オサマ・ビンラディンとCIAの愛憎関係   田中 宇

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投稿者 dembo 日時 2001 年 11 月 06 日 09:45:08:

オサマ・ビンラディンとCIAの愛憎関係
2001年11月5日  田中 宇
http://tanakanews.com/b1105osama.htm
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 オサマ・ビンラディンといえば、アメリカにとっては9月11日の大規模テロ事件を起こした仇敵であるはずだが、そのビンラディンが今年7月、中東ドバイのアメリカン病院に腎臓の病気を治療するため入院し、入院中にアメリカCIA要員やサウジ高官などが面会に訪れていたという。

 このニュースは、フランスの新聞「ル・フィガロ」(Le Figaro)などが先日、フランス政府の情報機関からの情報として報じた。フィガロによると、ビンラディンの腎臓病はアフガニスタンの隠れ家に携帯用の透析機を持ち込み、主治医をつけているほどの病状で、ビンラディンは主治医と看護婦(看護士?)、側近、4人の護衛を連れ、パキスタンのクエッタからドバイ入りし、7月4日から14日まで入院した。

 アメリカン病院のトップは、他の報道機関の後追い取材に対し、ビンラディンは病院に来ていないとコメントしているが、フィガロによると、入院中のビンラディンと面会した人々の中には、サウジ政府の情報機関のトップを務めていたタラキ・アル・ファイサル王子(Turki al Faisal)も含まれていた。タラキ王子は以前からビンラディンとタリバンを支持する人物として知られていたが、ビンラディンとの面会後、9月11日の大規模テロ事件までの間に、情報機関トップの地位を解任されている。

 ビンラディンは何年も前から、対米テロの首謀者としてCIAをはじめとする米当局が行方を追っていたはずだ。そのCIAが、ビンラディンに接触したのに逮捕もせず、そのままアフガニスタンに帰してしまったとしたら、CIAとビンラディンとは、実はグルだったのではないか、もしくはわざとビンラディンを逮捕せずにいたのではないか、と疑われることになる。

▼アラブの煽動?フランスの便乗?それとも・・・

 ビンラディンとCIAは1980年代、ソ連軍がアフガニスタンを侵略していた際に、ソ連という共通の敵に対抗するため連絡を取り合っていたことが、イギリスやパキスタンの政府関係者によって確認されている。その後、両者は仇敵になったというのがアメリカ側の見解だが、フランスの情報機関は、両者が本当に敵同士になのかという点に疑問を投げかけている。その疑惑を裏付ける証拠がビンラディンによるアメリカン病院への入院であるという。

 フランスの報道を転電したイギリスの新聞ガーディアンは、フランスはアメリカがアフガニスタンに続いてイラクにも新たな攻撃を加えようと計画しているアメリカを抑えるため、このような情報を流したのではないかと指摘している。(フランスは、イラクから石油を買って儲けている自国企業の利益を重視している)

 今回の報道にはフランス政府の反米的な思惑が感じられる上、ビンラディンがアメリカン病院に入った日付がアメリカ独立記念日の7月4日になっており、偶然というより象徴的な作り話のようにも思われ、アラブの反米イスラム主義者が流した根拠のない煽動用の話にフランス当局が便乗したという感じもする。

 しかし一方で、私がフランス発のこの報道を一蹴できないと思ったのは、この報道の前から、タラキ王子が8月ごろにサウジの情報機関トップを解任されたことが、9月の大規模テロ事件の予兆的な出来事にみえるので不可思議だ、とされていたことである。

 この不可思議さを9月中に指摘したのはイギリスのエコノミスト誌だった。同誌はビンラディンをめぐる報道に関してはアメリカ寄りに徹している。そんな同誌でさえ、タラキ王子がビンラディン寄りであることを示唆しながら、解任は不可思議だと論評していたのだから、ビンラディンとの面会が解任のきっかけだとするフランス当局の指摘を一笑に付すことはできない。

 ちなみにこの報道はフランスとイギリス、オーストラリア(シドニー・モーニングヘラルド)、台湾(タイペイタイムス)などでは報じられていたものの、アメリカの主要新聞では全く報じられていない。英語のYahoo!のニュース検索で「ビンラディン+ドバイ」で調べた結果も、それらしい記事はない。日本では、共同通信がこの件を報じていた。

▼スーダンが差し出したビンラディンを受け取らなかったCIA

 アメリカがビンラディンを捕まえることができたのに、わざと捕まえなかったという指摘は、ほかからも出ている。アフガニスタンに亡命先を変える前の1991−96年にビンラディンはスーダンに亡命していたが、当時のスーダンのエルワ国防大臣(Elfatih Erwa)が1996年にアメリカを訪れ「ビンラディンを引き渡すから、アメリカの裁判所で裁いてくれ」とCIAに掛け合ったが、断られたという話である。

 これはアメリカの雑誌「ビレッジボイス」が報じたもので、CIAとの交渉に当たったエルワ氏自身の話として紹介されている。

 当時すでに米当局は、1994−96年に連続して起きたサウジアラビアの米軍施設へのテロ攻撃はビンラディンが引き起こしたと断定していたが、ビンラディンを裁判にかけるとなると、法廷でビンラディンの有罪を引き出せるほどの証拠がなかったため、ビンラディンの引き取りを拒んだという。

 ビンラディンは、湾岸戦争で米軍に頼ったサウジ王室を批判して1991年に母国サウジアラビアを追われた後、支持者らを引き連れてスーダンに亡命した。彼はスーダンで企業経営を展開して資金を蓄える一方で、対米テロ活動のためのテロリスト養成所も運営していたと米当局は断定している。スーダン政府は、ビンラディンの組織が政府の力も及びにくい「国家内国家」になっていったため危機感を持ち、ビンラディンを国外に出したいと考えてCIAに持ちかけた。

 アメリカは自国で引き取る代わりに、サウジアラビアに対してビンラディンを引き取って裁くよう求めたが断られた。サウジアラビアにはビンラディンの支持者が多かったので、ビンラディンがサウジに戻れば、裁判にかけられるどころか、サウジ政府を倒してしまう勢力になりかねなかった。

▼ソマリアだけには行かせるな

 アメリカに断られてしまったため、スーダン政府はビンラディンに行きたい外国に出国してもらう道を選んだが、その際アメリカは「ソマリアだけには行かせるな」とスーダン政府に求めたという。

 ソマリアは1993年に内戦が激化してアメリカが介入したが、それをみたビンラディン一派は、ソマリアをアメリカにとっての「第二のベトナム」的な泥沼の戦争にしてやろうと考え、1980年代のアフガン戦争で培った「アルカイダ」のネットワークを使って中東諸国などから元アフガンゲリラたちを集め、ソマリアに向かわせた。

 アメリカはビンラディンの策略に乗らず、米軍に30人の戦死者が出た段階でソマリアから撤退した。こうした経緯から米当局は、無政府状態にあるソマリアにビンラディンが入り込んで勢力を拡大し、米軍が手出しできないままテロリストが力を蓄えるのを恐れ「ビンラディンの行き先はソマリア以外の国にしてくれ」とスーダンに頼んだのだと思われる。

 ビンラディンはアフガニスタンを次の亡命先に選び、飛行機をチャーターして武器や資金、支持者らをすべて乗せ、アフガニスタンに移動した。タリバンを支援していたパキスタン政府は、資金を持ったビンラディンが来てくれたことを喜んだが、彼らもまたビンラディンの戦略に巻き込まれることになった。

▼タリバンもビンラディン引き渡しに前向きだったのに・・・

 スーダンに頼まれた際、アメリカがビンラディンを引き取っていれば、9月11日の大規模テロ事件は防げたわけだが、実はCIAは98年にもビンラディンを捕捉するチャンスを自ら逃している。前出のサウジのタラキ王子が98年6月にタリバンの最高指導者オマル師と会い、ビンラディンをサウジアラビアに引き渡す交渉をした。オマルは引き渡しに前向きだったのだが、この2ヶ月後、アフリカのケニアなどで米大使館同時爆破テロが起こった。(AP通信の記事)

 アメリカはこの事件をビンラディン一派のしわざと断定し、テロの2週間後にアフガニスタンとスーダンの「ビンラディン関連施設」とおぼしき場所にミサイルを撃ち込んだ。タリバン政権は「ビンラディンが犯人だという証拠も示さず、わが国の領土を攻撃した」と激怒し、ビンラディンの引き渡し交渉も無に帰した。アメリカ側がいきなりミサイルを撃ち込まず、タリバンとの交渉を続けていたら、展開は変わっていたかもしれないが、アメリカはその道を選ばなかった。

 これらのことをアメリカの作戦失敗と考えることもできるが、CIAはビンラディンを捕まえたくなかったのではないかとも思える。前出のビレッジボイスの記事でも、アメリカはサウジとの友好関係を重視して、ビンラディンの逮捕を見送ったのではないかと考察している。

 またCIAは1960年代から、敵の勢力を完全につぶさず脅威として残しておくことで、アメリカ政府にとってCIAが大切な存在であり続けられるようにしてきたことでも知られている。ビンラディンは今や、こうしたCIAの戦略の裏をかき、アメリカが手に負えない巨大な敵となってしまった。

【注】「ビンラディンは名字ではなく、ラディンの息子という意味でしかない。ビンラディンと呼ぶのは間違いだ」と言う人がいるが、オサマの父親や親戚は皆、名前の最後に「ビンラディン」をつけており、一族の建設会社の名前も「サウジ・ビンラディングループ」であることから、ビンラディンという名称がすでに一族の名字として使われていることがうかがえる。詳しくは光文社新書の拙著「タリバン」を参照。

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