んで、こうなるわけですね。アフガン人と米国人、どちらの命が重いか(ロバート・ライト,Slate)

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投稿者 dembo 日時 2001 年 11 月 14 日 17:43:52:

回答先: Re: 死んだ「世界市民」の幻想 (アン・アップルバウム,Slate) 投稿者 あっしら 日時 2001 年 11 月 14 日 16:29:14:

アフガン人と米国人、どちらの命が重いか(ロバート・ライト,Slate)
2001 年 11月 8日
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=83570

★ブッシュ君は 色付き人種だけでなく 自国の下々の人の命もホントはなんとも思ってないでしょ...

米国にとって米国人兵士1人の命の重さは、アフガニスタン市民の何人分に相当するのだろうか。ブッシュ政権は公式発表を行っているわけではないが、非公式「見解」といえるものなら彼らの軍事戦略から推測できる。それは、「1人の米国人兵士を失わなくてすむなら、大量のアフガニスタン市民を殺してもやむなし」という戦略だ。しかしこれは、米国が今回の戦争を正当化している目的と矛盾している。その高邁な目的は、テロ行為の否定、つまり宗教や人種、国籍によって人に優劣をつけたり、政治的目標達成のために人命を軽視することは間違っているということを示すことにある。この戦争は、そうした道徳的普遍性を踏みにじる行為を糾弾するために始められたはずなのに、どこかまちがっているのではないだろうか。


「1人の米国人兵士の命を失わなくてすむなら、アフガニスタン市民を殺してもやむをえない」という姿勢は、米国の戦略のさまざまな面に反映されている。
はるか上空から爆撃を行うことで、パイロットは身の安全を確保できるが(場合によっては)誤爆の危険性が高まる。
北部同盟に対する超低空からの支援(攻撃の精度は高いが、迎撃を受ける可能性の大きいヘリコプターによる攻撃も含めて)を今のところ拒否しているが、こうした支援は戦争の早期終結につながり、ひいては爆死や餓死するアフガニスタン国民の数も抑えられる可能性がある。
特殊部隊も含め大きなリスクのともなう形での地上部隊投入を今のところ避けているが、あえて投入することで戦争終結を早められるかもしれない。
ブッシュ大統領がアフガニスタン市民の命よりも米国人兵士の命を重んじていることは、驚くにあたらない。何といっても彼は米国の大統領なのだし、自国民の命を第一に考えるのは、彼の立場からすれば当たり前のことだ。そうは言っても、相手も同じ人間であるからには、命の軽重を考える際にも、道徳的な限度というものはあるはずだ。たとえば、オサマ・ビンラディンを殺害するためにアフガニスタンに核爆弾を落とすなどと言い出せば、大半の米国民はこれを認めないだろう。
では、一体何をもってその限界を決めるのか。もちろん、人によって答えはさまざまに異なるだろう。

●ベトナム以降誕生した「聖域」
空爆が始まって3週間たつというのに、アフガニスタン国内の戦闘でまだ1人の米国人も命を落としていないという事実(編集部注:11月2日の時点)は、米国が自国から犠牲者を出すことを極端に避けていることの表われだと思わざるをえない。仮にこの間、危険を承知でリスクの高い行動に出ていたなら、戦略的に大きな収穫を得られたかもしれないのに、である。それはまるで、「米国人兵士の犠牲を避ける」ことが侵すべからざる聖域と化したかのようだ。一方で、多くのアフガンの民間人が犠牲となっており、その数はさらに増えつつある。この事実からは、アフガニスタン人の命に対して、米国が自国民に対してとはまったく異なる考え方をしていることがうかがえる(この事実は、かつてタリバンが使っていたが現在は撤退していることがほぼ確実な建物など、大して重要と思えない建造物まで爆撃の対象となっていることを考えれば、なおさら衝撃的だ)。
もしかするとブッシュ大統領は、道徳的偏見に陥っているのではなく、単に政治的勇気を欠いているだけなのかもしれない。
ベトナム戦争以降、歴代の大統領は、米国人が犠牲になることを極端に恐れてきた。9月の議会演説でブッシュ大統領は、自分はその伝統にはとらわれないと言明した。クリントン前大統領を臆病呼ばわりしたとも受け取られかねない口調でブッシュは、アフガニスタンでの戦争は、「地上戦を行わず、戦闘で1人の米国人も犠牲になることのなかった2年前のコソボに対する空爆とは異なる」ものになるだろうと述べた。
ところが今のところ、ブッシュ大統領はクリントンとほぼ同じようにリスクを回避した形でしか戦いを進めていない。だが、クリントンのときと状況は異なるのだ。最近の世論調査によると、国民は米国側に数千人もの犠牲者が出ることをいとわないという結果が出ている。さらに、今回は、軍事行動による「巻き添え損害」への嫌悪感が世界中に広がりつつある。戦争が何ヵ月も続くようなことになれば、その嫌悪感はさらに増幅し、パキスタンのムシャラフ政権のような米国に協力的な政権にとって脅威となりかねない。
米国には兵士を危険にさらす勇気が欠けている、とトークショー司会者のビル・メアーが発言したとき、ブッシュ政権は事実上、彼を非国民だと非難し、今は国民全体が口を慎むべきときだとたしなめた。だが、メアーに非があるのかどうか、ブッシュ政権はまだ証明できていない。

●外国人の命の重さ
これまで驚くほどリスク回避の軍事戦略をとってきた米国だが、この事実をもっと寛大に解釈して、ブッシュは政治的に臆病なのではなく、同胞である米国人が命を落とすことに対し道徳的な意味で苦しんでいると考えることもできる。だが、この解釈でもまだ好意的にすぎる可能性もあるのだ。先にも述べたとおり、米国大統領なら誰でも米国民の命を重視するだろう(どの程度まで重視することが道徳的に許されるのか、について世間的に受け入れられた見方が存在するわけではないのだが)。それでも、そもそも今、米国が戦っているのは、「外国人(たとえばテロリストから見たアメリカ人)の命を軽視してはならない」という道徳的な信念に基づいたものだったはずだ。
オサマ・ビンラディンは確かに、外国人の命など無視しても構わないと考えている。なぜ何千人もの人々の命を奪ったのかと尋ねられれば、彼らの死など最終目標ではないと、間違いなく答えるだろう。彼の目標は米国人の注目を集め、米国の将来の行動を変えてしまうような罰を与えることにあった、と答えるはずだ。何千もの人々の死は「巻き添え被害」、つまり目標達成のために、戦略上避けて通ることのできない付随的な成り行きだった、とさえ言ってのけるかもしれない。
米国が問題にしているのは、「ビンラディンの目標が正しいかどうか」ではないはずだ。たとえば、米軍のサウジアラビアからの撤退を望むこと自体は道徳的に間違っているわけではない。さらに、すべての人類をイスラム教徒に改宗したいと願うことも邪悪な目的とはいえない(それに、人類をすべてキリスト教徒に改宗したいと考えている米国人だって何百万人もいる)。邪悪なのはビンラディンのやり方であり、大量の巻き添え被害(要するに殺りく)も政治的目標達成のためには許される、とするその考え方だ。
ビンラディンのこうした考え方に、米国民は強く反発しているとされている。しかし、今度の冬が終わるまでに、戦争のために何千人ものアフガニスタン人が、一部は爆撃で、残りは飢餓により命を落とすようなことがあれば、米国の主張もさほどの説得力を保てないだろう。国連関係者によると、マザリシャリフ周辺で続いている戦闘だけでも、遠からず大量の餓死者を出すことになりかねないという。米国は戦闘の当初から北部同盟に対し、マザリシャリフを奪還するよう促してきたが、今のところそれを支援するために米国人兵士を危険にさらすところまでは踏み込んでいない。
先ほどからの筆者の比較に対し、「米国は、ビンラディンと異なり、もともと民間人を殺害することが目的で爆撃を行っているのではない」という反論が聞こえてきそうだ。確かにこの違いは大きい。だが、ドナルド・ラムズフェルド米国防長官は、巻き添え被害は回避できないと発言している。つまり、米国もビンラディンと同じで、アフガニスタンの民間人の犠牲を伴うと知りながら戦争を始めたことになる。つまり民間人の犠牲は、米国が目標を達するため、戦略上、避けて通ることができなかった、ということになるのだ。(だがこれは、ビンラディンのやっていることとどこが違うのだろう。)

●ブッシュとビンラディンの道徳観
別の反論もあるだろう。実際には反論というよりも、言いがかりのようなものだ。つまり、筆者はブッシュ大統領とオサマ・ビンラディンの立場に「道徳的な違いはない」とみなしているというのである。こうした主張の前では(今回の戦争に批判的な人たちが「ビンラディンのご機嫌取り」と言われるのと同様)、筋の通った議論は成り立たない。
この種の反論に対しては、こちらも先制攻撃で応じることにしたい。そこで、ブッシュ大統領とオサマ・ビンラディンに道徳的な差はないとするさまざまな主張のうち、ひとつを紹介しよう。
「アフガニスタンでの戦争は、何千人もの虐殺への報復として始まった。これが虐殺であることは、世界中で分別ある人ならほとんど誰もが同意するだけでなく、国際法に照らしても間違いない。オサマ・ビンラディンは、彼を報復に至らしめた米国の行為について、米国と同様の主張をすることはできない」というものだ。
つまり、米国は原則的に道徳的に弁明可能な戦争を続けているわけだ。米国にとり、望ましいのは今後もその状態を維持することである。
筆者の主張は、歴史を引き合いに出したほうがわかりやすいかもしれない。
人類の歴史が始まって以来、多くの人々は、外国人の命をはなはだしく軽視しても問題ないと考えてきた。ギリシャの歴史家プルタルコスによると、アリストテレスはアレクサンダー大王に対し、ギリシャ人でない者を「植物か動物ででもあるかのように」扱うよう忠告したという。この忠告から2000年後にもヨーロッパ人はまだ、たとえばアメリカ・インディアンなど一部の外国人をまるで植物か動物ででもあるかのように扱っていた。
だが現代の米国人は、もはやアリストテレスのような考え方はしない。米国では人種、信条、国籍にかかわらず誰しも人間として尊敬に値すると考えられている(この考え方は、グローバルな商取引のロジックの一部とも化しており、グローバリゼーションを擁護する役目も果たしている)。つまり米国は自らを道徳的な普遍性を主唱する国家と認識しているわけである。だがオサマ・ビンラディンはこうした考え方はしない。彼の場合は、宗教が違うとか、あるいは居住する国の政府が気に入らないからという理由で、その国の人たちの命を徹底的に軽視してしまうのだ。そんなビンラディンは、道徳的に言って原始時代の遺物にほかならない。まるで人類が何千年もかけてようやく脱した時代に逆戻りしたような錯覚を与えるほどだ。
本来、米国が戦っているのは、この道徳的普遍性を守るためだったはずだ。それは、宗教や人種、国籍ゆえに人に優劣をつけることをせず、政治的目標達成のために人の命を平気で軽んじることは間違っているという思想である。少なくとも、筆者は米国のためにそう主張したいと思う。だが、アフガニスタン市民の犠牲者が多くなればなるほど、またそれに比べて米国人兵士の犠牲者数が少ないほど、筆者の主張も説得力を失い、米国もオサマ・ビンラディンと道徳的に近くなってしまう。まったく同じレベルに堕すことはありえないとしても、それは米国にとり大した慰めにはならない。
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(翻訳:畑 佳子 MSNジャーナル編集部)


関連リンク

Moral Equivalence
By Robert Wright
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=71633
MSNジャーナル 米国対テロ戦争特集


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