あいつはどうも変な奴だということになってしまったようです。
  で、組織に対する不満と個人的な怨念が結びつき、爆発的な怒りとなって現われたのです。この辺の動機は、どうやら余人には理解し難いのか、あるいは深入りすると公調のショーモナイところが露呈されるためか、取調べの検事・山下輝年や公判検事・水岸真由美は徹底的に私の供述を無視し、調書にしなかったのは、まあ所詮Pのやることだ から目をつぶるとしても、裁判官・松野勉までも、わたしの言うことを一切聞かず、「辞めさせられたことを逆恨みして・・・」と作文したのには、本当に呆れます。そんなに不満があるのなら控訴すれば良かったのではないか、と言われそうで、実際そうしようとも思いましたが、弁護士によれば、ほぼ事実関係を認めてしまっており、控訴しても時間と金の無駄だと言われ諦めました。実はこの弁護士は、公調が協力者として運営している弁護士で、私も現職時代に二度接触したことがあったのですが、私の勾留中に勝手に運営者の調査官と接触したりしていて、その際には大いに不信感を抱きました。話は変わりますが、当時の横浜地検検事正の五十嵐紀男も昔公調に出向しており、それこそ不倫事件を起こしていたりするので、本当にどいつもこいつも皆殺しにしてやりたいです。
5  なぜ事件を認めたのか
  で、そもそもなぜ認めたのか、ということですが、はっきり言って証拠はほとんどなかったのです。6000回云々というのも勝手に先方が言っているだけのことで、通話記録すらありません。それではどうして認めたかという、それは結局、取調官から「このまま黙秘していれば、公判に女性を引っ張り出すことになる。それは可哀想だろ」とか言われて、私も今は同じことを言われても少しも心は動きませんが、その時は、連日10時間を超える取調べと、逮捕という初めての経験で、ハイ・テンションになっており、図らずもオトされてしまったのです。この辺の感覚は実際に体験しないと分からないと思います。私もいい勉強になりました。本当に精神的に弱かったと思います。今度捕まったときには、完全黙秘して関係者全員を引きずりだそうと考えています。黙秘は6日間ほど続けましたが、取調官によれば、殺人犯でも二日間ももたないそうで、一応、さすがだと誉められはしました。
6  公調側からも反撃
  最初の攻撃は、私から仕掛けたのですが、公調からもすぐさまカウンター・アクションがあり、まず、私の居所、現在の中野のアパートが割り出されました。これも本当は公調の調査力では到底割り出せないのですが、私は迂闊にも、中学・高校以来の友人で当時警察庁刑事局にいたキャリアの小野宏樹という男に、近況を報告しており、これを察知した戸澤らが、関係者を騙して、私の居所を割り出したのでした。
  人事課長・中村と二部一課の早野という男が、突如、勝ち誇ったように私のアパートの扉をノックしたのは、11年の2月18日木曜日のことです。もちろん、私は完全無視したところ、1時間ほど、扉を叩きつづけた後、扉の隙間から紙切れを投函していったのでした。その内容はと言うと、先般女性宅に送った文書については、すでに脅迫罪が成立しており、これ以上組織攻撃を続けると、当事者としては法的手段を取らざるを得ない、旨書かれていました。端的に言えば恫喝であり、これは、女性が診断書をとって法的手段をとった、という話とまさに符合する内容で、両方のイメージが重なって、「どこまでオレをバカにすれば気が済むのか」と私はビビるどころかますます憎しみを深めました。
  入れ替わりで、小野らが拙宅を訪れ、「この辺が潮時ではないか。戸澤は金曜日出張先から帰ってきて、おまえの対応を見て被害届を出すようだ。このまま攻撃を続けていると明日からでも監視がつく」と言われました。私は完全に怒りに心を奪われていたので、一切そんな忠告には耳を貸しませんでした。翌日、案の定、監視車両を発見し、どうやら本庁二部一課20名あまりの調査官でローテーションを組んで、監視をしていた由ですが、そういったことが二週間余り続きました。でも、二部一課のスタッフとしては、余計な仕事を押し付けられということで非難轟々で、その非難は私に向くと言うよりも、むしろ「女が直接言って話をすれば済むのではないか」ということになっていたそうです。
  その後、さすがに、ローテーションも破綻してしまい、公調は定点で”監視アジト”を設定することになりました。それが、まさにお笑いで、私は203号室にいるのですが、その下の102号室を借り上げており、そのことが私にも筒抜けになっている、そういう状況だったのです。
  昨年の『新潮』記事によれば、私が内部文書暴露をはじめたから、公調が監視を始めたなどと書いてありましたが、それは意図的なデマで、監視はもっと前からやっていたのでした。本当に週刊誌がいい加減、というか怖いなと思うのは、ほかにもあってたとえば『週刊朝日』は、私が「前からタコ・キャリ」と呼ばれていたとか、書いているのですが、タコ・キャリというのは、公調が私のことをタコと書いて脅迫状を送ってきたために、あえて自嘲と抗議の意味を込めて、『お笑い』の中で、はじめてタコ・キャリと書いたのであって、現職の時にはさすがにそんなことを言われたことも、かげ口をきかれたこともありません。週朝の記事は、公調関係者談、ということになっているのですが、これだけ見てもいかに取材していないか、よく分かると思います。ほかにも私の学歴については、どの週刊誌も必ずどこか間違っており、本当は東大文学部中退であるところを、法学部出身と書いており、私が意図的にウソをついているような印象すら与える内容になっているのです。
7  どうして執拗に無言電話を続けたのか
  3月下旬には、ついに公調からも脅迫状が届き始め、それが契機で、冒頭述べたように女性と話す機会もあったのですが、一見やさしい言葉とは裏腹に、テープで会話を録音する音が聞こえたりして、どうやら警察とツルんでいるように思われ、やはりどうしても許せないと思う気持ちのほうが勝ってしまいました。しばらくのインターバルの後、無言電話をその後も続けたのはそういう理由です。で、逮捕されてから、警察にはすでに2月ころから相談していたことが分かりました。
  実は、公調はすでに昨年3月には、私の逮捕を考えていたようです。その時は、女性が強硬に反対したため、話が流れたそうです。それは私のことをおもんばかって、ということではもちろんなく、自分が矢面に立つのを嫌ったためですが、その後も庁を巻き込んだ紛争が拡大し、ついに7月28日に被害届を出すことを決意したようです。それは私が、最後の”脅迫状”、「オレノ一生ハオマエノ一生デ償ワセル」などと書いた文書を投函し、これに生命の危機を感じたからではないかと思います。で、どうして私がそんな文書をわざわざ届けたかと言うと、7月22日の週刊新潮に私の記事が載り、どうやら、その女性と公調がある程度つるんで、反撃に出てきたように感じたからでした。しかし、7月25日以降、女性に対する感情も、それ以前は愛憎半ばする複雑な気持ちでしたが、次第に単純な憎しみへと変わり、そのためむしろ気持ちが軽くなって、その後は、電話もかけていないし、いかなる意味でもつきまとっていません(そもそも退職後もつきまとった事実はありません)。このことは、神奈川県警ですら認めており、「おまえが7月25日以降何もやっていなかったことはオレたちも確認している」と言っていたほどなのです。
8  もう一 つの逮捕理由
  では、どうして9月21日になって逮捕されたかというと、これは、当時、公調が団体規制法の成立に庁の命運をかけていたこと、そのことに対して私が攻撃しようとしていたこと、が本当の理由であると言うほかありません。もっと言うと、すでに公調は8月までの段階で、警視庁にも、器物損壊か威力業務妨害か何かの容疑で、二度にわたって、私の拘束を打診しており、いずれも蹴られていたのでした。最終的に神奈川県警に泣きつき、しかも、例の600人名簿を押さえる、ことを第一義においていたのです(大船署の強行犯係長の警部補・小笠原桂一自身がそう言っていました)。
  ところが、そんな名簿が私のアパートから見つかるはずもなく、皮肉にも、私が横浜拘置所に移監されて間もなくの10月末、ついに600人名簿が流出してしまったのでした。しかし、このことは私が名簿を流す意図がなかったこと、私の犯行ではないと言い訳する趣旨ではありません。拘束されている間は、「出たときには必ず報復してやる」という思いを一時も忘れたことはなく、たとえ、何度捕まろうとも、必ず名簿は流してやると決意していました。で、出てみるとすでに流れていたので、大いに溜飲を下げると同時に、肩空かしをくらったような気持ちになっていたのです。
  私が、保釈されたのは、くしくも団体規制法が衆議院法務委員会で可決された平成11年11月17日のことでした。
9  予告
  無言電話の回数ですが、実は6000回どころではないと思います。公調の長官以下、幹部直通電話20数回線にも連日5時間以上にわたって無言電話をかけていたので、総計10万回は下らないのではないか、と思います。あんまりかかってくるので、関係者は、パソコンでプログラムを組んでかけていたと思っていたらしいですが、実は、マニュアルでやっていました。夏の気が狂いそうに暑い日も、「公衆電話」の中に5時間以上いました。それぐらい、毎日怒りで発狂しそうなんです。
  自分に都合のいいことばかり書いていると思われると心外なので、あえて記しておきます。
  なお、この辺のことはなかなか短い文では書きづらく、また、私の主観が入ってしまうので、第三者の人にすでに本にまとめてもらっており、近く何らかの形で世に問う予定です。
  近い話をすると、事件関係については、早ければ週明けにも、某誌で取り上げてもらう予定です。



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