ムー8月号より「明治維新の功労者ジョン万次郎は日本人最初のメーソンだった!!」鬼塚五十一〜なんとジョン万次郎を助けた捕鯨船のオーナーはデラノ家(ルーズベルト大統領の実家)だったとは・・・・

 
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投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 7 月 06 日 19:02:45:

★記事を書いているのがリトルペブルのスポークスマン鬼塚五十一とは。一応真実が混じった嘘であるという覚悟で読んでください。

◎日本のゼロ金利政策解除をやめさせたメーソン

小測政権の突然の崩壊により、日本の政治経済に対するメーソンの計画は、大きな変更を余儀なくされた。
メーソンは、自分たちの思いどおりになる小渕内閣を長期政権にして、徹底的に利用しようとしていたからだ。そのため、軌道修正せざるをえなくなり、彼らの計画は多少だが、遅れ気味になった。
これからの新政権誕生の動きを見て、小渕政権の番狂わせによって、日本の政界がどう構成されつつあるかを見極め、それをいかに取り込むか検討中のため、結論が出るまで時間がかかるだろう。
だが、日本の経済のほうは、彼らの戦略の中で動いている。実施してから今年の2月で丸1年か経過する「ゼロ金利政策」がその典型例である。
それは、日本銀行が短期金融市場の金利を実質ゼロにした金融緩和策だ。これによって、市場金利全体を引き下げ、低迷している景気にテコ入れをしようというのだ。だが、それはいってみればメーソンから押しつけられた金融政策だ。こうした異常な低金利は、世界広しといえども日本だけである。
欧米を見てみると、日本のゼロ金利政策が丸1年を迎えた2用2日、それとは対照的に米金融メーソンで構成されているFRB(米連邦準備制度理事会)は、短期金利と公定歩合をそれぞれ0・25パーセント引き上げた。アメリカの景気過熱と株高を抑制するのがその目的だという。翌日には、欧州中央銀行もこれに追随した。
そればかりか、3月21日になると、FRBはさらに短期金利と公定歩合を0・25パーセント引き上げたのである。これによって短期金利は6・0パーセント、公定歩合は年5・5パーセント(ちなみに日本は0・5パーセント)になった。
しかも、こうした利上げは99年6月以降、5回目である。それに比ペ、日本は一年以上もゼロ金利政策を持続させられている。そこで日銀の速水総裁は、景気がやや回復したことの理由などより、4月12日、年内にゼロ金利政策を解除する考えを明らかにした。
ところが、翌13日になると、ローレンス・サマーズ米財務長官

※注:サマーズの元の名前は「サミュエルソン」でロスチャイルド家の遠縁である。

は、突和、ワシントンで記者会員を開き、この速水発言を厳しく批判。日本のそれは時期尚早であり、世界経済に不必要なリスクをもたらすと噛みついてきたのだった。
そしてこれまでどおりにゼロ金利政策を継続するよう強く求めてきた。正確にいえば、強制してきたのだ。そればかりか、3日後にワシントンで開かれたG7では、日本はゼロ金利継続を義務づけられ、それは共同声明にも盛り込まれた。
その反面、それから数日後、ドイツ、フランス、イタリアなど欧州ユーロ圏11か国の金利政策を運営する欧州中央鋸行は、再度0・25パーセントの利上げに踏み切っている。
ところが、問題はそれだけではなかった。日本の利上げはまかりならんと主張したFRBが、それから約一か月後の5月16日、今度は0・5パーセントの大幅利上げを行ったのだ。名目はどうであれ、これでアメリカの短期金利は6・5パーセント、公定歩合は6・6パーセントという高水準になったのである。
その結果は、当然、日本人のお金が高金利の外資預金に流れることになる。たとえば、日本の普通預金の金利は0・05パーセントで、自動支払機でお金をおろし、100円引かれるたぴに赤字になる。3年定期預金でも0・12パーセント。
これに対し、外貨定期預金は、わずか3か月でなんと4・49パーセント(ユーロで2・58パーセント)である。これでは、日本人の預貯金が外資に移行するのは目に見えている。
このように、あらゆる角度から1200兆円の日本人の個人金融資産は、彼らの懐に入るシステムになっている。つまり、メーソンは武力で押さえつけた第1と第2の日本開国のように、ビッグパンという第3の黒船によって、日本経済を完全に取り込もうとしているのだ。
その原点が、今から147年前のペリー来航にあった。そしてメーソンとして日本にやってきたペリーの悲願が今、実現されようとしているのである。
では、そのペリーに鎖国時代の日本の状況を教え、彼を日本に向かわせた人物とは、いったいだれだったのだろうか。

◎ジョン万次郎は日本人のメーソン第1号だった!!

前置きが少し長くなってしまったが、その原点を見直そうと、私は四国の高知へ向かった。土佐の高知は幕末から維新にかけて、多くの志士たちを輩出した。しかもメーソンの原点が、日本のこの激動していた時代にあり、土佐の高知こそその発祥の地だったからである。
土佐出身の志士たちといえば、まずだれもか坂本龍馬を思い起こすだろう。そして、竹市半平太、中岡慎太郎、後藤象二朗、板垣退助、そして三菱財閥を築いた岩崎弥太郎などがあげられる。
岩崎弥太郎の銅像は、彼が生まれた安芸市にある。だが、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像は、高知県を象徴する荒海の土佐湾に面して、海を見つめて立っている。中岡は室戸岬の突端に、龍馬は土佐湾のほぽ中央の桂浜にある。
中岡の左手は刀を持ち、右手は腰にしっかりと添えられ、その姿はいかにも武士らしい。
ちなみに、地元の土佐では、意外なことに龍馬より中岡のほうが人気がある。「龍馬は商売人だから」というのがその理由らしい。とはいっても、龍馬も若い人には人気がある。彼の銅像は中岡とは対照的に右に身を崩し、右手を懐に入れ、中で拳銃を握っているという。
土佐の英雄といえば、この中岡と龍馬のふたりだと考えるのが一般的だろう。ところが、思わぬ人物がもうひとり、土佐には存在するのである。しかも、このところ、その人物の業績が急速に再評価され、土佐の英雄になりつつある。
中浜万次郎。ジョン万次朗といったほうがわかりやすいだろう。出漁中に漂流してアメリカの捕鯨船に救出され、アメリカでさまざまな知識を学んで日本に帰国した初の国際人といわれる人物だ。
彼の銅像も土佐にある。東の室戸岬とは反対の西の奇岩を呈する足摺岬に。黒潮が渦巻く突端の断崖に立っているのだ。銅像が立てられたのは、1968年7月11日。地元のライオンズクラフの有志が中心となって設立された。

※注:ライオンズクラブ・ロータリークラブ・ボーイスカウトがアメリカでは石屋の下部組織であるというのは常識である。

そして、1991年11月7日には「ジョン万次郎漂流150周年」を記念して、「ジョン万次郎の会」が東京の憲政会館で結成されたが、その会長に選ばれたのは、およそらしからぬ人物だった。ロックフェラー人脈のひとりである小沢一郎である。

※注:小沢一郎の著書「日本改造計画」の序文を書いたのはデビットロックフェラーである。小沢氏が石屋かどうかははっきりした証拠はないが、彼は日米欧三極委員である。

当時、彼はまだ自民党にいたが、3年後の細川連立内閣ができたとき、新生党を設立して参加し、連立内閣の 陰の実力者となった。その新党設立の際、当時の駐日大使のマイケル・アマコスト(現在はロックフェラーの米ブルッキンクス研究所長)を介して、ロックフエラーから約500億円の資金を提供されたといわれている。
その、高知出身でもない、岩手選挙区の小沢一郎が、なぜ「ジョン万次朗の会」の会長になどなったのだろうか?
この会は彼の政治力を利用して、外務省、通産省、郵政省、建設省、運輸省、自治省のなんと6つの省庁の許可のもと、その共同管理ということで設立された。
しかも、わずか一年という異例の早さで承認され、設立年の9月、自動車、電機、電力など財界の主要団体に、文書で5000万から6000万円の寄付を要求し、3か月足らずで5億6000万円もの設立運営資金を集めている。
このことは、国会でも問題となり、自民党の中川秀議員によって追求された。これに対し、当時の柿沢国務大臣

※柿沢元外相は日米欧三極委員会メンバーである。

と羽田首相は、のらりくらりと国会答弁して、責任の所在を曖昧にして逃げた。
この会の目的は、日米の草の根交流の原点であるジョン万次郎を歴史の中から発掘し、彼の精神(ジョン万スピリッツと呼ぶ)を広め、日米友好関係を深めようというものだ。具体的には、日米交換留学制度や日米の草の根交流サミットなどの国際交流を行っている。
だがなぜ、今ごろになってジョン万次朗にスポットライトを当てようとしているのか。その理由は、彼の銅像が立つ足摺岬に行けばすぐにわかる。
それはまるで、古武道家のようなたたずまいだ。だがよく見ると、右手は強く握りしめ、左手にはなんと直角定規とコンパスを持っているではないか!直角定規とコンパスといえば、フリーメーソンのシンボル・マークであることは、本誌の読者ならよくご存じだろう。
ジョン万次郎はフリーメーソンだったのだろうか!?
だとすれば、これまでの謎がすペて解けるのである。そして、ロックフエラーの息のかかった小沢一郎がなぜ、会長になったのかもわかるというものだ。
紛れもなく、彼は日本におけるフリーメーソンの第1号だったのだ!

◎アメリカの捕鯨船に救出され、運命は変わった!

地元では「ジョン万」として親しまれている中浜万次郎は、文政10年(1827年)、土佐清水の中ノ浜に漁師の子として生まれた。幼いころから利発で負けん気の強い子供だったという。9歳のとき、父を亡くした彼は、家計を助けるために中浜浦の今津嘉平宅に家っ子として雇われることになった。仕事は子守、米つき、かしぎ(台所係)などであるが、年の暮れになると1日何俵もの米つきを任された。
そこで彼は、石臼の中に砂を混ぜてつくと、早く仕上がることを思いつき、得意になって米をついていた。ところが、主人に「砂を混ぜると粉米ができて、米の質を落とす」と咎められたのである。すぐに謝ろうと思いながらも、元来の気の強さから、つい彼は反発するような態度をとってしまった。
「なんだ、その態度は!」
主人か激怒すると、今度は思わずカツとなり、浜まで一目散に駆けだすと、そのまま冬の海に飛び込んでしまったのである。真冬の海を隣村の大浜まで泳いでいくと、たまたまそこで荷揚げをしていた岡郡宇佐浦(現在の土佐市)の漁船に助けられ、事情を話してその船のかしぎとして雇ってもらうことになった。
天保12年(1841年)一月初めのことだった。ときに万次郎、14歳のことである。
こうして運よく父親と同じ漁師になるのだが、一か月もしないうちに遭難してしまう。同年1月27日、宇佐浦を出発した船は、土佐湾の中で延縄漁を仕掛けた。だが、2日間何も捕れなかった。
漁船といっても、長さ4間(約7・2メートル)のカツオ船で、米や薪や水などを積み込んで船の中で寝泊まりし、魚が捕れるまで何日も帰らない。
足摺岬の沖まで出て、3日日のことである。突然、面白いほど魚がかかってきた。つい漁に夢中になっていると、急に雲行きが怪しくなり、強い北西の風が吹いてきた。嵐の前触れだった。急いで延縄を引き揚げ、陸地へ向かったが、時すでに遅く、嵐は勢いを増し、大波が襲ってきた。難破を免れるために大事な延縄さえ切って捨て、乗組員5人の力を合わせてなんとか切り抜けた。
ところが、今度は黒潮の大蛇行に巻き込まれてしまったのである。3日間漂流し、見たこともない小さな島に漂着。そこは伊豆諸島の最南端の鳥島だった。彼らは棲息するアホウドリや貝などを食ペながら、そのまま鳥島で数か月を過ごしたのである。
しかし、そのうちに渡り鳥のアホウドリも島からいなくなり、食料も尽きはじめた。髪の毛も髭も伸び放題で、着たきりの着物はポロポロ。5人とも痩せこけて目だけかギョロギョロとなり、異様な風体になっていた。
島に漂流して143日目の朝、食料を捜しに海岸に出ると、彼らはそこに、船の姿を見たのである!必死になって叫ぶと、船からポートが降ろされ、ようやく、彼らは救出されたのだった。
船の名前はジョン・ホーランド号。アメリカの捕鯨船だった。船長はウィリアム・ホイットフィールドといい、小笠原諸島方面から鯨を捜して北へ向かう逐中、鳥島のそばを通りかかり、食料になるカモメがいるかもしれないと、島に立ち寄ったという。
その日は、船長の航海日誌から、1841年6月27日だったことが確認されている。万次郎と4人を乗せたジョン・ホーランド号は、それから半年かけて、12月にオアフ島のホノルルに到着。だが、好奇心の強い万次郎だけが捕鯨船にそのまま同乗し、ほかの4人はホノルルに残ることになった。
これが「国際人第一号」と呼ばれる、万次朗の船出のときだった。

◎技術と知識を身につけて鎖国の日本へ帰国!

ジョン・ホーランド号は、長さ約60メートルの3本マストの帆船で、1本の帆柱に帆が4枚ずつあり、帆柱と帆柱の間にも帆を張るので、当時の帆船としては速かった。乗組員は船長以下34人、8隻のボートを乗せていた。帆柱の上の見張りが鯨を見つけると、船員たちはそのボートに飛び乗って鯨を追いつめ、銛を投げて仕留めるのである。
捕った鯨はすぐに皮を剥ぎ、その下の厚い脂肪層を取りだして、甲板に据えつけてある大きなカマドで沸かされた湯の中にそれを投げ込み、油をとるのだ。
万次郎はそうした捕鯨の仕事を手伝いながら、太平洋から南米のホーン岬を回って太平洋を北上し、ホィツトフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着いた。このころには彼は「ジョン・マン」と呼ばれ、いつしか日本でもジョン万次朗といわれるようになる。
フェアヘブンで船長の家に世話になり、アメリカの学校まで入れてもらった。それまで無学だった彼は、そこで初めて読み書きを習い、小学校を終える。
そこからさらに、パートレット・アカデミーという学校に入り、高等数学、航海術、測量術を学び、優秀な成績で卒業した。と同時に、向学心の強い彼は、鯨の油を入れる樽を作る技術も学び、それもマスターしたのである。
こうして、たちまち漂流してから5年の歳月が流 れ、再び捕鯨船に乗り、捕鯨の仕事に就いた。しかも、一等航海士となって3年目、乗っていたフランクリン号の船長が突然発病したため、乗組員の選挙で副船長にまで選ばれた。船員からの人望も厚く、優秀な航海士に成長していたのである。
だが、彼は土佐を忘れることができなかった。そこに残した母、兄、姉、そしてふたりの妹のことがいつも頭から離れない。成功して収入がよくなったとはいっても、当時、自費で日本に帰るには、今と違って莫大な費用がかかった。
そこで彼ほ思案し、金を掘り当てようと思いついたのである。このころ、カリフオルニアで金鉱が発見され、空前のゴールドラッシュが沸き起こっていた。彼はこれに目をつけたのだ。
こうして、カリフォルニアに赴き、砂金取りを始めたが、頭と勘のいい万次郎は、すぐに当時のレートで600ドル相当の金を採取することができた。もともと一攫千金が目的ではなかった彼にとって、それだけの金があれば十分だったのだ。
彼は、すぐサンフランシスコから船でホノルルに向った。そして、そこからサラ・ボイド号という上海へ向かう帆船に頼み込み、ホノルルに残っていた4人のうちのふたりと一緒に、沖縄の近くまで乗せてもらうことになったのである。このとき、ホノルルに残っていた4人のうちひとりはすでに死亡しており、もうひとりはホノルルに残ることを選んでいた。
まず、ボートを買って船に乗せ、英語の辞書や航海術の本、羅針盤、猟銃、航海暦なども買い込んで乗せた。嘉永3年(1850年)12用17日、3人の日本人を乗せたサラ・ボイド号は、ホノルルを出航した。
およそ30日の航海後、船は沖縄近くまでたどり着いた。そこからポートに乗り換え、3人は沖縄本島の南の端の摩文仁というところに上陸する。
だが当時、日本は鎖国の真っ只中である。すぐに薩摩藩の役人に捕らえられ、取り調ペを受けたあと、鹿児島に送られた。そして、鎖国を破った罪として、鹿児島、長崎、土佐と投獄されながらたらい回しに尋問を受ける羽目になった。
やっと釈放きれたのは、1年後の1852年10月のこと。万次郎は25歳になっていた。
このとき、土佐藩では山内豊信(のちの容堂)が藩主になったばかりで、吉田東洋を大目付にして、藩の改革を図っていた。そのため、万次郎の海外知識は重宝がられ、すぐに土佐藩の藩校の教師として登用されることになる。
しかも、彼は運がよかった。翌年6月にはペリーの黒船が来襲。彼の活躍する時代がやってきたのである!

◎徐々に明らかになる万次朗とメーソンの関係

ところで、ジョン万次郎はこの波瀾の人生の中で、いつフリーメーソンになったのだろうか。
そのチャンスがあるとすれば、彼を助けてくれたホイットフィールド船長との関係の中でか、あるいはフランクリン号の副船長になって、社会的地位を得たころのどちらかだろう。
意外にもその答えは、ある一通の手紙が糸口を与えてくれた。それは1933年6月8日、あのルーズベルト大統領が当時、東京の田園調布に住んでいた万次郎の息子、中浜東一郎氏に宛てたものだ。なぜ、ルーズベルト大統領が万次郎の息子に手紙を書いたのだろうか。両者には、いったいどのような結びつきがあるのだろうか。
文面は意外な事実を伝える。
「石井菊次郎子爵(駐米大使)がワシントンに来たとき、あなたが東京に住んでいることを知り、あなたの有名なお父上について話し合いました。私はフェアヘブンのワレン・デラノの孫です。祖父はお父上をフェアヘブンにお連れしたホイットフィールド船長の船の所有者のひとりなのです。私の記憶によると、あなたのお父上は、私の祖父の家の筋向かいのトリップさんの家に住んでおられたということです。フェアヘプンの学校に通い、ときどきデラノ家の者と教会に一緒に行った小さな日本の少年についてのいろいろなことを、私が少年のころ、祖父がよく話してくれたのを覚えています。私もフェアヘブンにはよく行きました。私の母方の家族は、いまだに古い家を持っています。中浜という名前は、私の家族の記憶にいつまでも残るでしょう。あなたか家族のどなたかが合衆国においでになったら、ぜひお立ち寄りください」
なんと、捕鯨船のオーナーのひとりがルーズベルト大統領の祖父のワレン・デラノだったのだ。
ワレン・テラノといえば、中国のアヘン貿易で財を成したアメリカのエリートである。そのため、長男のフレデリック・デラノは中国で生まれている。さらに彼は、ロスチャイルドの米代理人のJ・P・モルガンの経営する金融機関「クーン・ロエブ商会」と組んで、多くの鉄道を乗っ取り、アメリカの大鉄道経営者になった。また、デラノ家は代々メーソンで、ここから必ず300人委員会のメンバーが選出されるほどである。
となると、雇われ船長だったホイットフィールドもメーソンだった可能性が高く、万次郎もこの関係からメーソンになったと考えるのが妥当だろう。そうでなければ、足摺岬の銅像に直角定規とコンパスは刻まれていなかっただろうし、小沢一郎が「ジョン万次郎の会」の会長になることもなかったはずだ。
中浜家には今も、万次郎がアメリカから持参した金の直角定規とコンパスがあるという。ゴールドラッシュの金採取のときに、メーソンであることを誇って作ったのかもしれない。
ともあれ、中浜家は今も船長のホイットフィールド家、デラノ家との交流を続けている。そればかりか、なんとあのペリー家とも親しい間柄なのだ。日本にメーソンとして初めてやってきたペリーとも、つながりがあったのである。
とくに、ペリーの孫娘は、アメリカのクルー駐在大使夫人として戦前、長く日本に滞在し、中浜家と親しくしている。こうしたつながりを見ても、べリーとジョン万次郎の関係がよくわかるだろう。
つまり、メーソンだったペリーに鎖国時代の日本の状態を教え、結果的にペリーを日本に導いたのは、同じメーソンだったジョン万次郎ではなかったのか!?

◎ペリー来航の陰にあったメーソン万次朗の影

ともかくペリー来航によって、万次郎は大活躍した。まず、筆頭老中阿部正弘を中心とする、諸外国にまったく無知だった幕閣たちの質問攻めにあった。
万次郎は、4年任期の大統領制のこと、人々は平等で法律を重んじ、決して他国を侵略する企てはない、などと強調した。それはまるで、ピッグバンによって日本のマーケットがクローバルになり、低迷する日本経済を活気づけると主張した、どこかの知識人たちと似ている。
万次郎がペリーの沖縄占領計画を知っていたかどうかは不明だが、少なくともアメリカはメキシコヘの侵略によってカリフォルニアを手に入れ、ニューメキシコも獲得したことは知っていたはずだ。だが、そうしたことに彼はまったく触れていないのである。
しかし、船は走りだしてしまった。万次郎の説得によって、幕府は鎖国を解くが、知らないのは日本だけだった。1884年(明治17年)ホノルルの新聞「フレンド」(10月号)には、「日本史が見落としている一章」と題して、次のような記事が掲載された。
「ペリー提督が日 本を開国する前夜、数名の日本人がホノルルヘ送られてきて、われわれの助けを借りて日本に帰っていった。その中のひとりが中浜万次郎である。徳川幕府は彼の進言を取り入れ、鎖国政策を捨て、西洋諸国に門戸を開いた。万次郎こそ日本の文明開化に大きな役割を果たしている」
また、アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、万次郎の業績をこう評価している。
「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい。なぜなら、ジョン・マンがわが国の本当の姿を、当時の日本首脳部に理解きせていたからこそ、われわれの使節ペリーは、あのような友好的な扱いを受けることができたのである」
ともあれ、万次郎は日本に帰ってきてから、にわかにクローズアップされはじめる。すぐに幕府の直参となって軍艦教授所の教授に任命され、箱館では捕鯨術も教えた。そして日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸に乗ってサンフランシスコに行っている。
このときの提督は海軍奉行の木村摂津守で、そのお付きとして福沢諭吉が参加し、艦長は勝麟太郎(のちの勝海舟)だった。途中、海が大荒れになったとき、勝は操縦に自信をなくし、船長の責任を万次郎に託したと記録に残っている。
その勝海舟と福沢諭吉は、船上で大いに万次郎に感化され、帰国後も影響を受けている。また、土佐藩の教授館で坂本龍馬、河田小龍、後藤象二郎たちに教えた西洋事情は、龍馬と後藤象二郎が長崎から土佐に向かう船の中で作った「船中八策」に生かされ、それがのちに明治新政府の綱領「五箇条の御誓文」の基礎案となっている。
ちなみに、龍馬の尊敬する人物がジョージ・ワシントンだったというのも、万次郎の影響である。
明治政府の貴族院議員として活躍し、のちに男爵の位を授けられた西周と津田真道は、万次郎の江戸にあった江川塾の塾生で、オランダに留学したとき、ライデン市の「ラ・バーチュー・ロッジNo7」に入っており、それが記録に残っている公式の日本人メーソンの第一号だ。
このように、日本にはペリーから始まる裏の歴史も存在する。紙面の関係上、これ以上述べられないが、第3の黒船来襲にあたって、今そうした裏の歴史をよく見つめ直すときが来ているのではないだろうか。



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