オサマ・ビン・ラディンという現象

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投稿者 山本芳幸   :国際公務員(2年前) 日時 2001 年 9 月 19 日 02:58:14:

回答先: JMMほか 投稿者 DC 日時 2001 年 9 月 19 日 02:31:04:

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■ 『カブール・ノート』
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 ※パキスタン在住の山本芳幸氏の2年前のレポートも併記します。
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 ■ 山本芳幸   :国際公務員(UNHCR Kabul office, Officer-in-Charge)

「オサマ・ビン・ラディンという現象」

●戦争は土木工事でもあった

去年8月のアメリカのミサイル攻撃以前、僕は月一回アフガニスタンに行き、現地で
実施されているプロジェクトをモニターしていた。農村部に入って行くと、村人に熱
烈に歓迎される。アフガニスタンでは、客を厚くもてなすことが一つの規範になって
いる。人類学者の書物を見ると、アフガニスタンの多数派であるパシュトゥーン族の
行動規範(Code of conduct)として「Revenge(復讐)」と「Hospitality(歓待)」
が必ず出てくる。他にも色々あるようだが、それらは法典のような形で整理されてい
るわけではなく、いろいろな民話として代々伝えられているようだ。その中で「復讐」
と「歓待」が特に有名になったのは、よそ者がやってきて、この二つの規範によって、
痛い目に会ったり、いい思いをしたりしたからだろう。僕の個人的な「いい思い」と
いう体験から推察すれば、少なくとも「歓待」に関しては、パシュトゥーン族だけで
なく、アフガン人全体に共有されているように思う。しかし、「歓待」に喜んでばか
りはいられない。「歓待」はよそ者を村の伝統の奥深くまで侵入させず、玄関口で止
めて喜ばして返してしまうという効果も持っている。「歓待」は伝統社会の一つの防
御法でもあるのだ。

僕がモニターするのは、パキスタンから帰還した直後の難民が再定住するのを手助け
するプロジェクトである。それらは、だいたい山岳部の農村地域にある。というのも
アフガン人の約9割は農村部に住んでいるからだ。そういう農村部に至る道というも
のはほとんどないと言ってよい。干上がった川底をドライブする時もあれば、雪解け
水の流れる川をランドクルーザーで渡ろうとして、立ち往生することもある。標高差
1000mの峠もランドクルーザーで越えて行く。やっと現地に着いた頃には、もう
クタクタになっている。ちょっと休憩したいと思うが、その現地からまだ先があるの
だ。

農村部の構造というものを僕はまったく知らなかったのだが、一つの谷が一つの「村」
になっていて、いくつかの谷が集まってまた一つ上の階層の「村」になっている。ど
っちも「村」という言葉を使っているから非常にややこしい。そして、上の階層の
「村」がいくつか集まって、また一つ上の単位「マンテガ」というものを構成する。
これは英語では、便宜上、Zoneと訳しているが怪しいもんだ。次に、この「マンテガ」
がいくつか集まって「ディストリクト」になる。ここで始めて近代的な意味での行政
単位となるのだけど、肝心の住民はこの階層まで少なくとも日常的には帰属意識を持
っていないというのが僕の実感だ。彼らの帰属意識はせいぜい「マンテガ」どまりの
ような感じなのだ。最後にいくつかの「ディストリクト」が集まって「プロヴィンス
(県)」となる。(日本の「大字」とか「小字」というのは、これらのどれかに近い
のだろうか?)

ところで、僕が「現地」と言ったのは、二番目の階層の「村」のことだ。そこから、
最小単位の村、つまり谷を一つずつ見て回るわけだ。この移動がまた難行苦行なのだ。
何度行っても思うのだが、人間はなんでこんなところに住み始めたのだろう、と思う
ようなところにも代々人が住んでいる。山にはほとんど木がない。そのため洪水が繰
り返されて、田畑は流されている。大きな岩がごろごろしていて、ランドクルーザー
でも進みようがない。ロバも立ち往生してる。そんなところなのだ。そういうところ
へ難民達は帰って今から村を作りなおそうとしている。母国へ戻るというのは感動的
な事業なんだろうなと思う。他人の土地なら、とてもじゃないけど、手をつける気に
ならないのではないか。

ある日、僕はシェルター・プロジェクトの進捗状況をモニターする決意を固めていた。
難民は自分の村に帰ってもとりあえず住むところがない。こんな山奥の村でも、いや
こんな山奥だからこそ、かつて聖戦士の隠れ家となり、ソ連のヘリコプターに攻撃さ
れて、ほとんどすべての家屋が破壊されてしまったのだ。まず、母国に帰った難民は
自分の棲み家(シェルター)を作るのに忙しい。シェルターといっても、かなり立派
なもんだ。日本風に言えば2Kで、壁は石かレンガを積み上げて作られる。窓枠と玄
関のドア、及び屋根にだけ木材が使われる。木材及び設計図は国連(UNHCR)に支給
されるが、石やレンガは難民自身が調達しなければいけない。また、実際に建築作業
を行うのは帰国した難民自身だ。冬が来ると作業ができないので、かなり頑張って急
がないといけない。同時に農作業も始めないと来年の食糧に困るから、帰還難民は非
常に忙しい。当分の間は、シェルターを建築するという労働の対価として一軒当たり
350キロの小麦粉が国連(WFP)から支給される。こういう形式のプロジェクトを
「Food For Work」という。援助依存症を発生させないために、また何より彼らの
dignity を傷つけないために、まったくの無償給付というのは余程の緊急事態でない
限り、行わない。建築途中のシェルターを設計図と照らし合わせて指導をしたり、材
料の調達を手伝ったり、小麦粉の配分をしたり、細かい仕事が色々発生するのだけど、
こういうのは国連が地元NGOに依頼する。彼らが言わば現場監督となって、進捗状
況をモニターしているのだ。僕が受け取るのは彼らのリポートである。

一つの村に数百のシェルターの建築が進行中であった。もちろん全部見るのは不可能
なので、一番奥まったところにあるのを見ることにした。つまり、リポートと実際の
差が一番大きくなりやすいところを見ておこうと思ったのだ。ランドクルーザーを降
りて、ロバが捻挫するような道を1時間くらい歩いただろうか。「あそこに一軒あ
る」、と案内してくれるNGOの現場監督が指さす方向を見ると藪があり、その向こ
うに小高い丘があった。また登るのかとぞっとしたが、我々はその藪の中に突入した。
息を切らせて藪を抜け、ふと顔を上げて僕は「うわっ!」と思わず声を出しそうにな
った。目と歯だけが光っている巨大な埴輪のようなものが目の前で動いたのだ。それ
は、上半身裸で全身泥まみれになって家作りをしている帰還難民であった。顔まで泥
だらけなのでよく分からなかったが、どうやらニコニコと笑顔で迎えてくれているら
しい。彼は50歳くらいだろうか。一人で作業をしていた。妻と子供は農作業かなん
か別の仕事をしなければいけないので、人手が足りないがなんとか一人で完成させる
と言っていた。壁が半分ほど出来上がっていた。壁を作る石を加工するところから自
分でコツコツやっているので大変な作業だ。しかし、なんというか、故郷に帰って自
分の家を作るという嬉しさが彼の全身から滲み出ていた。今はどこで寝ているのかと
聞いたら、ビニールシートを木陰に敷き、そこに家族で寝ているということだった。
帰還していく難民に貸与するテントが国連には全然足りないのだ。予算がないのでど
うしようもない。

しばらく彼の苦労話、いやむしろ幸せ話を聞いた後、彼がいいものを見せてやろうと
言い出した。ニコニコしながら、こっちこっちと手振りで僕を誘導する。僕に同行し
ていたNGO一行は何か知っているらしく、やはりニコニコしている。彼の作りかけ
の家がある丘を降り、また藪の中に入っていった。しばらく藪を進むと林になってい
た。木陰が続き、直射日光が避けられ少し楽になる。その林に並行するように丘が続
いている。しばらく歩くと、その丘に大きな洞窟が並んでいるのが見えた。林に遮ら
れて、これらの洞窟は外から見えないようになっている。へええ、洞窟か、原始人で
も住んでいた遺跡かなと思ったが、彼らはここで「ムジャヒディン、ムジャヒディン」
と言い始めた。ソ連と戦った聖戦士のことだ。それは聖戦士の基地だったのだ。中に
入ると、ひんやりとしている。直立して入っても十分余裕があるくらい天井は高い。
横幅も5mくらいある。奥行きはどれくらいあるのか分からない。20mくらい進ん
できりがないので引き返した。非常に立派な、しっかりした構造のように見えた。武
器や弾薬が入っていたであろう木箱があちらこちらにまだ残っていた。こういうのが
アフガニスタンの農村部の方々にあり、聖戦士は武器や弾薬をここで補給して転戦し
ていたのだ。ここにあった武器・弾薬はタリバンが来た時に全部持っていったそうだ。

戦争というのは土木工事でもあるのだということをアフガニスタンに来て始めて知っ
た。工兵隊という言葉を小説なんかで見ても、まったくピンと来なかったが、それが
ようやく実感として分かるようになったのだ。このような基地やトンネル、そして聖
戦士が作った道路というのを僕はアフガニスタンのあちこちで教えてもらった。高い
峠を越える道は普通、グネグネとなんどもUターンを繰り返してゆっくりと登るよう
に作られているが、聖戦士の作った道路は恐ろしく急勾配で一気に頂上まで駆け上る
ような直線なのだ。遠くから見ると山肌をカッターですっと斜めに切った線のように
見える。最短距離だけを考えて作ったのだろうか。そんな道路を我々は今利用させて
もらっている。そういう聖戦士の土木工事を見るたびに僕の頭には一人の男の名前が
浮かんでいた。ソ連相手の聖戦が最盛期の頃、トンネル作りの天才と呼ばれていた男
がいたのだ。それが、オサマ・ビン・ラディンであった。


●オサマ・ビン・ラディンという男

世界最強のテロリストなどという仰々しいタイトルをつけてマスメディアが書き散ら
すオサマ・ビン・ラディンという男は元々建設会社の経営者であった。サウジアラビ
アの建設王である養父から3億ドルの資産を相続し、それを元手にさらに事業を拡大
し利益を増やしたと言われている。彼の一族は巨大な財閥でもあり、オサマがサウジ
アラビアから追放された今も一族は世界各国で事業を展開している。メディアの伝え
る彼の年齢は40代前半から後半までまちまちではっきりしない。FBIの指名手配書
は彼を1957年生まれとしているから、それによると42歳くらいということにな
る。

オサマが戦闘的なイスラムへと傾倒していくのは、彼がまだ10代の少年であった
1970年代であった。その頃、サウジアラビアでは原理主義運動が吹き荒れていた。
彼はイスラムの文献を貪欲に読み漁り、聖なる都市メッカの説教を毎週必ず聞いた。
彼の親戚の一人は、19歳のオサマが一族のある者の葬式で部屋いっぱいの大人を相
手に非常に雄弁に演説したのを覚えている。それは、イスラムの教義に非常に精通し
た、自信に満ちた演説であった。

オサマは、シリア人の母の一人息子として、サウジアラビアの商業都市であるジェッ
ダの保守的な家庭に生まれた。建設事業の有力者である父、モハメッド・ビン・ラデ
ィンは54人の子供を作ったが、その中でオサマは最も敬虔な息子としての評判を早
くから得ていた。兄弟の多くが欧米先進国に教育を受けに行ったにもかかわらず、オ
サマはサウジアラビアに留まって教育を続けるという選択をした。よりイスラム的な
環境を望んだからだ。彼はジェッダのキング・アブドゥル・アジズ大学で土木工学を
学んで卒業した。

20代前半に結婚したオサマは、巨大な富を有しているにもかかわらず、質素なアパ
ート暮らしをすることを選んだ。現在、彼はシリア人の妻一人、サウジアラビア人の
妻二人、そして約15人の子供と一緒にアフガニスタンのどこかで生活している。

これまでの生涯に渡って、オサマは質実剛健とも言える生活を続けている。スーダン
で生活をしていた時でも、彼は火傷しそうな暑さにもかかわらず、エアコンを使うこ
とを拒否していた。「イージー・ライフに慣れることは慎みたい」とオサマは言う。


●聖戦時のオサマ・ビン・ラディン

ソ連がアフガニスタンに侵攻した1979年、アメリカの大統領はジミー・カーター
であった。カーター政権下の唯一の硬派と言われていたブレジンスキー国家安全保障
顧問が、アフガニスタンのムジャヒディン(聖戦士)に対する隠れた支援を実施して
いた。CIAは、まず、エジプトとパキスタンを通じて聖戦士の支援を始めていた。そ
の経費は年間7500万ドルに達していた。

1981年1月、レーガン政権が誕生した。ウィリアム・ケーシーがCIA長官に就任
した。彼はカーターの軟弱外交に不満を持っていた男だが、アフガニスタンの聖戦士
を支援しているという点は気に入った。そして彼がCIA長官をやっている間にアメリ
カからアフガニスタンへ流れる資金は倍増したと言われている。彼はまた、聖戦士の
セールスマンであるかのように、西ヨーロッパ、エジプト、サウジアラビア、パキス
タン、中国などに飛びまわり、アフガン聖戦士への支援を呼びかけ、アフガニスタン
がソ連のベトナムと化していくことに熱狂したのだった。

パキスタンへは莫大な資金と膨大な数の武器・弾薬が流れ込んだ。これらを使って、
ソ連を撃破する戦略を立案し、兵站ラインを整備し、最前線の聖戦士に武器・弾薬を
配分するなど、実質的な司令塔になったのがパキスタンの情報機関、ISIであった。
パキスタン国内には聖戦士用の訓練キャンプがいくつも作られた。新しい武器の使用
法をアメリカ人の教官がパキスタン人の軍人に教え、それらのパキスタン人がアフガ
ン人聖戦士の訓練キャンプの教官となった。

ソ連に対する聖戦時、アラブ諸国やその他のイスラム諸国から数千人の義勇兵がパキ
スタンにやってきた。その中には熱狂的な反共産主義者、いわゆる右翼の日本人も数
人含まれていた。オサマがアフガニスタンに到着したのは早くも1979年という説
もあるし、1982年という説もあるがはっきりしない。いずれにしろ、彼の回りに
はその後、4000〜5000人のエジプト人、イエメン人、スーダン人、サウジア
ラビア人などアラブ人の崇拝者が集まり、強力な戦闘集団が出来上がったと言われて
いる。

オサマには他の多くの義勇兵と違っているところが一つあった。それは彼が自前の資
金をもってやってきたということである。当初、オサマは彼の一族の企業を使ってア
フガニスタンに聖戦士のために新道建設を申し出た。ソ連のヘリコプターに攻撃され
るのを恐がって誰もブルドーザーに乗って作業をしようとしない時、オサマは自分で
ブルドーザーに乗りこみ作業をした。山腹を水平に掘ってトンネルを作り、武器庫を
確保し、道路を作り兵站ラインを整備していった。そうやって作られた道や武器庫が
今も残っているのだ。

オサマは聖戦で少なくとも2回負傷した。1987年にオサマが関わった戦闘に関す
るエピソードが残っている。パクティア県南部で、敵のソ連軍に兵士の数でも武器の
質でも圧倒され、彼と彼の部下は絶対勝ち目のない状況に追いこまれた。しかし、オ
サマは恐れ知らずにも逃げることを選ばず、この闘いに勝利した。今でもテレビのイ
ンタビューや写真で見ることができるが、彼は常に自分の横にAK−47カラシニコ
フを立て掛けている。これは、この戦闘でたおれたソ連の大将から奪ったものだ。こ
の戦闘の後、オサマはますます恐れ知らずになったという。彼は死ぬまで闘い、名誉
を持って死ぬことを望んでいるのだと言う。

聖戦の後半、パキスタンの情報機関、ISIのヘッドであったハミド・グル少将は、オ
サマのことを「人に強い印象を残す人物で、容貌がよく、背が高く、やせていて、黒
い大きな瞳が輝いていた。とてもソフトな話し方であった」と語っている。聖戦時す
でに、オサマは軍事的な役割を越えたカリスマ的な地位を獲得していた。聖戦が終わ
って6年後の1995年、スーダンにいたオサマをハミド・グル少将は再び訪ねてい
る。彼はオサマの賛美者であり続けたのだ。「彼は抵抗のシンボルであり、イスラム
教徒全体のヒーローである」と彼は言う。

オサマはサソリとネズミのはびこるような湿気た洞窟にあっても、規律正しい生活を
維持していた。夜明け前に祈りのために必ず起き、デーツ(乾燥ナツメヤシ)とパン
だけの質素な朝食を食べ、毎日、マーシャル・アーツの訓練を欠かさなかった。それ
でも、昼も夜も贅沢を避け、油の少ない質素な食事で済ませていた。

約10年に渡り、オサマはソ連を相手にアフガニスタンでアラブの義勇軍の指導者と
して聖戦を戦った。サウジアラビアに帰った彼は賞賛と寄付金のシャワーを浴び、あ
ちらこちらのモスクで演説をしてほしいという招待を受けた。彼の演説のカセットテ
ープは発売されると同時に売りきれた。25万本以上のカセットテープが売れたと言
われる。このテープは現在、発禁処分になっているが、これに含まれた演説で彼は、
アメリカ外交を痛烈に批判し、アメリカ商品のボイコットを呼びかけている。

「我々がアメリカの商品を買うことによって、我々はパレスチナ人を殺す共犯者とな
っているのだ。アメリカの企業はアラブ世界で莫大な利益を上げ、そこからアメリカ
政府に税金を払っている。その金を使って、アメリカ政府は年間30億ドルもの大金
をイスラエルに送り、イスラエルはその金を使ってパレスチナ人を殺しているのだ!」


●湾岸戦争とオサマ・ビン・ラディン

オサマ・ビン・ラディンがサウジアラビアの国籍を剥奪されるきっかけになったのは
湾岸戦争であった。イラクがクウェートに侵攻した際、彼は異教徒であるアメリカの
軍がサウジアラビアというイスラムの聖地に乗りだしてくることを阻止しようとした。
イラクの問題をイスラム諸国間で解決するべきだと彼は考えていた。サウジアラビア
の防衛長官、サルタン王子にオサマは10ページのリポートを持って行き、自説を展
開した。オサマはサルタン王子の前に地図を広げ、アメリカ軍の援助なしにイラクを
撤退させるあらゆる計画を説明した。オサマとその仲間が自国を守るために、サウジ
アラビア人をどのように訓練するか、オサマ一族の建設会社の装備を使ってイラクと
の国境を防衛する塹壕をどのように作るか、侵入者を捕らえる罠をどのように作るか
などを説明した。サルタン王子は、イラクの戦車、航空機、生物化学兵器にどうやっ
て対処するつもりかと尋ねた。オサマは答えた。「我々は信仰によって彼らを破る」
と。

結局、同盟軍とはいうものの、圧倒的なアメリカ軍の指導の下に湾岸戦争は行われた。
異教徒、アメリカの軍がイスラムの聖地に駐留し続けるということは、オサマにとっ
て許しがたいことであり、また、異教徒によって、イラクの一般市民が殺されること
にも彼は非常に怒りを覚えた。それを許容するサウジアラビアの王室はオサマにとっ
て腐敗した為政者であった。

湾岸戦争後、オサマは王室批判を理由に、サウジアラビアの国籍を剥奪され、ビン・
ラディン一族からも勘当された。その後、彼はスーダンに渡った。しかし、アメリカ
とサウジアラビアはスーダン政府に懲罰の脅しをかけ、結局オサマは1996年スー
ダンからも追放され、アフガニスタンに戻ることになったのだ。

その後、アメリカを標的とするテロが発生する度に、オサマ・ビン・ラディンの名前
がメディアに登場することになった。1993年、ソマリアにアメリカから30万人
の大軍が送りこまれた時も、ソマリアを援護するための義勇兵がパキスタンから
5000人、インドから5000人、バングラデシュから5000人、エジプト、セ
ネガル、サウジアラビアなどから5000人やってきた。アメリカ兵は惨憺たる戦闘
に陥り、撤退することになったが、この背後にもオサマがいたと言われる。その他に
も、エジプト大統領とローマ法皇の暗殺計画、アメリカのボーイング747、6機の
太平洋上での爆破計画、1995年、パキスタンのエジプト大使館の爆破、1995
年、リヤドのサウジ国民兵訓練センター爆破、1996年、ダーラン近くの軍事兵舎
爆破(アメリカ人19人死亡)、また、1993年、ニューヨークの世界貿易センタ
ー爆破(盲目のラムジー・ヨウセフは逮捕済み)、1997年11月、エジプト・ル
クソールでの旅行者虐殺、等など、すべて背後にオサマ・ビン・ラディンがいるとい
う話が出てくる。これらに関して、オサマは自分が指揮したとも関与したとも言わな
いが、これらを実行した者を常に賞賛している。

皮肉なことに、これらのテロに関連して逮捕される者がほとんどの場合、「アラブ・
アフガン」とか「アフガン・ベテラン」とか呼ばれる、アフガニスタンでのソ連との
戦闘の経験者である。彼らは当時、CIAの供与する武器、資金、訓練によって、戦闘
のスペシャリストとなった者たちなのだ。


●次世代のオサマ

パキスタンで今、最も人気のある名前の調査結果が最近、新聞に出ていた。一番人気
は「オサマ」だった。アフガニスタンとの国境近くのある村では、去年8月のアメリ
カのミサイル攻撃以来、500人以上の「オサマ」という名前の赤ちゃんが生まれた
そうだ。同じ記事によると、「オサマ」人気は赤ちゃんの名前にとどまらないらしい。
ビジネス、あるいは公的機関にも「オサマ」という名前が急増しているということだ。
「オサマ養鶏場」、「オサマ・ベーカリー」、「オサマ薬局」、「オサマ服飾店」、
「オサマ時計店」、「オサマ公立学校」などの例が出ていた。

なぜ息子を「オサマ」と名付けたのかと聞かれた人が次のように答えていた。

「アメリカに挑戦し、アメリカを無視し、虐げられたイスラム教徒の代弁をしてくれ
るオサマ・ビン・ラディンの勇気にみんな感銘してるんだ。自分の息子もオサマ・ビ
ン・ラディンの志を継いで、イスラムの大義を支えて欲しいと思う。」



http://www.ryumurakami.com/jmmarchive/t007001.html



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