アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 世界の無知のあまり崩れ落ちたのだ!!

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投稿者 考える葦へ(キャッシュから復刻版) 日時 2001 年 10 月 18 日 08:07:26:

回答先: Re: アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 世界の無知のあまり崩れ落ちたのだ!! 投稿者 考える葦へ 日時 2001 年 10 月 18 日 07:40:31:

★ The Buddha Was Not Demolished in Afghanistan; It Collapsed Out of Shame

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない世界の無知のあまり崩れ落ちたのだ!!

モフセン・マフマルバフ


この文章をよく読むには一時間ほどかかるだろう。その一時間のあいだにアフガニス
タンでは14人もの人々が戦争や飢餓で死に、60人もの人々がアフガニスタンから他の
国へ難民となって出ていく。このレポートは、その死と難民の理由について述べよう
とするものである。

あなたの心地よい生活にこの苦い題材が無関係であると思うならどうぞ読まずにいて
ください。


世界の視点から見たアフガニスタン


 昨年、韓国で開かれた釜山映画祭に出席した際、次の映画の題材について尋ねられ
ると、私は「アフガニスタンである」と答えていた。するとすぐに、「アフガニスタ
ンとは何ですか?」と聞かれるのだった。


 なぜそうなのだろう。韓国のようなアジアの国の人々でさえ聞いたことがないほど
に、アフガニスタンが忘れられているのはなぜなのか。その理由は明らかだ。アフガ
ニスタンは今日の世界に対して役割を担っていないからだ。優秀な製品や科学的進歩
で名が知られているわけでもないし、芸術面で名誉を得た国でもない。

 しかし、アメリカやヨーロッパや中東地域では状況は異なっており、アフガニスタ
ンは独特な国として認知されている。しかし、このことはポジティブな意味をもって
いるわけではない。アフガニスタンの名を知っている人はすぐに、密入国やタリバン、
イスラム原理主義、ロシアとの戦争、長期にわたる内戦、飢餓、そして高い死亡率と
結び付ける。

 この主観的な描写には、平和の片鱗も、安定も、進歩も見つけられない。だから、
訪れたいという旅行者も、投資したいという実業家も現われない。それは忘れ去られ
るはずだったのではないのだろうか。アフガニスタンはむやみに麻薬を製造し、好戦
的で、女性をブルカ(*頭からベールのようにすっぽりと包む衣服)で覆い隠すよう
な原理主義の人々であると、辞書に書かれてしまいそうなところまで、アフガニスタ
ンに対する中傷は達している。

 バーミヤンの世界最大の仏像の破壊は、世界中の同情を集め、仏像を守ろうとする
芸術文化の全ての支持者を引きつけた。しかしなぜ、国連高等弁務官の緒方氏を除い
て、このひどい飢饉によって死んだ100万人のアフガン人に対しては、誰も悲しみを表
明しないのか。なぜ誰もこの高い死亡率の原因について発言しないのか。腹を空かせ
たアフガン人の死を防ぐ手だてについては話されないのに、なぜ皆仏像の破壊につい
てそんなに声高に叫ぶのか。現代の世界では、人間よりも像のほうが大事にされると
いうのか。

 私はアフガニスタンを旅したことがあり、その時、この国の生活の実際を目の当た
りにした。13年の間をおいて、私は2本の長編を作った(『サイクリスト』-1988年/『カ
ンダハール』-2001年)。そして映画製作のために、1万ページにも及ぶ様々な本や文
書を読み、データを収集した。その結果、世界の他の人々がもつアフガニスタンのイ
メージとは、違うイメージを知ることとなった。それは、より複雑で、より悲惨な姿
だった。しかし同時に、より前向きでたくましく、より平和なアフガンの人々の姿も
浮かび上がってきた。それは忘却や隠蔽以上に、もっと注目されなければならないも
のだ。しかし、国連の正面入り口に掲げられているSa'diの詩にある「全人類は一つで
ある」をどこに見い出せばよいのだろうか。

イランの人々の心の中にあるアフガニスタン

 イランの人々のアフガニスタンについての印象は、アメリカ人やヨーロッパ人、中
東の人々と同じイメージに基づいている。ただ一つの違いは、その距離が近いことで
ある。イランの労働者、南テヘランの人々、労働者階級の住民らはアフガン人を好意
的に見ることはなく、就労の競争相手ととらえている。労働省に圧力をかけて、彼ら
はアフガン人が母国に帰るよう要求している。しかし、中産階級のイラン人は、アフ
ガン人は信頼できる労働者だと確信している。建築の請負人は、アフガン人はイラン
人労働者よりあてになり、より低い賃金で雇えると考えている。

 一方、麻薬対策の当局は、アフガン人を麻薬密輸の重要な要因だと認知しており、
密輸人を壊滅させ、すべてのアフガン人を国外追放することで、麻薬問題の一切の解
決が図れると指摘している。医師たちはアフガン人を、それまでイランになかったア
フガン風邪といった流行病の何らかの原因とみている。彼らは移民を食い止められる
とは考えていないので、アフガニスタンにいる時点から人々を免疫しておくことを提
案し、アフガニスタンの人々のために、ポリオの予防注射の経費も負担している。

アフガニスタンについての世界の見解

 国の名称がニュースのヘッドラインに出てきたら、必ずチェックすべきである。メ
ディアを通じて世界に描かれるその国のイメージは、事実と、世界の人々はこうある
べきだとされる想像的な概念との複合である。ある国々がある場所を争っていると想
像されたら、土地の分配がニュースで流される必要があるのだ。不幸なことだが、今
日のアフガニスタンには、ケシの実のほかはほとんど何も関心を呼び起こさないと私
は考えている。だからアフガニスタンは、世界のニュースにはほとんど登場しておら
ず、近い将来もありそうにない。

 アフガニスタンが、クウェートのように石油を持っていてその収入があれば、アメ
リカは3日間でイラクから取り返していただろう。そして、アメリカ軍の軍費は石油の
収入でまかなえただろう。ソ連が存在していた時、アフガン人は東側への抵抗と共産
主義による弾圧の証人として、西側メディアの注目を浴びた。しかし、ソ連の解体以
降はなぜ、人権を擁護するアメリカが、教育の機会や社会活動の場を奪われている10
00万人もの女性に対し、何の行動も起こさないのか。なぜ、ひどい貧困や飢餓に苦し
む多くの人々の命を大切にしないのか。

 それは、アフガニスタンが長きに渡って、何も提供していないからである。アフガ
ニスタンは千人の恋人たちに胸を高鳴らすかわいらしい女性ではない。不幸なことに、
彼女は老婆のようなのだ。彼女に近づこうとする者は誰でも、ひどい散財を伴う重荷
を背負わされることになり、現代は、 Sa'diが詩に書いた「全人類は一つである」の
時代とはまったく違う時代であると知る。

統計によるアフガニスタンの悲劇

 アフガニスタンでは、過去20年間、正確な統計がとられていない。だからすべての
データと数は相対的、概算的なものである。そのまとめによると、1992年、アフガニ
スタンには2000万人の人口があった。過去20年のうち、ロシア占領時代には約250万人
のアフガン人が殺されたり死んだりした。この大量死の原因は軍隊の攻撃、飢餓、医
療の不足にあった。毎年12万5千人が、毎日340人が、1時間に14人が、5分にひとりが、
この悲劇のために殺されたり死んだりしているのである。これは、数ヵ月前にロシア
の潜水艦の乗組員が不幸にも死に直面し、その映像を刻一刻衛星ニュースで流してい
るのと同じ世界の出来事である。仏像の破壊が延々とレポートされている世界の出来
事である。だが誰も5分ごとに起こる死の悲劇については話そうとしない。

 アフガニスタンの難民の数はもっと悲劇的である。より正確な統計によると、イラ
ンやパキスタンなど、アフガニスタン国外に住む難民の数は630万人にものぼるとされ
ている。これは、過去20年の間、毎分一人が難民になっている計算である。内戦を避
けて国内を北から南へ、逆に南から北へと逃げている国内避難民はこの数には含まれ
ていない。

 私は、人口が死によって10%も減少したり、難民のせいで30%も減ったりする国を
聞いたことはないし、世界がこれほど無関心なことにも直面したことがない。アフガ
ニスタンで殺されたり難民となったりする数と、パレスチナの全人口は等しいが、我々
イラン人のアフガニスタンに対する同情は、パレスチナやボスニアに対するそれの10
%にも満たない(我々イラン人はアフガニスタンと同じ共通語と国境を持っていると
いうのに)。

 アフガニスタンに入国するためにDogharoonの国境を通った時、来訪者に警告する、
見たことのない標識を見つけた。これらは地雷です。標識には、「アフガニスタンで
は24時間に7人もが地雷を踏んで死んでいる。今日、または明日の被害者にならぬよう
注意しなさい」とある。また、赤十字のとあるキャンプでもっと深刻なものを見た。
カナダ人のグループが地雷の除去にやってきたのだが、あまりに甚大な悲劇を目の当
たりにして、希望を失い、帰ってしまったという。これらを考慮すると、今後50年間、
アフガニスタンの人々は、自分たちの土地を安全に平和にするために、集団で地雷を
踏まなければならないことになる。各派が地図も撤収のための計画もなしに、地雷を
ばらまいたからである。地雷は戦争中の軍用ファッションとして仕掛けられたのでは
ないし、平穏に撤収されることもない。アフガニスタンは自分自身に対して地雷を埋
めてしまったのだ。そして雨がひどく降ると、地表の水で地雷は位置を変え、安全な
道路を危険な小道に変えてしまう。

 これらの統計は、難民を続出するアフガニスタンでの危険な生活環境をさらに拡大
していることを明らかにする。アフガン人は自分たちの置かれている状況が危険だと
わかっている。そして常に飢餓と死を恐れて暮らしている。移民となった人の30%は
将来に希望を持っていない。残りの70%のうち、10%は殺されたり死んだりし、残り
の60%は国境を越えられず、越えたとしても隣国から送り返された。

 この危険な状況はまた、諸外国がアフガニスタンに入国する妨げにもなっている。
麻薬のディーラーや西側の国々に直接飛びたい政治の専門家でない限り、実業家はア
フガニスタンで投資して、わざわざ危険を冒そうとは思わない。このことは、アフガ
ニスタンが直面している危機を解決するのを難しくしている。現在のところ、国連の
制裁と安全監視によって、公式3国と、非公式2国以外は、アフガニスタン国内には政
治の専門家がいない。遠方から政治的な支援が申し出されるだけである。こうした状
況が、この国にある危機の曖昧さと、桁はずれの悲劇的見通しや世界の無知を倍増さ
せている。

 私は、ヘラートの町なかで、2万人の男や女や子どもが飢えて死んでいくのを目の当
たりにした。彼らは歩くこともできず、運命の時を待ちながら地面に放り出されてい
た。これは最近の飢饉の結果である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本人
の緒方貞子氏がその土地を訪れ、世界は彼らを救うと約束した。3カ月後、イランのラ
ジオで緒方氏が、飢餓で死に直面しているアフガン人の数は100万人にのぼると言うの
を聞いた。

 私は、あの仏像は誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は恥のために
倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知の恥からだ。仏像の偉大さなど何の
足しにもならないと知って倒れたのだ。

 タジキスタンのドゥシャンベで、私は10万人のアフガン人が南から北へ徒歩で逃げ
る光景を目にした。それは最後の審判の日のように見えた。これらの光景は世界のど
のメディアにも流されない。戦争で傷つき、腹を空かせた子どもたちが何マイルも何
マイルも裸足で走り続けるのだ。そして逃げる群衆は国内の敵に攻撃され、タジキス
タンの収容所に入れられる。彼等はアフガニスタンとタジキスタンの間にある無人の
土地で死に、誰にも見つけられないのだ。有名なタジクの詩人、Mrs. Golrokhsarの詩
を引用してみよう。“アフガニスタンが持つ多くの悲しみのために世界の誰かが死ん
でもおかしくはない。この悲嘆のために一人も死なないとは何と不思議なことだろう。

アフガニスタン、映像のない国

 アフガニスタンには様々な理由で映像がない。アフガン人の女性には顔がない。こ
れは、2000万人の人口のうち、1000万人の顔は見られないということだ。同性であっ
ても、人口の半分の顔を見られない国には映像がない。過去数年間、テレビ放送もな
かった。Shariat、Heevad、Aniseeという、写真を全く使わない文章だけの2ページほ
どのいくつかの新聞があるだけだった。これがアフガニスタンのメディアの全てであ
る。また、絵や写真は宗教上の理由で禁止されている。加えて、アフガニスタンに入
国するジャーナリストは、写真を一人で撮ることが許されていない。

 この21世紀に、アフガニスタンには映画をつくる人もいなければ映画館もないのだ。
以前はインド映画を上映する14の映画館があり、インド映画の模造作品をつくる映画
スタジオがあったが、それらはなくなった。毎年2〜3千の作品がつくられる映画の
世界で、アフガニスタンからは何もやってくる見込みはない。ハリウッドでは、アフ
ガニスタンを舞台とする『ランボー3 怒りのアフガン』というタイトルの映画がつく
られてはいるのだが。

 『ランボー』はすべてハリウッドで撮影され、1人のアフガン人も登場しない。唯一
の本物らしい場面はパキスタンのペシャワールでのランボーの登場のシーンで、それ
はバック・プロジェクションの技術のおかげであった。アフガニスタンはただの象徴
にすぎず、単にアクションシーンとエキサイティングな場面作りのためだけに使われ
たにすぎない。これが、全国民の10%が殺され、30%が難民となり、100万人が餓死す
る国に対するハリウッドのイメージなのか。

 ロシアは、アフガニスタン占領の間、ロシア兵士の思い出に関する2つの映画を作っ
た。ムジャヘディン(イスラム戦士)はロシアの撤退後、何本かの映画を作ったが、
それはアフガニスタンの過去・現在の実際の姿ではなく、プロパガンダ的戦争映画で
ある。それらは、砂漠で何人かのアフガン人が戦うヒーロー映画だった。

 イランでは、アフガン移民の状況について『金曜日』、『雨』という映画が2本作ら
れている。私は2本の映画『サイクリスト』と『カンダハール』を作った。以上が、イ
ランと世界のメディアの中の、アフガン人の全ての映像カタログである。世界中のテ
レビ番組でさえ、アフガンのドキュメンタリーの数は限られている。おそらくこれは、
内外的な策略か、アフガニスタンを映像のない国として扱ってきた世界的な無知のせ
いだろう。

映像のない国の歴史的背景

 アフガニスタンは、イランと分割された時に誕生した。アフガニスタンは250年前は
イランの一地方であり、ナーデル・シャーの時代にはGreater ホラーサン州の一部で
あった。インドから帰還したある夜、ナーデル・シャーはGhoochanで殺された。ナー
デル・シャー軍のアフガン人指揮官アハマド・アブダリは4000人の連隊の兵士たちと
ともに逃げ、イラン領域の一部分の独立宣言によって、アフガニスタンは建国された。

 

 当時、アフガニスタンは農民で成り立っており、各部族に統治されていた。アハマ
ド・アブダリはパシュトゥン族に属したので、タジク、ハザラ、ウズベク族といった
他の部族の専制権力を認めなかった。国を治めるためには、それぞれの部族がそれぞ
れの指導者に統治され、統治者はロヤ・ジルガ(部族長大会議)として知られる部族
的連邦制度を形成することが合意された。それ以来今日に至るまで、アフガニスタン
には適正な政治形態が生まれていない。ロヤ・ジルガシステムが明らかにしているこ
とは、アフガニスタンが農業依存から経済的に発展していないというだけでなく、部
族統治を超えられず、国家としての意識を生み出していないという事実である。ある
アフガン人は、自分の母国を離れるまで自分をアフガン人と知らず、同情されたり侮
辱されたりした。アフガニスタンでは、アフガン人はそれぞれ、パシュトゥン族であ
り、ハザラ族でありウズベク族であり、タジク族なのだ。

 イランと比較するとアフガニスタンは、250年前は同じ歴史をもっていたのに明らか
な相違点がある。イランでは、クルジスタンを除いて、私たちがイランにおける最初
のイラン人であり、国家意識は我々共有の感覚、知覚の一番の立脚点である。対照的
にアフガニスタンでは、すべて第一に部族の構成員であり、強い同族的忠誠心がアイ
デンティティの立脚点である。これがイラン人とアフガン人の精神の最も顕著な違い
である。イランでは大統領選挙においてでさえ、候補者の部族性は重要性をもたず、
特に得票にはつながらない。アフガニスタンでは、アハマド・アブダリの時代から、
タリバンが国の95%を支配するようになった今日まで、中心指導者は常にパシュトゥ
ン族であった。(Bache Saghaとして知られるHabiballah Galehkani統治の9か月間と、
タジク族のブルハヌディン・ラバニ(*現北部同盟代表者)の2年間を除いて、タジク
族は権力をもつことはなかった。)しかしながらアフガニスタンの人々は、アブダリ
の時代から今まで、部族連邦制度に満足していた。イランの状況と比較して、このこ
とは何を示すのか。

 レザ・シャーの時代、部族主義が国家意識に弱められ、取って変わられたイランと
は異なり、アフガニスタンではそのようなことは起こらなかった。アフガン戦争での
イスラム戦士でさえ、統一戦線を組んで戦わなかった。むしろ各々の部族が自身の地
域で外敵と戦ったのだ。『カンダハール』を撮影している間、私はイランとアフガニ
スタン国境の難民キャンプにいたのだが、困難な状況のキャンプで生活するアフガン
難民でさえ、自分たちをナショナル・アイデンティティをもったアフガン人だとは認
めなかった。彼等はいまだタジク族、ハザラ族、パシュトゥン族であることで衝突し
ている。

 異部族間の商売が行われたとしても、アフガン人は、異部族間の結婚はいまだに行
わない。ほんの小さな争いから、大流血の危機が浮上することもある。私はある時、
パンを得ようと前の列に割り込んだために、あるグループの一人が、他のグループか
らその復讐のために殺されるのを目撃した。

 イランとアフガニスタンの国境にある、5000人の居住者を収容するNiatakの難民キ
ャンプで、パシュトゥンとハザラ族の子どもたちは一緒には遊ばない。これは時に、
相互の衝突をもたらす。タジク族とハザラ族は、パシュトゥンを世界最大の敵と考え
ている。彼らは礼拝のためであっても、他部族のモスクに入ろうとはしない。我々は
彼等に映画を観せようとしたが、異部族の子どもたちを隣同士に座らせることに苦労
した。結局は、まずハザラ族、次にパシュトゥン族の子どもというように、順番に映
画を観るという妥協案が彼等自身から提案された。

 キャンプでは流行病が多く、医者が足りないにもかかわらず、医者が街から来た時
にも、重病患者を優先させるようなことはない。部族の順番だけが守られるのだ。あ
る1日をハザラ族の日と定めたら、翌日はパシュトゥン族というように。加えて、パシ
ュトゥンの階級区分も誰もが同じ日に病院に来ることの妨げとなっている。

 エキストラが必要となる銃撃のシーンで、我々はハザラ族かパシュトゥン族かどち
らをエキストラに使うかを選ばなければならなかった。彼らはみんな難民で同じ困窮
を味わっているというのに。何を決める時にも部族の配置がもっとも大事になってく
る。もっとも、大多数の人々は映画のことをよく知らず、私の祖母同様、映画館に足
を踏み入れたことがないのを神に感謝しているのだが。

 アフガニスタンの永続的な部族主義の原因は牧畜農業経済にある。それぞれのアフ
ガン部族は、地層の壁と一緒に谷間に閉じ込められていて、山の多い環境や牧畜農業
経済の文化的な捕虜なのである。文化的な部族主義は、アフガニスタンの深い谷の中
で根をはる生産物である。部族内の信頼は彼らが住んでいる谷と同じくらい深い。ア
フガニスタンの地形は75%が山間部で、そのうち7%だけが牧畜農業に適している。工
業には全く向いていない。

 アフガニスタンは完全に牧畜農業に依存している。草原だけが経済持続の要素なの
である。つまり、牧畜農業が、深く対立する部族主義の根幹なのだ。これは、アフガ
ニスタンが近代的な国になることを阻むだけでなく、この国が国家的アイデンティテ
ィを持つことをも妨げている。アフガニスタンやアフガン人といわれる中に、固有の、
民間に普及している共通概念はない。アフガン人はまだアフガニスタンの人々と呼ば
れるような、より大きい集団的アイデンティティを持つほど準備が整っていない。宗
教戦争の誤称に反して、紛争の起源は部族の対立にある。今日タリバンと戦うタジク
族はタリバンと同様、ムスリムでありスンニー派なのだ。

 

 アハマド・アブダリは、部族連邦制度の概念をつくった人物として現在でも評価さ
れている。彼は、部族主義や経済基盤が整っていないアフガニスタンで、一つの部族
が他部族を統治したり、独立国家全体を統治しようと空想している者よりも賢かった。

 約600万人の人口があるパシュトゥン族は、アフガニスタンの最大部族を形成してい
る。次はタジク族の400万人で、続いて3、4番目にそれぞれ400万人、100万から200万
人はいるだろうとされるハザラ族とウズベク族がいる。残りはImagh、Fars、Balouch、
そしてトルクメン、Qezelbashなどの小部族である。パシュトゥンのほとんどは南部に、
タジク族は北部、ハザラ族は中央地域にいる。このような部族ごとの地理上の集中が
もたらすのは、完全で決定的な分裂か、ロヤ・ジルガシステムによる部族長を通じた
関係かである。

 我々イラン人が部族問題にとらわれず、大統領を選出できるのは、それは20世紀の
石油産業が経済変換をもたらしたためである。問題は、イラン経済の中での石油の質
や量ではない。ポイントは、基本的に農業中心だったイランのような国の経済に石油
が入ってきた時に、それが経済の基盤を変えることになったということだ。それによ
って原料を輸出し、その代わりに工業国の生産物を享受する国になるのだ。

 この経済の変容はそれまでの社会経済の基盤を変えることとなった。石油を輸出し、
工業国の生産品を消費することで伝統文化が崩壊し、その代わりに、より近代的な文
化を形成することとなった。もし象徴的な媒介物であるお金を省くなら、イラン人は
生産品の代償として直接石油で払っていただろう。しかしアフガニスタンには、世界
のマーケットに支払うものが、麻薬しかなかったために孤立してしまったのだ。もし
も250年前にアフガニスタンがイランから分割させられなかったら、石油の収入にあず
かるという、別の運命が待っていただろう。

 あとで詳しく述べるが、アヘンの総量は、イランの石油に比べると、まったく取る
に足らないほどのものである。2000年、石油の値段の変動で、イランにたなぼた式に
入ってきた利益は100億ドルにもなる。だが、アフガニスタンのアヘンでの利益は5億
ドルくらいのものだ。イランは他国の生産物を消費することで世界経済に役割を果た
し、我々には選択肢があり、いくらか近代的になってきたことを理解している。しか
し、アフガニスタンの農民にとっては、自分の畑が世界の全てであり、その仕事は牧
畜農業である。つまり、彼は世界経済の中で役割を担えないのである。彼が世界経済
の一端を担えるように、経済的・文化的に変化するためには、どんな土壌が必要なの
だろう。

 加えて、世界の麻薬の取引高のうち800億ドルは、アフガニスタンが現在の状況から
変化しないことにかかっている。もしアフガニスタンが変化すれば、この800億ドルが
最初におびやかされるのだ。アフガニスタンを変えかねない重要な利益に、アフガニ
スタンは気づかされないでいる。イランとアフガニスタンは250年前まで同じ歴史をも
っていたが、特に20世紀の石油のために、イランの歴史は、アフガニスタンがどんな
に長い間かかっても追いつかないほどに変わってしまった。

 アヘンはアフガニスタンが世界に提供している唯一の生産物である、だがその原料
と、汚れた国家利益を合わせても、石油とは比べものにならない。もしアヘンの売り
上げの5億ドルと、アフガニスタン北部の天然ガスの売り上げ3億ドルを足した8億ドル
を2000万人の人口で分けると、1年間の収入は1人当たり40ドルにしかならない。それ
を1年365日で分けたら、1日10セントの収入となるが、それではひとかけらのパンにし
かならない。しかも、国の収入は政府やマフィアに属しているので、均等に分けられ
るわけではない。つまり、この収入では、人々の需要にも応えられず、国の経済、社
会、政治、そして文化の土台に大きな変革をもたらすには、あまりにも少なすぎると
いうことだ。

 

なぜアフガニスタンの人口の30%もが移住の道を選ぶのか

 遊牧民は慣習的に、自分たちの生活の問題を解決するために、場所から場所へ移動
しながら生活する。都市に住む人や農業に従事する人は、そうそう移動をしない。ア
フガン遊牧民の移動の主な理由は、耕作の季節に基づいている。彼等はつねに乾燥し
た土地や寒い季節を避け、緑の多い土地や暖かい地域に移動している。移動は、遊牧
民にとって自然な行動様式なのである。2番目の理由は定職の不足である。アフガン人
は職をなくして飢えて死にたくないから移住する。アフガン人は他国での労働賃金に
頼って生活している。

 毎朝、アフガン人は4つの考え事を背負って目覚める。1つめは家畜のことで、これ
は干ばつ次第である。属する部族や集団のための戦いが2つめの考えだ。一般的に彼等
は職を得るために軍隊に入る。3つめは家族を養う生活費を稼ぐための移住だが、もし
全てに失敗したら、最後には麻薬ビジネスに入っていくことを考えるしかない。しか
し、最後の選択肢は制限されている。ケシの実を育てて得られる5億ドルでは、2千万
人の労働者を受け入れられない。すなわち、アフガン人=アヘン密輸人と特徴づける
ことは正確でなく、ほんの一部の人にしか当てはまらないことなのだ。

アフガン文化には近代主義に対する抗体がある

 1919年から1928年にかけてアフガニスタンを統治していたアマヌラ・カーンは、レ
ザ・シャー(イラン)やケマル・アタチュルク(トルコ)と同時代の人物である。彼
は個人的なレベルで、近代主義の恩恵にあずかった。1924年にアマヌラはヨーロッパ
を旅行し、ロールス・ロイスを手にいれ、改革計画の知識を携えて戻ってきた。その
計画には服装の変化も含まれていた。彼は妻にブルカを脱ぐように言い、男性にはア
フガニスタンの服装をやめて西洋のスーツを着るよう提案した。アフガニスタンの男
性の慣習に反対し、彼は一夫多妻制を禁止した。

 伝統主義者はすぐに、アマヌラの近代化に異議を唱えた。社会的経済的基盤を伴わ
ない近代主義の導入は、工業も農業も資源開発も不足し、牧畜に頼っている部族社会
の文化には全く合わず、部族間の婚姻禁止を解くことも同様に拒否された。

 この表面的で形式的で不完全な近代主義は、抗体となって伝統的なアフガニスタン
の文化を刺激し、それからの10年間はその影響に否定的な反応を示すだけだった。近
代主義はより合理的な方法で文化に浸透することができなかった。今日でもアフガニ
スタンでは、資源を開発したり、製品の代わりに安い原材料を提供するといったこと
を含む、近代主義の前提さえ作られていない。アフガニスタンの最も進歩している人
達でさえ、女性に参政権を与える準備はできていないと信じている。最も革新的な派
が内戦に巻き込まれた時、女性が投票するにはまだ早すぎるとしたくらいだから、保
守的な人々が、女性が学校で学ぶことや社会活動をすることを禁止するのもわかる。
当然の結果として、1000万人の女性は、ブルカの下で、囚われの身となっているのだ。
これが、一夫多妻制を廃そうとしたアマヌラの近代主義改革から70年後の、アフガニ
スタンの社会なのである。

 2001年の現在でも、イラン-アフガニスタン国境の難民キャンプでさえ、女性たちは
一夫多妻制を受け入れている。私はパシュトゥン族とハザラ族の2組の結婚式に参加し、
彼等が花婿への貢ぎ物をもっと多くしたいと望むのを聞いた。冗談かと思ったが、そ
うではなかった。ある花嫁の家族はこう言った。「もし花婿が面倒をみられるのなら、
4人の妻をもつことは、貧しい人々を救うことになり、宗教的な伝統にも合うので良い
ことだ」と。

 『カンダハール』のために結婚式の音楽を録音しようと、Savehにあるキャンプに行
った時、私は7才の男の子と結婚した2才の女の子と出会った。私には、この結婚の意
味がまったく理解できなかった。まだおしゃぶりをしているような男の子と女の子が、
そんなことを決められるはずがない。伝統社会の一端を見せつけられ、アマヌラの近
代主義は、どこか別の国の模倣だと思えた。もちろん、もし女性がブルカを脱ぐと、
神の怒りにふれて黒い石に変えられてしまうと考える人もいる。おそらくは、誰かが
無理にそのブルカを取り除かねばならないのだ。そうすれば彼女たちは、そんなこと
は迷信に過ぎず、彼女ら自身でどうするか選べることに気づくだろう。

 また、アマヌラの近代主義を違った観点から捉えた見解もある。伝統的な社会では、
偽善の文化は階級をカムフラージュしようとする形式である。イランの社会では、伝
統的な富裕層は、貧困への恐れから家の内側は城のように飾るが、外観は掘っ建て小
屋のままにする。貴族的な生活の核は、貧相な外観を必要としているともいえるのだ。

 近代主義への反対は、必ずしも伝統的な組織から表明されるわけではない。時にそ
れは、貧しい人々の金持ちに対する反応でもある。アマヌラの時代の貧しい社会では、
ロバに対して馬を所有することは、高貴さと名誉のシンボルだったが、ロールスロイ
スは貧困に苦しむ人々に対する侮辱でしかない。伝統と近代主義の間の争いは、ロー
ルスロイスとロバの間のそれと同じである、つまり、貧困と裕福の間の戦いであった。

 今日のアフガニスタンで、唯一近代的なのは兵器である。人々に仕事をもたらす、
いたるところで行われている内戦はまた、近代兵器の市場になってきている。いくら
前時代的に遅れているとしても、アフガニスタンは、もはやナイフや短剣で戦うこと
はできない。武器の消費は重大な問題だ。長い顎髭とブルカの傍らにあるスティンガー
ミサイルはいまだ、消費近代文化と釣り合った近代主義の象徴だ。アフガニスタンの
武装勢力にとって、武器は仕事を作り出すための経済的基盤である。もし全ての武器
がアフガニスタンから取り除かれたら、戦いは終わり、誰も殺されず、ゼロ経済によ
ってイスラム武装勢力(ムジャヘディン)はみんな他国へ移民するだろう。

 アフガニスタンでの伝統と近代主義の問題、戦争と平和の問題、部族主義と国家主
義の問題は、経済状況と雇用危機の観点からも分析されなければならない。まず、理
解されなければならないのは、雇用危機に対する早急な解決策がないという点だ。長
期的に見た解決策は、経済の奇蹟的な成長にかかっていて、決して南北間の軍隊の争
いにかかっているのではない。そんな奇蹟はこれまでにが起こりはしなかったのだろ
うか。

 ソ連の撤退は奇蹟ではなかったのか。ムジャヘディン(イスラム戦士)の独立政権
は、彼等にとっての奇蹟ではなかったのか。タリバンの突然の征服は、ある意味では
奇蹟ではなかったのか。なぜまだ問題は続くのか?ここで問題となっている近代主義
は、二つの本質的な問題に直面している。一つは経済問題がその根底にあり、もう一
つは、未熟な近代主義に抵抗するアフガン伝統文化の抗体である。

 

アフガニスタンの地理的状況とその重大性

 アフガニスタンは約70万㎢の面積を持つ。その国土のうち75%が山間部である。
人々は、周りを高い山で囲まれた、くぼみの多い谷間に住んでいる。その標高の高さ
は、荒々しい自然、通行の困難、ビジネスの障害を意味するだけでなく、アフガン部
族の間では文化的で崇高な要塞として捉えられている。アフガニスタンに貫通道路が
少ない理由は明快である。

 道路の不足は、アフガニスタンを征服しようとする兵士たちの妨害になるが、同時
に経済的発展を促そうとする実業家の進路の妨げにもなる。同様に、この山々は他国
の侵入を遮断し、また他文化や商業活動の干渉も阻んでいる。75%が山間部だという
この国は、工業都市としての可能性がある所に消費市場を作る上でも、またその都市
に農産物を輸送する上でも問題がある。近代的な武器を使っているにも関わらず、戦
闘は長引き、終わりは見えそうにもない。

 過去においてアフガニスタンは、バルク山脈、インド、カンダハールを通って中国
へ旅をするシルクロードのキャラバンの通り道だった。水路の発見、そして20世紀に
おける空路の発見は、アフガニスタンを古代の商業路から行き止まりの道へと変えた。
古いシルクロードはラクダと馬の道であり、近代的な道路の要素はない。同じ道を通
って、ナーデル・シャー、アレクサンダー、チムール、そしてMahmmod Ghanznaviがイ
ンドへと旅をした。山間部にはかつて、原始的な木の橋があったが、過去20年の戦争
によってそれは大被害を被った。

 アフガン戦争、そして内戦と続いた20年を経て、人々は、内戦に勝利してアフガニ
スタンの歴史的運命を一つの方向に向ける強い体制を求めている。しかしながら、そ
こには山々が立ち塞がる。おそらく、アフガニスタンの真の戦士は、決して降伏しな
い高い山々なのだ。アハマド・シャー・マスードに率いられたタジク族の抵抗軍は、
パンジシール渓谷のおかげで生き残っている。もしアフガニスタンに山がなければ、
ソ連はきっと楽に征服しただろう。また、クウェートのように平地であれば、アメリ
カのいい獲物となって、中央アジアの市場に近づいていたかもしれない。山岳地帯で
あるということは、戦争にも、戦後の復興にも金がかかるということなのだ。もしア
フガニスタンがこれほど岩だらけでなかったら、今とは違った経済、軍事政治、文化
の運命をたどっていただろう。アフガニスタンは地理的に不運だったのだろうか。

 常に山を上り下りしなければならない戦士を想像しよう。彼がアフガニスタンの全
てを征服したとしよう。今度は軍隊を配置するために全ての峰を征服しなければなら
ない。これらの山々は、アフガニスタンを外敵や内敵から守るのに十分であった。ソ
連-アフガン戦争の際、アフガニスタンが国家として抵抗しているように思えたかもし
れないが、内から見ると、それぞれの部族が谷を守っていたということなのだ。敵が
去ると、誰もが自分達の谷を再び世界の中心と見なした。山々が、そこでの農業を非
常に困難なものにしているのも関わらずだ。

 農業に適していているのは国土のほんの15%で、実際には耕作されているのはその
半分だ。牧畜をする理由は、山間部やその周辺に牧草地があるからである。アフガニ
スタンは自国の地形の犠牲者と言われている。山間には道がなく、道路を作るには非
常に金がかかる。軍用であろうが、密輸業者の狭い輸送路であろうが、である。幹線
道路が一本だけ国境の周りを通っている。だが、その道が、社会的・文化的・経済的
なコミュニケーション問題を解決する主要道路の機能を果たすことができるというの
か。わずかばかりあった州間道路は戦争で破壊された。固くて高い山を崩すための費
用を支払うことが、誰の利益になるというのか。どんな利益のために、その莫大な経
費がつくられるのか。アフガニスタンには地雷がたくさん埋まっている。資源開発の
ためには、どの道を行けば、目的地に着けるのだろうか。

 いつになるかわからない未来の利益のために、誰が地雷の地に投資するだろうか。
道路の不足は、ソ連人とアフガン人に地雷の撤去を諦めさせるのに十分だったのだろ
うか。道路がない代わり、アフガニスタンには隠れた小道がたくさんあり、それは、
麻薬の密輸人にはうってつけだった。密輸をするための曲がりくねった道はたくさん
ある。しかし、密輸を壊滅させるのに必要なのは、まっすぐな道路である。無限にあ
る小道の数を数えることはできないし、毎日その通り道を急襲することもできない。
せいぜいできるのは、交差路でキャラバンを待つことくらいなのだ。

 麻薬を入れたバッグを背負って、カンダハールから裸足で歩いてきた密輸人がSemn
anの町の近くで逮捕された。着いた時、彼のかかとの皮はない状態だったが、歩き続
けていた。アフガニスタンの山中では、水は恵みというより大きな災難だ。冬には凍
結をおこし、春夏の洪水は干ばつをわずかばかり潤す。それが、ダムのない山の財産
である。コントロールできない水と、厳しい土壌は農業の可能性を潰す。これがアフ
ガニスタンの土地の全体像である。通行が困難で、耕作が難しく、地雷を掘り出すの
は不可能で、移動には金がかさむ。幾人かの人はアフガニスタンを言語、人類、部族
の宝庫と捉えているが、それは、この地理的な困難のせいである。この国のすべての
伝統が手付かずで残っているのは、孤立と、干渉の欠如によるのである。

 農業地は国土のわずか7%で、その半分も干ばつに脅かされている過酷で乾燥したこ
の地では当然なことだが、ケシの実の栽培が人々を支えることになった。通常の状況
で、パンの値段が上がらなければ、ケシの実の利益で、小さなパンひとかたまりを全
てのアフガン人が受け取ることができる。しかし現在のアフガニスタンの経済状況で
は、人々の半分にしか与えることができない。利益は国内のマフィアの元に入ったり、
不安定なアフガンの支配体制が使ってしまったりして、人々はそれを得られない。で
は、アフガニスタンの人々は何によって生計を立てているのだろう。答えとしては、
イランの建築現場での労働や、政略戦争への参加やタリバンの神学生になることなど
が挙げられる。それぞれ300人〜1000人を収容しているタリバンの学校2500校の統計
では、腹を空かせた孤児が多く集まる。これらの学校では、誰もがパンとスープを食
べられ、コーランを読んで祈りを唱え、そして後にはタリバン勢力に加わっていく。
これが雇用への唯一の方法なのだ。

 地理的問題の結末として、移民、密輸出、そして戦争で生計をたてているアフガニ
スタンで、タリバンに勝利したとしても、マスードはその後、どうやって人々の需要
に応えるつもりなのだろう。戦争を続けるのか、麻薬ビジネスを進化させるのか、そ
れとも雨乞いをするのか。

 国連は、イランの国境で、アフガニスタンに戻ろうとする全てのアフガン人に20ド
ルを支給している。彼等はアフガニスタンの最初の町までバスにゆられるか、国境の
あたりでバスを降りる。興味深いことに、アフガニスタンでの雇用不足のせいで、ア
フガン人はすぐに戻ってきて、もう一度20ドルをもらうために、国境を入り直す。無
職のアフガン人はあらゆる解決法を職業にしてしまう。戦争がひとつの職業であった
のと同様に、指導者であることを全うして死んだアフガン人リーダーは少ししかいな
い。

 長く続く戦争は、アメリカ、ソ連、そして近隣6ヶ国に対し、彼等に忠実な勢力に援
助をする機会を与えている。この援助は戦争を続けること、また勢力のバランスを保
つことが目的であって、アフガニスタンに仕事をつくりだすものではない。ここで忘
れてならないのは、2年間干ばつが続いていて、その結果家畜も死んでいることだ。国
連は、あと数ヵ月のうちに100万人が死亡するだろうと発表している。戦争はそのこと
には全く関係していない。原因は貧困と飢餓である。牧畜農業が水の不足で脅かされ
ると、必ず移民が増えて、戦争はひどくなる。

 アフガン人の寿命は41.5歳と計算され、2歳以下の子どもの死亡率は1000人のうち1
82人〜200人に達すると言われている。平均寿命は1960年には34才だったのが2000年
には41才だと判断されている。しかし実際はこの何年間で1960年当時よりも低い値に
なっているという。

 私は『カンダハール』を撮影していたあの夜のことを決して忘れない。私たちのチー
ムが懐中電灯を持って、砂漠を歩いていた時、そこに取り残された羊の群れの様に集
団で死んでいる難民の姿を見た。私たちは彼等はコレラで死んだものと思ったが、餓
死であることに気づいた。多くの人が飢えて死んでいくのを見て以来、私は自分が食
事をとるのを許すことができなかった。

 1986年から1989年の間、アフガン人は2200万頭の羊を飼っていた。それは一人につ
き一頭の計算だ。これが、アフガニスタンのような牧畜国での伝統的な主たる富であ
る。この富は今日の飢餓状態で失われた。家畜のいない牧畜国を想像してみてほしい。
今日のアフガニスタンの悲劇の根本は貧困であり、その問題を解決する唯一の方法は
経済の復興なのだ。

 私は、ムジャヘディン(武装勢力)の支援に行くのではなく、生存のために精一杯
戦っている-真の自由の闘士-普通の人々を支援するためにアフガニスタンに行くだろ
う。私が隣国の大統領だったなら、政治的軍事的干渉の代わりに、アフガニスタンと
の経済的関係を促進するだろう。私が神の代わりになることは許されるわけもないが、
できるならこの忘れられた国に何かの利益を与えるだろう。私は、Sa'diが「全人類は
一つ」と書いた時代と大きく異なるこの時代に、何らかの衝撃を与えられるとは信じ
ることなく、この文章を書く。

 国連のアフガン情勢についての人道アドバイザーである、バングラデシュのカマル・
フセイン教授は、2000年夏に私たちのオフィスを訪れ、自分は10年間にわたって、意
味のない報告を国連にしていたのだと言った。彼は、世界を目覚めさせることになる
かもしれない、私の映画製作の手伝いに来てくれたのだ。私は言った。「私は影響が
あることを願っている。」

 アフガニスタンは他国の干渉に苦しめられたというよりもむしろ、その無関心に苦
しんだ。つまり、もしアフガニスタンが石油収益を持つクウェートだったら、話は違
ってくる。しかしアフガニスタンには石油もないし、隣国の人々はアフガン労働者に
満足な賃金も与えずに追放している。職業の選択に失敗したら、残された道は、難民
になること、タリバンに参加すること、ヘラート、バーミヤン、カブール、カンダハー
ルの街角に倒れること、そして世界の無知に殺されることくらいである。

 私は一度、不法移民でいっぱいの、ザーボル周辺のキャンプにいたことがある。私
にはそこがキャンプなのか牢獄なのかわからなかった。飢餓やタリバンの襲撃から逃
げてきたアフガン人は避難を拒絶され、アフガニスタンに強制退去させられるのをじ
っと待っていた。それは合法で、道理にかなったことのようだった。どんな理由があ
ろうと、不法入国した人は拒絶され、追放された。しかし彼等は正に餓死に瀕してい
たのだ。我々はそこでのエキストラ選びを諦めた。私は当局に話を聞き、そのキャン
プがそれだけ多くの人数分の食料を持っていないこと、人々が一週間食べさせられて
いないことを知った。飲み水だけだった。我々は食事を提供することを申し出た。彼
等は我々が毎日来ることを望んだ。

 我々は生後一ヵ月の赤ん坊から80才の老人まで、400人のアフガン人に食料を提供し
た。ほとんどは、母親の腕に抱かれた、飢餓に苦しむ小さな子どもたちだった。1時間
ほどの間、我々は泣き、パンと果物を配った。当局の人々は悲痛と悲しみを表し、予
算が承認されるされるには時間がかかると言い、飢餓難民は増え続けるので対応が追
い付かないとも言っていた。これは、自国の自然、歴史、経済、政治、そして隣国の
不親切によって荒された国の話である。

イランからアフガニスタンに強制追放されたアフガン詩人によって書かれた詩である

私は歩いてきた。歩いてここを立ち去ろう。

子ぶたの貯金箱を持たない見知らぬ人はここを立ち去る。

人形を持たない子どもはここを立ち去る。

私の流浪の呪縛も今夜、とけるのだろう。

何ものっていないテーブルは折りたたまれる。

苦しみの中で私は地平線をさまよい歩いた。

さまよい歩く人はみな私なのだ。

私の持たぬもの。 私は横たわり、ここを離れる。

私は歩いてきた。歩いてここを立ち去ろう。

世界のアフガニスタン生産麻薬の消費率

 今日の経済では全ての供給は需要に基づいている。麻薬製造もその消費高のニーズ
に見合ったものである。この世界的なマーケットは、インド、オランダ、アメリカと
いったように貧しい国も先進国も含んでいる。国連の2000年の報告によれば、90年代
後半には世界中で約1800万人が麻薬を使用しているという。同じレポートによれば、
不法アヘンのうち、90%が二ヶ国で作られており、そのうちの一つがアフガニスタン
である。またアフガニスタンはヘロインの80%も作っている。繰り返すが、アヘン系
の麻薬の50%がアフガニスタンで作られている。麻薬の50%が5億ドルなら、その総価
値は10億ドルになると思うだろうが、そうではない。なぜだ?

 アフガニスタンは麻薬製造で5億ドルを稼いでいるが、実際の取り引き高は800億ド
ルである。世界中に運ばれる間の値上げは160回にも及ぶ。誰が800億ドルを手にして
いるのだろう?

 例えば、ヘロインがタジキスタンにある値段で入り、出る時は2倍の値段になってい
る。同じことがウズベキスタンでも起こる。オランダの消費者の元に着くまでには原
価の160〜200倍の値段となっている。その金は何らかのルートで国々の政治を巧み
に利用している様々なマフィアの手中に入る。

 多くの中央アジアの国々の機密予算が、麻薬の運搬から供給されている。さもなけ
れば、例えばカンダハールから歩いてきた密輸者が、この利益の一番の恩恵を受けて
いるはずだ。どう考えても、彼等が真の密輸者とは思えない。

 もし、麻薬の利益がこれほど巨大でなければ、例えばイランは、ケシの実の栽培を
中止させるために、5億ドルの原価の小麦をアフガニスタンに注文することもできるだ
ろう。しかし、795億ドルの利益はマフィアと同盟国にとって大きく、ケシの実を処分
するわけにはいかない。皮肉なことに、アフガン人の麻薬製造者は、その消費者では
ないのだ。麻薬の使用は禁止されているが、製造は合法でなのだ。その宗教的な正当
性は、死に至る毒をヨーロッパやアメリカにいるイスラムの敵に送るということであ
る。この理論は逆説的だ。アフガニスタンの政府予算には、麻薬の経済利益が見込ま
れている。

 全世界の麻薬取り引き高は4000億ドルになり、アフガン人はこの市場の犠牲者だ。
なぜアフガニスタンの取り分が800分の1なのか。どんな答えであるにせよ、市場は民
間に貢献するわずかな場所が必要だ。だがそれは、巨大な麻薬市場なのである。もし
アフガニスタンに道路があったら、また戦争が終わって経済が円滑になり、5億ドルの
他からの収入ができたら、4000億ドルの市場に何が起こるのだろう。

 2000年9月、カンダハールから帰ってテヘランへの道中、ホラーサン州の知事に会っ
た。彼によると、マシュハドでは250ドルだったアヘンの値段が、ヘラートで50ドルだ
という。密輸人との争いが強化されると、値段は上がらずに、価格は下がってしまう。
例えば、マシュハドで500ドルになっていても、ヘラートでは75ドルである。その理由
は極端な貧困と飢餓である。アフガニスタンでかつて羊は一頭20ドルだったが、今、
国境付近では1ドルで売られている。羊は病気の上に、近辺に市場もなく、イランへの
密輸は取り締まられているからだ。

 ケシの実は、アフガニスタンの財源として、石油のような本質的な重要性を持って
いないが、ある意味石油と同じ価値がある。中央アジアの国々の機密予算が麻薬によ
って得られているからだ。それは、アフガニスタンの慢性的な経済状態に対して、無
関心を続ける世界に強い動機を与えている。なぜアフガニスタンは安定しなければな
らないのか。その土壌から生まれる800億ドルを埋め合わせることができるのか。

 麻薬は、興味深いビジネスである。ほんの数ヵ月前、私がアフガニスタンにいた時、
毎日いっぱいに麻薬を積んだ飛行機が、アフガニスタンから直接ペルシャ湾岸に飛ん
で行くと言われていた。1986年に『サイクリスト』の製作のためにリサーチをした時、
パキスタンのミールジャーベからクエッタ、そしてパキスタンのペシャワールに陸路
を取った。数日かかった。ミールジャーベに着いた時、私は『サイクリスト』に出て
きたのと同じようなカラフルなバスに乗った。バスは様々な種類の奇妙な人々でいっ
ぱいだった。濃い髭を生やした人、頭にターバンを巻いた人、長いドレスを身にまと
った人・・・。最初、私はバスの屋根に麻薬が満載されていることに気付かなかった。
バスは、道もない、泥だらけの大地を走っていった。どこも埃だらけで、タイヤは柔
らかい土にのめり込んでいた。我々はダリの絵のような、超現実的な門に到着した。
それは、何かを分けるための門でも、何かをつなぐための門でもなかった。それは砂
漠の真ん中にまっすぐ立てられた、単に想像上の門だった。バスは門のところで止ま
った。そこにバイクのグループが現れ、私たちの運転手に車を降りるように言ってい
た。彼等は少し話すと、お金の入った袋を取り出し、運転手とそれを数えていた。バ
イクで来た二人がバスに乗った。我々の運転手と助手はお金を受け取り、バスを降り
てバイクに乗った。新しい運転手は、これからは自分がバスとバスの中にあるすべて
のもののオーナーだと言った。我々は、バスと一緒に自分たち自身も売られたと気付
いた。

 この取り引きは何時間かに一度ずつ繰り返され、我々は何人もの密輸人に売られた。
我々は特定のグループがそれぞれの道路を支配していて、道が変わるたびにバスは売
られ、値段がつり上がっていくことに気付いた。最初はお金の袋が一つだったのに、
それが終点に近づくにつれ、2袋、3袋・・・と増えていった。また、ラクダの背にダ
シュカ(*ロシアの武器メーカー)の重いマシンガンを乗せて走るキャラバンの姿も
あった。もし、我々のバスや、ラクダの背の武器がなければ、原始時代にいるような
場所だ。我々は、彼等がまた武器を売るところに到着する。弾丸はまるで豆のように
袋に入れられ、キロ単位で売買される。

 私は、ホラーサン州に行き、国境付近で映画のロケ地を探していた。日が落ちるこ
ろには、国境付近の村々には誰もいなくなる。村人たちは密輸人を恐れて他の町へと
逃げるのだ。彼等は、我々に帰るよう強く勧めた。危険だという噂が広がって、夕暮
れ後は車も殆ど通らない。夜の闇の中で道路は、密輸人のキャラバンのためにあった。
目撃者によると、密輸人のキャラバンは5人〜100人くらいのグループで構成されて
いるという。年齢は12才〜30才くらい。それぞれ背中に麻薬の袋を背負い、何人か
はロケットランチャーやカラシニコフを持って、キャラバンを守っていた。

 もし麻薬が空輸されなければ、コンテナに入れられて運ばれるだろうし、そうでな
ければロバで運ばれるだろう。こういうキャラバンが、ある国から他の国まで、例え
ばアムステルダムまで運ばれることを想像してみてほしい。また、800億ドルの取り引
きを維持するために、様々な地域の人々が、どれほど恐怖を感じているか、考えてみ
てほしい。

 私は、密輸人の引き起こす殺人の件数について、Taribadの役人に聞いたことがある。
統計では、2年間に105人が殺されたり誘拐されているという。80人以上はは戻ってき
たそうだ。わたしはすぐさま、2年間104週で105人と計算した。一週間に一人の割合で、
その犯罪は起こっている。もしこの数字が、自分の村に住みたくない、夜にまぎれて
他の町へと逃げたいと人々に思わせるなら、私たちはアフガン人が自分たちの土地に
とどまることを期待できるだろうか。過去20年間、そのうえ彼等は5分に1人の割合で
殺されてきたのだ。アフガニスタンに残らねばならず、移民となってはいけないとい
うのか。彼等を国外退去させて危険の中に押しやり、戻ってくるなと言えるだろうか。

 

 私は道路に駐屯する役人に、誘拐と殺人の原因について尋ねた。明らかに、国境の
イラン側にいるキャラバンは村人にアヘンを売っている。イラン人の密輸人が、約束
通りに金を払わなかった時には、彼や、彼の家族が誘拐され、金と引き替えに返され
るのだ。私は再びこの暴力が経済を土台にしていると理解した。Dogharoonの国境近く
で通関の役人は、ここ8年間、その地域は安全ではないと言っていたが、新聞は2年前
からようやくそれを伝え始めた。これは、イランの新聞の開放的になってきたことに
関係している。

移民とその結果(因果関係)

 

 移民となったアフガン農民は、家畜との季節ごとの移動を除いて、20年前までは国
外に旅することはなかった。それゆえ、たった一度の旅行でさえ、アフガン人の運命
に重要な痕跡を残すことになる。例えば、アマヌラ・カーンと学生のグループは西洋
を学問のために旅行したのだが、アフガニスタンの不成功に終わった近代主義のパイ
オニアとなった。ロシアに行った役人たちは、後に共産主義者のクーデターの引き金
となった。しかしながら、近年のアフガニスタン全人口の30%の移民は、学術研究の
対象となっていない。戦争と飢餓が彼等を移民させ、その膨大な数が受け入れる国を
も疲弊させている。250万人のアフガン人がイランへの、300万人がパキスタンへの移
民となって流出しているが、これは両国にとって重大問題となっている。

 イランのアフガン移民担当役人に、アフガン人は我々の客人だと意見した時、長す
ぎた20年のパーティは終わったのだ、という答えが返ってきた。終わらせなければ、
ホラーサン州やシスタン & バルチェスタンの各地方で、イランの国家的なアイデンテ
ィティは脅かされ、各地域が独立を求めるような危機が増したり、国境の危険度が増
したりする事態にも直面するだろうと。

 イスラム戦士(タリバン)を訓練するための学校があるパキスタンと違って、イラ
ン社会はアフガン人を教育する学校を持とうとしなかった。『サイクリスト』を作っ
ている間、俳優を探すため、私は近所のアフガン人たちのところによく行っていた。
その頃、一人の移民担当役人が、自分たちはイランの大学が、アフガン人の学生を受
け入れることを望んでいると言っていた。ロシアがアフガニスタンを離れたら、少な
くとも学士程度の教職者が必要になってくるだろうからだ。そうしなければ、戦争を
する兵士は多くても、国を治める人がいなくなってしまう。

 その後、何人かのアフガン人が、イランの大学への入学を許可されたが、彼等のう
ち誰も国へ帰ろうとする者はいない。彼等は、安全性と飢餓の問題を理由にしている。
彼等の一人は、アフガニスタンでの最高の生活レベルは、イランでの最低レベル以下
だという。私はアフガニスタンのヘラートの知事の給料が、2000年でも、月に15ドル
だったと聞いた。一日50セント(4000リアル)である。アフガン移民が広がったせい
で、人身売買はイランの密輸人の新しい取引になっている。国境に着いたアフガン人
の家族は、テヘランに着くまで、長い道を歩くことを余儀なくされる。ザーボル、ザー
ヘダーン、ケルマンやその他の町で拘束されてしまうので、彼等は、運命を密輸人に
委ねるしかなくなる。密輸人たちは、テヘランまで一人100万リアル(125ドル)を要
求する。 

 

 家族には金がないから、99%の確率で13、4才の少女たちは人質にとられ、残りの家
族は秘密裏にテヘランへ運ばれる。家族が職に就き、借金を返すまで少女たちは拘束
される。多くのケースで、金は支払われない。10人の家族は、3カ月後に1000万リアル
(1250ドル)の借金を利子付で返さなければならないのだ。その結果、多くの少女た
ちは、国境付近で人質になったままか、密輸人の所有となってしまう。人質子女に秘
密裏に関係している役人は、少女の数は一つの町で24000人にものぼると言う。

 テヘランに家を建てた私の友人の一人が、彼が雇ったアフガン労働者について話し
てくれたのによると、二人のイラン人が現れて、彼等のほとんどの金を取っていった
という。彼が尋ねると、アフガン人は、イランに入国させてくれた見返りを払ってい
るという。また彼等は、国外退去させられた時のために、家族に送るための貯金もし
ていた。その状況は、パキスタンにいる難民とはちょっと違っていた。

 イランに来たのはハザラ族である。人々はペルシャ語を話すシーア派である。共通
語と共通の宗教が、彼等をイランに向けさせる。しかし、彼等の不運はその容貌であ
る。彼等のモンゴル的特徴は、イラン人の中では目立ち、すぐにわかってしまうのだ。
しかし、パキスタンに行ったパシュトゥン族は、共通の言語、宗教、部族性のおかげ
で、パキスタンの人々に同化している。シーア派のハザラ族は、パキスタンがイラン
よりも偏見は少ないと知っているが、パキスタンでの自由より、イランでの雇用機会
の方が魅力なのだ。パンは自由に勝るというわけだ。自由を求めるには、まず食べな
ければならない。今日、自由を求めているイラン人は、飢えの危機を乗り越えたのだ
ろうか。

 良い仕事を見つけられない結果として、腹を空かせたスンニ派のパシュトゥン族の
アフガン人は、食事や避難所の準備されている神学校にすぐさま惹き付けられた。事
実、組織だってはアフガン難民と関わりをもたないイランと較べ、パキスタンはさま
ざまな理由で、タリバン政権を奨励し組織した。第一の理由はデュアランド線(アフ
ガニスタンとパキスタンの国境線)である。

 パキスタン人がインドから独立する以前、アフガニスタンはインドと国境を共有し
ており、パシュトゥン人の地域を巡って深刻な論争が起こった。英国がデュアランド
線を引き、その地域を二つの国に分けた。その100年後、アフガニスタンが再び、イン
ド領域のパシュトゥン族を支配下においた。その後、パキスタンがインドからの独立
に成功し、パシュトゥン地域の半数のインド人は、半数のパキスタン人になったわけ
である。しかし6年くらい前から、国際法によると、パキスタンはパシュトゥン地域を
アフガニスタンに引き渡すべきだと言われている。カシミール地方についていまだに
不服を唱えているパキスタンが、アフガニスタンにパシュトゥン地域の半分を与える
ことに同意するはずもなかった。

 

 最高の解決策は、飢えたアフガンのイスラム兵士がアフガニスタン支配するために
立ち上がることだった。タリバンを訓練したパキスタンは、もはや彼等の顧客からパ
シュトゥン地域を取り戻す野心を隠さないだろう。タリバンが今世紀末に現われたの
は不思議はない。遠くから見れば、タリバンは不合理で危険な原理主義である。しか
し近づいて見れば、それはイスラム神学生であることを職業とし、空腹を満たすため
に学校へ行く飢えたパシュトゥン人の孤児の姿である。そして、タリバンの出現につ
いてよく考え直してみれば、パキスタンが抱いている国家政治的な興味に気づく。

 もし原理主義が、ガンジーの民主主義からのパキスタン独立の理由ならば、同じこ
とがパキスタンの生き残りとアフガニスタンの損失の拡大にも当てはまる。同時に、
ソ連崩壊以前の世界におけるパキスタンの意義は、東側共産圏に対する西側の防壁と
なることだった。ソ連崩壊とともに、アフガニスタンの兵士が西側メディアにおいて
その英雄的な立場を失っていったのと同様に、パキスタンもその重要性を失い、雇用
危機と直面している。

 社会学のルールでは、全ての組織は何かを売り買いしている。この定義によると、
軍隊はその軍事力を自国、または他国の政府に売っていることになる。西側世界にお
けるパキスタンの国家的な職務は何だったのか。明らかに東側の軍隊の役割を演じな
がら、しかし中味は西側の自覚を持ってアメリカに軍事力を売ることである。ソ連崩
壊とともに、パキスタンの軍事力への西側の要求もまた、減少したのだ。

 では以来、どこがパキスタンの軍事力の市場となり、この活力ある国家的職務を維
持させたのか。だからこそパキスタンはタリバンを作った。アフガニスタンをひそか
にコントロールし、パシュトゥン地域の譲渡要求を抑止するためだ。パキスタンが雇
用危機に直面しているという事実は、この理由に基づいている。もし映画監督として
の私が、自分の国で映画を撮れなかったら、自分の仕事のために私はどこへでも行く
だろう。軍隊も同じことをしたのだ。大きな戦争の戦力のために、国のエネルギーの
多くの蓄えが軍組織を構成することに使われる。戦争が終わると、彼等は軍の仕事を
維持するために、他の需要を探す。もし需要が見つからなかったら、彼等は落胆して
クーデターを起こすか、もしくは経済基盤へと変容するかだ。後者の例として、軍隊
の力を利用しての交通のコントロールや、農業や道路整備の手助けが挙げられる。

 より広い世界では、どんな時でも軍事物資の需要をあおったり、政府の発注を得る
ために戦争が助長されている。移民の話題に戻ってみよう。イランと違ってパキスタ
ンでは、アフガン難民を、宗教・政治の学生として、そしてタリバンをつくるために
使った。

 ソ連の侵略以前、あるアフガン人は農夫だった。ソ連の攻撃とともに、アフガン人
たちは、彼等の谷を守るためにイスラム戦士になった。組織と部隊が結成された。ソ
連退却のあと、アフガン人は農夫に戻らなかった。新しい職業はより魅力的で金にな
ったからだ。全ての派やグループが互いに戦い始めた。6つの近隣諸国、アメリカ、
ロシアはそれぞれ軍事グループの中に自分たちの傭兵を探した。結果として、雇用の
新しい波が誕生した。内戦は2年間のうちに酷くなり、そのダメージはロシアの侵略の
時よりも大きかった。人々は内戦にうんざりし、軍備縮小と平和をモットーに白旗を
振るタリバンをパキスタンが派遣した時、人々はそれを歓迎した。短期間で、タリバ
ンはアフガニスタンのほとんどを支配してしまった。それは、タリバンのルーツがパ
キスタンにあることを図らずも見せた時だった。

 タリバンはつねに、その原理主義を非難されるが、彼等の出現の理由はほとんど話
題にならない。イランに徒歩でやってきたヘラートの詩人は、アフガニスタンに歩い
て帰ったが、パキスタンのペシャワールまで歩いた孤児は、アフガニスタンを征服す
るためにアラブ諸国に提供されたトヨタで帰ってきた。

 自国の人々に生存問題を抱えるパキスタンが、どうやってタリバンを食べさせ、訓
練し、軍装備させることができたのか。イランの敵として以前にメッカで緊張状態と
なったことがあり、イランと並びたつ宗教勢力を求めていた、サウジアラビアやアラ
ブ首長国連邦などのアラブ諸国の手助けによるものだった。イランのイスラム回帰と
いうモットーによって、自分達の近代化が損なわれたと感じたサウジアラビアとアラ
ブ首長国連邦は、イスラム回帰であれば、なぜタリバンのようにより逆行的なイスラ
ムにならないのかと考えた。もし回帰運動のコンテストがあって、最も逆行的なもの
が勝者になるなら最も原始的な「タリバン主義」に戻ればいいのだ!と。

 近年、移民は、文化・政治・経済計画にあって無視できない問題だ。例えば、トル
コ人はドイツに移民として入り、ドイツ人が拒絶する仕事についている。子供を作る
ことに魅力を感じないドイツ人と違って、トルコ人は子供を作り続け、今では、何年
か後にはトルコ人がドイツの人口の多くを占めるようになるだろうと言われている。

 この予測に基づけば、ドイツはトルコ人のアイデンティティを持つようになるだろ
う。また、選挙について考えれば、おそらく30年のうちには、トルコ人がドイツの首
相になることも想像できる。このことは、トルコ人労働者を求めたドイツの需要が、
次第にドイツの国家的アイデンティティを変えていくだろうということだ。これは、
歴史的風刺だ。

 同じことが、アメリカへのアジアやアフリカの移民にも当てはまる。最初、ヨーロ
ッパの移民がアメリカの国家的アイデンティティを作った。しかしアジア人やアフリ
カ人が、革命や、知的・経済的目的のために移民となってやって来た。アメリカのヨー
ロッパ移民と違って、アジア、アフリカの移民は出産によって人口をどんどん増やし
た。次第に、アメリカのセミ・ヨーロッパ的アイデンティティが、アジア、アフリカ
のアイデンティティに変化するだろう。結果として、国内での人種間の衝突が起こり
やすくなる。

 アメリカ社会が「文明の対話」というパラダイムを歓迎するのは、それがアメリカ
社会における将来の人種衝突に関わっているからである。イラン人が考えるのとは異
なりアメリカでは、これは異なる文化間の交流というより、むしろ対話とは、アメリ
カ自国文化の中でのアメリカ自身の問題なのだ。

 他の大陸のためには、戦略的な解決法を提案するイランの有識者がなぜ、自らの利
益になるアフガン人の移民をうまく利用する方法を見つけられないのか。その理由は、
アフガン人を好機と見ているパキスタン人と違って、イラン人はいつもアフガン人を、
機会というより脅威として見ているからである。イラン人は常に、アフガン人を密輸
人や原理主義者だとみなしている。イラン人投資家は、多くのアフガン人労働者が、
利益になりうるとはまったく考えていない。投資家たちは、アフガニスタンを生産物
の消費者にしたり、安いアフガン労働者を使って、余剰生産品を輸出したりといった
投資の種類について考えたことがない。

 アフガン人は、自国の地理的状況と、近隣諸国との政治的な関係両面で不運だった。
何年か前、スペインの独裁者、フランコについて大きな論争があった。スペインの近
隣国は民主政治を行っていたのに、フランコは独裁政治を強行した。近隣国に影響さ
れて、スペインも後により民主的になり、今日はEECの重要メンバーにまでなった。ス
ペインの運命が語るのは、よい隣人がいれば、よい生活が得られる、ということであ
る。

 

 アフガニスタンは、アフガニスタンを脅威だとか、自国の軍事問題の解決のはけ口
だと思っているような隣人たちの中で立ち往生している。もしアフガニスタンに、ア
フガニスタンを経済・文化的なチャンスと見る民主的な隣人がいたら、今よりも良い
状態だっただろう。民主主義の幸せな近隣ヨーロッパ諸国のおかげで、ファシズムの
スペインは民主国家になったが、進歩的になるはずだったアマヌラ・カーンのアフガ
ニスタンは、近隣諸国の不幸な状況によってタリバンの砦となってしまった。アラブ
の諺はこのことをうまく言い得ている。

 「初めに隣人、家はその次」

タリバンとは何者なのか

 社会学者によると、政府に保安を求める国家的要求は、何にもまして重要であると
いう。福祉、発展、自由はその次である。ソ連の撤退後、激しい内戦の勃発が国内各
地を不安定にし、アフガニスタンは非常に危険な状況に置かれた。それぞれのグルー
プは、戦いを続けることで自らの安全を広げようとした。しかし誰も国家に安全をも
たらすことはできなかった。この時期の皮肉に、誰もが国を安全でなくすことによっ
て、安全を保証しようとする、というのがある。

 タリバンの掲げた武装解除と宗教的な処置は、平和につながるだろうとされ、多く
の同意を得てすぐに成功した。他のグループの不成功に終わった努力は、戦争と不安
定を生み出すだけだった。ヘラートの人々はペルシャ語を話し、タリバンはパシュト
ゥン語を話すが、そのヘラートでさえ、私がタリバンについて聞いた商店主たちによ
ると、タリバン征服以前は、軍人や飢えた人たちに連日強盗されていたという。タリ
バンに反対する彼等でさえも、タリバンがもたらした安全で幸せだったのだ。

 安全は、二つの理由で確立された。一つ目は武装解除で、もう一つは泥棒の手を切
断するといった酷い罰則のせいである。これらの罰則は過酷で堪え難いものであり、
もしヘラートの飢えた2万人のアフガン人たちが目の前に一切れのパンを見たとしても、
盗みたいと思うものは一人もいないだろう。

 2年間、アフガニスタンを行き来し、しかし一度も車に鍵をかけたことがないという
トラック運転手に出会った。何一つ盗まれたこともないという。しかし、アフガンに
必要なのは金銭面の安全だけでなく、実際的な安全と虐待からの解放で、それは常に
重要である。タリバン以前には、他の部族や派にどれほど侵害されていたかという別
の話も聞いた。武装解除と投石によるその強制執行は、しかしながらそのような犯罪
の数を減らした。

 2000万人の飢えた人々の内、30%は移民し、10%は死に、残りの60%は餓死に向か
っている。国連の報告によると、100万人のアフガン人が今後数ヵ月の内に、飢餓で死
ぬだろうということだ。今日、あなたがアフガニスタンに入国したら、人々が街角に
横たわっているのを目にするだろう。誰も動く体力もなく、戦う武器もない。罰への
恐れが、犯罪を犯すことを押し止めている。ヒューマニティが無関心に遅れをとって
いる間、唯一の救済策は、そのままでいて死ぬことだ。これは、Sa'diの時代の「全人
類は一つ」ではない。

 まだ心が石になっていなかった唯一の人は、バーミヤンの石仏だった。彼の全ての
威厳を以て、この悲劇の無法さに屈辱を感じて崩壊したのだ。パンを必要としている
国家を前に、必要もなくそこにあった仏は恥を感じて倒れたのだ。仏は貧困と、無知
と、抑圧と、そして大量死を世界に伝えるために崩れ落ちたのだ。しかし無頓着な人
類は、仏像の崩壊についてしか耳に入らない。こんな中国の諺がある。「あなたが月
を指差せば、愚か者はその指を見ている。」

 誰も仏が指さした死に瀕している国を見なかった。知らせようとされたものを見ず、
都合のいいよう解釈を行うのか。タリバンの無知、彼等の原理主義は、アフガニスタ
ンのような国の不吉な運命に向けられる世界の無知よりも深いのか。

 飢えに苦しむアフガニスタンを撮影するために、私はバングラデシュの国連代表、
カマル・フセイン博士に電話をした。私は彼に、マスード司令官が統治しているアフ
ガニスタン北部と、タリバンが統治している南部のカンダハールへ行くための許可が
ほしいと頼んだ。小グループで行くことになっていたが、結局は私と息子の二人だけ
が、小さいビデオカメラ一台のみを持って旅する許可を得た。我々はパキスタンのイ
スラマバードに行き、週に一度ずつ、北部と南部へ飛ぶ、10人乗りの小さな国連の飛
行機に乗ることを許可された。

 イスラマバードの国連オフィスに、いつ出発するのが良いか問い合わせるのに2週間
もかかった。我々は準備ができていたが、彼等は違う月に行く方がいいと言った。「あ
と一ヵ月で寒くなり、もっと死者が出るでしょうから、そうすればあなたの映画がも
っと興味深くなるでしょう」。彼等は2月を勧めた。「もっと興味深い?」と私が聞く
と、彼等は、「そうすれば世間の良心を引き出せるかも知れません」と返事をした。
私は何と言っていいか分からなかった。

  

 我々はしばらくの間、沈黙した。それから、北部と南部の両方に行けるのか尋ねた。
タリバンは了承しなかった。彼等はジャーナリストをあまり良く思っていない。私は
餓死に瀕している人だけを撮影することを約束した。それでもタリバンは了承しなか
った。私は、パキスタンに再び戻るためには、国連からのもう一通の招待状が必要な
のだと言った。その後、私はテヘランにあるパキスタン大使館に来るよう書かれたフ
ァックスを受け取った。私は以前に、パキスタンのペシャワールから『カンダハール』
のための衣装を運ぶため、パキスタン大使館からビザを得たことがあるので、幸運だ
と思った。

 私はパキスタン大使館に問い合わせた。最初は温かい対応ではなかったが、しばら
くして大使館に来るよう呼ばれた。上品な女性と紳士が私を部屋に案内した。部屋に
いた20分のうち、15分は彼等は私の娘サミラと、彼女の映画の国際的な成功について
話した。彼等は本題を避け、言葉の合間に、なぜ私が国連を通してビザを受けようと
したのか聞き、また、自分たちに直接問い合わせたほうが良かったのに、と告げた。
加えて彼等は、タリバンの政府について不正確なことを伝える映画を作ることは望ま
ないと言った。そして私がアフガニスタンではなく、パキスタンで撮影することを望
んだ。私は、まるで自分がタリバンの大使館にいるかのように感じた。

 私は彼等に『サイクリスト』を観たかと聞き、その映画はペシャワールで撮影した
が、決して政治的ではないことを伝えた。私の意図は人道主義であり、特に飢餓に関
してアフガン人を救いたいと伝えた。私の映画は、就業率と飢餓の危機について描く
と話した。彼等は、イランには250万人のアフガン人がいる、なぜイランのアフガン難
民を撮影しないのかと聞いた。もう話し合いを続けても意味がなかった。彼等は私の
パスポートを持ったまま、私に帰るよう、ていねいな口調で言った。何日か後、私は
パスポートとともに、もし旅行者としてパキスタンに行きたいというのならビザを発
行するが、映画の撮影をしたりアフガニスタンに行ったりすることは許されないと書
かれた書面を受け取った。大使館を後にする時、これまで私がタリバンについて見た
り聞いたりしたことの全てが、私の脳裏に浮かんだ。

 私がイラン人であることがわかるとすぐに追い出された、ペシャワールのタリバン
神学校のことを覚えている。ペシャワールで『サイクリスト」を撮影した時に、逮捕
されて手錠を掛けられた日のことを覚えている。なぜいつもアフガニスタンについて
の映画を作ろうとするたび、パキスタンで面倒なことになってしまうのか、私にはわ
からない。

 人々は私に、十分に気をつけろと言う。国境付近では常に誘拐やテロの危険がある
のだ。タリバンは、ザーヘダーンとザーボルの間で、敵とおぼしき人間を暗殺してい
るといわれている。私は、映画の題材は政治ではなく人道主義であると言い続けてき
た。そして、ある日、国境近くでの撮影を終え、あたりを歩いていると、私を殺すた
めか誘拐するためにやってきたグループと出くわすこととなる。彼等は私にマフマル
バフはどこか尋ねる。私は長く濃い髭を生やし、アフガン人の衣装を着ている。ショー
ルのついた帽子が顔の半分を隠し、私をアフガン人に見せている。私は彼等に違う道
を教え、彼等が政治組織の手先なのか金の取立てにきた密輸人なのかわからないまま
に逃げはじめる。

 安全の問題に戻ろう。民衆の武装解除を推し進め、泥棒の腕を切り落としたり、姦
通者への投石や敵の処刑といった厳罰を実行するタリバンは、アフガニスタンにまぎ
れもない安全をもたらした。毎日2時間だけ放送される、シャリーア・ラジオ(タリバ
ンの声)では、どこかで戦闘があろうとも、その国家的な安全意識を維持するために、
決してそれを放送しない。彼等が、例えば「タカールの人々がタリバンを歓迎した」
と言うのは、タリバンがタカールを攻撃し支配したことを意味している。そのほかに
放送されるのは、金曜日のお祈りのニュースや、バーミヤンで数人の山賊の腕を切断
したこと、カンダハールで姦通罪の若者を投石によって処刑したこと、何人かの10代
の子どもの髪を、異教徒の西洋風に切った床屋への罰などである。厳罰やそのプロパ
ガンダが、いかなるものであろうとも、国家的な安全意識はアフガニスタンを覆って
いる。

 タリバンは国を安全にする唯一の政府であるが、アフガニスタンはタリバンのせい
で、民衆の繁栄を生み出す経済的な強さを失っている。タリバンと戦う者達は安全を
脅かし、タリバンを支援する者達はアフガン人はアフガニスタンにいるべきだと判断
している。誰であれ、アフガニスタンを統治する者は、初めに国家に安全をもたらさ
ねばならない。いかなる戦争も国を不安定にし、また、アフガニスタンは部族主義に
傾きやすいため、誰が権力者となっても、安全はまた脅かされる。アフガニスタンを
飢餓危機から救えるのであれば、誰であろうとアフガニスタンの統治者としてまず認
め、他のことはそれからでいい。ある人々は、タリバンへの非難を、アフガニスタン
での自由の欠如とは関係ない部分で行おうとしている。なぜなら不安定で飢えた国に
とっては、自由よりも繁栄が重要だからだ。

 タリバンとは何か、という問に対しての答えだが、政治的に言うべきだろうが、タ
リバンとは、パキスタンに支援された政府のための道具である。個人的には、彼等は
飢えた若者が学生となった連中で、パキスタンの学校で改革運動家に訓練された。彼
等は初めにひとかたまりのパンのためにそこに入り、後に、アフガニスタンで政治・
軍事的地位に就くためにそこを出ていく。ある政治グループの見解ではタリバンは原
理主義のリーダーであり、他の政治グループの視点によれば、アハマド・アブダリの
時代からアフガニスタン唯一の支配者だったパシュトゥンと同じである。

 今日、国内混乱の時代の後、彼等は250年間に及ぶ彼等の力を重ねて言明した。タジ
ク族支配の9ヶ月間とタジク族のラバニ大統領が治めた2年間を除いて、250年にわたり
パシュトゥン族が常に支配し、アフガニスタンは彼等の政治的経験を必要としている、
と彼等は言う。

 こうした事柄は私には理解しにくい。私の仕事は映画を作ることであり、このこと
についてよく調査をするとしたら、正確な分析に基づいて台本を書きたいと思うから
だ。しかし、知れば知るほどに、もっと複雑な事情を知ることになる。アメリカが、
必要であれば、わずか3日のうちにイラクからクウェートを奪い返せることについて、
私は人々に尋ね続ける。なぜ、あれほど近代主義を押し売りしているのに、学校にも
行けない、社会にも居場所がない、ブルカに囚われた1000万人の女性を救う行動には
出ないのだろう。なぜ、この近代にあらわれた原始性を止めないのだろう。力がなく
なったのか、それとも動機がないのか。私はすでに、その答えを見つけている。

 アフガニスタンには石油のような重要な資源がなく、クウェートのように石油収入
の恩恵もないからだ。私は別の答えも耳にする。アメリカが、あと何年かタリバンを
支援すれば、東方イデオロギーの世界に対して描かれる醜いイメージは、アフガニス
タンの近代主義のように、誰もが受け入れたくないものになるからだ。もしイスラム
の改革と再構築の解釈が、タリバンの逆行的な解釈と同じであれば、世界は永遠にイ
スラムの拡大を受け入れないからだ。この分析を月並みで陳腐だと言う人もいる。し
かし彼等は私に言わせておくし、私はそうする。

オマル師とは何者か

 終わりがないように見えるカンダハールへの道中、いたるところでタリバンの最高
指導者オマル師についての話を聞いた。彼は「信奉者の指導者」と呼ばれていた。イ
ランの政治家の中には、彼はイラン政府と競うために創られた人物だと信じる人がい
るが、誰も彼の背景について詳しくは知らない。40才で片目が見えないという人もい
るが、それを証明する写真も否定する写真もない。どうやって国家は、一夜にして片
目の男を統率者に選んだのだろう。なぜどこにも一枚の写真もないのか。私はオマル
師の映画を作りたくなってきた。政治的な理由でそれはやめたが、私の好奇心は満足
していない。

 パキスタンは武装解除の名のもとに、アフガニスタンの戦争で傷ついた人々のため
の詳細な台本を準備しているのだろうか?そして、実像を持たないオマル師と呼ばれ
る指導者のためにどんな分析によるプランで、積極的な支持を得ようというのだろう
か?誰でもない誰か、誰にも見えない誰かが、各部族・各派にリーダーがいる国の指
導者になるのだ。おそらく、これが秘密のある場所である。もし良く知られた人物が
アフガニスタンの指導者に任命されたなら、誰もが彼に反対する言い訳を言うからだ。

 

 私は国境の近くの喫茶店(チャイハネ)についての冗談を聞いた。「アフガン人の
客が来る喫茶店があった。店の中には、必要な時のために、車のワイパーを備えたテ
レビセットがあった。オーナーは画面に水をスプレーして、それをきれいに拭き掃除
していた。オーナーは、なぜそうするのかと尋ねられて答えた。国境付近にあらわれ
るイスラム戦士(ムジャヘディン)についての番組があると、いつでも彼等の敵がテ
レビに唾を吐きかける。そして、彼等がコカインを使用していて唾に色がついている
ので、画面が見えなくなってしまうから、店主はテレビにワイパーをつけたというわ
けだ」。

 アフガン人の指導者のイメージが、ひどく非難され、風刺されながらも、まだアフ
ガニスタンの統治が必要とされている場合、最良の方法は、その見かけやバックグラ
ウンドで非難されることがなく、また国境近くのワイパー・テレビにも無縁の、イメー
ジのない統治者を作り上げることだ。

 もし私が、仏像の感じた恥を恥じなかったら、わたしはこの記事のタイトルを、「ア
フガニスタン、映像のない国」としただろう。私がオマル師について尋ねると誰もが、
彼は、国の憲法として、人間の法のかわりにコーランをもたらした、この世の神の代
理人だという。彼は、その信奉者たちと同様に、極めて信心深い。彼の報酬はヘラー
トの政治家の15ドルと同じくらい安く、彼は道で死んでいく貧しい人々と同様の暮ら
しをしているそうだ。

 このイメージのない人物のイメージは完璧で、とてもアピールすることに、私は気
付いた。なぜなら東では、指導者が今日的になったり、専門家になったり、国家的、
世界的な洞察を持つことを誰も望んでいない。もし、指導者が少しでも普通人に見え
れば、人々を満足させるに十分なのだ。あるアフガン人は、自分が飢餓に苦しんでい
る時に、オマル師もいつも断食していると思うと、幸せになるという。彼は神にそん
な指導者を与えてくれたことを感謝した。

 ヘラートで、私は医学生と話した。彼は私と話しているところを見られるのを躊躇
っていた。私は彼に、アフガニスタンにいる大学生の総数を知っているかと尋ねた。
彼はしばらく歩き回ったあと、真直ぐ見つめて言った。「千人です」。「何の専攻で?」
と私が聞いた。「医学と工学だけです。」「君はどちらを専攻してるの?」と聞くと、
「理論医学です」と答えた。それはどういう意味なのかと聞くと、彼はオマル師が人
体解剖は罪だと言ったという。私は、オマル師の写真を見たことがあるかと聞いた。
彼は、ないと答え、去っていった。

 パシュトゥン語を話す難民の中で、オマル師を見たことはないが、見たことのある
人を知っているという人々に会った。オマル師のは確かに存在していて、しかもハン
サムであると信じているイランの政治家にも会った。夜はイランで眠り、昼間は国境
を越えてアフガニスタンでナツメヤシを売って生活するアフガン人のグループは、オ
マル師に魅惑されてしまったという。彼等は、オマル師は、ある夜、モハメッドの夢
を見た普通の修道士で、預言者にアフガニスタンを救うよう任命されたと言う。神が
彼と一緒にいたのなら、アフガニスタンを一ヶ月で平定してしまえただろうに。

アフガニスタンにおける国際組織の役割

 アフガニスタンでは180もの国際組織が活動しているといわれている。彼らは私の非
政治的な質問を避けていたが、最終的に私は、彼らがわずかの仕事を担当しているこ
とに気づいた。一つは、飢餓に瀕している人たちにパンを配ることだ。二つ目は北と
南の捕虜を交換することで、三つ目は地雷の犠牲者に義手や義足をつくることだ。

 国際組織の微々たる役割のことを忘れ、私は赤十字を通じてやってきた若者たちに
魅了されはじめている。私は19歳のイギリスの少女と出会った。彼女は自分が「役に
立つ」ためにやってきたと言う。彼女は毎日人々のために義手と義足を作っている。
彼女はイギリスではこんなに満足を得られる仕事はないと言った。彼女が来てから、
何百人かの人が、彼女の作った義足で歩けるようになったのだ。

 私は、国際組織の役割は、深く甚大なこの国の傷を、限られた方法で治していくこ
とだけでそれ以上のものはないと感じている。おそらくパキスタンへのビザの件で悩
まされたカマル・フセイン博士は、もう、ニ度と私に電話をかけてこないだろう。

 彼が最初に我々のオフィスにやって来た日に、どれだけ自分の仕事や努力は無意味
で、またどれほど私のアシスタントになりたいかと言ってくれたことを覚えている。
そして『カンダハール』の製作を終えた今、私は自分の職業について無力感を感じて
いる。私は文章や映画によって点された小さな知識の炎で、人類の無知の深い海を進
み分けていくことができるとは思っていない。また、人々が手や足を対人地雷で今後
50年間にわたってなくしていく国が、19歳のイギリスの少女に救われるとは思ってい
ない。なぜ彼女はアフガニスタンに行くのか。なぜカマル・フセイン博士はいまだに
国連にレポートを送りつづけているのか。なぜ私は映画を撮ったりこんなレポートを
書いているのか。私にはわからない。だが、パスカルはこう記している。「心は、理
性が気づかぬ理由を持っている」。

アフガン女性、世界で最も拘束されている女性

 アフガンの社会は男性支配である。アフガニスタンの人口の半数を担っている1000
万人のアフガンの女性の権利は、もっとも弱く無名のアフガン部族よりも低い。この
点に関して例外の部族はない。タジク族の考え方であっても、女性に選挙権がないと
いう事実はほんの小さなことである。

 タリバンの登場とともに、女子校は門を閉ざして久しく、女性は通りに出ることさ
えも許されない。もっと酷いことに、タリバンがやってくる以前でさえ、読み書きが
できるのは20人に1人の女性だった。この統計が意味するのは、アフガン文化は、95%
の女性を実質的に学校教育から引き離しており、タリバンは残りの5%を引き離したと
いうことだ。私たちは、アフガン文化がタリバンの影響を受けているのか、またアフ
ガン文化がタリバンの出現の原因なのか、考えるべきではないのか。

 私がアフガニスタンにいた時、頭からブルカを被った女性達が、通りで物乞いをし
たり中古品の店で買い物をしているのを見た。興味を引かれたのは、女性たちがブル
カの下から手を出して、行商の少年に爪を磨くよう頼んでいるのを見たことだ。長い
間、私はなぜ彼等は家で使うために爪磨きを買わないのだろうと不思議に思っていた。
後になって、それが一番安上がりの方法だったからだと気づいた。一度の使用より、
爪磨きを買う方が高かった。私は、ブルカの中の女性が、貧困に苦しんでいるのに、
ある程度自身の美しさに気を遣っているのはいい兆候だと思っていた。しかし後にな
って、ある環境や決められた服装の中で孤独に閉じ込められ、しかしまだ化粧ができ
るからといって満足だというのは、平等ではないと思い直した。

 アフガンの女性はライバルとの競争のなかで、忘れ去られてしまわぬように、常に
自分を維持しなければならない。一夫多妻制は若い男性の間では非常によくあること
で、それは、多くのアフガニスタンの家庭をハーレムに変えている。結婚するという
意味が女を買うことと同じで、結婚は高くつくものだが、私は映画の撮影中に、ある
年老いた男たちを見た。彼等は10歳の少女たちを売り渡し、その金で別の少女と結婚
するのだった。限られた財産は、一人の少女をある者から他の者へ、ある家から他の
家へ移すために動いているようだった。彼らの中には、夫と30歳も50歳も離れた歳の
女性達がいるのだ。

 これらの女性達は同じ家、または同じ部屋に住み、彼女らは征服されただけでなく、
自分でさえもその慣習に慣れてしまっていた。私はたくさんのドレスやブルカをアフ
ガニスタンやパキスタンから映画の撮影のためにイランに持ってきたことがある。時
間をかけて説得した末、エキストラとしての出演に同意してくれた多くのイラン女性
達は、お金の代わりにブルカが欲しいと言った。その中の一人は、娘の結婚式のため
のブルカが欲しいと言った。そして私は、そのブルカがイランで流行になるのを怖れ
て、誰にも一着もあげなかった。

 私が何人かのアフガン女性に映画に出てくれるよう頼んだ時、彼らの夫は、自分は
貞淑だから妻を他人に見せることなどできないと言った。私は彼に、ブルカを被った
まま出てもらうと言ったが、彼は、映画を観る人はブルカの下にいるのは女性だとわ
かるし、そうすれば貞節に矛盾してしまうと言った。

 私は幾度も、タリバンがブルカを持ってきたのか、ブルカがタリバンを呼んだのか、
自分に問いかけてみた。政治の影響で文化が変わるのか、文化が政治を変えるのか。

 イランのNiatakキャンプで、アフガン人は自ら、公共浴場を閉めた。壁の傍を通れ
ば、その壁のうしろで異性が裸になっていることがわかってしまうからで、それ自体
が罪になるのだ。

 現在、アフガニスタンには女医が一人もおらず、もし女性が医者にかかりたいと思
ったら、息子か夫、または父親を連れて行き、彼等を通して医者と話さなければなら
ない。未婚であれば、父か兄弟を連れていく。

アフガンの暴力性

 フロイトによれば、人間の暴力性は動物的欲求から生じ、唯一、文明だけがこの動
物的欲求を薄い膜で覆っている。この薄い覆いは指を鳴らしただけで裂けてしまう。
暴力は東にも西にも存在し、何が違うかというと、そのスタイルであり、存在の事実
ではない。

 斬首による死、ナイフや短剣、剣による死と、銃弾や手榴弾、地雷やミサイルでの
死の間に、どんな違いがあるだろう。ほとんどの場合、暴力に対する非難は、暴力の
方法に対する反対である。世界の不当な行為の結果としてのアフガン人の100万人もの
死は、世界では暴力とはされない。内戦とロシアとの戦争によるアフガン人の人口の
10%の死は暴力とは認められず、剣を使った首切りは、長い間、衛星TVニュースのヘ
ッドラインになる。

 人が首を切られて死ぬのを見たら、恐怖を感じるのは当然のことだが、毎日の地雷
による死が、同じ感情を与えないのはなぜなのだろう。何故ナイフは暴力で、地雷は
そうでないのか。近代的西側諸国が批判するアフガンの暴力は、形であって本質では
ない。西側諸国は仏像のために悲劇的なストーリーを作ったが、100万人の死は統計を
満足させただけだ。スターリンも言った。「人一人の死は悲劇だが、100万人の死は単
なる統計に過ぎない」。

 アフガニスタンは部族主義に傾倒する国で、部族の秩序が国を支配している。これ
らの部族は外国の支配に激しく抵抗した。にも関わらず、部族の間の利害の衝突から
は利益を得た。アフガニスタンは人種と部族の博物館だと言われるが、旅行者はこの
博物館を訪れない。アフガニスタンを通り過ぎたのは、インドを征服しようとしたナー
デル・シャーであり、石油を求めに来たソ連人である。つまり、自然の過酷さが教え
た荒々しいアフガンは、外国の暴力にもつねにさらされていたのだ。

アフガニスタンでの戦争の結果

 アフガニスタンは250年前にイランから独立し、約150年前、あるいは他の出典によ
ると82年ほど前に、その国境がデュアランド線で決定した。77年前には、未熟な近代
主義に遭遇した。20何年か前には、ソ連に侵略され、過去10年間は内戦の渦中にあっ
た。アフガニスタンの人口の約40%が、悲劇にも殺されたり、難民となっている。

 それにもかかわらず、この国とその人々は無視されたり、脅威とされたり、または
他国への脅威の手段として使われたりしてきた。国境を通った時、私はイランの大砲
がアフガニスタンに向けられているのを見た。そしてアフガニスタンに入った時、今
度は大砲がイランに向けられているのを見た。この大砲は、両国が、互いに脅威だと
思っていることを示唆している。

 国境の反対側で、アフガンの地方の軍司令官がイランの領事に電話し、自分達の家
は土でできているのだが、イランの大砲は何を狙っているのかと聞いた。彼が言うに
は、「最悪なのは、我々の家を砲撃することです。雨が降れば、我々に家は濡れた泥
でもう一度立て直せますから。でももし我々の大砲があなた方の美しい家を壊したら、
気の毒ではありませんか。雨が降っても、ガラスや鉄やセラミックを作ることはでき
ませんよ。私たちのために、こっちへきて、ヘラートへの道を作りませんか?」。

 Dogharoonからヘラートまで、車に乗っている時、まるで荒れ狂う海を航海している
ようだった。ペルシャ湾で映画を撮っている時に、嵐に遭った時のことを思い出した。
波が我々の小さいボートを何メートルも持ち上げ、そして水面にバチャンと叩き付け
た。船主は、もし船が転覆したらおしまいだと言った。そして今その波を再び目にし
ている。が、それは埃の波だった。道路の最初のところで車は下り坂を進み、中間く
らいで今度は上り坂を上り、車は埃の波に激しくぶつかるのだ。この地域は平坦で、
アフガニスタンの山間部に含まれていないのだが、この道路はイランの曲がりくねっ
た道路よりもひどかった。

 その波よりも高いところで、スコップを持った男たちと少年たちがじっと立ってい
た。目で確認できる限り、スコップをもった男たちは現実だった。我々の車が彼等に
近づくとすぐに、彼等は道をよくするために溝を泥で埋め始めたので、私たちには無
価値なアフガニスタンの紙幣を彼等に投げた。『ワンス・アポン・ア・タイム、シネ
マ』(*マフマルバフ監督/1991年度作品)の葉っぱのダンスを見るように、私は埃の
中の彼等を見た。それは、埃の中に消えていくスコップを持った男たちのシーンで、
彼等は何もないところから仕事を作り出していた。これは、アフガニスタンで見た、
もっとも非現実的な光景だった。

 私は運転手に、一日に何台の車がこの道を通るのか、聞いた。彼が言うには「だい
たい30台だね」。私は、スコップを持つ何千もの男たちがたった30台の車のために集
まるのかと聞いたが、運転手は運転に集中していて、私に答える雰囲気ではなかった。
ゆっくりと私はラジオをつけた。私がラジオを聞いたりテレビを見たりしなくなって
から、何年もたっていて、新聞さえ、何カ月も読んでいなかった。2001年の9月23日、
2時のイランのニュースが流れてきた。200万人のイランの子どもが入学したと聞いて、
泣きそうになった。学校に行く子ども達の幸せからなのか、アフガニスタンで学校に
行かない子どもたちの悲しみからなのか、私にはわからない。

 道路を見て、私は映画を観ているような感じを受けた。運転手は、これらの家々で
は、女子学校がひそかに作られ、何人かの少女たちが家で勉強していると言った。私
はここに映画の題材があると考えていた。私はヘラートに到着し、女性がブルカの下
から爪を磨いてもらっているのを目にした。私は自分に、ここに映画の別の題材があ
ると言い聞かせた。私は役に立ちたくて危険なアフガニスタンにやってきた19才のイ
ギリスの少女を見た。私はまた、ここに映画の別の題材があると感じた。私は地雷の
ために足をなくした不具の男たちが荷を担ぐのを見た。彼等の一人は人工の義足の代
わりに体の左側にスコップを結び付けて歩いていた。私は自分に言った。ここにもま
た別の題材がある。

 私はヘラートに着き、死んだ人々がカーペットのように通りを覆っているのを見た。
私はもはや、映画の題材とは捉えられなかった。私は映画をやめて、ほかの職業を探
そうと思った。アフガニスタンの軍司令官マスードが、自分の子どもたちに将来どう
なってほしいか聞かれた時、彼は「政治家」と答えた。解決策としての戦争は死をも
たらすだけだという結論に達したということだ。彼は、アフガニスタン救済の解決策
は、軍事的ではなく、政治的なものだと考えている。私の意見では、アフガニスタン
の唯一の解決は、種々の問題の厳密な同一化と、アフガニスタン自身にとっても他国
にとっても曖昧でイメージのない、この国の本当の姿を提示することである。

雇用危機の解決

 工業国では、国内市場が製品で飽和状態になった後で、国際市場に進出した。彼等
の消費に対して金を支払うことで、非工業国は製品やその他、安い労働力などを提供
した。このゲームの中で、アフガニスタンは、地理的に山が多く道路も発達していな
いことから、効率良く原料の開発を行うことができなかった。

 誤った管理、農耕時代からの人口の離散、部族主義による非協同などによって、ア
フガニスタンは他国の製品やサービスに対して労働力を提供する可能性を持っていな
かった。すなわち、アフガニスタンは世界の生存競争から距離をおき、牧草地からの
取るに足らない富によって生きていた。ソ連の登場は国内全土の反応を呼び、農民が
戦士になることで終わった。ソ連は撤退したが、戦士は農民に戻ろうとしなかった。

 一方では、権力抗争によって内戦が拡がった。それから不安定と移民が増大した。
アフガン移民の30%は他国でよりよい生活を経験したため、再び周期的な干ばつに脅
かされる牧草地に頼った生活をしたいとは思わない。アフガン人は、より市民的な暮
らしを欲している。これは、歴史的に遅れて来た者であるアフガニスタンが、世界取
引に加わる必要を宣言したということだ。

 何が手っ取り早い富なのか、それは生産-消費、またはその逆の世界経済に参加でき
るようになって得られるものだが。まちがいなく、その答えはアフガニスタンの安い
労働力である。山が多く道のないアフガニスタンで原料を開発するよりも、労働力は
ずっと手に入れやすい。アフガニスタンの主要な見通しは、まず軍事政治的なプリズ
ムを取り除かねばならない。そして経済的な方向の見通しを立てることが必要である。
もし雇用が、現在の様々な危機の根本的・最終的な解決策として広がれば、アフガニ
スタンは世界経済に参加でき、国際的な生存の輪に入れるだろう。そうすれば本当の
分け前を得られ、労働者に賃金を払え、今日の文明と近代主義の恩恵を受けることが
できるだろう。これと同じことが、毛沢東の中国、ガンジーのインドで経験され、そ
して非常に勤勉な日本でも成功を収めた。

 このようによく見通せば、アフガン人の病気は大きな不幸ではない。それは、アフ
ガン人医師からすれば市場である。医師の不足は災難ではなく、数カ月間教育された
医師のアシスタントの市場である。飢餓は災害ではない。パンの消費の市場だ。パン
の不足は災難ではなく、小麦の市場を示す。小麦の不足は災難ではなく、荒れ果てた
水路を活用するチャンスなのだ。

 労働者が水路を活用するといえばダムを意味する。労働者がダムを作れば小麦がで
きる。小麦はパンになる。パンに飽きる。飽きれば余剰がでる。それは発展を意味す
る。発展は文明だ。

 スターリンが言った。「一人の死は悲劇だが、100万人の死は統計にすぎない」。

 私の娘ハナと同い歳の12歳のアフガンの少女がお腹を空かせて私の腕の中で震えて
いた姿を見て以来、私は飢餓の危機を前面に訴えたかったのだが、いつも統計を出す
にとどまっていた。なんてことだ!なぜ私はアフガニスタンと同様に無力なのだ?私
は、この詩と同じように、この夢想と同じように、ヘラートの詩人と同じようにどこ
かに消えたいと思い、バーミヤンの仏像のように恥のために崩れ落ちたいと感じてい
る。

私は歩いてきた。歩いてここを立ち去ろう。

子ぶたの貯金箱を持たない見知らぬ人はここを立ち去る。

人形を持たない子どもはここを立ち去る。

私の流浪の呪縛も今夜、とけるのだろう。

何ものっていないテーブルは折りたたまれる。

苦しみの中で私は地平線をさまよい歩いた。

さまよい歩く人はみな私なのだ。

私の持たぬもの。 私は横たわり、ここを離れる。

私は歩いてきた。歩いてここを立ち去ろう。

2001年3月

この記事で使用した統計は、主に国連統計(インターナショナル・ニュース・エージ
ェンシー)の出版物によった。さらに、アフガン専門家が異なった数値を提出してい
る場合を除いては、イラン外務省グリーンブックも出典として使用している。しかし
ながら、最近の国連の統計は、アフガニスタンの悲劇が拡大しており、毎分毎により
痛ましい状況になっていることを伝えている。

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by K.MAEDA

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