ユルゲン・ハーバーマス“21世紀最初の戦争”を語る (訳)

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投稿者 dembo 日時 2001 年 12 月 08 日 15:41:40:

☆↓以前佐藤さんが投稿されたハーバーマス氏のスピーチを翻訳していただいたものです

ユルゲン・ハーバーマス“21世紀最初の戦争”を語る
佐藤雅彦 日時 2001 年 11 月 30 日 16:28:25:

●1930年代のドイツで反ファシズムの論陣を張ったフランクフルト学派。
 その“生き残り”である社会哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏(1929年
 生まれだから今年72歳)が先日フランクフルトで出版業界主催の平和賞
 を受賞したおりに、昨今の米英による“文明の野蛮”戦争を論じたスピーチ
 を行ないました。以下はその講演記録です。


「信仰と知----一つの始まり」

 ドイツ書籍出版・販売協会平和賞受賞記念演説(ユルゲン・ハーバーマス)
(フランクフルト、聖パウロ教会、2001年10月14日)

2001年10月15日付・南ドイツ新聞記事による
http://www.sueddeutsche.de/aktuell/sz/artikel86740.php


 目の前の現実があまりにも圧倒的で、論じようにもいわば手に余るほどのとき、私たち知識人の中でもジョン・ウェインのごとき人間というのは、互いに早撃ちの腕を競いたいという大きな誘惑に当然のように駆られるものです。
 つい最近、私たちは、人間の「道具化」、さらには「最適化」なる目標に向けてまでも、遺伝子技術に従ってよいものなのか、どこまでそうしてよいのかについて意見が分かれていました。この論点に向けた最初の一歩からして、二つの信仰勢力を代弁する者たちの間で戦いが勃発しています。すなわち組織的な科学と宗教とです。前者は反啓蒙主義、および懐古的心情の残滓からなるかたくなな科学不信を懸念し、後者は、道徳を蝕む粗野な自然主義に基づく科学技術進歩信仰に反対する立場をとります。
 しかしながら、9月11日に、世俗社会−宗教間の緊張はまったく異なる形で爆発しました。民間の旅客機を生きたミサイルに変え、西欧資本主義文明の城塞に向かった自爆殺人犯らは、アッタ容疑者の遺書から分かるように、宗教的確信に動機付けられてそうしたのでした。彼らにとって、グローバル化する近代の象徴たるあの建築物は、大いなるサタンの具象化だったのです。
 しかし、私たち「黙示録的な」事件の目撃者は、テレビ画面を見るにつけ頭に浮かんでくる聖書的なイメージをどうしても振り払えずにいたのです。「報復」という言い回しが最初は----繰り返しますが、「最初は」----それらの事件への反応としてアメリカ大統領に用いられておりましたが、ここには旧約聖書的な響きが漂っていました。あたかも、昏迷の一撃が世俗社会の最も深い核心のところで宗教的な心の琴線に触れたかのように、どこのシナゴーグも教会もモスクも人で一杯になりました。この隠れた一致がこれと裏返しの関係にある憎悪という態度に転じてしまうことは、三週間前にニューヨークスタジアムで行われた多宗教的追悼式典では回避されました。

 宗教的な言葉使いが多用されるにも関わらず、原理主義なるものは周知のごとく全くもって近代的な現象です。イスラム教徒だった犯人たちに関して、直ちに目を引くのは、彼らの持つ動機と、その手段との間のアンバランスでした。このアンバランスは、犯人らの故国における急速かつ根本的な近代化の結果、その文化と社会の間に生じたアンバランスを反映しています。
 もっと幸運な条件下であれば、創造的な破壊の過程として経験されていたかもしれないその近代化ですが、実際には、伝統的な生き方の崩壊に伴う苦痛を十分に慰めることのできる見通しを何ら提示することなく、行われたのです。物質的な生活状態の改善などという見通しは、そうしたものの一つでしかありません。決定的なのは、西欧では政教分離という形で政治的に表現されている精神的変化なのですが、イスラム圏においては、それは堕落であるという感情から進展が阻害されています。
 ヨーロッパもまた、近代性というヤヌスの両面を賢明に調整する仕組みを作り出そうと何世紀も費やしたのですが、それでもなお「世俗化」には強い両義的感情が伴います。バイオテクノロジーを巡る論争を見れば明らかでしょう。頑迷な通念がある点では西欧も中近東やもっと東の国々と同じであり、キリスト教徒やユダヤ教徒にもイスラム教徒同様にそうした頑迷さがあるのです。したがって、文化の相克を避けようと願う者は、私たちがまだ解決するに至っていない西欧の世俗化プロセスの弁証法を思い起こさなければなりません。
 「テロリズムとの戦争」とは何ら戦争ではなく、テロリズムの中にもまた----ここで「も、また」を強調したいと思いますが----テロリズムの中にもまた、世界がすでに衝突を起こしており、それが語られないこと自体が破滅をもたらしかねないということが表現されています。世界は軍事力に抗するテロリストたちの無言の暴力を超えて、それを語る共通の言語を育てねばならないのです。際限のない市場経済を貫徹するグローバリゼーションの代わりに、私たちの多くは、政治なるものがもっとちがった振る舞いの形に立ち戻ることを望んでいます。かつてあった夜警国家のグローバル化された形にではなく、したがって警察や情報機関や、今となっては軍事力までもですが、そうした形にではなくて、世界全体を文明化する建設的権力としての形にです。
 目下、私たちの手にはなけなしの理性と無いに等しい自制の能力とに対する青ざめた希望以外、何も残されていません。共通の言語を見出せずにいたことのツケが、私たち自身の家にも亀裂をもたらしているからです。私たちは、世俗化があさっての方へ脱線する危険に目測で対処するしかないのですが、それも、私たち自身のポスト世俗化社会において世俗化が持つ意味を明確にした上でのことです。

 こうした狙いを視野に収めて、今日はある一つの古いテーマ、すなわち信仰と知に立ち帰ろうと思います。とはいえ、ある人は席を立ち、ある人は座ったままでいるような、場を二分してしまう素人垂訓を期待してはいけません。

 まず「世俗化」という言葉ですが、これは、教会から世俗国家権力への強制的資産譲渡という法的な意味を持っていました。その後、広く一般に文化・社会の近代化を指すようになります。それ以来、「世俗化」という言葉は次の相反する二つの価値判断に結び付くようになりました。一方では、教会の権威を世俗権力が巧みに飼い慣らしているという肯定的含意が強調され、他方では、むしろ不法な強制譲渡行為という否定的含意が強調されるという。
 前者の解釈によれば、宗教的な考え方や生き方は、理性に基づく、ともかくも優越的な代替物に置き換えられていることになります。しかし後者の解釈によれば、そうした考え方や生き方の近代化は不法に盗みとった贅沢と見なされます。「置き換え」モデルは脱呪術化された現代に進歩的・楽観的な意味を付与し、他方では「強制譲渡」モデルが根無し草の現代に衰退・堕落の意味を付与します。
 しかし、私は双方の見解とも同じ間違いを犯していると考えます。双方ともに、世俗化というものを、資本主義によって引き起こされた科学技術の生産力と、宗教や教会になおも残された力との間で繰り広げられる一種のゼロサム・ゲームのように考えています。

 こうしたイメージはポスト世俗化社会には、もはや通用しません。ポスト世俗化社会は世俗化を続けていながらも、終始一貫、宗教的コミュニティの存続を許しているのですから。そしてほとんどの場合、こうした偏狭すぎる見方は、民主主義に目覚めた良識が果たす文明化の役割を見落とします。良識とは、科学と宗教が文化的に対立する喧騒の中、いわば第三の陣営として科学と宗教の間に独自の路線を歩むものなのです。
 もちろん、自由主義国家の見地から言うと、自身が信仰の真理を述べ伝える手段として暴力を用いることを放棄している宗教的共同体だけが「理性的」と称されるに値します。このような見解は、信仰篤き人々が、多元的社会の中に自分が占める位置に関して三点ほど反省することから導かれます。まず一つには、宗教的意識は他者の告白や他の宗教との出会いに、理解しつつ当たらねばならない。第二に、宗教的意識は、社会の中で世俗的知識を独占する科学の権威は認めなければならない。最後に、宗教的意識は、世俗的道徳観念に立脚する立憲国家の前提を受け入れなければならない。こうした反省に基づく「抑え」がないと、容赦無く近代化する社会の中での一神教は、潜在的な破壊力を醸成することになります。「反省的な抑え」という言葉は、たしかに何かを一方的な袋小路に追い込んでいるかのような誤った印象を与えるかもしれません。しかし事実、民主的公衆がごった返す場でどんな争いが新たに起こっても、こうした反省という営みは継続されるものなのです。

 バイオテクノロジーのような、人間存在に関わる適切な問題が政治的な討議項目となるやいなや、市民は、信仰を持つ持たないに関わらず、イデオロギーに懐胎された信念で互いにぶつかり合い、それゆえに多元的にさまざまなイデオロギーが交錯する不愉快な現実を体験することになります。もし彼らが、自分自身の誤りやすさを自覚した上でこの現実に対処することを学ぶなら、彼らは憲法に書かれている意志決定の世俗的原理が、ポスト世俗化社会でどのような意味を持つか理解するようになるでしょう。言い換えれば、科学の主張と信仰の主張が対抗しあい対立する場において、イデオロギー的に中立な国家は、その政治的決定に際してどちらの一方に対しても、いかなる仕方であれ、予断を持たないものです。国民公衆の多元的理性が世俗化の動きに従うのは、世俗化が最後まで確固たる伝統とイデオロギーの双方に対して等しく距離を保つ限りにおいてのみです。しかし、世俗化の動きは柔軟なものであり、その独立性を放棄することなく科学と宗教の双方に対して浸透する開放性を持っています。

 もちろん、良識そのものもまた世界についての幻想に満ちており、無条件で科学によって啓蒙されねばなりません。しかし、生命の世界を侵犯する科学理論は、私たちが持つ日常的感覚の枠組みには本質的に触れようとしません。もし私たちが世界に関して、そして世界内の実在たる私たち自身に関して、何か新しいことを学ぶならば、私たちの自己了解はその内容を変えることになります。コペルニクスやダーウィンは、地球中心的な、あるいは人間中心的な世界観に革新をもたらしました。しかし、星が地球の周りを回るという天文学上の幻想の破壊は、自然誌における人類の位置付けに対する幻想の生物学的破壊ほどには、私たちの生活に影響しませんでした。私たちの身体への科学的認識が詳細になればなるほどに、私たちの自己了解は動揺させられるように思われます。例えば、脳の探究は意識の生理学を私たちに示しています。ですが、だからと言って、私たちのあらゆる行為が自発的なものであって、それゆえに責任能力を担うという自分についての直観的意識が変わるものでしょうか。

 マックス・ヴェーバーにならって「世界の脱呪術化」の始まりに目を向ければ、何が危険にさらされているのかがわかります。自然は、客観的観察および因果的説明によって到達できる限りにおいて、非人格化されます。このような科学的に研究される自然からなる世界は、行為の意図や動機を一人一人の人間に帰着させる人々の社会的枠組みから切り離されます。しかし今日問題になりうるのは、人々がますます同じような自然科学的説明様式に自分たち自身を従属させるようになったら、いったいどうなるのかということでしょう。結局、良識は、科学という反直観知に教えられるにとどまらず、骨や皮に至るまで食いつくされてしまうのでしょうか?
 哲学者ウィルフレッド・セラーズは、1960年の有名な講義「人間についての科学的イメージと哲学」においてこの問題に答えを出しています。日常生活における古い言語ゲームが、意識過程を客観化する説明のために外的な力とされていった社会の変遷を、彼はそこで述べています。
 このような精神の自然化が行きつく先は、私たちの自己了解を完全に非社会化するような、人間の科学的イメージです。もちろんこんなことは、人間意識の志向性や行為の規範性が、科学に基づく自己描写の中に余すところなく吸収されてしまう場合にのみ起こることです。こんなことを求める理論があるとすれば、それは例えば、文法であれ言葉の意味であれ道徳であれ、人々はどのようにして規則に従ったり従わなかったりするのか説明できなくてはなりません。
 セラーズの弟子たちは、師の解決困難な思考実験を研究プログラムだと誤解し、今日に至るまで、なおも精神の自然化、人間の科学化を追究しています。人間の日常的心理の学を自然科学的に近代化しようとする企ては、私たちの思想内容そのものにさえ生物学的説明を加えようとする意味論を試みるまでになっています。しかし、こうした最も先端的なアプローチすら、私たちがルールを破るときにいつも心にある「現にかくあること(存在)」と「かくあるべきこと(当為)」との違いを、まだ説明できていないように思われるのです。

 ある人がするつもりもなく、するべきでもなかったことを、どのように為すに至ったのかを描写する場合、その人は自然科学的対象と同じようには描写されません。これは、人間の描写の場合には、言語能力と行為能力を持つ主体という前科学的な自己了解が、暗黙のうちに契機として入っているからです。「ある人の行動」といった現象を記述する場合、単に自然現象の過程のように説明するにとどまらず、必要ならば弁明もできるものとして記述するものだと、私たちは知っています。その背景には、互いに説明責任を要求し合うこともあるし、初めから規範的に規制された相互作用に絡め取られていて、さまざまな公的原則からなる宇宙の中に立ってもいる「人格性」という観念があるのです。

 日常生活では当たり前に行われているこうした見方は、弁明する言語ゲームと単に描写でしかない言語ゲームとの違いを明らかにします。この二元論において、非還元主義的な説明方針は一つの限界をも見出します。説明責任を負う自発性という意識は、当事者の視野にのみ明らかになり、外部観察者の視野には決して明らかにならない自己了解の中心核なのです。自己描写を客観化することで、科学はいつの日か人格の自己了解を解明し尽くし、のみならず解消するだろうという科学への信仰は、もはや科学ではなく、悪しき哲学です。そしてまた、いかなる科学も、科学に目覚めた良識から、例えば遺伝子操作を可能にする分子生物学的説明の元で、私たちがどのように前人格的な人間生命を扱えばよいのかを判断する能力を奪うことはないでしょう。

 このように、良識は、イニシアティブをとり、誤りを犯すこともあれば誤りを正すこともできる人々の意識に結び付いています。良識は科学に抗して己を保つ遠近法構造を固守しています。この、私が思うに自然主義的手法では把握できないであろう自律意識によって、良識は、他方では宗教的伝統に対しても一定の距離を保ちつつ、そこから規範となる内実を汲み尽くしています。
 もちろん、国民の民主的良識は、そうしようと思えば、理性の法に基づいて構築された民主的立憲国家の形成に確実な地位を占めるものです。そして、「平等」という理性の法もまた宗教的根源を持っています。しかし、この理性の法が法権利と政治とに関して自らの地歩を固めてきた過程では、非常な長きにわたって聖性を僭称され冒涜されてきた源泉の水を飲んでいるのです。それゆえ、宗教に対して、民主主義に目覚めた良識は、ある信仰の共同体に属する人にだけではなく、広く人々に受け容れられる土壌の上に芽生えます。ただ、これはもちろん信仰を持つ人たちの側に疑念も生じさせるでしょう。西欧の世俗化とは、つまり宗教を隅に追いやっておこうとする一方通行のものではないのか、と。

 信教の自由は多元的イデオロギーの宥和でしたが、実際はその裏面で不平等な重荷を生んでいます。このような宥和のため、他ならぬリベラルな国家が、その国民の中で信仰を持つ人のみに己のアイデンティティをいわば公的な領分と私的な領分とに分裂させるよう強いることになります。議論の前に多数の合意を得る見通しを立てるため、自らの宗教的信念を世俗の言語に翻訳せねばならないのは、そういった人たちなのです。だから今日、カトリックもプロテスタントも、母胎の外にある豊かな卵細胞に基本的人権の担い手たる地位を要求する場合、「神は自らの似姿を以って人を創造したもうた」ことを基本法の世俗的な言語に(おそらくは性急に)翻訳しようとします。
 一般に受け容れられることを目標とした根拠を探し求めることが、宗教を公共社会から不当に排除することになるとは限りませんし、世俗的社会の方も、生の意義を産生する重要な始源から自らを切り離す必要はありません。特に、世俗的な側だけが宗教的言語を分節し、理解することができる場合には。世俗的な根拠と宗教的な根拠との間の境界線は、どのみち流動的なのです。したがって、この論議の的となっている境界線を確定する作業は、事あるごとに相手方を視界に収めるために聖・俗の双方から要請される共同の課題であると理解すべきです。

 民主的に目覚めた良識とは何ら単一のものではなく、多様な声に開かれている精神的な構えを示すものです。世俗的多数派は、自分の宗教的確信が傷つけられたと感じている相手の異議に耳を傾けることなしに結論を述べるべきではありません。そして、そうした異議から何が学べるか注意すべきでしょう。
 自身の道徳を基礎付けている宗教的出自に鑑みて、リベラルな国家は、一度も経験したことのない挑戦に直面して、自らその国家形成史を分節し反省できる水準にまで達していないかもしれない可能性を考慮に入れるべきです。今日、市場経済の言語は身の回りすべてに浸透し、あらゆる人間関係を、まさに人それぞれの選択を志向する型に押し込めています。ところが、社会的絆は相互承認から結ばれるものなのに、未だに契約や合理的選挙や雇用原則の概念に反映されていないのです。

 こうした理由から、カントは定言的当為を自由放任主義的な私利私欲の渦に解消させようとはしなかったのです。彼は恣意的自由を自律にまで高めましたが、このことによって、信仰の真理を世俗化するものでありながら、しかも同時にその価値を救い出すような解体をしてのける最初の偉大な例を示したのでした。カントにおいて、神聖な掟の権威は道徳義務の無条件の妥当という形で再発見されました。ここに私たちは聞き逃しようのない残響を聞きます。自律の概念によって、カントはたしかに伝統的な「神の子」という観念を破壊したのでした。しかし一方で、彼は宗教の内実を批判的に換骨奪胎し自家薬籠中のものとすることで、単に空しいこき下ろしでしかなくなる陳腐な結果を回避したのです。

 かつて信じられていたものを単に排除するだけの世俗言語は、いらだちしか残しません。「罪」が「責任」に変わったとき、何かが失われたのです。というのも、許しを求める願いというものは、他に与えた痛みを取り消したいという何ら感傷的ではない願いと常に結び付いているからです。過去の痛みは取り返しがつかないだけに、私たちはより一層苦しむことになります。人間の力で償うことのできるどんな範囲をも超えてしまった、罪無き人を虐待し、人としての尊厳を汚し、殺すといった不法、これはもう取り返しがつかないのです。失われた復活への願いは著しい空しさを残します。人間的記憶に残ることによる癒しの力に懸けた、ベンヤミンの熱い希望に対するホルクハイマーのもっともな懐疑は----、ホルクハイマーは「殺されたものは現に殺されたのだ」と言っています----、変えようのないものを、それでもなお変えようとする無力な衝動を決して打ち消すものではありません。ちなみに、ベンヤミンとホルクハイマーの文通は1937年の春からのものです。
 真実の衝動とその無力は、二つながらにしてホロコースト以来の「過去の清算(アドルノ)」という不可欠な、しかし同時に手の施しようもない作業において続いています。形を変えて----おそらくここで言っておくべきだと思います----まさにこの衝動そのものが、そうした作業が達せられていないことへの膨らみ続ける嘆きという形をとって今なお表れているのです。信仰を持たない現代の若者たちも、こうした瞬間には信仰を持つのではないかと思います。またお互いに責任を持ち、そして互いを必要とするようになるのではないか、と。宗教的伝統が形を変えて彼らに接近します。つまり----宗教的伝統の生きる意味を産生する潜在力は、涸れ果ててはいないのです。

 こうした両義性はまた、宗教的見地を閉め出すことなく、これとの距離を保つという理性的姿勢をも導出します。こうした姿勢は、文化の相克に引き裂かれた市民社会を、正しい方向へ向けた自己変革へと導きます。道徳的感情は、これまでは宗教言語においてしか十分に細やかな表現を持たなかったのですが、すでにほとんど忘れられたもの、しかし、口に出さぬまでも惜しまれているものの救いが定式化されれば、ただちに広く一般に共鳴するかもしれません。
 こうしたことが成功するのは滅多にないことですが、しかし時折あります。世俗化は、滅ぼしてしまうことなくそれを翻訳するという仕方で行われます。それこそが、世界的な世俗化権力である西洋人が自身の歴史から学びうることなのです。そうしなければ西洋人は競合する宗教勢力の十字軍としてしか、あるいは、あらゆる意味をその内に埋葬する道具的理性の出張セールスマンとしてしか、アラブ世界の人々には見られないでしょう。
 何も滅ぼすことのない世俗化の話を終えるにあたって、一つの例を挙げさせてください。

 人間の胎児の取り扱いに関する論争では、多くの人がまだ創世記1章27節を引き合いに出します。「神は自分の形に人を創造された。すなわち、神の形に創造し、人に創造された」。神が愛であること、アダムとイブという形で神と等しく自由な存在を創造したことなどを信じなくとも、「神の似姿」論が何を意味するか理解するには十分です。愛は他者の認識なしには存在しえませんし、自由も相互理解なくしてはありえません。
 それゆえ、神に反する心もまた、神の慈しみに応えるためには、人間本性の側に自由意志としてなければなりません。私にとって重要なのは、人間が「神の似姿」であるにもかかわらず、当然その「別なるもの」もまた神の創造であると考えられることです。人が神に似せた被造物であるということは、私たちの相互関係において、宗教に関心のない人----私もその中に含まれますが----にすら何かを訴えうる直観を表現していると思われます。神は、私たちが創造者と被造物との絶対的区別を均してしまわないかぎり、「自由な人間の神」でいることでしょう。すなわちその限りにおいて、神が人間に自分の似姿を与えたことは、何ら人間の自己規定を阻む限定ではないのです。

 この創造者は、一者にしてで創造する神でもあり救う神でもあるのですから、自然法則に従う技術者のように振る舞う必要もありうませんし、プログラムに従うコンピュータ技師のように振る舞う必要もありません。生命の内に呼びかける神の声は、最初から道徳的にデリケートな宇宙に通じています。ですから、神は次のような意味で人間を「規定」しているかもしれません。人間に自由への能力を与え、しかも同時に、自由への義務を課しているのだと。
 さて、結論を理解するために神学的前提を信じてる必要はありません。もし創造の概念に含まれる差異が解消されて人間が神の位置を占めたら、すなわちもしも、最低限事実に反してでも困惑する他者と合意することを前提せずに、ある人が自分の好みに合わせて両親の染色体の偶然的組成に介入するようになったら、まったく異なる、因果論的にイメージされる従属が関わってくるでしょう。こうした見解は、私が別のところで携わったことのある問題に近いものです。他者を、生まれつきそうであるとして勝手に固定した最初の人間は、同等の者同士の元で、自分たちの多様性を保証するためにあったそれぞれに平等な自由を破壊したはずではありませんか?



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