労働基準法第20条の封印の問題について

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投稿者 sanetomi 日時 2001 年 11 月 04 日 01:18:14:

▲ 労働基準法第20条の問題とは
今から25年ほど前、一つの重要な判決が東京高裁でだされました.それは、経営側の都合で労働基準法第20条を“安易に”使うことを禁じるというものです.第20条とは、「事前通告」の条項で、今でも条文には、1ヶ月前に本人に通告することで解雇ができることになっています.つまりこの判決は、労働基準法の条文はそのまま残しているのですが、これを使うことが許される状況を厳しく規定したものです。判決文の内容を正確には把握していませんが、企業が倒産の瀬戸際だとか、解雇して身軽になる以外に企業自体が立ち行かないという状況でないと使ってはならない、と言ったものだったと記憶しています.

その当時、この判決が、後の日本経済にとって大きな足枷となるとは、誰も考えなかったでしょう。当時、私は20代の半ばでしたが、すでに組織に属していない立場に居たこともあって、何となくおかしな判決だなという印象を持ったのを覚えています。そして、その後の「一人でやっていく」という判断に影響を与えたのです。

私自身は、その後もずっと、この判例が気になっていました.いろんな事情が分かってくると、何かおかしい、これでは社会主義そのものではないかとも考えるようになりました.資本主義の看板は掲げているのに、店の中はまさに「社会主義」で、結果平等と年功賃金が暗黙の了解として通用しているのです.でも、25年間、誰もこの問題を本気で指摘するのを見たことがありません.経営や法律関係の雑誌などで発表されているのかも知れませんが、私の目には入って来ませんでした.少なくとも、マスコミで“広く”取り上げられたことはないと記憶しています.

この問題は、25年近く私にとって、まるで魚の小骨が咽に引っ掛かったような状態なのです.日本は、バブル崩壊後の10年を、訳の分からないような使い方で捨ててしまい.さらにデフレの追い討ちにあってあえいでいます。経済評論家など高名な人たちが、あぁでもない、こうでもないと自説を論じていますが、一向に「不況の淵」から抜け出す方法を見いだせない状態にあります.

誰も日本が再生するための方法を本気で議論しない間に、政治家を始め既得権者たちは自分の利益を囲い込むことに走り出しました.本当の日本の姿を国民から隠し、経済大国とか平和国家とか、勤勉な国民とか、戦後の奇跡とか、相変わらず心地よい言葉を並べて問題を隠蔽して、その隙に富を横取りしようとしているように見えてならないのです.ひがみかも知れませんが、そうとしか思えないのです。

ここは、本来なら民主主義の守り手であるジャーナリストが活躍べきなのですが、20年以上のも間、「大本営発表」に飼いならされてしまい、日本のジャーナリズムはほとんど役に立ちません.数少ない良識あるジャーナリストが、インターネット上で活動していますが、それも表には出てきません.

ほとんどの人は、このような判例があることすら知らないと思います。もとから、「指名解雇」は禁止されているものと思っているぐらいです。10月末に発売された或る週刊誌で「リストラ虎の巻」の存在をすっぱ抜いた週刊誌にも、この判例のことは一言も触れていません。知っていて書かないとすれば欺瞞ですし、知らないで書いているとすれば勉強不足です。したがって、このような報道が繰り返されても、実態は何も変わらないでしょう。

そのような中で、自治労の幹部による裏金作りが発覚しました.労働組合が労働者のための活動をしていない、というのは以前から見えていたことであり、その背景に労基法第20条を封印した判決が影響していると言うのが私の持論でしたので、この機に、咽に引っ掛かった小骨を外すことにたわけです.

なお、これは私の個人的な意見であり、特定の個人や組織を攻撃するような意図を持つものではありません.労働基準法第20条を封印した判決の影響について、あくまでも、このような見方もあるということを紹介するものです.

労働基準法第20条(事前通告)
(1)使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも30日前にその予告をしなければならない。30日前に予告をしない使用者は、30日分以上の平均賃金を支払わなければならない。但し、天災事変その他やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となった場合又は労働者の責に帰すべき事由に基づいて解雇する場合においては、この限りではない。

▲ “全員雇用”の社会背景
このような判決が出た時期は、ちょうど団塊の世代が社会に出た時期と符合していて、当時は「全員雇用」というものが国政の方向性として存在しており、判決もそれに沿ったものであったように思われます.判決の主旨も、労働者を護ることにあったと記憶しています.当時は、労働者(ほとんどが新卒)を採用する際は、人事部門がまとめて採用し、一定の研修期間を終えた後で、適当に配属先に割り振るというやり方で、この段階で労働者にはほとんど職場を選択する権利は無いに等しい状態でした。そのため、労働者の雇用にたいして何らかの保護策は必要であったことは理解できます.

また、転職が非常に不利になる状況もあって、一度、解雇されたら、途中から入るということは容易ではなかった時代でした。安保闘争などもあって、社会も不安定でした。“全員雇用”を旗印にし、皆が安心して働く場が提供されるということは、重要な問題であったと思います。その意味では、この超法規的な判決も、労働者の不安を払拭するのには、大いに役に立ったと思われます。

▲ 高度成長期の呪縛
この判決が出たあと、日本経済は高度成長期に入るわけですが、しばらくはこの判例が問題になることは無かったと思われます.しかしながら、20世紀の終盤から、いわゆるグローバリゼーションの波と共に、企業を取り巻く環境は大きく変化し、企業間の競争は一段と激しいものになっていきます。また、円高によって、日本経済の屋台骨であった製造部門の多くが中国やアジアへの移転を余儀なくされたわけですが、より付加価値の高い労働が求められるなかで、多くの労働者はそのような市場の要求に対応できず、結果として大量の余剰人員(いわゆる企業内失業者)を抱えてしまったわけです。

欧米企業であれば、ここで一旦は人員を削減し、企業の建て直しを図るのですが、この判例のために、日本の企業にはその手段が封じられていたわけです。必死になって、配置替えを繰り返すのですが、時代とともに、それも限界に達してきました。そうして多くの企業は財務体質を悪化させてしまい、収益性も極端に低く、ROEなどの数値も、欧米企業と比べると10分の1という低いものになってしまったわけです。「0%」に近い公定歩合が、世界の経済史でも例を見ない程の長期間続けているにも拘わらず、収益を上げることが出来ないというのは、もはや事業として成立していない状態であると言わざるを得ません。そこでは、失業者を出さないように雇用を守っているだけ、という状態です。

我が国の政策は、そのような(稚拙な)経営を支えて、そこで雇用を守ることを建前に、超低金利の状態を続けているのですが、私には、労基法第20条の封印の問題を表面化させないようにしているとしか見えないのです。本当に、日本経済の構造を改革(改善ではない)しようというのであれば、逆に金利を上げるべきなのです。そうして立ち行かない企業を淘汰することで、残った企業は、そこから溢れてきた人の中から優秀な人を採用すれば良いのです。そうすれば、残った企業は競争力を得るはずなのです。

ただし、これには条件が一つ在ります.それは、今いる人と入れ替えが出来なければなりません.たとえば2人を解雇して有能な1人を雇い入れるようなことが出来なければ、このシナリオは実現しません.労基法第20条を封印した判例が、ここで障害になることは言うまでもありません.

時代に合わないような事業であることは分かっていても、「中小企業を守ることが日本の経済再生の条件である」とか、「傷ついた病人の輸血のチューブを外すようなことをしていいのか」という論法にすり替えてでも、時代の波の中で存続しえないような企業を必死になって守るしかないのです。

▲ 陰湿な解雇方法が横行
その前に、80年代に入って日本経済が拡大一辺倒ではやっていけないことが見えたとき、企業側も方向転換の必要に迫られたわけですが、そこでこの判例が問題になってしまいました.新しい分野に打って出ようとしても、必ずしも今居る全員がその方向に移れるわけではありません。特に、例の判決の“お陰”で解雇の不安から解き放たれた人たちの多くは、新しい分野に打って出る準備は出来ておらず、また、そのような姿勢も失ってしまっていました。そうなると、社内で再教育したとしても、新しい方向に付いて行けない人たちが多く残ってしまいます.

それでも、組織の戦力強化は可及的すみやかに進めなければならず.そこで、山の中の「研修所」に送り込んだり、訳の分からない部門に配置転換したり、窓のない部屋に机を持っていって、仕事を与えないというような陰湿なやり方で、本人から辞めるように仕向けるという方法が採られたわけです.今でも、幾つかは裁判で係争中だと思います.特にこの問題は、外資系の企業や新しく台頭した企業で発生しました.外資系の場合、法律に則って合理的(向こうでは合法的?)に対処すれば良いという考え方があるのでしょうが、そのとき、封印している判例に引っ掛かってしまうわけです。

どうすれば従業員のクビを切れるか。各社の人事部では知恵を絞っているわけです。希望退職者を募集する形では、残って欲しい人から辞められてしまう。指名解雇にならないように、本人の意思で辞めてもらう方法を探しているわけです。なんとも滑稽なはなしです。

採用するときは、良い顔をして集めておきながら、今度は、この判例に触れないようにどうやって辞めさせるかを考えているわけです。最近では、再就職を支援する会社などから、「リストラ虎の巻」というものが出回っていることが、ある週刊誌にすっぱ抜かれています。面接の場での座る位置から、面接の中で考えられる応対が想定問答集の形でまとめられていて、「Cグループ」に分類した人に、諦めてもらうためのテクニックが開発されているのです。こんな役に就いたら、人格を損ねることは間違いないでしょう。

そこまで陰湿ではないにしても、いわゆる「肩たたき」というのも、不公正なやり方です。本人が組織の求める仕事の仕様に対して成果を上げていないことについて、納得する基準が示されていない限り、それは陰湿な方法と言わざるを得ません。このような会社側の対応の結果、根負けする形で「本人都合」で辞めることになりますが、当然、会社都合と違って、その後の失業保険等の条件が不利になってしまいます。

結局、解雇させるためにこのような不明瞭な方法が採られるのも、労基法第20条が凍結されているからです。本来なら、きちんとした評価の基準を示し、それに納得してもらったうえで、法律で規定されている保証を与えて辞めてもらうべきなのです。もちろん、そのために会社側でも改善しなければならない問題が多く残されていますし、現状の労基法第20条そのものも、事前通告期間を延長したり、保証の基準なども見直す必要があるでしょう。

いずれにしろ、この判例は、労働者にとって何もメリットはないだけでなく、企業にとってっも、必要なスキルの構築が為されず、組織の競争力は低下するだけです。強引に辞めさせるための技術に金をかけるのではなく、仕事の仕様化や実績の評価方法、採用のあり方などの開発に力を注ぐべきなのです。そうでなければ、日本の企業はいつまで経っても国際的になれません。世界の優秀な人を採用できません。

▲ 空回りする「選択と集中」
90年代後半から、世界の企業は再生のために「選択と集中」というキャッチフレーズでリソースの再配置に取り掛かりました.大きくなりすぎたり、効率(生産性)の悪い部門を切り離すために、新しい分野への再教育を実施したり、企業の分化などの手段を使いながら、リソースの再配分を図ってきました.いわゆる、正しい意味でのリストラです。世界の企業は、常に拡大期と収縮期の情勢を判断して、雇用もそれに対応させて来たのです。

日本の企業も同じように「選択と集中」の旗を掲げて、金融危機後の不景気を乗り切ろうとしましたが、ほとんど効果を上げていません.リソースを集中させようにも新しい分野に入っていけない人たち、あるいは事業を縮小したい分野に居た人たちが社内に残っていては、リソースの「集中」の効果は薄れてしまいます。

しっかりした訓練を実施しないままの配置転換というのは、企業の利益構造を悪化させるだけでなく、製品の品質を低下させる危険もあります。実際、嘗ては日本製品の誇りであった品質に、今になって問題が表面化しています。日本の企業はそうして80年代から90年代にかけて、その力(競争力)を弱めていったのです。営業利益率が1%程度しかないというのは、もはや「経営」しているとは言えません。ただ、「回転」させているだけです。そこでは確かに給料は支払われているでしょう.雇用は護られているでしょう.でも誰も豊かさを実感できていないのです。

経済が基本的に循環の性質を持っている以上、「選択と集中」というのと、この逆の「統合と拡大」とは繰り返されることになります。いずれの状態にあっても、雇用を調整弁に使ったりしながら、上手く利益を上げることが、経営には求められるのですが、日本の企業では、雇用を調整弁に使うことが出来ず、常に山と谷が相殺されてしまう構造を持っています.「総合電機メーカー」とか「総合商社」などの「総合」というのは、まさにこの“相殺”の構造をもった企業組織でもあるのです。そのため、上昇力が弱く、長く低迷状態を引きずることになってしまうのです.ここにも豊かさを実感できない背景があるのです.

労働者もそのような景気の循環や構造の変化を察知し、また技術の変化などの動向を人よりも早くキャッチした上で、それに積極的に対応することで、いずれの波であっても活躍する場を得ることができるのです。それは企業も同じなのです。ただしそれには、企業自体が、雇用に対するフリーハンドを確保しながら、「選択と集中」と「統合と拡大」を使い分けて、ダイナミックに対応して行かなければ実現しません。

労働者もそれでないと豊かになれないのです。労基法第20条が封印されてしまったことで、労働者に対しての評価や配分も「結果平等」になってしまい、結局、努力した人が報われない仕組みになっているのです.このことは、労働者自身が肌で感じていることです。

結局、この判例が残されているかぎり、時代の趨勢を判断し、事前に対応した人が報われるような仕組みを作るという動機を得ることは困難です.一時的には出来るかも知れませんが、長く結果平等に慣れた人を含めた状態では継続させることは難しいでしょう.


▲ 目論み通りの人員削減?
このような判例があることは、企業の人事や総務の担当者は知っているでしょうから、企業の方も、いざというときにスムースに人を減らせるように、別会社を作ってそこに予め人を移したり、「派遣」社員や「契約」社員を組み合わせたりして採用形態を多様化させてきました.

「労働者の流動化」という市場の動きもあって、「派遣」という形態は増える傾向にありますが、採用する企業は、「派遣」の導入を企業体質や雇用構造の適正化といったことまでは考えていないと思われます。単に「調整弁」として多様化させているだけでしょう.日本に於ける企業のパソコンの導入が、「ITの有効活用」とか、総合的なプロセス改善のシナリオに基づいているわけでなく、単に手書きの作業がワープロに変わっただけという状態に近い発想かと思われます.

日本の産業は、90年代を通じて設備も人員も(債務も)過剰の状態にあり、一向に改善されません。人員の方は、この判例があるので手が出ないとしても、設備の方ではフリーハンドを持っているはずなのですが、横並びの発想か、はたまた、政府頼みの発想なのか。これは、日本の企業(経営者)に共通した姿勢で、政府が音頭を取らない限り、多くの場合、経営者自らの判断で過剰状態を解消することは出来ないようです。造船や鉄工、紙パルプといった一部の産業において、政府主導で、“平等に”設備廃棄が行われたことがありますが、電機業界などではそのようなことを実施できる状況にありません.もっとも、設備の廃棄は、従業員の整理に繋がりますので、実施しにくいこともあるでしょう。

また、嘗ては、経済が全体として右肩上がりであったため、他部門への配置転換が可能でした.その点では今日とは状況が大きく違っているのです.多くの評論家諸氏は、未だに3つの「過剰」(設備過剰、債務過剰、雇用過剰)が解消していないと言います。労基法第20条が封印されている状態では、出来ないと言ったほうが正しいのですが、そのことを指摘する人(専門家)はほとんど居ません.私に言わせれば、無責任すぎます.

企業は、90年代後半から表面化したデフレが重なってもがいてきましたが、一向に改善の様子を見せません。同時テロの影響もあって、さすがにここに来て耐えきれず、各社一斉に人員の削減策を発表することになりました。特に大手電器メーカーがリストラ策を公表してかたら、まるで堰を切ったかのように、追随する企業が続きました.「皆で渡れば怖くない」という感じです。

政府も、このような経済情勢では、今までのように企業内に抱え込むことを要求できないと判断したようで、今回は黙認の姿勢を取っています.そのことを大手電器メーカーの動きで確認したのでしょう.“今だ”とばかり、後に続いたわけです.

中には、どう見ても「株価対策」というのもあって、どこまで本気か怪しいところがありますが、それでも、これまでと違った特徴が見えます。それは、明らかに人員を減らそうとしていることです。今までであれば、撤退する事業に居た人たちは、だいたいは配置転換で救済してきました。というより、政府が、大量に解雇者がでることを認めなかったのです.そのため、コストは何も変わらず、撤退した事業からの売り上げが減少した分だけ、企業の体力が低下するということを繰り返してきました。まったく馬鹿げた話です.大手自動車メーカーも、これで苦境に立たされたわけです。

さすがに、今回はそのような配置転換による方法は限界に来ています。それと、中国やアジアの企業の台頭もあって、家電業界や半導体など、業界によっては、すでに淘汰の段階に入っていると思われる節もあります。いずれにしろ、大量に人員の削減が迫られていることは明白です。そしてこの時、予定通りに派遣社員や契約社員の契約を解消し、それでも足りないときは分社した会社を解散させることで、本体の人員を守る体制に入っりました。まさに、目論み通りに人員の削減ができるわけです。そのことも、リストラの発表を勇気?づけたかも知れません。

もし、それでも削減数が足りないときは、本体の従業員に対して「希望退職者」を募集することになるのですが、果たしてこのような方法が、従業員を削減しながらの事業の継続にとって最適かどうか怪しいのです。それは、本体の社員より、契約社員や派遣社員の方が仕事の能力が高いことも少なくないからです。でも、現状では正社員を解雇して彼ら契約社員を残すことは難しいのです。企業の競争力の面から見てもおかしな話です.

▲ 残したい人を残せない矛盾
企業にとっては、「希望退職」を募集するという方法はあってもよいでしょう。更生法を申請したときなどは大勢の人を解雇しなければなりません.また、それでも会社に残って再建を手伝ってくれる人を募る場合などは、希望退職を募集する方法を採ることになります.元よりそのような状況では、指名解雇は適しません。

でも、それ以外の状況においても、日本では「希望退職」を募集するしかないのです。この場合、必ずしも会社に残って欲しい人が残ってくれるとは限りません。特に、最近では企業内での人的関係が希薄になっていたり、労働者自身が流動化に対する抵抗感も薄れていて、社内の雰囲気や情勢によっては、辞めることにそれほどの抵抗は感じないかも知れません.適切なマネージメントが行われていなければ、有能な人材を引き止めることは難しいでしょう。

また、仕事の能力の高い人には、外部からの誘いもあって、そのような人から、「希望退職」の特別手当てを手にして辞めていく可能性も高いのです。そうなると、当然の結果として、外から声が掛からない様な人が残ってしまいます。これでは、企業は強くなれません。これが現実なのです。悪いところを切って再起を図るために必要な人材を確保する方法がないのです.

年配者が居なくなったことで、残った人の中から頭角を現す人も出て来ないとは限りませんが、可能性としては決して高くはないし、すぐにでも回復軌道に乗せたい状況にあっては、有能な人を引き止めることができないことで、ダメージの方が大きいでしょう.

これこそ、労基法第20条がフリーズされていることに起因しているのです。世界から、早期の回復を迫られている日本経済にとって、あるいは、企業自身も回復のためにリソースの見直しを含めて建て直しが迫られているにも拘わらず、実際に採れる手段は、必ずしもそのような要求を満たすものではないのです。

もちろん、この労基法第20条の凍結が解除されれば、それで全てが上手く行くというわけではありません。これは「両刃の剣」です。使い方を間違えれば、従業員の信頼を失い、その結果、逆に有能な人材が流出し、時には、事業の継続が困難になることもあるでしょう.でもそれは経営の失敗であって、だからといってこの「剣」を抜けなくするのは間違いです.

鉛筆を削るのにナイフは危険だから使わせないというのでは、いつまでたっても上手にナイフを使う人は現れません。

▲ 世界から理解されない
90年代のバブル崩壊後、日本は10年という時間を使っているのに未だに回復軌道に乗れないで、逆に財政の悪化を加速させるばかりです.“景気が回復したら、財政の問題も解消する”と言い続けて10年経ってしまいました。80年代までとちがって、世界中に供給者が増えた今日では、日本の景気が回復するというのは、同時に国内で競争力を持つ企業が増えることを意味します。そうでない限り、世界規模の景気回復の波が起きても、日本の企業に“回復感”のおこぼれが回ってくる頃には、すでに循環的な景気の波も終盤に差し掛かっているのです。私は、経済の専門家ではありませんので「数字」は持っていませんが、2000年を挟んでの、日本経済の景気の波は、まさにそのことを示している様に見えます。競争力が無ければ、回復の波の先頭に乗れないのです.

この間、ヨーロッパなどは、何とか立ち上がってきました.それぞれの国の事情を“活かした”形で、国の財政を建て直してきました.個人に期待するもの(レベル)を示し、企業の競争力を回復させ、経済が回るようになってきました。もちろん、それなりの失業者を出していますが、経済は回り始めているようです.これに対して、日本は未だに経済が回っていません。財務省は、表面では消費を増やそうと言っていますが、実際には、素早く税金の形で吸収する方向に動いていて、“お金”が回っていません.本当にお金を回そうというのであれば、たとえば、備品の損金算入限度額を以前のように20万円に戻すか、逆に30万円まで増やすべきです.

日本の失業率も、今やヨーロッパ並です(5%という数字は計測方法の違いによるものです)。でも、企業が強くなるための手段の一つ(解雇)が封じられた状態で、この数字です。小泉首相の「構造改革なくして景気回復なし」という論法は、世界の国々の指導者からは受け入れられているのでしょうが、実際に、それを実行できる状況にないことを認識していないのではないかと思われます。小泉首相以前は、「まずは景気回復を」というものでした。また、それまでの不景気は、オイルショックを除いて、概ね「循環」の問題だったので、需要を強制的に作り出しながらその場を凌いでいるうちに、循環の谷を脱するというシナリオでした。

でも、90年代の不景気は単なる「循環」の問題ではありません。世界的にも供給過剰の状態に入っていることと、日本の企業の競争力が低下していること、さらに日本の労働コストの問題や為替の問題などが絡んでいて、今までのように、政府主導で需要を喚起して「谷」をやり過ごすというやり方は、とっくに通用しなくなっていたはずです。ここで求められていたのは、円高を前提としての企業の競争力をつけることであったはずです。だが、そのための手段の一つである労基法第20条が封印されていることによって、「雇用過剰」の状態に陥り、「希望退職」を繰り返しているうちに企業の競争力が低下してしまいました。そうして今や、限りなく「0」に近い金利でなければ、息をつけない状態に陥ったわけです。

今回、世界に示された経済再生のシナリオ自体は、決して見劣りするものではないのでしょう。シナリオに対する世界の人たちの反応を見ていると、そう思われるのですが、それにしても一向に回復しないのはなぜか? 世界はその原因を理解できず、最近では本気で取り組んでいるのかと、苛立ちを見せています。ドル債をいっぱい抱え込んだ日本が何とか立ち上がってくれないと、不安でしようがないのでしょう。もっともな話です。同時に迷惑な話です.

韓国の場合、今までは解雇の事前通告という法制度はなかったようですが、先の金融危機を乗り切るためにIMFの融資を受け入れた際に、「2ヶ月前の通告」という形で法整備がなされました。見方によってはどさくさに紛れて通したという感は拭えませんが、これによって、企業の経営者は、「雇用」を経営手段として手に入れたわけです。一部の労働組合を中心に激しく反対の行動を繰り広げましたが、全国的な広がりには成らず、ある意味では、国民はこの「事前通告」を受け入れたかに見えます.特に若い世代は、そのまま受け入れたように思われます.彼らにとっては、その方が「職」を得る可能性が増えるからです。

日本の法律にもきちんと「1ヶ月前」となっているのですが、おそらく世界は、これを封印している判例があることを知らないのではないかと思われます。もし、知っているのであれば、今のような形での苛立ちを見せるのではなく、韓国でも法整備が出来ていることが、なぜ日本で出来ないのか、という形で突いてくるでしょう。とにかく、世界にとって、日本がこれほどもたついている原因が理解できないのではないでしょうか.

▲ 意図して組織を強く出来ない仕組み
このような判例が残っている状況では、経営者が自らの判断で組織の能力を強化することは容易ではないということになります。ある意味では、片方の羽をもぎ取っておきながら飛べと言っているようなものです。もちろん、日本経済の今の状況に於て、この判例だけが問題なのではありませんし、この封印を解くだけで今の日本経済の問題を解決できるとも思っていません。でも、この「封印」は、どう見ても、企業経営にとって理不尽なものであり、多くの問題も、此処から派生していることも確かです.

嘗ての「集団就職」の時代と違って、今日では、労働者は企業を選ぶことができます。インターネットなどで、転職の手段も多様化しています。能力さえあれば、そして少しばかりの勇気(度胸の方?)があれば、もっと好条件の所にさっさと移ることができます。この判決が出された時の状況とは雲泥の違いなのです.

それに対して、経営者の方は、一旦採用した後は労働者を選択できないわけです。労基法第20条に書かれている解雇の条件に触れないかぎり、彼が辞めると言わなければ、彼を雇用し続けなければなりません。これはどう見ても不公平です。その結果として、景気の波に合わせて、最適の経営が出来なくなって、揚げ句は経営者の能力を追及されます。もともと能力の疑わしい経営者も少なくないでしょうが、それにしてもこの制限は不公平です.

もちろん正しい意味での「リストラ」の一環として、企業内の再教育を実施し、できる限り新しい方向に向かって、従業員を引き連れるべく対応はしなければなりません。そうでなければ、従業員からの信頼を失います.

しかしながら、現在雇用されている人だけで、再教育を前提として新しい分野へ踏み出すには時間が掛かりすぎます。今の時代にあって、このようなルーズな方向転換では、全く意味がありません。場合によっては、マネージメントも含めて必要な人材を外から持ってくることが出来なければ、新しい方向での事業展開も成功の確率は下がってしまいます。その際に、一時的にも、従業員の一部を整理し、新しい方向に対してリソースを集中することが求められるわけです。これすら規制されるというのは理不尽なのです.

現状では、資金も残っていて、ある程度有能な人材が居るような“健全な状態”での解雇(指名にならざるを得ない解雇)は難しいわけです。もう、これ以上は労働者を抱えきれないという“不健全な状態”になって初めて解雇が出来るというのでは、日本の企業は、ことあるごとに弱くなるしかないことになってしまいます。

▲ 生産性の低い組織になってしまう
P・F・ドラッガー氏は、生産性の低い組織や企業は、存続する合理的理由はない、ということを言っています。それは、そのままでは結局は、社会のお荷物になるからです。日本の銀行がその最たる例です。まともに資金を運用する技術を持たないため、国債と預金金利の僅かな利ざやで息をついている状態です。ちょっとした「景気の揺れ」があれば、すぐにその利益も薄いお皿の縁からこぼれてしまい、揚げ句の果てには、公的資金の注入となってしまいます。社会に貢献するどころか、これでは社会におんぶしてもらっていることになります.

銀行は、事業の継続を支援し、新しい産業を興すことが役目であったのに、今や自分が存続することすら自分でコントロール出来ない状態に陥ったのです。それでも、倒産させられないようにと合併して大きくするという知恵が回るようですが、もはや銀行としての役目を全く果していないのです。ただの金庫の代わりにしか過ぎないのです。

銀行だけの問題ではありません。一般の企業も、限りなく「0%」に近い金利で、ようやく息をついている始末です。それも、結局は預金者の負担の上に存続しているのです。企業の経営者は、このことをどこまで認識しているでしょうか。ドラッガー氏の言うように、5%の金利も支払えないような生産性の低い組織や企業は、存続すること自体が社会の荷物になっているのです。

「それでも、我々は雇用を守っている」と、5年ほど前に、日本では名のある大手企業のトップが、ある雑誌で発言していましたが、大きな勘違いをしていることに本人は気づいていないようです。その記事を見たとき、この会社の従業員は気の毒だと思ったものでした。案の定、今になって1万人以上のリストラを発表していますが、これだって「我が社だけの問題ではない。世の中みんなやっていること」と言うでしょう。このような人たちの言う、経営を赤字にしてまで「雇用を守る」というのは、全くの偽善だということを認識しなければなりません.そこには、社会の負担が入っているのです。

後ろ向きの姿勢で雇用を守るというのは、結局はリソースを腐らしているだけであり、何も新たなものは生み出さないのです。そればかりか、5年間中途半端に雇用され、今になってリストラにあった人たちは、逆に対応が難しくなっているのではないでしょうか。こんなことなら、5年前に十分な金銭的補償を付けて解雇しておいた方が、双方にとって良かったのではないでしょうか。

労基法第20条を封印している判例に触れることを避けて、「日本の経営者は雇用を守ることも使命だ」というのは、大企業の経営者としては無責任すぎます.私がここに指摘するような多くの問題が、そこから発していることを認識していないのでしょうか.自分の任期中は大過なく過ごしたいという思いが強いのではないかと、疑われても仕方がないでしょう.本当に日本のことを考えるのであれば、体を張ってでも、問題の根本に立ち向かうべきです.それが大企業の経営者の責任です.

雇用を守ることを「錦の御旗」のように使っても、生産性を犠牲にしては結局は社会のお荷物になってしまうし、労働者にとっても、競争力を身に付けていないと「次」の可能性がなくなります.それよりも、厳しい対応に見えても、労働者の能力を高めることに協力することの方が、結局は労働者のためになるのです。解雇や事業の身売りという形であっても、その結果として彼らが自分の能力を高め、それを発揮する機会を得て、その結果として生産性を高めることが出来れば、社会に貢献したことになります。「錦の御旗」にすがりついて、疲弊しながら労働者を“囲っている”よりは、はるかに社会に貢献するのです.

企業は永遠ではありません。たった一つの経営のミスで消えていくこともあるのです。多くの人は、学校を卒業してこの先40年以上の間、仕事に就くわけですが、その間、必要な技術や知識は変わるでしょう。そのような中で仕事にあぶれないためには、技術や知識の習得を継続して絶やさない姿勢を身に付けてやることの方が大事です。企業が、知識や技術の習得に手を貸せるのには限界があります。本人が自分の持ち時間の中で取り組まない限り、時代に対応できなくなります。個人個人が生産性の高い作業ができる組織でなければ、その組織は残れないのです。求められている能力を発揮できなければ、その職を「解雇」されることも在りうるという状態が、労働者の学習姿勢を支えるのであれば、その方が労働者には役に立つ法律なのです.


▲ 緊張感の無い雇用関係
日本の職場は「村社会」だという人もいます。確かにそこに属していることで安定してことも否めません。したがって、“そこ”が大きいほど安心なわけで、資本金の額や従業員の人数で判断してきました。そういう風潮を作って来たことも確かでしょう.でも、一旦採用されれば、刑事罰を受けたり労働協約に違反したりしない限り、解雇されることがないという状態は、労働者にとって雇用に対する緊張感を失わせるだけです。その結果として、自分の仕事上のスキルの向上に、自らの意志で取り組む必要性を湧き出させることもなく、日々を過ごすことになったとすれば、罪な法律だと言わざるを得ません。

実際、90年代に入って、世界が大きく変化しているのに、労働者の仕事に対する意識は、あまり変わっていません。いや、諦めが入って悪化している部分も見えます.口では、「何とかしなくちゃ」と言っていますが、実際には何もしていない人が少なくないでしょう。彼らは、「そのようなスキルを身に付けることが必要なら、会社が責任をもってその機会を作るべきだ」と言います。この論法は、或る程度までは正しいですが、技術や知識は「個人」の中に残ることもあって、それにも限度があります。

バブルがはじけ、急激な円高になったころ、リストラや倒産の不安から“大変だ”と騒いだ時期がありましたが、しばらくすると、元の状態に戻っています。それでも信念に支えられて、2年もの間、家に帰ったあと勉強を続けている人は何人いるでしょうか。パソコンメーカーの宣伝に乗せられて、パソコンを買ってみたものの、半年もすれば埃がかぶっているのではないでしょうか。

結果的に、市場の求めるような仕事ができないため、彼らを抱える企業の業績も一向に改善しません、そればかりか、以前にも増して、内心ではリストラの不安に戦慄いているのでは救われません。特に、ソフトウェア開発に携わるような人たちは、総じて「知識労働者」であるべきことが求められていますが、そのような職場において、この緊張感の無さは致命的です.日本のソフト産業がいつまで経っても地表すれすれの低空飛行しか出来ない理由の一つが、ここに在ると見ています.

ソフトウェアの設計作業に於ては、既に生産手段は「個人」に帰属しています。高価な構成管理ツールも、担当者のノートパソコンに入って、家と職場を往復しています。その気になれば、業務に必要(有効)なスキルや知識は、個人でいくらでも習得できます。もちろん、理解の壁のようなものにぶつかるかもしれません。また、そのような時は、一人で解決できないかも知れませんが、それだって、多くはないでしょう。自分の能力を高めようという気持ちがあれば、どんどん手に入る時代であり、まさに、「個人事業」が増えようとしている時代なのです。でも、個人がこのように行動するのは、雇用に緊張感があるからであり、それが無い状態で、意識を継続して、スキルを向上させるのは難しいでしょう。

雇用に緊張感がある状態というのは、自分に求められているスキルや役割を察知し、自分の能力の強みを判断し、自分を活かす方法やジャンルを真剣に考え、来年も仕事があるように努力する状態を指しています。今の分野を延長することもあれば、新しい分野に転向するかもしれません。もちろん、このことは、一般の労働者に限られたものではありません。マネージャーのレベルでも同じですし、これからは、経営者(執行役員)にも同じような緊張感が求められます。その中で、自分の能力を磨き、そのことを通じて社会に貢献するのです。決してお荷物になるのではなく、社会に貢献した証を、そこに刻むのです。
少なくとも、労基法第20条が封印されたままの状態では、労働者は強くはなれないでしょう。

▲ 中国との逆転現象
最近、中国の経済面での台頭が著しいのですが、元をたどれば、円高に対抗するために多くの日本の企業が、製造部門を移したのが、ここに来て、強くなったのです。もとより、彼らは民族的に事業に対して積極的なところがあるようで、今やその手段を手に入れたわけです。そして、アジアを「元」の経済圏にすべく、動き出しているのです。

世界の家電製品の7割を生産する国となり、まさに「世界の製造基地」となっているのです。その地位は、10数年前には、日本の椅子でもあったのです。それが、10年あまりで、ほとんど逆転してしまったわけです。これは、時代の流れでもあり、止めることは出来ないものです。嘗て、日本も、同じようにしてアメリカの市場を席巻し、アメリカからほとんどの家電メーカーを消してしまったのです。今、その舞台が日本であり、席巻しているのが中国の企業なのです。

すっかり自信をもった中国の人たちは、非常に熱心に技術を学ぼうとしています。それによって、自分たちの競争力が付くことを知っているのです。また、そのような努力をしない人は解雇されます。求められている仕事ができなければ、解雇もありうるのです。

社会主義の国に「解雇」があって、資本主義の国(を標榜する国)に「解雇」が無いというのは、いったいどういうことでしょうか。これでは、どっちが資本主義の国か分からなくなってしまいます。中国は、政治は共産党が支配する社会主義の制度でも、経済は、ほとんど資本主義に近いのかも知れません。もちろん、まだまだ、行き詰まった国有企業が残っていますが、それは、今の日本経済のなかで、行き場を失った多くの企業と似たものかもしれません。だとすると、違いは「解雇」だけになってきます。

マネージャーに対する評価も、日本の企業と比べて、非常に厳しいものがあるようです。マネージャーの能力が低いと、優秀な技術者が辞めてしまうからです。「解雇」があるということは、入れ替えが行われると言うことであり、有能な技術者であれば、いつでも自分を高く評価してくれるところに売り込めることを意味しています。その結果として、マネージャーのスキルが求められているわけです。

嘗て、日本が高度経済成長の軌跡をたどっていたころ、既に、労基法第20条は封印されていたのです。それに対して、今の中国は、当時の日本と同じような経済の成長軌道をたどっているのでしょうが、「解雇」は封印されていないのです。その結果、中国には、日本が経験しているような行き詰まりは存在しないかもしれません。職場の中に競争原理が働き続けるかもしれません。

▲ 労働者を弱体化させた
本来、この判決は、生活基盤の弱い当時の労働者を保護するのが目的だったと思われます。当時は、まだまだ国民の所得水準も低く、労働の機会も決して多くありませんでした。したがって、労基法第20条のような条文があるからといって、安易にこれを使用することを禁ずるという判断は、当時としては決して間違ってはいなかったと思います。

もちろん、その際に条文を封印した判決を出す方法の外に、条文を期限付きで制限する法律を制定する方法も考えられたでしょうが、当時としては労基法を改正したり、新たな法律を上からかぶせることは難しかったのでしょう。

しかしながら、今日の状況においては、果たしてこの判例は労働者を守っているのかどうか怪しいと言わざるを得ません。結果的に、労働者を箱に入れて時代の風に当たらないように「守った」だけではないでしょうか。その箱に入った代償として、労働者は、自らの意志で時代を見ることを放棄してしまいました。無事に就職(就社?)できた後は、問題を起こさない限り解雇されることがないので、外の世界の動きを観る必要は無くなったのです。いわゆる「サラリーマン」の地位への安住が始まったわけです。

こうして段階の世代では、25年間ものあいだ、組織の中だけの論理で過ごして来た人も少なくないはずです。もで、21世紀に、日本は知識産業へとシフトが迫られています。それは80年代にはもう見えていました。少なくとも90年代に入って、誰の目にも見えたはずです。でも、日本の企業は、この方向に踏み出せないでいるのです。

当然、日本の労働者の進むべき方向も、“時代に合わせて”知識労働者へとシフトしていく必要があったわけです。知識労働者といっても、単にパソコンが操れればよいわけではありません。そこにある「問題を特定」し、それを「解決する方法」を持っていることが求められていたわけです。

「SI」や「ソリューション・ビジネス」というのは、何も企業の営業項目のことではありません。一人ひとりが、そのような問題を解決するスキルを身に付けることを前提としているのです。豊富な知識と経験に基づいた、付加価値の高い仕事が求められることが見えていたのです。しかしながら、もとより「知識労働者」のスタイルをもっていない人にとっては、そのレベルに達すること自体、容易ではないのです。

80年代に入って、日本はキャッチアップの時代を終えました。企業のトップの中には、「アメリカから学ぶものはもうない」と言った人もいます。このとき、日本は自らの責任で何かを構築することが求められたわけですが、同時にマネージメントも、高度な知識労働者であることが求められていました。でも、多くの人はそれに応えられませんでした。このとき、日本の企業は世界に対して競争力を失ったのです。今やOECD加盟国の中で20位以下に甘んじる有り様です。嘗ての栄光は、そこに見ることはありません。今回のタリバンとの戦争でも、アメリカは、日本に資金を求めていません。それははっきりと明言しています。もはや、日本にそのような資金がないことを知っているのです。

こうして新しい時代への対応を怠った結果、多くの企業は90年代を乗りきれず、ここに来て失業率を上げることに貢献するしかなくなり、300万人を越える人たちが職を失いました。でも、彼らの中に、あの時、自分が何をすることを求められていたのかを認識できている人は何人いるでしょうか。それよりも、今まで身を粉にして貢献してきたことに対する仕打ちを、恨んでいる人の方が多いのではないでしょうか。

組織に所属することだけに囚われ、時代を見据えて自らのスキルを引き上げることをしなかったのは、労基法第20条を封印した判例のために、そのような必要性を封じ込めてきたことにも原因があると言えなくはないでしょう。何かをして失敗するよりも、何もせずに失敗しないほうを選ぶという風潮をつくってきたのですから。

もし彼らが、若いときから雇用に緊張感を必要とする環境にいれば、彼らの多くは、今でも時代の求める役割を果していたのではないでしょうか。もともと勉強熱心な世代であったはずですから、組織の中でも、お互いに競争していたのではないでしょうか。そう思うと、この判例が忌々しく、またこの判例をいつまでも放置してきた責任ある人たちに対して怒りすら感じるのです。彼らの中には、労働者を守る振りをして、実は労働者を蔑ろにしてきたのです。

▲ 労働組合のジレンマ
90年代の失業は、従来の失業と違って日本の産業構造に起因したもので、そこには「ミスマッチ」の表面化という特徴があります。これまで世界の中での日本の位置は「世界の製造基地」でした。その立場が中国を始めとする振興の国々にとって変わられようとしているのです。そのことは、同時に「知識産業」への転換を促すものでもありました。少なくとも、その方向への転換が求められているなかで、多くの失業者はほとんど何の備えもしていなかったのではないかと思われます。

労働組合も、この変化を知っていたはずです。もし、気付いていなかったとすれば、それは怠慢以外のなにものでもありません。あるいは、賃金闘争に明け暮れ、結果平等・年功賃金の居心地のよいソファーに座り慣れた所為で、時代の変化を見る能力を退化させてしまったのだろうか。そんなことは無いでしょう。おそらく、「縛り」にあって居たのだろうと思われます。

その結果は、企業の競争力を低下させ、そこにいる労働者は、リストラの嵐に吹かれミスマッチの渦に巻き込まれているのです。中には、時代の警鐘を慣らした労働組合の人たちも居るのかもしれませんが、大勢にはなりませんでした。

ここに来て、政府の公式発表の完全失業率が「5.3%」に達したことで、日本中が大慌てです。労働組合も、さすがに来年の「春闘?」では賃金闘争を止め、賃金の引き下げを受け入れるのと引き換えにしてでも雇用を守る方向に全面的に舵を切りました。

ただし、その方法が問題です。今度は「希望退職の募集」をも封印しようというのですから、お粗末きわまりない発想です。これでは、かつて労基法第20条を封印した時の発想の延長線でしかありません。この判決が、日本の経済に何をもたらしたのか、今日、多くの労働者がどうして「ミスマッチ」の渦にもがいているのかを、何も理解していないとしか思えません。いや、分かっていても、方向転換ができないのかもしれません。だとすると、その存在そのものが不幸です。

希望退職者を募集することは、企業の勝手であり、それに応じるかどうかも個人の勝手です。労働組合が、その手段の封印を迫ることは、まったくの筋違いです。労働組合が問題にすべきなのは、希望退職の募集に関連して、不当な退職勧奨の方法が採られていることです。もっとも、これを問題にすれば、労基法第20条を封印した判決の存在が表面化するでしょうから、そこを避けて、希望退職の手段そのものを封印しようとしているのでしょう。

でも、その結果は、日本の企業の息の根を止めることになるでしょう。ただでさえ、日本の企業は競争力を失っているのです。公称の5.3% の失業率は、世界的な不況の所為だけではありません。グローバル化した世界の中で、日本の企業の競争力そのものが失われている証拠なのです。この上、雇用の緊張感をなくしてしまえば、もはや日本という国の中で、事業を続けることはできなくなります。

もし、希望退職の封印が合意されるようなことになれば、その時点で日本経済が復活する希望が断たれます。それは、間違いなく労働者の「働く機会」を消滅させることを意味するでしょう。それだけではありません。高齢化する日本の社会を、誰が支えるのでしょうか。日本自体が競争力を失ってしまえば、この人たちを支えることは出来なくなります。労働組合は、いったいどのような社会をイメージしているのでしょうか。

いま、労働組合が目指す方向は、労働者の競争力を高めることであり、企業の競争力の向上に貢献することです。それしかないはずです。そうした労働者の働くポジションを競う中で発生する失業は、彼が競争力の向上に努力する限りにおいて、国レベルの社会システムによって救済されるべきです。労働組合は、むしろこの仕組みを確立することに力を入れるべきです。

ただし、それを進めていく上で、労基法第20条を封印した判例は、間違いなく「障害物」となるはずです。その現実から目をそらすことなく、本当に労働者にとって何が大事なのか、高齢化する日本にとって、どうあることが大事なのか、そしてこれからの労働組合は、どうあるべきかを考えるべきでしょう。

▲ 労働者の権利とは?
労働者には「働く権利」が有るといいます。働いて報酬を得る権利といっても良いのかもしれません。よく、春闘などの場で主張されていますが、このことについて深く考えたことのある人(労働者)は少ないのでは無いでしょうか。

ここで問題になるのは、労働者の権利とは何かということです。使用者に対して仕事をさせろというのでしょうか。でもその人に仕事をする機会を与えるかどうかは、使用者との間での合意であり契約です。100人が機会を求めても、10人の枠しかなければ、10人しか契約されないことは言うまでもありません。「働く権利」といっても、この前提は存在しています。

現実問題として働く権利というのは、「刑事罰などを受けない限り辞めさせられない権利」として使われているように思われます。たぶん、東京高裁の判決の背景にも、このような考え方があったのかもしれません。日本では、公務員の場合は仕事そのものが減ることを想定していないので、このような考え方もできるでしょうが、民間企業の場合は、そうは行きません。仕事そのものが減ってしまうことはいくらでもあるのです。

この「働く権利」というのは、そのような状況において、見事に姿を変えてしまいます。つまり、使用者に対して、「新しい仕事を見つけてくる義務がある」と言う形にすり替わります。これが組織の中で現実に起きているのです。

本来、「働く権利」というのは、そこに提示された仕事の仕様を満たすことを前提に契約が成立し、同時に権利が発生します。そして、その仕事が存在し、かつ仕様を満たすという前提が継続されている限りに於て、その人に働く機会が保証されるべきものです。ただし決して普遍のものではありません。もし、提示された仕様を全て満たせない場合は、満たすであろう割合に応じて報酬が決まる仕掛けになっていれば、その分だけ労働の機会を得るチャンスは増えます。しかしながら、日本ではこのような形で労働の機会が用意されていません。

仕事そのものも流動的です。企業は常に競争し続けています。市場の要求の変化に応じて、提供する財やサービスも変化させる必要があります。当然、仕事の仕様も変化します。新しい技術も求められるでしょう。分野によっては同じ仕様が10年も20年も続くわけはありません。特に、ソフトウェアの世界では変化は短期間で起きてきます。

この結果、「働く権利」の裏返しとして「学習の機会」というものが浮上してきます。当初は仕事の仕様を満たしていても、求められる仕様そのものが変化してしまえば、仕様を満たさなくなってしまい、このままでは、働く機会を失ってしまいます。もちろん、個人の努力で仕様の変化を先取りすることも可能でしょうが、ある程度は、組織の方でも「学習の機会」を設けて、変化させた仕様の分だけでも追いつくように支援すべきでしょう。少なくとも、既に仕事についている人たちが、新たに求められている仕事の仕様を満たす意志がある以上は、そうすべきです。確かに、そこには組織(使用者)の義務とも言える部分が認められます。ただし、費用対効果の限度を大きく逸脱するような場合は、別に既にその仕様を満たす準備が整っている人を採用することを認めるべきです。もちろんこのとき、「解雇」の問題が発生します。

この解雇が認められなければ、企業は、時代の変化に対応するために仕事の仕様を変化させることが出来ないことになります。その結果、一見、「働く権利」は守られたように見えても、「働く場」そのものが維持されなくなります。今、日本で起きているのは、まさにこの状態なのです。

たとえば、製薬会社も、早急に「IT」を駆使した新薬の開発体制に切り替える必要に迫られているのですが、社内にそのような準備が出来ていないため、結局、ソフト会社との提携という形を選択するか、海外の製薬会社と業務提携を結ぶという方法しかありません。前者は、旧来の従業員を抱えたままの対応ですので、最初からコスト面での競争力は不利な状態です。こうした場面は至る所にあるのです。

ソフトウェア開発など、変化の激しい分野では、組織が提供する「学習の機会」だけでは、競争に間に合わない可能性が高く、個人の責任で学習に取り組むことも必要になってきます。元来、この種の(問題を解決するための)知識や技術は、最終的に個人の中に残ります。それに、仕事の仕様が標準化される可能性があり、個人の責任で取得することで、選択肢を個人の手元に確保することができます。

硬直した「働く権利」を主張するだけでは、問題は何も解決しません。仕事の仕様の変化を先取りする形で積極的に自らを売り込むくらいの姿勢が欲しいものです。

▲ ベンチャー事業も制限を受ける
日本は今、デフレ状態からの脱出口が見えないまま、景気の低迷が続いています。小泉首相は、景気の回復(?)のために「構造改革」を断行すると言っています。その過程で発生する失業者は、公的機関の事業を民間企業に開放したり、ベンチャー企業の台頭に期待を寄せています。その根拠は、アメリカの90年代がそうやって製造業から解雇された人たちをサービス業や新たに起こされた企業が吸収したからです。だから、日本でも出来ると思っているのでしょうか。

日本の証券市場が未整備なまま放置されている状態が、まもなくベンチャー企業の上場にあたって表面化するでしょうし、企業の分割のルールも、最初の構想は大きく歪んでしまい決して使いやすいものではなさそうです。とにかく、アメリカとでは、ベンチャー企業を取り巻く環境が違いすぎます。

おまけに日本では、個人が企業を興すのに大きなリスクを負うことになります。事業の失敗が再起不能の状態になりかねません。順調に行っているときは良いのですが、一度雲行きが怪しくなると大変です。嘗て日本でベンチャー企業が台頭したのは、経済のパイ自体が拡大していた時期の話で、そのパイの拡大が止まった今日では、簡単には行きません。

つまり、日本では企業を起こすことに大きなメリットがないのです。アメリカと違って、新しく事業を興すことに何らの支援もありません。既存企業と全く対等な条件の下で立ち上げなければならないのです。もし、これをもって「公平」に扱っていると言うのであれば、まさに日本での新規事業の立ち上げは無駄だということになります。アメリカでは、確か5年程度の間は、税制面で優遇されていると聞いています。もし日本でそのような制度があれば、スカイマークエアラインや、エアドゥなどの新しい航空会社は、もっと戦いやすかったでしょう。この面でも、日本ではベンチャー企業に不利な環境にあると言わざるを得ません。

事業分野によっては、ベンチャー企業もすぐに舵を切る必要が生じます。最近では、ADSLを使ってのネットビジネスが普及期に入っていますが、これなどは数年で次世代のネットワーク技術に置き変わるでしょう。この時、その企業自らが変身するには、雇用に対する身軽さが必要です。既存の事業が新しい技術に置き変わろうとするためには、新しい技術に対応できる人に入れ替えなければなりません。もちろん、内部での研修などで対応できるように、教育プログラムが用意されるでしょうが、税制面での優遇もないままでは、時間的制約もあって相当数の人が、対応できずに残ってしまう可能性があります。

このような変化の激しい分野では、事業のスムースな転換にあたって、労基法第20条を封印した判例が障害となる可能性が出てきます。その結果、有能な事業家であったはずの人も、そこで行き止まってしまうのです。そして、そのような状況を目の当たりにしては、新たにベンチャーを起こそうという人も、現れにくいでしょう。

▲ 若者の採用が抑えられることの悪影響
結局、労基法第20条が封印されていることで、能力の低い人から能力の高い人へ従業員を入れ替えることも、変化の可能性の低い人から可能性の高い人へ入れ替えることも、容易ではないのです。そこで許されているのは、今居る従業員を再教育して変化させることだけです。でも、所属することになれてしまい、自らを研磨しなくなった今の企業の風土では、半分ぐらいの人が転換できれば良いほうかもしれません。その結果、いつまでも変化しない人が残ってしまいまい、新たに若い人を採用する余地も奪ってしまっているのです。最近の失業者の統計でも26歳未満の人の失業率の高さが際立っていて、組織の中が閉塞している状態を窺い知ることができます。

日本の企業が進むべき方向は、「高付加価値」を生み出す分野であり、そのような労働スタイルの作業です。「知識労働者」というのは、その一つの代表的な表現として位置します。でも、長い間、雇用の緊張感を失って過ごしてきた人に、たとえコンピュータ教育を実施したとしても、今更「知識労働者」に変身できるでしょうか。出来るとしてもほんの一部の人だけでしょう。

それよりも、学生などの若い人たちに対して、最初から十分なコンピュータ教育を実施し、すぐにでも付加価値の高い作業に入れるように準備する方が効率は良いし、何よりも、若年層の閉塞感を打破するのに役に立ちます。最近では、日本の若者の中には、日本国内での就職をあきらめて、最初から中国などの国で働くことを想定している人も出てきたようです。

また、いつまでも“フリーター”という呼称を放置しているのは間違いで。まるで新しい労働形態であるかのように、もてはやす評論家もいますが、確たる技術に基づいていない限り、「気まぐれアルバイター」であり、いずれその機会を失うことは目に見えています。

もちろん、職業選択の自由がありますので、本人の選択に任せるべきですが、目的があって“フリーター”を選んでいる場合は良しとしても、多くの人は、“仕方なく”そうしているだけでは無いかと思っています。彼らの中は、新しい時代に合った教育を受けることが出来なかったことで、上手く時代に乗れなかった人もいるのではないでしょうか。だとすると、教育カリキュラムを時代に合わせて適切に改善しなかったことに問題があるといえるでしょう。結局、彼らもまた、雇用の緊張感をなくした大人たちによって生み出されたと言えなくもないのです。

▲ QC活動の行き詰まり
職場の品質向上活動の一環として始められた「QC」活動は、製品の品質の向上をもたらし、高度成長期の日本の産業の発展を支えてきました。
しかしながら、そのQC(TQM)活動も、企業そのものの競争力を支えるところまで行かず、80年代後半からの円高基調の中で、その輝きを失っていくのですが、その一方で、日本のQC活動を研究したモトローラ社の研究者が「シックスシグマ」という手法にまで発展させました。その結果、それまで世界のプラントエンジニアリングを制覇していた日本の企業が、この手法を手にした「ABB社」によって簡単にその地位を追われてしまいました。多くの欧米の企業が、この手法によって競争力を身に付け、相対的に、日本の企業は劣勢を強いられたのです。

モトローラの研究者たちは、QC活動を当初の品質管理手法から、経営改善手法に姿を変えることに成功したわけですが、なぜ、「QC先進国」の日本でそこまで発展させることが出来なかったのか。職場内での改善活動の域を出なかったのかなぜか。それは、日本では、労基法第20条が封印されていたからです。

今、私が進めているソフトウェアのプロセス改善活動も含めて、この種の改善活動は、全て「経営指標」を改善するものでなければなりません。一時的にはコスト(費用)がかかっても、その後、回収し、収益を上げるようにならなければなりません。実際、プロセスの改善と適切なプロセスを選択することで、プロジェクトによっては3〜5割もの工数を減らすことができます。また、そこに居るエンジニアやマネージャが、そのようなプロセスの考え方や、最適なプロセスの構築方法を手に入れれば、継続的にも、また全社的にも効果を上げることができます。

しかしながら、改善の効果がそこまで行くと「雇用の問題」が発生します。それは、個人の能力の差として見えたり、「コストセンター」として見えることになります。それでも、労基法第20条が封印されていることで、企業は彼らを抱え続けなければなりません。本来であれば、プロジェクトの効率化で獲得した資金を使って、さらに組織の能力を高め、一気に競争力をつける方向に動けば良いのですが、実際には人件費は減りませんので、企業全体の収益への貢献は相殺されます。つまり、QC活動も含めて、この種の改善活動において明確な結果(効果)として出てきにくいのです。

これは、シックスシグマへの取り組みでも、いずれ問題になってくるでしょう。GEが、95年から5年間でシックスシグマの改善効果として1兆円を見込んでいることが公表されたことで、シックスシグマは一気に有名になったのですが、日本国内でのこの種の取り組みは、労基法第20条が封印されている限り、経営指標上には僅かな効果しか出てこないものと思われます。それでも、それに関わった人たちに、スキルとしては残るとは思いますが、「ABB社」が日本企業を追い落としたように、企業自体の格段の競争力にまでは貢献しないかもしれません。

このように、品質改善活動やプロセスの改善活動と云った改善活動は、突き詰めれば、全て「雇用」に行き着きます。逆に云えば、そこまで行かないと意味がないのであり、本当の意味での手法の習得に至らない可能性もあります。「雇用」が封印されている以上、この種の取り組みは、不完全で、中途半端なものになってしまう危険が有るのです。そしてそのことは、企業の競争力の低下にさえ繋がってしまうのです。

▲ 「定年」の封印を求めよ
「定年」というのは、働く機会を強制的に奪うものです。アメリカでは、特定の職場以外は、定年と言うものはないはずです。定年を規定することは、憲法違反にあたると聞いています。ではなぜ日本では「定年」が堂々と“法制化”されているのでしょうか。年金の支給が開始される条件として「定年」が指定されていると言うかもしれませんが、その問題はアメリカでも同じです。でも、年金を何時から受給するかということも、いつまで仕事を続けるかということも、すべて本人が決定することになっています。

それが何故、日本では堂々と民間の企業に対しても「定年」が法制化されているのでしょう。日本は、競争原理による行動を原則とした自由主義の国ではなかったのでしょうか。

これまで日本は、年功賃金制度を採ってきました。これは「定年」を正当化する方向に作用します。年をとるほどに賃金が上がっていくということは、どこかで辞めてもらわないと事業は成り立ちません。もちろん、それが前提で、全体の賃金体系を作っていましたので、一番働き盛りの時でも、働きに見合った賃金が支払われていません。そうなると、何とかして最後(の方)まで、その会社に居続けて「元」を取らなければならず、勢い、会社の人事や仕組みに身を任せることにもなってきます。

また、日本では、「就職」という言葉は使われていても、実際には「会社」を選んでいるのであって「職」を選んでいません。最近では、少し事情が変わって来ているようですが、それでも、大勢は変わっていないでしょう。相変わらず人事が一括して採用し、個人が就く「職」は、入社後に会社が割り当てるというやり方から抜けられない企業もあるものと思われます。

でも、このような制度が、21世紀に通用するでしょうか。自分で職を選ぶのではなく、会社が職を選んでくれるのを受け入れる、あるいは待つという姿勢は、それと引き換えに、「だったら、新しい職に必要な知識や技能は、会社が責任を持って身に付けさせるべき」という発想が生まれてきます。もちろん、ある程度は必要ですが、それは労働の手段が、その会社にしかない時の話で、ソフトウェアなどの、多くの知識労働者の場合、今や労働の手段は個人にあって、習得は個人のレベルでも相当な水準まで可能であること、さらに、習得した知識や技術の習得に、企業がどこまで支援すべきかという問題が生じてきます。

このような性質の知識や技術の習得は、全面的に会社に機会を求めることには合理性はないかもしれません。むしろ、個人による習得の余地を大きく残し、そこに競争の仕組みを導入することで、個人も企業も競争力を手にすることができます。今、この意識のギャップが表面化していて、「社内ミスマッチ」の原因ともなっているのです。

このように、日本の企業においては、労働者を取り巻く仕組みが、「定年」制度に歩調を合わせるかのようにでき上がっていて、今、大きく企業内の機構や制度を変えなければならないときに、まさにこれが「抵抗勢力」になってしまうのです。

年功賃金制ではなく職種別賃金制であれば、「定年」というものは邪魔になってくるはずです。「職」に対して求められる労働の内容や品質が仕様化され、それを満たすことで労働の機会を保証されるというのであれば、各自が、その仕様をクリアするように工夫し学習すれば良いのです。年齢に関係なく、その「職」を全うすればいいのです。そのような状況で「定年」の法制化を望むとは思えません。

もちろん、「職」の種類によっては、高齢者には不利になるものもあるでしょう。でも、それは事前に分かっていることであり、どこかの段階で自ら職を辞すか、他の職に移るかを自分で決めれば良いのです。もちろん、後者の場合は、新しいの職の仕様に合わせて、新しく技術を習得しなければなりませんが、「定年」というものが法制化されていなければ、そこに自らの意志に反した「期限」はないわけですから、すべて自分で決めれば良いわけです。

逆に、「定年」が見えている状況では、そのような新しい挑戦の意欲は萎えてしまいます。団塊の世代を筆頭に、中高年者が新しい仕事への挑戦が進まないのも、そのような状況があるものと思われます。

労基法第20条を封印したのであれば、なぜ「定年法」の封印を求めなかったのでしょうか。大量のリストラの危機を前に、希望退職の募集の封印を求めると言うのは、本末転倒も甚だしいと言わざるを得ません。むしろ「定年法」の封印を求めるべきなのです。

「定年」を残したまま、労基法第20条を封印したのでは、組織の変革は困難であり、結局は、組織自体が競争に負けてしまいます。そうなっては、そこで「定年」まで仕事をし続けることもできません。知識や技術の習得を全面的に企業に依存してきた人たちは、その時点で行き場を失ってしまうことは言うまでもありません。

▲ ジョブ・シェアリングはできない
完全失業率が高くなってきたことに合わせて、「ジョブシェアリング」が浮上しています。確かに、ヨーロッパ(EU)の一部で実現しているようですが、日本の現状と条件が大きく違います。彼らは(少なくともオランダでは)、職種別賃金制を導入していて、誰であってもその仕事の賃金は同じはずです。確か、オランダではEUの通貨統合を機に、この制度を取り入れたように記憶しています。ヨーロッパの何処からでも人材を呼び込むための制度として考えられたのではないかと思っています。

それに対して日本では、ほとんどの企業は年功賃金制を取り入れています。このような日本の賃金体系にそのまま「ジョブシェアリング」持ち込んでは、同じ仕事をやっているのに賃金が異なることが表面化して、問題が複雑になってしまいます。どのような形の「ジョブシェアリング」が可能か、研究する余地はあるでしょうが、少なくとも、ヨーロッパ風の「ジョブシェアリング」を、そのまま持ち込むことは難しいでしょう。

もう一つの問題は、作業の定義能力が違います。「あうん」で動く習慣の中に「ジョブシェアリング」を持ち込んでも、対応にばらつきが発生し、作業の停滞や引き継ぎの混乱をもたらす危険が有ります。アメリカでは,一人のCEOに対して、2人の秘書が「ジョブシェアリング」している例が報告されていましたが、これなどは、作業の定義と、それに違反しない遂行能力が求められます。翻って、日本の企業では、「表現する」という習慣をほとんど持っていません。政府における各種の提言や提案も、みな薄っぺらい文書しか書かれていません。

契約書にしろ曖昧そのものです。これは一種の文化と思われますが、具体的なレベルで記述する習慣は、簡単には身に付きません。そのような曖昧さの習慣を残したままの所に、雇用を守るためといって突然「ジョブシェアリング」を持ち込まれては、作業が混乱するだけで、悪く行くと企業の競争力を低下させる危険すらでてきます。

労働組合は、長年にわたって、作業を仕様化することをせずに年功賃金を守ってきました。結果に差がつかない状態を守ってきました。その労働組合が、今になって「ジョブシェアリング」を提案するのは、無責任であり、無理があると言わざるを得ません。

▲ 雇用のミスマッチの原因
既に書いたように、90年後半から日本経済の行き詰まりが顕在化し、それに呼応するかのようにデフレの状態が進行しています。そこには「開発輸入」の問題も含まれていて、いわゆる「デフレ」の定義がそのまま当てはまるのか、私には良く分かりませんが、少なくとも、消費者物価はだいぶ下がっています。

80年後半の円高以来、日本の企業は、家電などの生産基地をアジアなどの地域に移してきました。最初の頃は、アジアの製品は「安かろう。悪かろう」ということで、国内の製造拠点に与える影響は、それほどでも無かったのですが、90年代の後半から、アジアの製品の品質が大幅に向上し、日本国内の製造拠点にも大きな影響を与えるようになってきました。

それに合わせるかのように、リストラが進行したしてきたのですが、「IT景気」の終演とテロの影響もあって、アメリカ経済が減速し、その影響を受ける形で、日本の企業のリストラがいちだんと加速してきました。日本の企業は、もともと利益の出ない企業体質であったところに、売り上げが大幅に落ちたため、雇用を支えきれなくなったようですが、実態は少し違っているようです。

90年に入って、日本の企業は、その経営体質や扱う製品などの切り替えが求められていました。言い換えれば、新たに製造拠点として育ってきたアジアとの棲み分けが必要になっていたのです。コストを考えると、品質さえ満たせば、その時点で、日本の製造拠点としての優位性は失われることは、誰もが認めるところでした。最善の選択は、この時点で日本の企業は、「知識産業」へのシフトに踏み出すべきだったのですが、アジアの動きを舐めてかかっていたものと思われます。

その結果、「知識産業」への転換が全く進みませんでした。これまでの日本の企業は、ある部門で人が余ったときは、他の部門(通常は利益の上がっている部門)に振り向けて、雇用を守ってきました。その部門は人が足りないわけではなく、収益が上がっていたからです。言い換えれば、そこにミルクがあるので、そっちに回したということです。労働者は、何も考えなくても、会社の指示に従って職場を移動すれば良かったのです。もちろん、新しい職場に移るための教育・訓練は、会社が責任をもって実施してくれました。

しかしながら、今回は少し様子が違ったのです。それは、振り向けたい職場は、ソフトウェアを設計し制作する職場でした。この部門は、これまでの部門とは大きく勝手が違っています。それは、完全な知識労働者のスタイルが求められるということです。この職種は、知的活動の範囲が多く、再教育で教えることの出来る部分が限られてしまいます。これまで、新しいスタイルの仕事をさせるときは、会社が責任をもって教育・訓練の機会を設けるべき、という考え方が定着していたところに、それを自分の責任で行う「知識労働者」であるべきことが求められたのです。

団塊の世代を先頭に、雇用に緊張感をなくしてきた人たちは、この時代の要請に対応できず、企業内に大量の「ミスマッチ」者が出てしまい、企業の収益を一層悪化させてしまったのです。これまでリストラを実施したことのない大手の電機メーカーも、そうした配置転換ができない「社内ミスマッチ」者を大量に出してしまったわけです。そうして、企業の財務体力が弱っていたところに、世界経済の後退の波を被ったものですから、日本の企業はひとたまりもなく、巨額の赤字を計上してしまうという結果になり、大量のリストラに踏み切ったのです。

この時、企業内で「ミスマッチ」者であった人は、リストラによって仕事を失ったとたん、企業の外でも「ミスマッチ」者となってしまうであろうことは容易に想像がつきます。当然、この中の多くの人たちは、「知識労働者」への転換は難しいかと思われます。したがって、政府が、不安を打ち消すために再教育の機会を設ける、いわゆる「セーフティネット」を用意しても、その実効は薄いと言わざるを得ません。

結局、労働者が「指示待ち」の姿勢を身に付けてしまった最大級の原因は、時代の変化を読めなかったことと、若いときから「知識労働者」のスタイルを身に付けておかなかったことにあります。そしてそれには、労基法第20条が封印されたままであることの影響も、決して少なくないはずです。

▲ セーフティネトも無意味
政府は「構造改革」を進める中で、企業の倒産などに伴って発生する失業者を救済するために、教育・訓練の機会をつくったり、お得意のケインズ政策で政府主導による仕事の創造とか、「セーフティネット」で、何とか急場を凌ごうとしていますが、なんとか生き残った企業を強くする方法は示されていません。

失業した人が再教育を受けたことで有効な技術の習得に成功したとしても、労基法第20条が凍結されている以上、新たに雇用の機会があるかというと、経済全体が拡張していた時代と違って、それは難しいのです。彼が再教育によって有効なスキルを習得したとしても、彼を雇うには、今居る人(彼よりも劣る人)を一人以上解雇しなければなりません。

高度成長期と違って、簡単には従業員を増やすわけにはいかないのです。有能な人を雇いたいのはやまやまでも、労基法第20条の封印によって指名解雇が出来ない以上、門の所に来ているその人を採用することはできないかもしれないのです。

したがって、政府が提唱する「セーフティネット」は、ある種の職場には通用するでしょうが、人員を減らしながら競争力を確保しなければならないような企業にあっては、まったくの通用しない話なのです。単に、言葉遊びに過ぎず、失業した人たちを、本当に救済することには繋がらないでしょう。

労基法第20条が封印されている以上、「セーフティネット」は単なるリップサービスであり、精々、政府として誠意を尽くしていろいろと施策を講じてきたという言い訳に使われるだけです。まさに「政府ガード」のための施策に過ぎないのです。

▲ 判例を消す必要がある
これまで、労基法第20条を封印してきたことの影響(と思われることを含めて)を、いろいろと述べてきました。労働者を保護するという役目を帯びていたこの判例は、確かに、日本の高度成長期を支えたことは事実です。ただし、それも労働者の賃金が安く、為替の面からも有利であった環境において、有効に作用したと言えなくもありません。

しかしながら今日では、この判例が、むしろ日本の企業の競争力を削いでいるという面の方が強く、労働者に対しても、必ずしも保護したのではなく、今日にあっては、時代から隔離してしまい、弱体化に加担してしまった可能性の方が高いと言わざるを得ません。したがって、一刻も早く早くこの判例を取り除いて、経営のフリーハンドを得ると同時に、労働者も競争力をつけ、それによって新しい職を獲得する機会を獲得することが大事と考えています

とは言っても、すべての職種にこの制度を適応できるかどうかは、私も考えていません。少なくとも、ソフトウェア設計の分野においては、このような制度が用意されて居ないことは、大きなマイナス条件となることは確かです。

もちろん、すぐに判例の効力を廃することは、混乱を招きますので、何らかのショックアブソーバー的な施策は必要です。たとえば、実施までの猶予期間を2年程度おいたり、現在の20条では「1ヶ月前」となっている事前通告の期間を「1ヶ月以上」に延長し、補償額や罰則も、その期間に応じて詳細に規定することも必要でしょう。失業保険の給付条件も、新しい技能を習得中であることを条件にして支給することも有効でしょう。

25年以上も“親しんだ”制度を変えるには、それなりの準備と仕組みが必要です。それでも、この判例を外さない限り、日本の経済は、アジアの国々の後塵を拝すことになるでしょう。そこに踏み出すのは、今しかないでしょう。今、踏み出しても、効果が表面に現れるのに5年程かかるかもしれないのです。

この後、景気が回復してきたとき、世界の資金がどこに投資されるかで、21世紀の前半(少なくとも、今後の20年程度)の各国の経済が決まってしまう可能性もあります。バイオやナノテクが「IT」と結合し、新たな技術開発が始まろうとしている、まさにその時に、この判例は障害以外の何者でもないからです。

バイオやナノテクは、90年代後半に起きた「IT革命」とはケタ違いの経済活動を誘発するはずです。これを日本の企業が手に出来なかったとき、必然的に、日本は「歴史上の国」になるでしょう。

日本の企業が、世界の土俵で活動するためには、競争力が必須の条件です。それも生半可なものではありません。世界から、有能な人材を集めない限り、それは実現しないでしょう。そのような企業を先頭に据えて、競争力の高い企業群が続くことで、日本の経済は、再び世界に出ることが可能となるのです。日本では、いったい誰がこのプランを考えているのでしょうか。

▲ 刀はみだりには抜けない
労基法第20条を封印している判例を外したからと言って、すぐに大量の人員整理が始まることには繋がりません。根拠もなく、その刀を振り回せば、それこそ有能な人材を失うことになります。そのくらいのことが分からないでは、経営者は勤まりませんし、そのような企業は、人材を失って消滅すれば良いでしょう。人材を育て、人を活かすことが出来ないような企業は、必要ないのです。

その意味では、労基法第20条は、経営者にとって「両刃の剣」となるはずです。上手に使わなければ、自分自身を切ってしまうことになるからです。その結果、一時的には労働者も職を失いますが、彼自身が有能であれば、「入れ替え」の方法によって、他に職を得ることは今以上に容易なはずです。今日のように、インターネットが普及し、転職市場が発達している状況では、それほど難しくはないでしょう。もちろん、そのような機会の度に、能力のレベルがチェックされることは言うまでもありません。それは一種の自己の確認と思えば良いでしょう。

このように考えれば、今日でも、自らの意志で知識や技術を習得しようとする人にとっては、労基法第20条は、何の脅威でもないはずです。むしろ、自分を強くし、競争力を身に付ける機会にすらしてしまうことでしょう。

▲ 真のマネージメントが問われる
労基法第20条の復活は、企業にとって、本当の意味のマネージメント技術が問われることになるでしょう。労働者が、その組織で仕事をすることで、仕事の成果を上げることができ、同時に自分自身の競争力が身に付くような企業であれば、誰も辞めていくことはないはずです。

労働者が定着するために、マネージメントの技術を磨くことが重要になることは、有能な経営者であればすぐに気がつくはずです。そうなれば、今までのように、安直に年齢や勤務年数によって管理職にするという馬鹿げた行動は消えるはずです。

もちろん、労働者の仕事の評価方法も、真剣に研究されることになるででしょう。それが出来ないと、有能な人材を獲得できないとなれば、必死に研究するでしょう。今までは、「人が人を評価するのは難しい」などと、達観したような言い訳をしていた人事部門の人も、これからは何とかしないと、自分自身がその職を失うことになるでしょう。

会社の社長といっても、明確に統治能力が評価されてその役に就いているとは限りません。残念ながら“担がれ”て社長になっている人も少なくなく、そのような組織では担ぎ手の多さで決まってしまいます。経済が拡張期にあった時は、それでも何とか回ったのでしょうが、21世紀に、それが通用するとは思えません。

このように、私に言わせれば、労基法第20条を封印している判例が外れることで、今までの日本経済の閉塞感を作り出してきた根源の一つが外れ、経営者やマネージメントの能力によって競争が始まります。当然、マネージメントのプロも育つでしょうし、そこから「世界に通用するCEO」も生まれてくるでしょう。

もちろん、これだけですべてが上手くいくわけではありません。企業は競争力を強め続けなければなりません。そのためには、仕事の仕様の水準を、定期的に引き上げなければならないでしょう。そうして、常に生産性を上げて、競争力を確保し続けなければなりません。その過程において、新たな脱落者が出てきます。これは避けられないことです。

ただし、そこまで対応できた人であれば、他の企業でも十分に通用することは、容易に想像できます。こうした環境に対応してきた人であれば、本人に選択肢が残されているはずです。もちろん、ここまでの競争に耐えられる人は限られるでしょう。

また、すべての労働者がこのようなスタイルを求められるわけではありません。そこに提示された仕事の仕様を満たしていることを確認しながら、やっていく方法もあるでしょう。ただし、一人の有能な人材の登場によって、複数の人が職を失う可能性があることは、認識していなければなりません。

▲ 辞めさせる技術は要らない
これまでは、企業の人事や総務のマネージャーには、人を辞めさせる技術が求められてきました。労基法第20条が封印されていることで、如何にしてこの判例に抵触しないように辞めてもらうかという技術が必要だったわけです。

最近では、そのような方法を指南するコンサルティング会社も現れ、非常に盛況だという話を聞くと、何かおかしいと思うのは私だけではないでしょう。どうして、そんな「リストラ虎の巻」が必要なのか。労基法第20条が封印されている以上、そして、企業としては辞めて欲しくない人を残し、確実に辞めて欲しい人に辞めてもらうには、“それなりの技術”が必要なわけです。でも、むなしい技術です。

労基法第20条の封印が解かれれば、こんなことに有能なマネージャーを使う必要はありません。きちんと仕事の成果を評価する方法や技術を習得してくれればよいのです。そこにいる労働者が気持ち良く仕事をし、オープンに競争する風土や仕組みを作ることに精を出してくれればよいのです。

そのことによって、真の意味の「管理」が定着するでしょうし、マネージャーも、再利用可能な有効なマネージメント技術が身に付きます。どうして、このような機会が奪われなければならないのでしょうか。

▲ 間連産業の成長
労基法第20条の封印が解かれれば、今までほとんど機能しなかった教育産業が動き出すでしょう。いわゆる、専門学校や大学などの社会人を対象にした教育が盛んになってくるでしょう。もちろん、そのような産業は今でもありますし、それなりに事業としてやっています。ただし、労基法第20条が封印されている現状にあっては、受ける側も職を賭けて参加しているわけではなく、不足しているスキルを補う程度のものであったり、現状の職が確保されている状態で、ほんの少しステップアップを目指すようなものになってしまうのは避けられません。

また現状では、いくら勉強しても、そのことが必ずしも有利な転職に繋がらないのです。そこで仕事したいと思っている企業が、それ以上の人員の増加を望まなければ、彼は、そこで仕事に就く機会はないのですから。そのため、この種の教育が趣味の域を出ない可能性もあるのです。

また、この種のカリキュラムも、今は教育産業側が勝手に設定しているだけで、いわゆる該当する職の一般的な仕様を想定したものではないため、機関によってまちまちになってしまう、という問題があります。英会話学校の場合でも、今回の「セーフティネット」に関連して政府からの援助金が増額されたとたん、カリキュラムの内容は同じなのに、政府からの支援額の分だけ高くなるという、いい加減さを排除できないのです。

その分野で、どのようなスキルがなければ、その職に付けないということが明らかになると、教育産業もそれに合わせてカリキュラムを作ってくるので、利用者は比較しやすくなるでしょう。もちろん、そのような専門学校などのランキングのようなものも、インターネット上に公開されることも予想されますので、あこぎなことは出来にくくなるでしょう。

組織心理学など心理学の分野などは、専門学校では対応できないと思われるので、大学の方で、そのような科目を勉強する機会を提供することになるでしょう。「職」が定義され、それに対する「仕様」が見えるということは、このような教育産業にとって、提供すべき「商品」の開発がやりやすくなることを意味します。

さらに、企業の現実の需要に合わせたテーマを提供するところも出てくるでしょう。マネージメントの方法や、社員を評価する方法や自分をアピールする方法、あるいは文章の書き方や、スケジュールの立て方、といった、いわゆる「管理もの」「ノウハウもの」も提供されるでしょう。

このような労働者のスキルアップを支援する産業が、この封印が解かれることによって、発芽し始めることが予想されます。

▲ 採用方法を見直すこと
労基法第20条の封印が解かれる状況にあっては、これまでのような「一括採用」の形は、減らすべきですし、職種によっては実施すべきではありません。中途採用であれば、明確に職の仕様を提示し、それに適合する人を採用すべきですし、新卒採用であれば、最初に配属先の種類と受け入れ枠を提示しておいて、採用前に本人の意向を優先して、採用の可能性を検討すべきです。

もちろん、誰もが明確に職を意識して居るとは限りませんので、中には“お任せ”のタイプもあるでしょう。そのような彼らに対しては、一定期間の間にいくつかの職に接する機会を設け、その中で適職を見つけてもらうことになるでしょう。ただし、これには、猶予期間がついてきます。

一部の職種に於ては、今までのような採用形態が残されても構いませんが、特に、エンジニアと呼ばれるような職種については、採用時に、本人の意思を確認しておくべきでです。また、そのような場合、本人に同意なしに職の変更を求めることは出来ないようなルールも必要でしょう。このルールは、裏を返せば、今の職に適さないと判断されれば、それは解雇に繋がることは言うまでもありません。

このように、どのような条件で採用されたのかということが、この後の人事の考査の中で考慮されなければなりません。ある意味では、人数が多いときは、(今と比べれば)大変かもしれません。でも、決して今までのような閉塞感に行き詰まるような状況にはならないでしょうし、そしてこれこそが人事部門の仕事です。

▲ 便宜に死す
この問題を論じることは、我が国では「タブー」となっていたのかもしれません。それは、労働組合に対する真っ向からの挑戦と受け取れる可能性があるからです。しかしながら、ここで敢えてこの問題を取り上げたのは、いつまでもこの問題を避けていて良いのだろうか、本当に、この判例は労働者のためになっているのだろうか、という疑問からでした。

今年に入って、日経新聞が一度この問題を取り上げているのですが、それが広がりになることはありませんでした。高名な経済評論家諸氏も、日本経済の再生論をテレビの向こうで論じてはいるものの、一度このように疑問を持った者には、彼らの論は机上の空論に聞こえてなりません。

私にこの論を展開する勇気を与えたのは、労働組合の腐敗が表面化したことでした。労基法第20条を封印し、雇用に緊張感をなくした状況の中で、労働者のスキルアップに貢献しない労働組合は、腐敗の道を進むのは自明の理なのです。

皮肉なことに、自分たちが勝ち取った判決のために、結局は自分たちの行動を縛る結果となったのです。それは、この判決が、あくまでも「便法」に過ぎなかったからです。筋論を曲げてでも、労働者の立場が弱かった当時としては、このような判決を出さざるを得なかったのです。

私の立場で判決の内容を知る由もないのですが、出来れば、この判決が「便法」であって、速やかに欠如している状況を改善し、その上で再度、この法制を見直すべき、というような付帯文を付けておいて欲しかった。

『便宜に生きて、便宜に死す』
これは、私の好きな言葉です。同時に、私自身の戒めの言葉として大事にしているものです。「便宜」は、状況によっては必要です。決して、いつも悪いというわけではありません。でも、その便宜にいつまでも頼っていると、周囲の変化によって、逆に身動きが取れなくなってしまいます。私たちの身の回りに、こういったもの(制度など)は、掃いて捨てるほどあります。これらを速やかに整理しないと、嘗ての「経済大国」とう形容詞は、歴史の一幕になってしまいます。国の指導者は、それを唯々諾々と受け入れるつもりなのでしょうか。国民もそれを“仕方のないこと”として受け入れるつもりなのでしょうか。


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