南海の未知生物を追う!!(『ムー』91年9月号)

 
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投稿者 SP' 日時 2000 年 6 月 12 日 18:31:18:

文=高木羅無


イリオモテヤマネコをはるかにしのぐ奇獣ヤマピカリャーが確かに存在する!!

南海の秘境・西表島は珍獣・奇獣の宝庫だ!

 東京から飛行機で南下すること約2時間半。白い雲の切れ目から紺碧に染まった美しい海や、まばゆいばかりに輝く白砂のビーチが見え隠れすると、そこはもう日本のトロピカル・アイランド、沖縄である。
 サンゴ礁の海と深紅のハイビスカスが、エキゾチックな香りをふりまく南海の楽園……。だが光が強ければ強いほど、そこにできる影もまた濃いものとなる。
 われわれの常識を超えた奇習や、部外者にはうかがい知ることのできない秘祭など、沖縄には隠されたもうひとつの顔が存在する。
 だが、沖縄最大のミステリーといえば、人跡未踏の亜熱帯ジャングルや深海に潜む、未知の生物たちに関する驚異的な物語であろう。アカデミックな立場からはいまだにその存在すら認められていない珍獣、奇獣、怪魚たちが、そこには今なおひっそりと息づいているのだ。
 筆者は数年の歳月をかけて、こうした沖縄の未確認生物を追跡してきたが、その過程で信頼するに足る多くの証言や決定的な証拠物件に接し、彼らの実在を確信するに至ったのである。
 以下にご紹介するのは、筆者の研究の中間報告とでもいうべきものだが、後述する諸般の事情によって、いくつかの具体的な地名や人名などについては、やむをえず伏せさせていただいた。現時点ではそうせざるをえない状況であることを、あらかじめご了承いただきたい。
       *
 日本最南端の島々、八重山諸島は、ハワイやマイアミと同緯度に位置し、常夏の島でのバカンスを楽しもうとここを訪れる観光客の数は、年々増加する一方である。
 だが、八重山諸島のほぼ中央に位置する西表島は、総面積の80パーセント以上が亜熱帯の原生林におおわれた、日本最後の秘境なのだ。
 標高400メートル以上の山々が重なり合い、その間をぬって東洋のアマゾンと呼ばれる仲間川と浦内川が、深い渓谷をうねりながら蛇行している。熱気にむせ返る原始の密林には、1メートル以上もあるサヤを実らせる巨大なマメ科植物や、身の丈ほどもある大シダがうっそうと繁茂し、カンムリワシやセマルハコガメ、ヤエヤマオオコウモリなど、ほかでは見ることのできない珍しい野生動物たちの格好のすみかとなっている。
 もちろん、西表島といえば真っ先に思い浮かぶのが、生きた化石といわれるイリオモテヤマネコだろう。1965年のヤマネコ発見は、動物学界における今世紀最大の出来事として世界中を驚愕させた。

ヤマピカリャーの実在は古くから信じられてきた

 しかし、イリオモテヤマネコは西表島の住民にとって、古くから馴染みの深い、見なれた動物にすぎなかった。この島には昔から、人々の間で噂されてきた幻の動物がほかにいたのである。
 それは、現地ではヤマピカリャー(「闇の中で目が光るもの」の意)と呼ばれている動物で、単なる伝説の領域を超えて、その実在が信じられてきたものだ。というのは、イリオモテヤマネコとは明らかに異なる大型のネコ科動物を目撃した、捕らえた、あるいは食べてみたなどと証言する人が、現在も数多く存在するからだ。
 ヤマピカリャーの目撃談をいくつか拾いあげてみると−−。
「浦内川をさかのぼって漁をしていたとき、川岸に何か大きな動物がいるのに気づいた。夕暮れどきでかなり距離もあったので詳しくはわからなかったが、イリオモテヤマネコをとてつもなく大きくしたような生き物だった」(白浜在住・H氏)
「イノシシの罠に今まで見たこともない動物がかかった。大きさは1・5メートル以上もあって、見つけたときはまだ生きていた。ものすごく獰猛で近づくことができず、そのまま放置した」(大富集落在住・M氏)
「子供のころ、近所の猟師が仕留めたヤマピカリャーを見たことがある。前足と後ろ足を紐で結び、その間に棒を通して大人2人で担ぐと、尾の先が地面につくほどの大きさだった。体には斑紋があり、ヤマネコよりはしなやかな体つきで、まるでヒョウのような動物だった。鍋料理にしてみたが、とても食べられるような代物ではなかった」(大富集落在住・F氏)
 このほか、ヤマピカリャーに関する証言は、西表にはいくらでも転がっているといってよいほどだ。
 それらの話を総合してみると、次のようなヤマピカリャー像が浮かんでくる。
@全長1・5〜2メートル以上で、体にはヒョウのような斑紋がある。
A人がめったに足を踏み入れることのない山奥深くをすみかとしているらしく、生息数も少ない。
B性質はきわめて凶暴だが、人間を襲ったという記録は残されていない。
 だが、こうしたヤマピカリャーに関する情報は、ヤマネコ発見の熱狂の中、耳を傾けようとするものもなく、長い間無視されつづけてきた。近年になってようやく、何度かの学術的調査が試みられはしたものの、いずれも決め手となる証拠をつかむことができなかったために、現在ではほとんどの研究者が、ヤマピカリャー生存否定の立場をとるようになっている。
 否定説の論拠としては、まず第一に、証言のほとんどが昭和30年代から40年代に集中しており、その後の目撃報告がほとんどないこと、そして具体的な証拠も何ひとつ残されていないことがあげられる。
 また、ヤマピカリャーの足跡や糞がこれまでに発見されていないことも、彼らの存在を否定する有力な材料となっている。
 さらに少々専門的になるが、動物のすみ分けという問題も無視することはできない。これは類縁種同士が同一エリアに生息する場合、その行動範囲を分担し合うという考え方だ。だが、西表島のようにきわめて限定された場所に野生のヤマネコが生きているという一事をとってみても、世界に類を見ない現象であるというのに、さらにもう一種類の大型ネコ類がそこに生存することなど、とても考えられないというわけだ。

数多くの証言から否定されるヤマネコ誤認説

 結局、ヤマピカリャーとはヤマネコの誤認、あるいは、外部からもち込まれて野生化したイエネコである、というのが一般的な定説となっているが、はたしてそれは真実だろうか?
 ヤマピカリャー目撃者の大半は専門の猟師であるが、彼らに同行して西表の山中を何度も歩き回った筆者としては、「ヤマネコの誤認」などという意見を首肯することはどうしてもできないのだ。
 猟師たちは森の生物に関して小動物や昆虫、植物に至るまで驚くほど豊富な知識をもっており、しかもその熟練した目は、密林の中にまぎれ込む生き物たちをはるか遠方から見つけだし、その種類や大きさまで的確に指摘することができるのだ(こちらはすぐ間近で指さされても見分けることができないというのに)。
 またイリオモテヤマネコは、かつては人家のすぐそばにまで頻繁に出没する、ごく普通の動物だったのである。生息数が激減した今日でも、ときおり道路を横切るのが目撃されたりするなど、出会うのが特別にむずかしい存在というわけではない。ましてやプロの猟師たちがヤ マネコをヒョウのような大型獣に見誤ると考えるのは、異常といってもよいほどの彼らの識別能力を、あまりに低く評価しすぎてはいないだろうか。
 そして目撃されたヤマピカリャーが、その年代、場所を問わず、いずれも同じ特徴を備えているということは、それがヤマネコの誤認などではないという事実を裏づけるものだ。
 ところで、イギリスなどでイエネコが野生化した結果、全長が1メートル以上にまで巨大化したという報告がある。ヤマピカリャーはこうした野生化ネコであると唱える人もいるが、それが豹紋を備え、しかもそのサイズたるや2メートルを超すものさえいるということになると、野生化ネコ説も怪しくなってくるではないか。
 だいいち、西表ではイリオモテヤマネコをヤママヤー(山の猫)、謎の大型ネコをヤマピカリャー、野生化したイエネコをニゲマヤー(逃げだした猫)と呼んで、昔から厳密に区別してきたのだ。
 筆者はこうした事実を踏まえ、ヤマピカリャーに関する独自の調査を開始したのであるが、やはり証言の古さと証拠の欠如という壁に突き当たってしまい、「ヤマピカリャーはかりに存在していたとしても、すでに絶滅してしまったのかもしれない」と考えるようになったのであった。

ヤマピカリャーを捕獲し、その営巣地までも発見!

 そんなおり、ふとしたことから筆者のもとにとてつもない話が舞い込んできたのである。ごく最近、ある猟師がヤマピカリャーを捕らえ、しかもその人物は彼らのコロニーまで発見して、そこに行けばいつでもヤマピカリャーを見ることができるというのだ!
 半信半疑ながらも、筆者はすぐさま西表に飛び、今回の知らせをもたらした知人を通して、さっそくその猟師に面会した。ところがくだんの人物I氏の警戒心は予想以上のもので、面会の目的を告げたとたん、彼は口を閉ざして、二度とヤマピカリャーについて語ろうとはしなかったのである。
 だがその後、酒を手土産に何度も通ううちに、やがてI氏もうちとけはじめ、その重い口からわずかずつではあるが、ヤマピカリャーに関する驚くべき話を引きだすことができたのであった。
 I氏が初めてヤマピカリャーを見たのは、昭和59年のことであったという。その年はイノシシ猟が不作で、彼はこれまで足を踏み入れたことのない場所にイノシシ罠をかけてみた。数日後そこに行ってみると、罠にかかって死んでいたのは、これまで見たこともないヒョウのような動物だったのである!
 死体を実際に手にした感じでは体重約20キロ、ヒョウのような斑紋は体の前半部だけにあって、後半部では消失していたという。またその尾は縦に扁平であったということだ。
 一般的にはあまり知られてはいないが、ヒョウをはじめとするいくつかの樹上性ネコ科動物では、尾が縦に扁平となっている。これは木の枝から枝へ飛び移る際、尾が舵の役割をするからだといわれているが、I氏にそのような専門的知識があるとは思えない。
 やはりヤマピカリャーは今でも生きつづけているのか……。そんな筆者の思いは、I氏の話をさらに聞くうちに、ほとんど確信の域にまで高まっていったのである。
 I氏はヤマピカリャーを捕らえた直後、そこからほど遠くない地点にある彼らの営巣地を発見している。その様子を描写するI氏の言葉は、実際に体験した者のみがもつリアリティーに裏打ちされていた。
 ヤマピカリャーのコロニーは西表島の西部山中にあり、そこは北側が切り立った断崖、南側は岩が散在する開けた原野になっているという。彼らは夏は北側で過ごし、冬になると日当たりのよい南側に移動するらしい。

数々の疑問が氷解するI氏の証言の信憑性

 I氏の観察したところでは、ヤマピカリャーは木の枝から枝、岩から岩へと飛び移り、地面に足をつけることはほとんどない。これは先の、ヤマピカリャーの尾が縦に扁平であったという証言とも一致するし、彼らの足跡がこれまで見つかっていない理由も説明している。つまり彼らは樹上性であり、特別な場合を除いては地面に下りてくるということがないのだ。
 そしてその生息域が、猟師さえも踏み込まぬ奥深い山中の、しかもごくごく狭いエリアであるとすれば、足跡どころか糞さえも今まで人目に触れたことがなかったというのも、当然かもしれない。
 またI氏の証言によって、前述したすみ分けの問題にも、一挙に解答が与えられることになる。すなわち、イリオモテヤマネコとヤマピカリャーは、地上と樹上、平野部と山間部という具合にすみ分けを行ってきたのではないだろうか。食物にしても、ヤマネコが鳥や小動物を食べるのに対して、ヤマピカリャーはもっぱらイノシシを主食としているらしい。
 さらに、ヤマピカリャーのコロニーのそばには深い爪跡のつけられた木が何本もある、とI氏は思いだしたように語ったが、これも彼の証言の信憑性を高めるものだろう。
 というのも、ネコ科の猛獣は縄張りの中にある特定の木で爪をとぐ習性があり、そうした木をマニキュアツリーと呼ぶからだ。トラやヒョウを狩るハンターは、まずこのマニキュアツリーを捜しだし、爪跡の高さから獲物のサイズを正確に判定するという。
 ちなみに筆者がI氏に、彼の見た爪跡がどのくらいの高さにつけられていたかを問うたところ、I氏は自分の喉元あたりを示した。そしてそれは人間が道具を使っても簡単にはつけられないような、深い爪跡であったということだ。
 だが、推定12〜13頭のヤマピカリャーが生息しているというそのコロニーの正確な場所を、I氏から聞きだすことは、ついにできなかった。その後、西表島に足を運ぶたびごとにI氏を訪れてはいるのだが、その最後の一点になると、彼は頑として口を開こうとはしないのである。
 ヤマピカリャーの調査に携わるうちに気づいたことは、I氏に限らず、ヤマピカリャーについて突っ込んだ話をしようとすると、だれもが途端に口が重くなることだ。極端な場合には、ヤマピカリャーをこの目で見たと主張していた当人が急に、「ヤマピカリャーなどいない」などといいだす始末なのである。最近になってわかったことだが、これには政治的な問題が微妙にからんでいたのだ。

島の住民に口を閉ざさせる微妙な政治・環境問題

 話は20年以上前にさかのぼる。1969年、西表の東部・大富からジャングルを抜けて西部・白浜へと続く中央横断道の建設が始まった。西表島はそれまでひとつの島でありながら、東部から西部に行くのに、いったん隣の石垣島へ船で渡り、再び別の船で渡らなければならないという交通事情であったために、この横断道路建設には住民から多くの期待がかけられていた。
 ところがこの工事には、すぐに「待った」の声がかけられた。県外の自然保護団体、学会、そしてたまたま現地を訪れていた環境庁長官によってである。工事は1970年、「環境破壊」の名目で出された中止勧告によって中止され、現在に至っているが、島の人々は「自然保護のために住民の福祉が犠牲にされた」と激怒した。
 次の問題は1978年に起きた。1月31日付けの全国紙に、西表島でイリオモ テヤマネコの調査を行った動物学者ライハウゼン博士の発言が掲載され、その記事中で博士は、西表島の自然環境を保護していくためには、多くの人間との共存は不可能であり、十分な注意が必要であるという意味の報告をしていた。また記事には、この報告によって環境庁がヤマネコの生息域全域を保護区に指定する計画であるかのように書かれており、たちまち西表全体が騒然となったのである。
 先の中央横断道のいきさつもあり、「また自然保護のために住民が犠牲にされた」とか、「ヤマネコのために人間は島を出ていけというのか」と人々は反発したが、このように西表でしばしばイリオモテヤマネコが、自然保護と開発の板ばさみになることが多かったのである。
 先のI氏に話を戻すが、彼は最初にヤマピカリャーを捕らえたときも、某新聞社がかけた懸賞金(写真100万円、死体200万円、生体300万円)のことを知りつつ、その遺骸を密かに処分してしまったという。
 ヤマピカリャーの実在が確認されれば、その生存区域一帯が今度こそ保護区に指定される可能性は高く、そうなればI氏を含めて多くの住民が住み場所を追われることになろう。I氏がヤマピカリャーの居場所について、かたくなに口を閉ざしつづける理由はここにあったのだ。
「世紀の大発見を隠しておくなんて……」という読者諸君も多いことだろう。だがそれは部外者の身勝手な考えにすぎないのかもしれない。現地の住民にとっては、自分たちの生活と将来こそが最優先事項であるからだ。

幻の動物ヤマピカリャーの爪と歯を初めて公開!

 こうした事情で、I氏からそれ以上の情報を聞きだすことは望めそうもないため、ヤマピカリャーの調査に再びゆきづまりを感じていた矢先、またしてもとてつもないものが筆者の前に現れた。
 驚くなかれ、それはなんとヤマピカリャーの爪と歯であった!
 今回、世界で初めて公開する写真がそれであるが、所有者については一切を秘密にするという条件つきなので、詳細は明らかにすることができない。ただ西表島の某猟師が仕留めたものであるということだけをお知らせしておこう。
 筆者がこの写真を知人の動物学者に見せたところ、彼は即座にそれが、ヒョウあるいはそれと同程度の大きさのネコ科動物のものだ、と断定した。
 では、西表に現在も確実に生息する、このヤマピカリャーの正体とはいったい何だろうか。
 西表にほど近い台湾や中国には、「ウンピョウ」という中型のネコ類(全長約1・5メートル)が生息している。八重山諸島は数百万年前まで、中国や台湾と陸続きであったことが知られており、ウンピョウが西表に生息したとしてもおかしくはない(イリオモテヤマネコもその起源は中国にあるとされている)。
 ところがヤマピカリャーと同じく樹上性のウンピョウではあるが、その斑紋は独特の雲形模様であり、それが全身に及んでいるという点で、ヤマピカリャーとは決定的に異なっている。
 台湾から西表に帰化した猟師のH氏は、ウンピョウとヤマピカリャーの両方を目撃するという貴重な経験をしているが、それによるとやはり、両者はまったく違った動物であるということだ。
 またヤマピカリャーが群れをつくるというのも、ウンピョウやヒョウなどにはない際立った特色といえるだろう。
 おそらくヤマピカリャーは、中国で化石として発見されているある種の大型ネコ類が、外部と遮断された環境の中で現在まで生き残り、独自の進化をとげたものではないだろうか?
 近い将来、彼らの正体が白日の下にさらされる日が、あるいはくるのかもしれない。だがそれがもたらすさまざまな結果を考えると、複雑な気持ちにさせられるのは、ひとり筆者のみではあるまい。


禁断の尖閣諸島・魚釣島に生息する超弩級の大蛇と、K氏一家失踪の謎

船長が尖閣諸島・魚釣島で遭遇した凄まじい大蛇

 西表島にはヤマピカリャーのほかにも、未確認の大蛇が生息しているらしい。
 大蛇が出没するのは祖内、星立両集落で、これまで相当数の人によって目撃されている。胴のいちばん太いところで直径20センチくらいはあるといい、決まって雨あがりの蒸し暑い真夜中に現れるという。
 八重山諸島で最大の蛇とされているのは、サキシマスジオかシュウダ類であるが、いずれも全長2メートル前後であり、どう見ても大蛇という印象は受けない。
 が、何人かの猟師にこの蛇のことを尋ねてみたところ、意外にもそんなものは常識だといわんばかりの答えが返ってきた。彼らによれば、西表だけでなく隣の石垣島でもこの大蛇はよく知られており、全身の色は茶褐色、性質は獰猛で、人にも向かってくるという(ただし人間を飲み込めるほどのサイズにはならない)。
 これだけでも十分に興味深い話ではあるが、筆者がこれから紹介しようとするのは、西表の大蛇などまったく比較にならないほどの、超弩級の巨大蛇に関するミステリーである。
 その一見、荒唐無稽とも思える情報を初めて筆者にもたらしたのは、ヤマピカリャー調査の過程で知り合ったある大手テレビ局のプロデューサー、K氏であった。彼は家族とともに西表に移住し、ヤマピカリャー発見に情熱を燃やしていたのである。
 そのK氏が昭和61年のある日、ひとりの男を伴って、西表滞在中の筆者を訪ねてきたところから話は始まる。
 K氏が連れてきた人物は石垣島在住のH氏で、小型客船の船長をしていた。そして、K氏に促されてH船長がとつとつと語った物語の内容は、まさに常識を超えたものだったのである。
 当時をさかのぼること約3年半(昭和58年)、H船長は政府から密かに依頼されて、7名の視察団とともに、尖閣諸島の魚釣島に渡った。
 ここでお断りしておかなければならないのは、尖閣諸島は台湾との領土問題がらみで、一般の立ち入りが禁止されている場所であるということだ。今回の視察団の目的についても、H氏には何も知らされなかったが、メンバーは地質学や生物学などのエキスパートで構成されているようだった。
 さてひととおり調査が終わったあと、一行はジャングルが開けた草地でひと休みしていたが……。
 それまで草地の端に転がっている倒木だとばかり思っていたものが、突如、あたりの草をなぎ払って動きはじめるではないか! それは、目に見える部分の胴まわりが、太い電柱3本分ほどはあろうかという巨大な蛇であった!
 一同は恐怖に足がすくんだまま呆然と立ち尽くしていたが、大蛇はそんな人間たちのことなどまるで眼中にない様子で、あっという間に山中へと消えた。地を擦って這う無気味な音が、大蛇の姿が消えた後も長い間聞こえつづけたというが、H船長は、「その音は今でも耳に残っている」と恐ろしげに語ってくれた。
 H船長によると、この大蛇の背中はうすいこげ茶色で、腹は白っぽく、頭部は「石油缶を半分に割って角をとったくらい」の大きさがあって、首は極度に細かった という。

危険を冒して魚釣島行きを決行したK氏の冒険談

 最初、このH船長の話を聞いたとき、筆者は正直いってまるっきり信用できなかった。だが彼を連れてきたK氏が、ただのホラ話に飛びつくような軽率な人物ではないことは、これまでのつき合いでよくわかっている。
 そこで石垣島へ渡って調べてみたが、近隣の人々から仕事仲間に至るまで、みな一様にH船長のことを信頼できる人物だと断定し、また、船長としての腕も一級のものであることを保証したのである。
 そこで尖閣諸島の大蛇について、何か聞き及んでいる人でもいないかとさらに調査を進めるうちに、大蛇の目撃者がもうひとり現れたのである。
 それは石垣島在住のO船長で、彼が尖閣諸島の魚釣島と鳥島の間を船で通り抜けようとしていたときのことであったという。干潮でもないのにサンゴ礁の端が海面に現れているのを見た船長は、不審に思って船の速度を落とした。そのまま迂回しようとしたところ、サンゴ礁の一部と見えたのは実は、巨大な蛇が海を泳ぎ渡っているところであったというのだ。
「長さは少なく見積もっても30メートル以上はあったと思う」
 O船長はそう証言している。
 そして、こうした情報を入手して再び西表に戻った筆者に、K氏は、「実は……」と前置きして、彼の驚くべき冒険談を語りはじめたのである。その内容がこれまた大変なものであり、最初それを秘密にしていたのは、今回の一件に対する筆者の熱意と誠意とを試したかったからであろう。
 その年の早春、例のH船長から尖閣諸島の大蛇の話を聞いたK氏は、いてもたってもいられなくなり、違法行為ではあったが、危険を冒して現地へ赴くことを決意したのであった。石垣島に住む右翼の大物にわたりをつけ、彼らの船に同乗して尖閣諸島へ乗り込む手はずを整えたのである。
 右翼のグループは、尖閣諸島が日本の領土であることを主張するため、魚釣島に無断で灯台を建て、半年に1回同地を訪れては電池交換をしていたのだ。
 こうしてある深夜、K氏を乗せた船は密かに石垣島を出発した。世が明けはじめるころ、海上保安庁の船が後方から追跡してくるのが見えたが、彼らはそんなことにはまったくおかまいなしで、船のスピードを落とそうともしなかったという。
 海上保安庁側はこちらに向けて無線でしきりに呼びかけてくる。右翼サイドは完全にだんまりを決め込んでいたが、一方的に流れてくる無線の声に、キャビンで何となく耳を傾けていたK氏は、その内容が自分に関したものであることに気づいて驚いた。
「……そちらに○○テレビのKさんという人が乗っているはずだ。魚釣島に上陸しようとしているのだろうが、海岸より先へは絶対に行ってはいけない。……(聞き取り不能)……滝の向こう側は未調査区域で、そこには非常に危険な動物がいる。繰り返す。絶対に行ってはいけない……」
 ここでだれかが無線機のスイッチを切ってしまったために、それ以上聞き取ることはできなかったが、K氏は自分がとてつもない危険の渦中に飛び込んでしまったことを、まざまざと実感せずにはいられなかったという。

無気味な雰囲気をたたえた魚釣島についに上陸!

 やがて船が台湾との国境あたりにさしかかるころになると、今度は台湾国籍の船が水平線の彼方から現れて、右翼の船の横に並んだ。そして甲板にかぶせてあったビニールシートが取りはずされると、そこに現れたのはこちらにピタリと照準を定めた機関銃であった! かたや海上保安庁の船はその反対側に陣取り、こちらも負けじとばかり、消防ホースを取りだして構えたそうだ。
 機関銃に消防ホースという組み合わせは、客観的に考えるとなんとも滑稽な図だが、あたりは異様な緊迫感に包まれ、K氏は生きた心地もしなかったという。
 こうして台湾船と海上保安庁の船にはさまれる形でさらに進むと、やがて魚釣島の島影が現れた。船乗りたちが畏怖の念を込めて「地獄の島」と呼ぶその場所は、荒波が打ち寄せる断崖絶壁に周囲を囲まれ、船が入ることができるような入り江もない。
 そこで船と島との間にロープを渡し、それを手で伝いつつ小型のボートで上陸するのだが、ぐらぐら揺れるボートから誤って海に転落でもしようものなら、たちまち強烈な潮流に押し流されて救助も不可能であろう。
 まさしく命がけの上陸作業であったが、ようやく魚釣島の大地を踏みしめたK氏がふと気づくと、台湾船も海上保安庁の船も、いずこかに姿を消してしまっていたという。
 さて、いよいよジャングルに踏み込もうとしたK氏だが、あたりにはこれまで見たこともない異様な木々がからまり合い、どこから怪物のような大蛇が出現してもおかしくない雰囲気だ。右翼の連中は海岸から奥へは絶対に足を踏み入れようとしないし、それまでのいきさつもあって、K氏はそれ以上、一歩も進むことができなかったという。
 K氏の冒険談は以上で終わりであるが、話を聞き終わった筆者はまたしても考え込んでしまった。
 いったいこの世の中に、そうした巨大な蛇が存在しうるものなのか。しかもアマゾン川あたりならまだしも、尖閣諸島は八重山諸島からわずか150キロしか離れていない小さな島々なのだ。
 そして政府も右翼の連中も、この巨大蛇の存在を知っているふしがあるのに、あえて沈黙を守っているのはなぜなのか?
 ところで魚釣島には、数十年前まではマグロの加工品をつくる工場があり、少数ながらも人が住んでいた。だが当時の記録をいくら調べても大蛇の話は出てこないので、この怪物がすみついたのは魚釣島が無人島になってからのことであろう。魚釣島には野生化したヤギが1000頭もいたが、最近その姿がまったく見られなくなったという報告もあり、大蛇がヤギを餌にしていることも考えられる。
 外来種でヤギを餌にできるような大蛇−−となれば、その正体は、東南アジアに広く分布するアミメニシキヘビ以外にはありえない。
 全身茶褐色で細かい網目模様をもつこの蛇は、通常は全長5〜6メートルどまりだが、12メートルという確かな記録も残されており、実際に人間を襲って飲み込んでしまった話もいくつか伝えられている。このアミメニシキヘビが、西太平洋を循環している小笠原環流に乗ってフィリピンあたりから流れ着いたと考えるのは、決してありえない話ではない。
 江戸時代のことだが、東南アジア産と思われる巨大なワニが九州に漂着して、人々を恐怖のどん底に叩き込んだという記録も残されているのだ。

姿を消してしまったK氏と尖閣諸島がはらむ謎

 そこで再び前述のH船長を訪れ、アミメニシキヘビの写真を見せたところ、彼は蛇の細かい模様などははっきりと覚えていないのでよくわからないが、とにかく自分たちが見たヤツは、少なくとも30〜40メートルの長さがあったといい張るのであった。彼ひとりだけでなく、その場に居合わせた全員が、あとでそのことを確認し合っているのだから間違いないという。
 まったく予期していなかった大型ニシキヘビの突然の出現に、恐怖感がそれを実際よりかなり大きなもの に見せたとしても、40メートルという数字はあまりにべらぼうすぎるかもしれない。
 同じく「30メートル以上はあった」と証言しているもうひとりの目撃者のことも考えると、一概にニシキヘビ説で片づけるわけにはいかないだろう。
 とにかく尖閣諸島の場合、実際に現地を訪れて調査を試みることができないため、大蛇の存在とその正体については、ただ想像をたくましくする以外にない。
 ともあれ、何かに取りつかれたように、その秘密の核心へ迫っていこうとするK氏の姿に何か危ういものを感じながらも、筆者は彼と別れ、沖縄をあとにした。
 その年の暮れ、K氏から筆者に電話がかかってきた。尖閣諸島近海への秘密の釣りツアーが行われているという船が見つかったので、その船をチャーターして再び魚釣島に乗り込むというのである。そのときは以後の報告を約束して電話を切った。
 ところが、待てど暮らせどK氏からは何の連絡もなく、こちらから電話をかけてみてもいっこうに通じない。
 約半年後、一抹の不安を抱いて再び西表島を訪れた筆者は、真っ先にK氏の自宅へと急いだが、2年前に新築したばかりのその邸宅は、今や信じられないほどに荒れ果てていた。近所中に尋ねまわってみても、だれひとりとして詳しいことを知るものはなく、ただ半年ほど前からK氏の一家は突然姿を消してしまったのだという。
 その後今日に至るまで、あらゆる手を尽くしてK氏を捜してきたが、すべての努力は徒労に終わった。K夫妻とそのひとり娘(当時5歳)はどこに消えてしまったのか。彼らの失踪は、尖閣諸島の一件と何か関係があるのだろうか?
 あるいはK氏は、危険な秘密を知りすぎてしまったのかもしれない。もしそうであったなら、彼の身にいったい何が起きたのか?
 今、尖閣諸島で何か異常なことが起こっていることは確かだ。だがそれが何なのか、残念ながら筆者にはなんらの知るすべもないのである……。




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