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戦争は平和である
Outlook.com India, 10/29/2001
アルンダティ・ロイ(インドの小説家)
☆このコラムは このサイトの常連さんにではなく
アメリカ大本営発表をたれながす 恥知らずの日本のマスコミ諸君に....
世界はタリバン政権と米国政府のいずれか一方を選ぶ必要はない。世界のすべての美、すなわち文学、音楽や芸術は、この2つの正反対の原理主義の間にあるからだ。
2001年10月7日、日曜日、アフガニスタンに夕闇が迫る頃、米国は、国連に代わる新しい従順な組織、反テロ国際連合に支援されて、アフガニスタンに空爆を行った。テレビ番組は巡航ミサイル、ステルス爆撃機、トマホーク、「隠れ家つぶし」ミサイル、Mark 82高抵抗爆弾などのコンピュータ映像をいつまでも写し出した。世界中の少年たちが、新しいビデオゲームも忘れてその画像に見入っていた。
もはや無力な略語となった国連は、空爆の指令命令を出すことを頼まれもしなかった。(オルブライトは、かつてこう言った。「米国は多国間でもよい時は多国間で行動するが、必ずやらねばならない時は単独で行動する」)
テロリストの関与を裏付ける「証拠」は反テロ連合の「友人」だけに知らされた。彼らは協議の後、この「証拠」が法的に認められるかどうかは関係ないと発表した。こうして数百年にわたる法制度は即座に無用のものとなった。
テロリズムという行為は、それが宗教的原理主義者や民兵によるものでも、民族の抵抗運動でも、または認知された国家による報復戦争の名を語ったものであっても、それを許すことや、正当化することはできない。アフガニスタンへの爆撃は、ニューヨークとワシントンに対する報復ではない。これは世界の人々に対する、もう1つのテロ行為である。そこで殺される罪のない人の数は、ニューヨークとワシントンで亡くなった民間人犠牲者の数から差し引くのではなく、足していかなければならない。
人が戦争に勝つことはめったになく、政府が戦争で負けることもめったにない。人は殺される。政府はいくつもの顔を持ち、生まれ変わって再編する。政府は最初、人々の心を覆い、真の思考を窒息させるために国旗を使い、次にはすすんで死んでいった傷だらけの死体を包むためにそれを利用する。アフガニスタンと米国の両国で、今、民間人は自分の政府がしている行動の人質にとられている。知らぬ間に、両国の一般国民は盲目的で予測できない恐怖に耐えなければならないという、共通の絆を持つ。アフガニスタンへ爆撃すればするほど、米国では炭疽菌や次なるハイジャック、その他のテロ行為への恐怖という集団ヒステリーが高まる。
今日、世界が直面している、恐怖と蛮行の難局という悪循環から簡単に抜け出す策はない。今こそ人類はじっと我慢し、古今の知恵を集めた知恵の源泉を探求する時だ。9月11日の出来事は、世界を永遠に変えた。自由、進歩、富、技術、戦争といった言葉は、新しい意味を持つようになった。政府はこの変化を認め、ささやかな正直さと謙遜な姿勢で、新しい課題に取り組まねばならない。残念ながら、現在までに国際反テロ連合のリーダーたちからも、タリバン政権からも、反省のそぶりは見られない。
空爆を発表した時、ブッシュ大統領はこう言った。「我々は平和的な国家だ」。米国のお気に入りの大使で、イギリス首相の肩書きも持つトニー・ブレアは、これをまねるかのように繰り返した。「我々は平和的な国民だ」
今、我々は理解した。豚は馬である。少女は少年である。戦争は平和である。
それから数日後、FBI本部においてブッシュ大統領はこういった。「これが我々のなすべき務めだ。これがアメリカ合衆国の任務である。世界でもっとも自由な国。憎しみを拒絶し、暴力を拒絶し、殺人者と邪悪を拒絶するという基本的な価値観のもとに作られた国家である。我々は飽きることはない」
以下は、米国が第二次世界大戦以降戦争を行い、爆撃した国のリストである。
中国 1945-46、1950-53
朝鮮 1950-53
グアテマラ 1954、1967-69
インドネシア 1958
キューバ 1959-60
ベルギー領コンゴ 1964
ペルー 1965
ラオス 1964-73
ベトナム 1961-73
カンボジア 1969-70
グレナダ 1983
リビア 1986
エルサルバドル 1980年代
ニカラグア 1980年代
パナマ 1989
イラク 1991-99
ボスニア 1995
スーダン 1998
ユーゴスラビア 1999
そして今、アフガニスタン
確かに米国は、世界でもっとも飽くなき自由な国家だ。米国が擁護する自由とは何か。国境内においては、言論、宗教、思想の自由、芸術的表現の自由、食習慣、ある程度の性的嗜好の自由、そしてその他数多くの、すばらしく立派なこと。その国境の外では、自由に支配し、自尊心を傷つけ、従属させること、たいていそれは米国の真に信奉する「自由市場」を推進すること。だから米国政府が戦争に「無限の正義」とか「不朽の自由」と名づける時、第三世界にいるわたしたちは、恐怖の震え以上のものを感じる。
なぜなら、我々は、ある者にとっての無限の正義は、他の者にとっての無限の不正だと知っている。そしてある者の不朽の自由は、他の者にとっての不朽の従属を意味する。
国際反テロ連合とは、おもに世界でもっとも金持ちな国の集まりである。彼らが、世界の武器の大半を製造、販売し、化学兵器、生物兵器、核兵器といった大量破壊兵器のほとんどを保有している。たいていの戦争にかかわり、近代史におけるほとんどの大量虐殺、征服、民族浄化、人権違反を犯し、莫大な数の独裁者や暴君に武器や金銭的支援を行ってきた。彼らの間では、神格化といえるほど暴力と戦争を礼賛する。その罪の程度からすると、タリバンはとうてい彼らには及ばない。
タリバンは冷戦の逆流の中の瓦礫とヘロインと地雷にまみれた厳しい試練の中で作られた。最年長の指導者でも40代前半で、多くは負傷して障害を持ち、目や腕や足がない者もいる。彼らは戦争によって傷つき、荒廃した社会の中で育った。20年以上にわたるソ連と米国との対立のはざまで、450億ドル相当の武器や弾薬がアフガニスタンに流れ込んだ。完膚なきほど古臭い社会に唯一入り込んだ近代化が、最新の兵器だった。そんな時代背景に育った、多くは孤児だった少年たちがおもちゃの代わりに手にしたのが銃だった。彼らは家庭生活の安心も心地よさも知らず、そばに女性がいることを経験せずに育った。
今、成人し、支配者となったタリバンは女性を叩き、投石し、強姦し、残忍行為を行っている。それ以外、彼女たちをどう扱ってよいかわからないかのように。長年にわたる戦争は彼らから優しさを剥ぎ取り、温かさや人間の思いやりを感じなくさせた。彼らはあたりに飛びかう爆撃の衝撃に小躍りする。その奇怪な行動を彼らは今、自分の仲間たちに向けた。
ブッシュ大統領にお言葉を返すようだが、世界の人々はタリバン政権か米国政府のいずれか一方を選ぶ必要はない。世界のすべての美は、文学も、音楽も芸術も、この2つの正反対の原理主義を超えたところにあるからだ。人々がみな1つの教義を奉ずるようになることはまずないのと同様に、世界の人々がすべて中流階級の消費者となる可能性はほとんどない。問題は善対悪でも、イスラム教対キリスト教でも、領土のことでもない。いかに多様性を容認するか、経済、軍事、言語、宗教、文化などあらゆるものの支配権を握りたい衝動をいかに抑えるかが問題なのだ。生態学者なら、単一栽培がどんなにもろく危険なものかをあなたに教えるだろう。一国支配の世界は、健全な野党を持たない政府のようにある種の独裁主義となる。世界の上にビニール袋をかけ、呼吸を止めるようなものだ。いずれビニール袋は破かれるだろう。
過去20年間の紛争で150万人のアフガニスタン人が命を失った。この間、アフガニスタンは瓦礫と化し、今その瓦礫がさらに細かく砕かれている。空爆2日目になると米軍パイロットは積んだ爆弾を落とすことなく基地に帰った。一人のパイロットが語ったように「アフガニスタンは攻撃目標に恵まれていない」。ペンタゴンで行われた記者会見で、ラムズフェルド国防長官は米国が攻撃目標をきらしたのかと尋ねられた。
「第一に、我々は攻撃目標を再び爆撃するだろう」と彼は言った。「そして、第二に、我々が攻撃目標をきらしたのではない、アフガニスタンが…」このあと、会見室は爆笑の渦となった。
空爆3日目には、ペンタゴンはアフガニスタンの制空権を握ったと得意そうに発表した。(これは、米国がアフガニスタンの戦闘機を2機、あるいはおそらく16機すべてを破壊したという意味だろうか)
アフガニスタンの地上では、古くからの反タリバン勢力であり、したがって連合軍の新しい味方となった北部同盟がカブールに進攻している。(これまでの記録を見れば、北部同盟がしてきたことはタリバンと大して変わらない。しかしそれを今明らかにすることは不都合になるため、詳細はうまく言いつくろわれている。)9月、北部同盟の目立って穏健派の「容認できる」主導者であったアハマッド・シャー・マスード司令官が自爆テロで殺された。残る北部同盟は、残忍な兵士と、元共産主義者と、強固な聖職者たちの集まりでしかない。民族ごとに分断されたばらばらの集まりであり、過去にアフガニスタンで政権をとった者もいる。
米国が空爆を開始するまで、北部同盟はアフガニスタンの全面積の約5%を支配していた。今、欧米軍の支援と上空援護によってタリバンを倒す構えである。その間、タリバン兵士たちは、差し迫った敗北を感じてタリバンを捨て、北部同盟に投降し始めた。今兵士たちは鞍替えし、忙しく軍服を着替えている。しかしこれほど皮相的な状況下では、これは大きな問題ではない。愛は憎しみであり、北部は南部である。そして、平和は戦争なのだ。
地球の権力者の間では選挙による新政権の樹立が話し合われている。またその一方で、元アフガニスタン国王で1973年から亡命してローマに住んでいる、89才になるザヒル・シャーの復権という話もある。勝負のゆくえはいつもそんなものだ。サダム・フセインを支援したかと思えば、失脚させようとする。ムジャヘディンに資金援助し、それから彼らを木っ端微塵に爆撃する。ザヒル・シャーを復帰させ、彼がいうことを聞くかどうか、試そうというのだろうか。
民間人の被害や、閉鎖された国境に向けアフガニスタン人が流出して町が閑散としている様子が報道され始めている。幹線道路は爆破されるか、閉鎖された。アフガニスタンで働いたことのある人は、11月の初めには、食料輸送車が餓死寸前の何百万人ものアフガニスタン人(国連によれば750万人)のところに到達できなくなるだろうという。冬の到来直前に、戦争に巻き込まれれば、飢えた者たちに食べ物を届けることはできないという。
人道支援の宣伝行為として、米国政府はアフガニスタンに3万7千個の緊急食料を空から投下した。合計50万個投下する計画だという。それでも、食べ物を必要とする数百万人のうち50万人の、しかも1食分にしかならない。救援者たちはこれを皮肉で危険な広報活動だと非難した。空から投下した食料袋は役に立たないどころか、むしろ悪化させていると彼らはいう。まず、本当に必要な人のところに食料は絶対に到達しない。さらに危険なこととして、食料袋を取りにいった人が地雷にやられるかもしれない。悲劇の施し物競争だ。
それでも食料袋の投下はすべて米国にとって都合の良いシャッターチャンスを与え、その中味は新聞で報道された。彼らはイスラム教の食餌法により、ベジタリアンだとされた。米国の国旗で飾られた黄色いパッケージの中身は、米、ピーナツバター、豆サラダ、イチゴジャム、クラッカー、レーズン、平パン、そしてアップルフルーツバー、塩コショウ、マッチ、プラスチックのフォーク、ナプキン、そして使用説明書であった。
3年続いた干ばつのあと、ジャララバードに空から機内食が降ってきた。文化的にそれがどんなに的外れか、そして数ヵ月に及ぶ絶え間ない空腹とひどい貧苦がどんなものかを理解できない米国政府は、この絶望的な困窮を自国のイメージ向上のために利用しようとする、この試みは筆舌につくしがたい。
シナリオを逆にしてみるといい。もしタリバン政府がその真の目標は米国政府とその政策だと言いながら、ニューヨーク市を爆撃したとする。そして爆撃の合間に、アフガニスタンの国旗のついた袋にナンとカバブを入れて数千個投下したと考えてみればいい。
ニューヨークの善良な市民は、アフガニスタン政府を許すだろうか。もし彼らが空腹だとしても、そしてもし食料を必要としていても、そしてもしそれを食べたとしても、その屈辱と恩着せがましい行為を忘れることはないだろう。ニューヨークのジュリアーニ市長は、米国の中東政策に対する発言が気に入らなかったとしてサウジの王子から贈られた1千万ドルの寄付をつき返した。そうしたプライドは、金持ちだけに許される贅沢だろうか。
こうした怒りを鎮めるどころか加熱させる行為こそ、テロリズムの発生源になっている。憎しみと復讐は、一度箱から出してしまうと元には戻らない。テロリスト、またはその支援者を殺すたびに、何百人もの罪のない人たちが殺される。そして罪のない何百人もが殺されるたびに、さらに未来のテロリストたちが作られている可能性は大きい。
これからどのような方向に向かっていくのだろうか?
レトリックはさておき、「テロリズム」が何であるか、満足な定義がまだ見つかっていないという事実を考えてみよう。ある国のテロリストは、別の国では自由の戦士だったりする。この核心にあるのは、暴力に対して、世界の深く根ざしたところで互いに矛盾する価値があるということだ。暴力を正当な政治的道具として容認してしまうと、テロリスト(反対分子や自由の戦士)も道義的、政治的に容認できるのではないかという議論の多い、難しい展開となる。
米国政府自体、世界中の多くの反逆者と反対分子に資金援助を行い、武器を与え、かくまってきた。CIAとパキスタンのISIは、80年代にソ連軍に占領されていたアフガニスタン政府がテロリストと見なしていたムジャへディンを訓練し、武器を与えた。レーガン大統領は、彼らと一緒に団体写真におさまり、彼らを合衆国憲法制定者たちと道義的に等しいと称えた。
今日、この新たな戦争において米国の同盟国となったパキスタンは、国境を越えてインドのカシミールに入った反政府運動家を支援している。パキスタンは彼らを自由の戦士と賛美するが、インドでは彼らはテロリストと呼ばれている。ここではインドはテロリズムを支援し扇動する国を非難しているが、かつてインド軍は、スリランカで分離独立を求め、数え切れない流血のテロ行為を行った「タミール・イーラム解放のトラ(LTTE)」を養成した。(目的を達成したCIAがその後ムジャヘディンを見捨てたように、インドも多数の政治的理由からLTTEに突然背を向けた。これがLTTEの自爆テロリストたちを怒らせ、1991年にインドのラジブ・ガンジー元首相が暗殺された。)
政府や政治家たちは、自分たちの偏狭な目的のために、こうした人間の強い怒りの感情を操作することは、即座にある結果をもたらすかもしれないが、いずれ冷酷にも破壊的な結果にもつながるということを理解しておくことは重要である。政治的なご都合主義から、宗教的感情を扇動することは、政府も政治家も、自国民も含めた後世の人々にもっとも危険な遺産を残すことになる。宗教的または人種的偏狭に荒らされた社会に住む人々は、聖書からヒンズー教の聖典にいたるあらゆる宗教書は、核戦争や虐殺から企業のグローバル化まで、あらゆることを正当化するために利用され、間違って解釈され得ることを理解している。
9月11日の惨事を犯したテロリストは見つけて、責めるべきでないと言おうとしているのではない。そうしなければならない。しかし、彼らを追跡して見つける最善の方法が、戦争なのだろうか。針を見つけるために、干草の山を燃やすだろうか。怒りをさらに高めることで、世界中が生き地獄のようにならないだろうか。
結局のところ一体何人の人を偵察し、いくつの銀行口座を凍結し、いくつの会話を盗聴し、いくつの電子メールを傍受し、いくつの手紙を開封し、いくつの電話を盗聴できるのだろうか。9月11日以前でも、CIAは、人類が処理不可能なほど大量の情報を蓄積していた。(時として、あまりにも多すぎるデータは、実際、諜報の妨げになる。1998年にインドが行った核実験に先駆けた準備を米国のスパイ衛星が完全に見逃したのも無理はない。)
完全な監視となると、ロジスティックス的に、また倫理的、人権的にも悪夢となるだろう。誰もが狂気に駆り立てられる。そして最初に犠牲になるのが、その貴重な、自由というものであろう。しかし、すでに自由は傷つき、危険なまでに出血している。
世界中の政府が、皮肉にもこのパラノイアを利用して自己の利益を促進している。あらゆる種類の、予測できない政治権力が解き放たれている。例えばインドでは、デリーで反戦、反米冊子を配布していた全インド人民抵抗フォーラムのメンバーが投獄された。冊子の印刷業者も逮捕された。ビシュワ・ヒンドゥ・パリシャドやバジャラングダルといったヒンズー過激派を擁護する右派政府は、インドの学生イスラム教活動を禁じ、反テロリスト法を復活させようとしている。反テロリスト法は人権委員会によりその乱用が告発され撤回された法律である。インドには何百万人ものイスラム教徒がいる。彼らを疎外することによってどのような得があるというのか。
毎日戦争が続き、荒れ狂った感情が世界中で解き放たれている。国際的な報道関係者は交戦地帯に入ることはほとんど、またはまったくできない。いずれの場合も大手メディア、特に米国は、まるで腹をくすぐられるために仰向けになる子犬のように、軍人や政府高官から渡される報道資料を待っている。
アフガンのラジオ局が爆撃で破壊された。タリバンはつねに、報道機関に対してとても懐疑的であった。プロパガンダ戦争においては、何人が殺されたか、またはどれだけ破壊されたか、正確な推測はない。信頼できる情報の不在の中で、途方もない噂が広まる。
世界のこの場所で地面に耳を押し当てれば、湧き出る怒りのどくどくしい太鼓の音が聞こえる。お願いだ。どうか、今、戦争を止めて。もうたくさんの人間が死んだ。スマートミサイルは、スマートではない。抑圧された怒りの詰まった貯蔵庫を爆破しているからだ。
最近、ブッシュ大統領はこう言った。「私が行動を起こす時、200万ドルのミサイルを10ドルの誰もいないテントに向けて発射し、らくだの尻に命中させることはないだろう。必ず決着をつける」。アフガニスタンには彼のミサイルの値段に値する攻撃目標などないことを、ブッシュは知るべきだ。もしブッシュが帳尻を合わせたいのなら、世界の貧しい国の安い対象物と安い命を狙うための安いミサイルを開発するしかない。しかしそれでは、連合国の兵器製造会社にとってビジネス上の価値がなくなってしまうかもしれない。例えば、世界最大のプライベート・エクイティ・ファンドで120億ドルの資産を持つカーライル・グループにとってはそれではまったく意味がなくなる。カーライルは防衛産業に投資し、軍事紛争と武器支出で金儲けを行っている。
カーライルは完璧な肩書きを持つ人々によって経営されている。会長兼最高経営者は、元米国防長官のフランク・カールリッチである。(彼はラムズフェルド国防長官の大学時代のルームメートだ。)カーライルのその他のパートナーには、元国務長官のジェームス・ベーカー、ジョージ・ソロス、フレッド・マレク(ブッシュ元大統領のキャンペーンマネジャー)がいる。米紙『ボルチモア・クロニクル』と『センチネル』によれば、元大統領のジョージ・ブッシュは、カーライル・グループのためにアジア市場からの投資を探しているという。報道によるとブッシュ元大統領はわずかな謝礼で、潜在的な政府の顧客に“講演”を行っているという。
つまり、すべて仲間うちでやっている、ということだ。
そして、もう1つのファミリー・ビジネスが、石油である。現ブッシュ大統領とチェイニー副大統領はともに米国の石油業界出身で資産を築いたことを忘れてはならない。
アフガニスタン北西部の国境にあるトルクメニスタンは世界で3番目に大きい天然ガスの埋蔵があり、また約60億バレルの油田があるという。これは今後30年分の米国のエネルギー消費をまかなえる量だと専門家は言う(発展途上国なら約200年分)。米国は常に石油を安全保障の条件として見なしてきた。そして必要と考えるいかなる手段を講じてもそれを保護してきた。湾岸に軍を置いているのも、人権ではなく石油に対する戦略的重要性からだということを疑う者はほとんどいない。
カスピ海地域からの石油とガスは現在、北方のヨーロッパ市場で売られている。地理的および政治的に見て、米国の利権にとって大きな障害となるのはイランとロシアである。1998年当時石油企業ハリバートン社のCEOだったディック・チェイニーは、「カスピ海以上に、突然現われて戦略的に重要になった地域はこれまでにない。一夜にしてチャンスが訪れたかのようだ」。確かにその通りだ。
ここ数年来、ユノカルという米国の石油大企業が、アフガニスタンからパキスタンを通り、アラビア海にぬける石油パイプラインを建設する許可をタリバンと交渉してきた。
ユノカルはそこから、南アジア、東南アジアの新興市場に石油を販売したいと思っている。1997年12月にタリバンの代理人が訪米し、国務長官やユニカルの経営者ともテキサスで会見している。現在、人権問題として指摘されているタリバンの公開処刑や、アフガニスタン女性への扱いも、当時は問題視されなかった。しかしその後、半年間、クリントン政権には何百もの米国のフェミニスト団体から非難が集中した。幸運にも、彼らはなんとかその交渉を阻止することができた。そして今、米国石油業界に大きなチャンスが到来した。
米国では、兵器業界、石油業界、主要メディアネットワーク、そして実際米国の外交政策も、すべて同一の企業連合によって支配されている。したがって、銃や石油や防衛取引をメディアが報道すると期待することは愚かしいことであろう。いずれにしても、プライドを傷つけられたり、愛する人が無残にも殺され、まだ生々しい怒りを抱える心を取り乱した、混乱している人々には、文明の衝突や善対悪といった無意味なことが狙いどおりに受け入れられるであろう。皮肉にもそういったことが、政府の代弁者からビタミン剤や抗鬱剤のように日々処方されている。米国本土の病的なほどおせっかいででたらめな政府の定期的な投薬によって、米国民はこれからも異常に偏狭な謎であり続ける。
そしてばかげたプロパガンダだとわかっていながら、それを無感覚に受け取っている我々はどうなのだ。我々は、黄色い食料袋のように空から投下されるピーナツバターとイチゴジャムの塗られた、ウソや蛮行を日々受け入れている。空腹だから見ない振りをしてそれを食べるか、それとも、アフガニスタンで行われている残虐な演劇を瞬きもせず見つめ、そしてみんなで吐き気をもよおして、「もうたくさんだ!」と声をそろえていうべきだろうか。
2001年の最初の年が終わりに近づき、我々は夢を見る権利を失ってしまったのだろうかと思う。我々はもう一度、美を心に描くことができるようになるのだろうか。太陽の中で、生まれたばかりのやもりが、ゆっくりと瞬きをするのを見ることができるのだろうか。あなたの耳元でささやくマーモットに、ささやき返すことができるのだろうか。世界貿易センターやアフガニスタンのことを考えることなく。
http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00500.html