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日本国憲法の制定経緯(1)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/630.html
投稿者 TORA 日時 2003 年 7 月 06 日 11:10:58:

(回答先: 小山常美著「日本国憲法無効論」(草思社、平成十四年十一月)を読む。 [週刊日本新聞] 投稿者 乃 日時 2003 年 7 月 06 日 00:42:37)

衆院憲法調査会(3・9)

平成十二年三月九日(木曜日)
    午前九時三十一分開議
 出席委員
   会長 中山 太郎君
   幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君
   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君
   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君
   幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君
   幹事 野田  毅君
      石川 要三君    石破  茂君
      衛藤 晟一君    奥田 幹生君
      奥野 誠亮君    久間 章生君
      小泉純一郎君    左藤  恵君
      島村 宜伸君    白川 勝彦君
      田中眞紀子君    中川 秀直君
      平沼 赳夫君    船田  元君
      穂積 良行君    三塚  博君
      村岡 兼造君    森山 眞弓君
      柳沢 伯夫君    山崎  拓君
      横内 正明君    石毛えい子君
      枝野 幸男君    島   聡君
      中野 寛成君    藤村  修君
      松崎 公昭君    横路 孝弘君
      石田 勝之君    太田 昭宏君
      倉田 栄喜君    福島  豊君
      安倍 基雄君    中村 鋭一君
      二見 伸明君    佐々木陸海君
      春名 直章君    東中 光雄君
      伊藤  茂君    深田  肇君
    …………………………………
   参考人
   (獨協大学法学部教授)  古関 彰一君
   参考人
   (広島大学総合科学部助教授)
                村田 晃嗣君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
委員の異動
三月九日
 辞任         補欠選任
  中曽根康弘君     島村 宜伸君
  畑 英次郎君     松崎 公昭君
  福岡 宗也君     島   聡君
  志位 和夫君     春名 直章君
同日
 辞任         補欠選任
  島村 宜伸君     中曽根康弘君
  島   聡君     福岡 宗也君
  松崎 公昭君     畑 英次郎君
  春名 直章君     志位 和夫君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)

    午前九時三十一分開議
     ――――◇―――――
○中山会長 ただいまから会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を進めます。
 本日、午前の参考人として獨協大学法学部教授古関彰一君に御出席をいただ
いております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとう
ございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の
参考にさせていただきたいと思います。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委
員からの質疑にお答え願います。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、
参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あら
かじめ御承知おき願いたいと存じます。
 それでは、古関参考人、お願いいたします。
○古関参考人 古関でございます。
 私に与えられました依頼状によりますと、日本国憲法の経緯ということでご
ざいます。
 日本国憲法の経緯ということですと、ほぼ連想ゲームのように、押しつけで
あったのかなかったのかということが言われてきておるわけで、私は、皆様の
お手元にレジュメのようなものを配らせていただいてあるかと思いますが、ま
ず、押しつけ論というものはどこから出てきているのか、何が起源なのかとい
うところからお話をさせていただこうと思います。
 御存じのように、日本国憲法は、GHQ案と通称呼ばれる原案が最初につく
られ、そしてそれが日本政府に手渡され、日本政府とGHQとの間でさまざま
な交渉がある中でつくられてきたという背景がありますが、実はそこの部分は、
当初一般的には全く秘密にされたということであります。
 一般的にはというふうに申し上げますのは、例えばGHQ案をつくっている
ときには、GHQ内でもほんのわずかな人しか知らなかった、あるいはまた日
本国民にも全く伝えられなかった。政府の中でも知らない閣僚の方すらいたと
いうふうに言われております。しかしながら、それが第九十帝国議会にかかる
ころには、一定度の人たちは、どうも原案は、当時GHQと言っていたわけで
すが、GHQでつくられたのではないか、翻訳調である等々のことが言われて
いたわけですから、全くそのことが知られていなかったわけではありませんけ
れども、公的には知られていなかったと言ってもよろしいかと思います。私が
一般的というふうに申し上げたのは、そういう意味でございます。
 そのGHQとの間の交渉といいますか、そういったことに、日本政府を代表
して最も責任ある地位でかかわったのが、当時幣原政権下につくられた憲法問
題調査委員会の委員長をされていらっしゃった松本烝治さんであります。この
松本烝治さんが一九五四年に、当時自由党と言っていましたが、自由党の憲法
調査会で証言をされました。細かく申しますとそれは七月でございます。七月
に証言をされておりますが、この証言内容が、一つのというか、私は、ほぼこ
の起源のすべてであるという感じを持っております。
 それでは、この一九五四年というのはどんな年であったのかということであ
ります。
 日本は一九五二年四月に対日講和条約に調印をいたします。講和条約という
のは戦争を法的に終結させるものであり、日本が選択することのできない、法
的に戦争を終わるためには調印せざるを得ないものであったわけであります。
しかしながら、その講和条約の中に、日米安保条約という言葉は使っておりま
せんが、いわゆる駐留協定を結ばなければいけないという条項があったわけで、
これが日米安保条約になるわけです。つまり日米安保条約は、本来、安保条約
ですから選択的なものなのですが、講和条約という選択できないものとワンセ
ットになって私どもは日米安保条約に調印するということになってまいります。
 先生方は既に御存じのことかと思いますが、安保条約の中では、日本は自衛
力を漸増的に、つまり少しずつ増強していくということが期待されるというこ
とになりますが、朝鮮戦争が停戦を迎え、アメリカがアジアの極東戦略を全面
的に見直す中で、日本はいわゆる相互防衛条約、通称MSA協定と呼ばれてお
りますが、これに五三年に調印いたします。この中では、防衛力というものが、
日本が防衛力を持つことが義務づけられます。その義務づけられたことに基づ
いて、翌年には自衛隊がつくられます。そして自衛隊と憲法九条とが最大の問
題になり、自由党や改進党はこの五四年を前後して憲法改正に踏み切ります。
 そういう中で、五四年の三月に自由党の中に憲法調査会がつくられ、七月に
松本さんが先ほどのような、体験の中身はまた後でお話ししますが、GHQと
の交渉の経過をお話しするということになります。
 ですから、押しつけられたということは、私の見る限り一九五一年、つまり
五一年というのはどういう年かといいますと、翌年から講和条約が発効するこ
ろですが、そのころから、私の鮮やかな記憶にあるのは、例えば当時「改造」
という雑誌がございましたが、そこではかなり具体的に押しつけの事実という
ものが書かれております。しかし、その段階では、政治の渦の中になかったよ
うに思います。あるいはそれほど注目も浴びていなかったのではないかと思い
ますが、この五四年の証言というものが、御本人であるということもあります
が、まさにこの押しつけということが非常に大きな問題になる。
 つまり、歴史文脈の中でもう一度整理して考えますと、押しつけ論というも
のは、憲法九条との関係で憲法改正が大きな問題になる中で、その後に押しつ
けという問題が出てきたというふうに私は考えざるを得ない、歴史的な文脈を
たどってみるとそのように思います。
 それでは、松本さんが押しつけだというふうにおっしゃられた最大の場面は
何かということですけれども、そのレジュメに、一般にこう言われますので二
つの場面を書いておきました。一つは、GHQ案を日本側に手渡したときの場
面。もう一つは、その後日本の政府の中で、最終的にはGHQ案を受け入れる
ことを決めて、そしてその後GHQ案を横に置いて日本案をつくるわけですけ
れども、つくった段階でGHQと交渉をする過程。この二つの場面が押しつけ
と言われる最大の理由であったと私は考えております。
 かなりはしょったお話をしておりますので、ちょっと解説をさせていただき
ますと、一九四六年二月十三日というふうにレジュメに書いてありますが、ま
ずそこに至る過程ですが、極めて簡単に申し上げれば、一九四五年の十月末に、
二十五日と記憶いたしますが、先ほど来申し上げております憲法問題調査委員
会が発足いたします。
 当時は調査を目的としてつくられたわけですけれども、十二月段階から松本
委員長は、もう改正に踏み込まざるを得ないというふうに決断をいたします。
その理由はどういうことかといいますと、当時、民間草案なんて呼ばれており
ましたが、いろいろな団体であるとかあるいは政党が案を出し始めます。そう
いう中で、政府の側も、つまり松本さんの側も案をつくります。
 実際に松本さんが起草を始めるのは、十二月の半ばから末にかけてというふ
うに私は思います。GHQはかなりこのことをよく知っています。どうもいろ
いろな向こう側の文書を読んでみると知っております。そして松本さんに、早
く公表しろ、公表しろというふうに大変急ぎます。急いで申します。
 ところが、松本さんはまだ公表の段階ではないというふうに御判断されたの
だと思いますが、そんな中で二月一日に毎日新聞が、これが政府案だと、正確
に言いますと政府試案であるといって大スクープをいたします。そして、細か
く申しますと、この日は金曜日なんですが、翌日が土曜日、二月二日には翻訳
ができます。英文で急いで翻訳をします。そして三日、日曜日、マッカーサー
は今のアメリカ大使館のところにいたのですけれども、そこにこもって、もう
これはGHQの側で具体的な案をつくる以外にないと判断し、通称マッカーサ
ー三原則と呼ばれるものを作成いたします。
 そして、四日から十日の一週間、GHQの中でGHQ案の作成に取りかかり
ます。
よく憲法は一週間でできたとかおっしゃる方もいらっしゃいますが、多分、こ
この事実だけで一週間とおっしゃっているのだろうと思います。その意味では
一週間です。こういうふうにして十日に案ができ、そして十三日に日本政府に
これを手渡すことになります。
 ここの場面ですけれども、これはいろいろなところで言われていることです
が、外務省の側にも、それからアメリカ、GHQの側にも、双方、どういうふ
うにしてこのGHQの案を渡したかという記録が残っております。どちらも、
私が見る限り大差はないというふうに思います。
 レジュメには、簡単に、これは日本側に渡すときにホイットニーが演説をす
るのですけれども、その演説の内容です。
 一つは、日本側に押しつける考えはないということを言います。外務省の記
録をちょっと紹介いたしますと、ホイットニーは、「本案ハ内容形式共ニ決シ
テ之ヲ貴方ニ押付ケル考ニアラサルモ実ハ之ハ「マカーサ」元帥カ米国内部ノ
強烈ナル反対ヲ押切リ天皇ヲ擁護申上クル為ニ非常ナル苦心ト慎重ノ考慮ヲ以
テ」この案をつくったんだというふうに言っております。
 アメリカ側、GHQ側の文書もほぼ同じで、内容は、押しつけるつもりはな
いということ、それからもう一つは天皇制を擁護するためであるというふうに
述べております。
 しかし、松本さんもこの点について後に自由党の憲法調査会で証言をされて
おりますけれども、そこの部分はちょっと違っておりまして、こんなふうにお
っしゃっています。日本が受け入れなければ、「天皇の身体の保障をすること
はできない。われわれは日本政府に対し、この提案のような改正案の提示を命
ずるものではない。」押しつけるものではないけれども、受け入れなければ天
皇の身体が保障できないという表現を使われております。これも後ほど問題に
なるところですが、そこには今の段階では立ち入らないで申し上げておきます
が、こういう形。つまり、事実上それは押しつけではないか、強要ではないか
ということ。
 それから、その後、先ほど申しましたように、日本の政府は十九日に最初の
閣議にかけます。十九日まで約一週間どうしようとやっていたわけですが、十
九日の閣議にかけ、結論は出ず、最終的には二十二日の閣議で受け入れを決定
いたします。
 そして、法制局を中心にして、入江法制局次長ですが、次長、それから特に
主として実務的には佐藤達夫さんという第一部長を中心にして、日本案の作成
に取りかかります。そして、この間にもGHQは、早く出せ出せ、こう言って
くるわけですけれども、佐藤さんは一生懸命日本案をつくられて、そして三月
四日の十時に日本案を持ってGHQの本部に行きます。このときには、松本さ
んも一緒に行かれております。それと通訳官が二人ほどです。そこへ行ってみ
ますと、これは佐藤さんの記録ですけれども、約二十人ほどのGHQのスタッ
フがずらっと並んでいるところに行ったということであります。
 そして、ここでは、憲法の前文からその後一条に始まり逐条の交渉が始まる
わけであります。これは、一条ごとにやっていくわけですから、双方の憲法観
の違いということが明白になったことであったわけですが、それ以上に、何と
一条ごとに三十時間にわたって議論を続行したわけであります。あしたまでに
はこの案をつくろうということで、翌午後四時まで、三十時間かかっておりま
す。
 この間には、松本さんは大変屈辱的な経験をされたというふうにおっしゃっ
ておられます。ちょっとだけ御紹介をいたしておきますと、この前面に立って
松本さんと交渉されたのは、当時約四十歳ぐらいのアメリカの陸軍大佐、と申
しましても、彼はハーバード・ロースクールを出た弁護士資格を持つ法律家で
もありますが、このケーディスと松本さんとの間で主として交渉がなされるわ
けです。
 ケーディスは、例えば、天皇の行為に内閣のコンセント、いわゆる合意と日
本語にしたらいいのでしょうか、コンセントを要するというふうに言っている
けれども、あなた方の案はそこを輔弼、これは明治憲法の言葉ですね、「国務
各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」、あの輔弼です。輔弼という言葉を使っているじゃな
いか、こういうふうに言うわけですね。それに対して松本さんは、内閣の協賛
というのは我々にはどうも変に聞こえるので、そういう字は使わないことにし
たというようなことで、二十分ぐらい議論をしました。
 「このときは向うは非常に激しまして、手がぶるぶる震えて、卓が震えるく
らいになりました。そこで私の方も激しまして、とても白洲君」これは通訳で
行っているのですが、「白洲君に訳してもらっておられないので、とうとう私
のブロークンの英語で応酬しました。一体、あなたは」つまりケーディスは、
「日本に日本語を直しに来たのかと、そういうことまで言ったのです。」とい
うことで、まさに表現をめぐってすさまじいやりとりがある。
 しかし、これは単なる表現ではなく、私から見れば、まさに天皇の地位はど
うあるのかという、極めて権限とか権利とかにかかわる、厳しい憲法観を問わ
れる三十時間であったかと思います。松本さんは、とてもこんな議論には耐え
られないといって、私は用があるからと途中で帰ってしまいまして、主として
三十時間全部耐え抜いたのは佐藤達夫さんであります。
 この二つの場面をどう見るのかということであります。
 私は、やはり極めて急いだということ、さらには、法的にもGHQは日本政
府の上にあったわけでございますが、それにしても、威圧的な側面というのは
ぬぐい去ることができないと思います。
 さらに申しますと、少しパーソナルめきますけれども、松本烝治さんという
方は当時七十歳に近いです。私もきのうちょっと年齢を数えてきたのですが、
六十九か七十だと思います。東大の商法担当の教授であり、その後、満鉄の副
社長になり、法制局長官もされ、さらに当時日本の一流の企業の顧問弁護士を
たくさんされている。明治憲法下でまさに功成り名を遂げた方であります。そ
れに相対して、松本さん、それは間違っていると言っているのは、何と当時四
十歳の、先ほど申しました陸軍大佐のケーディスであります。
 今も東大の先生というのは偉いのかどうか私はよくわかりませんが、しかし、
今よりもはるかに権威があったと思うのですね。特に、私のまずい本にも書い
ておきましたが、松本さんという方は大変な自信家である。その方が、多分生
まれて初めてだと思うのですが、彼から見れば四十歳の若造に、あなたの憲法
はここがおかしいと言われたわけですから、それは激するのも私はそれなりの
理由があるというふうにも思います。
 ただ、重要なことは、私が強調しておきたいことは、それは松本さん個人の
経験であるということですね、この自由党の憲法調査会でおっしゃられたこと
は。憲法というものは、言うまでもなく国家意思として形成されるものであっ
て、その後国家意思をどう形成してきたのかということは、私は、そこで松本
さんが経験された、人間として大変屈辱的であったということと離れて、冷静
に検討しなければならないことであろうと思います。
 確かに、当時は、日本民族にとって六年八カ月という初めての異民族の占領
体験を経たわけですから、そういう屈辱の体験を披露するということは、私は、
一般的に日本人の感情に受け入れられやすかったとは思います。思いますけれ
ども、その感情論だけでこれだけ重大な問題を決していいのかというと、私は
そうは思わないわけで、私がこのテーマに取り組んだことの一つの動機も、そ
んなところにございます。
 それでは、なぜ松本案がGHQに拒否されたのかということですけれども、
松本案は突然出てきたわけではなく、松本案がGHQに知れるのは一九四六年、
昭和二十一年の二月一日以降ですね。それまでに既にGHQは、例えば通称人
権指令と呼ばれていますけれども、明治憲法下では必ずしも人権が十分ではな
かったということで、思想、信条の自由を認めなさい、特に治安維持法は廃止
しなさいと命令を出しているわけです。それに対して、日本政府はそれを受け
入れて、治安維持法の廃止手続を、衆議院、貴族院を経て廃止しているわけで
すね。あるいはまた、婦人が権利的に大変劣悪な状況にある、婦人参政権を付
与しなさいという中で、当時衆議院選挙法と呼んでおりましたが、衆議院選挙
法は既に一九四五年、昭和二十年十二月の末には改正されて、婦人参政権は付
与されておるわけですね。
 そういうことが既に行われている、日本政府は受け入れてきたにもかかわら
ず、次の新しい時代の憲法の案をつくったらそういう人権規定がないというこ
とは、やはりGHQに落胆をさせた。私たちの、つまりGHQから見る民主化
政策が理解されていないと考えたことは、私はある意味では当然だろうと思い
ます。
 そしてさらに、GHQにはポツダム宣言というにしきの御旗があるわけであ
ります。
ポツダム宣言を日本政府は受け入れたではないか、ポツダム宣言の中には日本
国民の自由な意思の表明に従う政府をつくるのだと書いてあるではないか、に
もかかわらず国民主権規定はないではないかというふうにGHQが判断するこ
とは、私はそれなりの理由があると思います。
 そのことは、決して松本さんの遠くにある方、GHQの側の人たちだけが言
っていたことではなく、松本烝治さんと一緒に憲法問題調査委員会の顧問をさ
れていた元東大教授の憲法学者野村淳治氏は、この委員会の中で野村意見書と
言われるものを出しております。つまり、松本案に反対するといいますか、相
対立するような意見書です。その中で、ポツダム宣言に準拠することを絶対的
必要条件とすると言っているのですが、実は、パーソナリティーもあるのでし
ょうか、全く野村意見書は松本さんには受け入れられませんでした。ほぼ無視
されたと言ってもよろしいのではないかと思います。
 そういう一つの背景、そのことが、明治憲法とさして変わらない松本案をつ
くらせてしまった、そしてそれがGHQの受け入れられるところでなく、GH
Q案をつくらせてしまったと言えるのではないかと思います。
 さっき急ぎましたので申しておりませんが、松本案ができる前に、GHQは
具体的なそういう作業には取りかかっておりません。そのことはまた、今既に
申しておることでもありますが、したがって簡単に申し上げますが、ポツダム
宣言の日本政府の理解というものも、私が見る限り、松本さんもそうですが、
日本政府全体もポツダム宣言というものをかなり軽く見ていたといいますか、
あるいは見たかった。それは気持ちとしてはあると思いますね、あると思いま
すが、見たかったという側面もあるやに思います。
 具体的に申しますと、例えば高木さんという方は、アメリカ政治史を御専攻
だと思いますが、東大教授で、ここでは今お話をしておりませんが、近衛文麿
案をつくるときの事実上の顧問をされていた方であります。この方は、アメリ
カ人に知っている方がいるということもあり、かなりGHQ側に案を、自分は
こんな案だけれどもどうだろうとやりながら近衛案をつくっていくわけですが、
そういう経験もあって、松本さんに、司令部側の意見を御聴取になった方がい
いというふうに勧めたけれども、松本さんは、いやそれは自主的にやると言っ
て聞かなかった。やはりその辺にまずいことがあったのではないかというふう
に後で回想をされております。
 それからさらに、これは全く基本的な、ポツダム宣言とそれに基づくものの
解釈の問題ですが、ポツダム宣言の中では、御存じのように、天皇の地位をど
うするかということは触れられておりません。これはその後の研究者の研究成
果によりますと、あえて入れなかったということであります。
 そこで、日本政府は、それでは天皇の大権はどうなるのですかという問い合
わせをしております。八月の十一日だったと思いますが、出しております。こ
れに対して、通称バーンズ回答と呼ばれておりますけれども、アメリカの国務
長官が回答を出しておりますが、その中では、天皇及び日本政府の国家統治の
権限は連合国最高司令官の従属のもとに置かれる、つまり、天皇と日本政府の
上にマッカーサーがいるのですよと回答しているわけですね。
 ちょっとここを解説しておきますと、しかしながら当時外務省は、ここを従
属と訳しませんでした。ここを「制限ノ下ニ置カルル」と訳したわけです。先
ほど私は、占領ということをできるだけ軽く見たかったと。それはまあ占領さ
れる側ですから、そう思うことは私は当然だと思いますが、ただ原文でいけば、
そこのところはシャル ビー サブジェクト ツー ザ シュープリーム コマンダ
ー オブ ジ アライド パワーズと書いてあるわけですから、従属と制限では大
分違うわけで、やはりそういう、占領に伴う権力関係というものを正視すると
いいますか、冷静に見るといいますか、そういったことを必ずしもしてこなか
ったところに、最後に押しつけという場面を迎えてしまったということがある
のではないかというふうに思っております。
 それにしても、先ほど来お話をしておわかりになっていただけたのではない
かと思いますが、GHQはなぜこんなに急いだのかということですね。やはり
この疑問はあるわけですけれども、私は、今までいろいろ調べる中でその理由
をほぼ二つに集約いたしております。
 一つは、極東委員会が設置される前に憲法をつくりたいとマッカーサーは考
えた。レジュメには書いてございませんが、よくアメリカに押しつけられたと
おっしゃる方もいらっしゃるのですが、それは私の調べた限り大変な間違いで
して、アメリカ政府は、マッカーサーのように急いでやるやり方に、やめろや
めろと何度も言っています。人を介しても言っています。トルーマンは、わざ
わざ憲法問題の特別顧問まで派遣しています。しかし、マッカーサーは全然聞
く耳を持たないのですね。そのぐらいマッカーサーは自信家であります。
 しかし、マッカーサーはマッカーサーなりの判断があった。それはどういう
ことかといいますと、ソ連等々を含む極東委員会が設置されてしまえば、なか
なか自分が構想するような憲法案は受け入れられないということですね。
 じゃ、どうして急いだのかということですけれども、少し細かく申し上げま
す。
 一九四五年、昭和二十年十二月二十七日、モスクワで米英ソ三国外相会議が
開催され、そこで占領地域に関する合意がなされます。これは日本の占領だけ
をやったわけじゃないんですが、その中で、日本占領については、今まであっ
た極東諮問委員会を改組して極東委員会をつくるということになります。極東
委員会の権限は日本の占領政策を決定するということになりました。
 これは、結果的には今のワシントンの日本大使館、当時閉鎖でしたから、そ
こに極東委員会を設置いたします。そして、連合国十一カ国で構成するわけで
すけれども、緊急の事態がある場合にはアメリカ政府が中間指令を出せるとい
う中間指令権をアメリカに与えます。とはいっても、それはレジュメに書いて
あるのですが、それ以降、その付託事項の中で、日本国の憲政機構もしくは管
理制度の根本的改革を規定する指令は極東委員会の決定の後にアメリカ政府が
指令を発することができる、こうなっております。つまり、きょうのお話との
関係で申しますと、憲政機構の根本的な改革の指令というものは極東委員会が
持つんですよと言っているわけですね。これが出されたのが十二月二十七日で
す。
 これはGHQにとっては決定的なことです。つまり、ぐずぐずしていれば、
日本国憲法をどうするかという問題は極東委員会の問題になるということであ
ります。そのことは、かなりGHQは注目していたんだと思います。
 したがいまして、先ほどの毎日スクープがあって、その翌日から日本語訳が
出るわけですが、何と日本語訳が出る前に、マッカーサーの懐刀であるホイッ
トニー民政局長は早速マッカーサーにあてて進言をいたします。どんな進言を
したかということですけれども、時間のない中ですけれども、大事なことです
のでちょっと読ませていただきます。
 「最高司令官のために」というメモランダムをつくっております。「憲法の
改革について」というタイトルがついております。
 「日本の統治機構について憲法上の改革を行なうという問題は、急速にクラ
イマックスに近づきつつある。日本の憲法の改正案が、政府の委員会や」、憲
法問題調査委員会を指すと思いますが、政府の委員会や私的な組織、つまりこ
れは憲法研究会とか民間草案をつくったところですが、もう一度読みますと、
「日本の憲法の改正案が、政府の委員会や私的な委員会によっていくつか起草
された。次の選挙の際に憲法改正問題が重要な争点になるということは、大い
にありうることである。」ちょっと飛ばします。「私の意見では、この問題に
ついての極東委員会の政策決定がない限り――いうまでもなく同委員会の決定
があればわれわれはそれに拘束されるが――閣下は、」つまりマッカーサーは、
「憲法改正について、日本の占領と管理に関する他の重要事項の場合と同様の
権限を有されるものである。」こういう進言をしています。
 つまり、極東委員会が開催される前に、あなた急いでやりなさい、やればま
だあなたのところに権限はありますよという進言をするわけであります。
 先ほど、大変マッカーサーは急いでいたということを言ったのですが、急い
でいるそこのゴールはどこにあったかといいますと、レジュメに書いてありま
すように、二月二十六日に極東委員会第一回の会議がワシントンで開催される
わけですが、その前に何とかゴールをつくってしまいたいとマッカーサーは考
えたのだろうと思います。これが急いだ一つの理由であります。
 二番目は、この極東委員会との関連で急いだということともかかわりますが、
天皇の地位を早く確定することであります。
 当時、連合国の中には、天皇は戦争犯罪者に該当するというふうに政府の決
定までしていた国々もあるわけです。しかしながら、マッカーサーは、今まで
いろいろな方々がこの研究をされておりまして、私も全部読んでいるわけでは
ございませんが、しかし、マッカーサーはかなり早い段階から昭和天皇の戦争
責任をできるだけ免責したいと考えていたということは、ほぼ今の研究段階で
立証されたというふうに言ってよろしいんではないかと思います。そこで、そ
のメルクマールとなるものを簡単にレジュメに書いておきました。
 一つは、一月十九日に、マッカーサーは極東国際軍事裁判所、つまり東京裁
判の条例をつくります。それは、被告人の対象として、計画立案に参加した指
導者という言葉を使い、ニュルンベルクの、ヨーロッパの国際軍事裁判所条例
とはかなり違っています。ヨーロッパの方は、元首も含むと明確に書いてあり
ます。つまり、そこには一つの意図があったと私は推論いたします。
 さらに、そればかりではなく、前年の十一月、昭和二十年、一九四五年十一
月には、アメリカは当時アイゼンハワーが陸軍参謀長ですけれども、後に大統
領になりますが、陸軍参謀長から、天皇に戦争責任があるかどうか調査をしろ
という手紙をマッカーサーはもらっています。ずっと困っていたようですけれ
ども、その回答を一月二十五日にいたします。最終的には、このレジュメに簡
単に書いておきましたように、かなりこれは長いんですけれども、「過去十年
間に日本帝国の政治決定と天皇を結びつける証拠は発見されていない」「天皇
を起訴すれば日本人が激しく動揺する」というようなことを書きまして、そし
て、自分は天皇に戦争責任はないと考えるという回答をいたしております。
 そして、その一方において、マッカーサーは、この憲法というのは政府がつ
くった憲法、もう少し言えばその素案はGHQがつくったと言ってもいいと思
うんですが、これはもちろんGHQがつくったなどということは口が裂けても
言わないわけで、それだけではなく、天皇が率先してイニシアチブを握ってつ
くったものであるということを連合国側に一日も早く伝える努力をさまざまな
ところでいたしております。これは、私も当初気づかなかったことであります。
しかし、アメリカ側の文書を読んでみると、そのことに私は改めて気がつきま
した。
 例えばその象徴的なことを一つ挙げておきますと、三月五日というのは先ほ
ど申しました。三月四日から五日にかけて三十時間、GHQとの間で政府案を
つくり、そして首相官邸で五日の夕方、閣僚は待っているわけですけれども、
そこで閣議を開いて政府案を決めるわけですね。そして、その翌日、政府の草
案要綱を発表するわけですけれども、実は、その要綱を発表するときに、同時
に天皇の勅語が発せられております。これは余り注目されていないことですが、
実はマッカーサーはこれを大変重視しております。
 それはどんなものかということですけれども、レジュメのところですけれど
も、三月五日というところをごらんいただきたいと思います。それほど長いも
のではございませんので、全文読ませていただきます。「朕曩ニポツダム宣言
ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意思
ニヨリ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生
活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ抛棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意
ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則
リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ政府当局
其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」、こういう勅語
でございます。これを発しています。
 これは、一言で言えば、この内容はほとんどポツダム宣言の内容を天皇は述
べております。そして、それに従って政府は憲法をつくりなさい、こう言って
いるわけですが、さっと読みましたのでお気づきでないかもしれませんが、私
は、この日本語の中にはかなりおかしな日本語があると思っていろいろ調べた
んです。これは、以後は推測ですが、どうも原文は英語でつくられたのではな
いかというふうに、幾つかメモが出てまいりますが、思っております。ここは
推測です。
 いずれにいたしましても、GHQが、戦争を放棄し、人権を尊重した憲法を、
昭和天皇が率先してつくられたということを連合国側に非常に強調していると
いうことが読み取れると思います。
 しかし、当時、昭和天皇の側ではもっともっと緊張した状況にございまして、
数年前に公表されましたけれども、昭和天皇は、このときたしか御病気であっ
たように記録には書かれております。記録というのは、木下侍従次長日記等々
を読むとわかりますが、その中で、何と、三月の十八日から四月の八日まで五
回にわたって、当時の松平宮内大臣を初め木下侍従次長等々を聞き役として、
第二次大戦が始まる前ぐらいからどういうふうに自分はこれをしてきたのかと
いう、独白録というふうな形で公表されましたが、独白録をつくっておられる
わけであります。このことは、やはりどう見ても、仮に東京裁判にかかわるよ
うになった場合に整理をしておくということしか考えられないと思いますけれ
ども。
 こうした非常に緊張した状態の中で、三月二十日に日本国憲法の基本的な骨
格は枢密院に諮詢されます。明治憲法の手続を踏むわけですから、まず最初に
枢密院に諮詢されます。三月の二十日であります。その冒頭、幣原喜重郎首相
が述べているところを読みますと、このことが非常によくわかります。日本の
皇室の維持のためにこういうことをしたんだということを述べ、「若シ時期ヲ
失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウ
ニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル。」こういうふう
に述べておられます。
 このようにして見ますと、急いだ理由は、一つは、極東委員会に先んじると
いうこと、もう一つは、天皇を象徴として天皇の地位を明確に規定した憲法を
一日も早くつくることによって、しかも、その憲法は、戦争を放棄し、平和主
義である、人権を尊重している、こういう連合国に受け入れられやすい憲法を
一日も早くつくることによって日本を安定させようとマッカーサーは考えた。
それが急いだ理由であるというふうに言えるのではないかと思います。
 だんだん時間が迫ってまいりましたので、急がせていただきます。
 それから、確かに私は、先ほど二つの場面を申し上げて、押しつけの根源と
いうのはここから出ているというふうに考えられると申しました。しかし、そ
れでは、GHQ案を翻訳したとかおっしゃる方もよくいらっしゃるようですが、
そういうものなのかということですけれども、枢密院に諮詢された後、衆議院、
貴族院で審議をされます。昭和二十一年の六月二十日から、貴族院では十月ま
でかかって審議がなされるわけであります。その間にあって、私はきょうのレ
ジュメでは三つに分けておりましたが、GHQ案はかなりの程度に修正をされ
ております。とても全部読んでおる時間がございませんので、大枠だけ申し上
げますと、つまり、GHQ案にあったものが政府の要請で修正されたものもご
ざいます。
 例えば、一番最初の憲法十四条の部分ですけれども、「すべての自然人は」
というところは、「すべて国民は」とされております。大して大きなことでは
ないとおっしゃられるかもしれませんが、これは実は大変大きな、自然人とい
うのは法人以外のものが自然人ですから、人間すべてに対して法のもとの平等
を保障するというのがGHQ案です。そういう中で、そこを日本国民とする。
 あるいはまた、GHQ案の二行目ですけれども、カーストまたは出身国によ
って差別されないという言葉を使っております。このカーストは、日本には被
差別部落民がいるということをGHQは知っていてカーストという言葉を使っ
たそうです。あるいは出身国、これは、旧植民地であったところから、朝鮮人、
台湾人がいるということを知っていて出身国という言葉を使っております。そ
れを政府は門地という言葉にしてくれといって、「カーストまたは出身国」を
「門地」に変えますね。英語でいうと大して変わらないんですけれどもね。出
身国というのはナショナルオリジンですね。門地というのはファミリーオリジ
ンですから、どちらもオリジンで余り変わらないんです。だからGHQがうん
と言ったという説もありますけれども、それとの関連で外国人の人権は全部削
ります。土地国有化についても削っております。国会の一院制についても削っ
ております。
 こういうふうに政府の案を受け入れている部分もございます。
 さらには、帝国議会の中でもGHQ案になかったものを加えている部分もあ
るわけであります。
 憲法十条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と大変簡単
に書いてありますが、この条文は明治憲法十八条そのままであります。私は、
政府案に政府が修正できないから三党の共同提案になっておると思っていて、
本来は多分法律家がつくったものではないかと思います。
 さらに、生存権、憲法二十五条の一項、「すべて国民は、健康で文化的な最
低限度の生活を営む権利を有する。」これは社会党の修正案。社会党は何から
持ってきているかというと、ワイマール憲法の社会権規定、それを知っていて、
これが必要だというふうに言って、これは入れております。ただ、もちろん当
初の案はいろいろ削られたりもしております。不十分なものですけれども、入
りました。さらに、政府案が議会の中でかなり修正をされております。
 それから、さらに申し上げておきたいことは、こうした機会を与えられまし
たので、時間の許す限り申し上げておきたいことは、今申し上げたことは比較
的本にいろいろ書かれております。特に佐藤達夫さんが出された「日本国憲法
成立史」には細かく書かれております。しかし、日本の一般的な書物、それは
ある意味では憲法の本もそうですね。そればかりではなく、歴史書もそうです
けれども、ほとんど無視してきているものがある。無視といいますか、無視し
たんじゃなくて、あえて見てこなかったんだろうと思います。決して私だけが
見ているとは申しませんが、日本の中では余り議論されていないことです。
 それは、マッカーサーは、一九四八年五月から翌年の五月まで、正確に言え
ば五月の三日から翌年の五月の二日までの一年間に憲法を再検討してもいいで
すよということを時の吉田首相に伝えております。どうしてこれを伝えたかと
いいますと、極東委員会が、その前の一九四六年十月十七日に、日本国憲法を
再検討する機会を日本国民に与えるべきだという決定をしたからです。
 しかし、マッカーサーは、先ほど来申し上げておりますように、人の意見を
余り聞かないといいますか、とにかく偉い人ですから、日本国憲法がまだ議会
で公布もされていないのに、つまり、この段階は十月ですから、十一月三日に
公布されるわけですから、こんなことをやったら憲法の権威が落ちるではない
かというわけですね。
まさに、おれのつくった憲法の権威を落とすなとは言っていないんですが、ま
あ言いたかったんでしょう。したがいまして、日本政府には伝えません。そし
て、極東委員会の決定とは関連のない形で、私信をもって吉田首相に一九四七
年一月三日に伝えております。これを受け取った吉田首相は、たしか一月六日
ぐらいだったと思います、すぐに、心にとどめおきますという返事を書いてお
ります。
 そして、その後、極東委員会の決定等々がいろいろ新聞等々で報道される中
で、当時法務総裁と言っておりました法務大臣も衆議院議長もこの問題を知っ
ておりますけれども、いずれも、この国会ででございますが、国会で技術的な
改正しか自分は考えていない。その例として憲法八十九条、私的な、私立学校
であるとか宗教団体であるとか慈善団体に対して公的な援助を与えてはいけな
いという条文ですが、そこの問題の再検討などは必要かもしれないけれどもと
いうような言い方をしています。あるいは松岡駒吉さんという当時の衆議院議
長は、改正は考えていない、自分はいろいろな大政党の幹事長にも相談したけ
れどもみんなそういう意見だということを言っております。さらに、新聞の社
説等も、改正の必要性についてはほとんど述べておりません。
 そして、そういう中で、最終的には吉田首相は、一九四九年四月、つまり再
検討の期間がもうほとんどない段階において衆議院外務委員会での質問に答え
て、「極東委員会の決議は、直接には私は存じません。承知しておりませんが、
政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持つておりません。それから
芦田内閣」には、つまり自分の前の内閣ですが、「芦田内閣において憲法改正
の議があつたとすれば、これも私は伺つておりません。」と明白に述べており
ます。
 したがいまして、吉田首相は押しつけの立場をとっておりません。吉田さん
の最大の回想録である「回想十年」を読まれても、それは明白であります。あ
るいはまた、これを理由に憲法を改正するべきだという立場もとっておられま
せん。それは非常に象徴的なことだろうと思います。
 最後に、こういった過程をどんなふうに見るのかということで、お話をした
以上、結論的なことを申し上げなければいけないわけで、申し上げるわけです
が、大変難しい問題だろうと思います。日本民族にとって有史以来の占領がさ
れ、その中で国家の基本法が改正されたという事態をどう評価するのかという
ことですから、大変な問題であります。
 私は、一応そこに三つくらい書いておきましたが、一つは、ポツダム宣言の
受け入れというもの、言い方をかえれば敗戦ということを、力の問題、軍事力
で負けたというふうに考えていた方が、当時、記録を読む限り大変多いわけで
あります。
 確かにそれは冷厳なる事実でありましょうが、しかし、そうなった原因を、
国の政治レベルの、政治体制の問題として、言い方をかえれば、明治憲法体制
との関連でどこまで見てきたのかということをやはり問うてみざるを得ないわ
けであります。
 そしてさらに、その明治憲法体制が問われた占領というものは法的に見た場
合にどうであるのか。もう繰り返しませんけれども、明らかにそれは対等な関
係ではなかったわけですが、なかったということを私どもは国家意思の決定の
手続を経て受け入れてきたわけであります。確かに屈辱的なことでありました
が、私は、その受け入れる手続というものはきちっとしてきていると思います。
 それからさらに、日本の行った戦争に対する日本の責任というものに対する
意識というものを、当時それほど強く感じていなかった。それは言い方をかえ
れば、明治憲法をどこまで改正しなければ、国際社会、特に連合国に受け入れ
られないのか。
日本があれだけの戦争をした後で、国際社会の中でどう生きていかなければな
らないのかということを、国際社会との関係の中で必ずしも考えていなかった。
 このことは、言い方をかえますと、僕もいろいろなことを考えるんですけれ
ども、憲法をつくったというのは、昭和二十年の八月十五日、敗戦を迎えてか
ら一年もたっていないわけですね。その前までは米英鬼畜と言い、神州不滅と
私たちは言ってきたわけですね。半年にして人間の心というのはそう簡単にす
ぱっと変わるんだろうか。なかなか変え得なかったと思うんです。そこは、当
時生きた人たちの気持ちは酌まなければいけませんが、しかし、明治憲法体制
というものが近代憲法であり得たのか、あるいはまた、連合国が日本に突きつ
けたポツダム宣言を受け入れたという意味は、明治憲法との関係で那辺にある
のかということを突き詰めて考えてこなかった部分にやはりある。
 そして、連合国を構成するアジア諸国、さっき十一カ国と申しましたけれど
も、それ以降、フィリピン等アジアの国も入っていきますが、十三カ国になり
ます。そういった国々の主張の厳しさというのは、極東委員会での議事録を読
みますと、私のような戦後生まれの者でも、私は昭和十八年に生まれています
が、愕然とさせられます。日本人として何でこんなことを言われるのだと思い
ますが、しかし、事実は事実であります。そこを私たちはどこまで、歴史に対
して、歴史の教訓を自分の思考の一部とするということをしてきているのかと
やはり考えざるを得ないわけであります。
 確かに感情として屈辱的な部分があったことは、何度も申し上げております
ように、事実であろうと思います。しかし、再度、もう一度申し上げますが、
天皇の詔書、さらには内閣の議決、枢密院、衆議院、貴族院と、明治憲法下の
法の適正手続は明確にとられてきたわけであります。私たちの先輩は、この案
に対して賛成の意思を表明してきたわけであります。それを国家意思との関係
でどう考えるかという場合に、私はそう簡単に押しつけというふうに、つまり
感情論を公的なものにしてしまうということは、必ずしも国家意思の形成とい
う点では適正ではないというふうに最終的には考えております。
 ありがとうございました。(拍手)
○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――

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