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天皇のスケープゴート的起源
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投稿者 エンセン 日時 2003 年 8 月 01 日 15:00:51:


永井俊哉講義録 第12号


天皇の起源がスケープゴートだったということは意外であろう。例えば極東軍事裁判がそうであるように、多くの人が天皇のスケープゴートにされてきたのだから。しかし黎明期における天皇は、未開社会における酋長と同じで、スケープゴートの色彩が強いのである。そして現在に至るまでその時の性質の一部が天皇に残存しているのである。そのような残存性質の例を一つ挙げよう。天皇には姓がない。これは今でもそうで、天皇には裕仁とか明仁といった名前しかない。明治以前では、貴族であれ武士であれ、姓があることは上流階級の特権であって、庶民には姓がなかった。それなのに、上流階級の頂点である天皇には、賤しい一般の庶民と同様に姓がないのである。 

古代の天皇は、古代エジプトのファラオや中南米の王族と同様、太陽の子孫と信じられ、その血統を守るため近親相姦が繰り返されてきた。ところが日本を含めて世界中どこでも、近親相姦は汚らわしいタブーなのである。穢れと神聖さを兼ね備えていることは、スケープゴートの特徴である。 

スケープゴート(scapegoat) とは、もともとは、罪を贖うために神に捧げられた犠牲の山羊という、ユダヤ・キリスト教起源の宗教用語であったが、今では、普遍的な人類の政治力学を説明する用語として使われる。共同体が差異の消滅により解体の危機にさらされた時、一人の人物もしくは特定の集団にすべての罪を負わせ、共同体のメンバーが力を合わせてそのスケープゴートを生贄として屠ることにより、共同体の秩序を回復する。スケープゴートは、共同体にとって穢れた存在であるにもかかわらず、屠られることにより、聖なる存在として祭り上げられる。

天皇にはこれ以外にも特異な点が多く見られる。日本の天皇は、世界の通常の君主や国王と異なって、政治的・軍事的カリスマ性よりも宗教的カリスマ性を多く持ち、主体的に政治的リーダーシップを取ることがない。天皇のこの特殊性はどこから来たのか。この問題を解くためには、卑弥呼の死の謎に迫らなければならない。 

前々回の号で、天皇の祖先である天照大御神は卑弥呼であることを論じた。卑弥呼が君臨する前、邪馬台国は、もともと男王が治めていた。七、八十年その状態が続いた後、「桓帝と霊帝の治世の間に、倭国は大いに乱れ、互いに攻伐しあって、長い間王は不在であった」(後漢書東夷伝)。同じような記事が『魏志倭人伝』に見られる。「その国、もと男子を以て王と為し、とどまること七、八十年。倭国乱れ、あい攻伐すること歴年。すなわち一女子を共立して王と為し、名づけて卑弥呼という。」

桓帝と霊帝の治世といえば、147年から189年の間である。158年に皆既日食が起きた後の内乱であったと考えられる。太陽を崇拝する民族にとって、太陽の死はこの世の終わりを意味する。ちょうど今日、政策が失敗して大不況になれば、政府首脳は責任を取って退陣を余儀なくされるように、男王はこの責任を取らされる形で、つまりスケープゴートとして追放もしくは殺害されたと考えられる。 

『魏志倭人伝』は、当時の倭には、持衰(じすい)と呼ばれるスケープゴートがいたことを教えてくれる。「渡海して中国に往来するときには、恒に一人には、頭を梳らず、虱を取り去らず、衣服は垢に汚れたままにし、肉を食べず婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰としている。もしも旅がうまく行けば、人々は彼に生口・財物を与え、もし途中で疾病があったり暴風などによる被害があれば、持衰を殺そうとする。その持衰が謹まなかったからだというわけである」。船を国に置き換えた時、国王は持衰に相当することがわかる。 

「持衰」に相当すると思われる人物が描かれた絵画土器片が、奈良県の唐古鍵遺跡から見つかっている。その絵画土器片では、持衰は、左手に何かおそらく宗教的意味を持つと思われるものを手にして船尾で孤立している。年代は1世紀後半(弥生時代中期後半)と推定されるので、邪馬台国の時代より前である。持衰と同じような船旅のスケープゴートは、東南アジアに見られる。だから、持衰は朝鮮半島から来た北方モンゴロイドである弥生人がもたらした習俗というよりも、東南アジアから来た南方モンゴロイドである縄文人がもともと持っていた習俗で、邪馬台国の太陽崇拝も縄文時代からの土着信仰であったと推測される。 

さて倭では、皆既日食が起きてから、長い間(歴年)内乱状態となった。太陽を蘇らせるために、卑弥呼は日巫女としての呪術的才能から女王になったと考えられる。しかし前回書いたように、西暦240年頃からの気候の低下(太陽の衰弱化)とそれがもたらす不作が倭の社会不安をもたらした。不作になれば戦争が起きる。邪馬台国連合軍は南の狗奴国と戦い、その結果は思わしくないものであった。 

「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の戴斯、烏越らを遣わして郡にいたらしめ、相い攻撃する状を説く。塞曹掾史張政らを遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ檄をなしてこれに告諭す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作るに、径百余歩、殉葬する者は奴婢百余人」(魏志倭人伝)。 

「倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と元々仲が良くなかった。倭の戴斯、烏越らを使者として帯方郡に派遣し、両国の戦況を報告した。帯方郡は、塞曹掾史の張政らを遣わし、これによって詔書と黄幢を与え、魏帝に代わって難升米を任命し、檄を飛ばして彼を諭した。卑弥呼はこうして死んだ。盛大に墓を作ったが、その直径は百余歩あり、殉葬した奴婢は百余人に上る」(同上口語訳)。 

『魏志倭人伝』には、倭が狗奴国に敗れたとは書いていない。しかしもし勝ったなら、勝ったと書くはずである。何も書いていないということは負けたということだ。これは、書くことがはばかれることは、書かないことによって、読者にそれとなく真実を伝える『魏志倭人伝』の表現方法で、「春秋の筆法」と呼ばれる。倭は負けたからこそ、魏に使者を派遣し、軍事顧問として張政を迎えたりしたわけである。 

引用文に「檄をなしてこれに告諭す」とあるが、魏(帯方郡)は、いったい何を難升米に諭したのか。通常は、「狗奴国との和解」と解釈されている。しかしもしも和解を勧めるのならば、軍旗(黄幢)を与えたりしないはずである。むしろ魏は戦争の後押しをしているのである。

ヒントは次の文「卑弥呼以て死す」にある。「卑弥呼以死」の「以」は「すでに」ではなく、「よって」である。他の箇所で「すでに」という時には「已」を使っているから、そのような解釈には無理がある。つまりこの「以」は、卑弥呼の死の原因が、「檄をなしてこれに告諭す」であることを意味している。だから魏は卑弥呼の殺害を迫ったということになる。もちろん『魏志倭人伝』には、直接そうは書いていない。これも春秋の筆法である。

ではなぜ魏は卑弥呼の排除を必要と感じたのか。そもそも魏が日本国内の内乱にこれだけ深く介入することは異常ではないだろうか。 

じつは狗奴国の背後には魏の宿敵である呉があった。日本には当時の呉の年号(赤烏)が入った呉鏡(平縁神獣鏡)が二枚発見されている。これは三角縁神獣鏡とは異なって、中国産の舶来鏡である。魏の敵国である呉から邪馬台国が鏡をもらうということはありえない。この鏡は、魏の傘下に入っていた倭と敵対する国、すなわち狗奴国に贈られたに違いない。北九州の倭は朝鮮半島を通して魏と結びつき、南九州の狗奴国は、南西諸島を通して呉と結びついていたということは地政学的には大いにありうる図式である。倭と狗奴国の戦いは、中国大陸の代理戦争の様相を呈していた。魏が倭に帯方郡の役人を派遣したりして並々ならぬ援助をするのも、この戦争の勝敗が他人事ではなかったからである。

そもそも中国が日本に使者を送るということは、そう滅多にあることではない。次に日本に中国の使者が来るのは、300年以上たった608年である。この時、第一次高句麗遠征に失敗した隋が、遠征再開に向けて周到な外交的準備を行うべく、遣隋使小野妹子の帰国に際して、使者を伴わせ、日本に高句麗との同盟関係を解消するように画策した。その次は667年で、白村江の戦いの戦後処理のために唐の将軍、劉仁願が日本に使者を派遣した。このように、中国が日本に使者を送る時には、自国の存続にかかわる軍事的課題があると考えなければならない。

邪馬台国連合軍は、野蛮国である狗奴国に本来負けるはずがない。それなのに負けてしまった。さあ大変、責任問題である。魏は、すべての責任を卑弥呼に押し付けた。神憑りの老婆が国を支配するということは、当時の先進国である魏にとっては異様に思えた。「告諭」の内容は、軍事的才能のある男が王となるべきだというチャイニーズ・スタンダードを押し付けたものだったと想像できる。247年3月24日、皆既日食の日に卑弥呼は殺された。 

では魏にそそのかされて直接卑弥呼を殺したのは誰か。記紀はそれが卑弥呼の弟、素戔嗚尊であることを仄めかしている。先ほどの引用文にある通り、『魏志倭人伝』も、卑弥呼には男弟が一人いて、政治を補助していると書いている。東南アジアの風習として、スケープゴートを殺害した者がその後継者になることになっている。邪馬台国の場合でも、弟が卑弥呼を殺したとするならば、弟がその後を継いで王となるはずである。

もう一つの根拠は、共立と立の違いである。『魏志倭人伝』では、本来王となることが予想されている嫡子が王位につくときは、立で示し、庶子のごとき人物の場合には共立という語が使われる。卑弥呼は「共立」されたとなっている。これは、卑弥呼が血統的正当性から女王になったのではないことを示唆している。しかし男王は「立つ」となっている。このことは、男王が卑弥呼と強い血縁関係にあることを示しているのである。 

だが男では日巫女はつとまらない。だからこの王は支持されなかったし、人々の動揺は収まらなかった。そしてこの男王には不幸なことに、248年9月5日、またもや皆既日食が起きた。これは天が新しい王に「不信任案」を突きつけたようなものである。158年の時と同様に、倭は内乱となり、そして以前と同様に少女(台与)が日巫女として女王に擁立され、乱は静まった。

「更に男王を立つるに、国中服せず、更に相い誅殺し、当時は千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」(魏志倭人伝)。 

天岩戸神話が伝えるように、この時天下は再び明るくなった。記紀には、この時素戔嗚尊は髪を切られ、手足のつめを抜かれ、出雲に追放されたとある。出雲は、記紀では死の国のメタファーである。男王も殺害された可能性が高い。  

台与は記紀では万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきづしひめのみこと)に相当し、後に豊前や豊後の豊(とよ)という地名に名を残している。もちろん当時の人は女王をトヨとは呼ばずにヒミコと呼んだはずだ。ちょうど歴代の天皇をすべて天皇と呼ぶように。

台与の子孫が、神武以降の天皇家である。記紀では、神武天皇の祖先は、高天原から降臨したと書かれている。高天原(たかまがはら)は、タカ−アマ−ハラの三つの言葉から成り立っているが、タカは高貴なを、アマは女性や母を、ハラは腹を意味すると考えれば、高天原とは、聖母の母胎のメタファーで、高天原からの天孫の降臨とは、天皇の祖先(瓊瓊杵)が、聖母である日御子(台与)から生まれたことを意味している。

日の丸が示すように、日本人という民族は、太陽をトーテムとして、自らのアイデンティティを確立している。日本が外から日本を意識する必要が生じた時、日本人のトーテムが祭り上げられる。

これまでに天皇が実権を取り戻したことが、日本史上三回あった。大化の改新、建武の新政、明治維新の三つである。いずれの場合にも、日本が対外的な危機にさらされた時であったことは偶然ではない。

中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新(645年)を行った時、日本は大陸と緊張した関係にあった。562年には任那(加羅)が滅亡し、663年には白村江の戦で日本と百済は唐と新羅の連合軍に大敗し、中大兄皇子は、唐・新羅の日本侵略に備えて、海辺の防衛を整え、飛鳥からより内陸の大津に遷都したというありさまだった。
後醍醐天皇が建武の新政を行う50年ほど前、元が日本を2回侵略しようとした。この時朝廷は、日夜元軍滅亡を祈祷した。元軍は台風で壊滅したわけであるが、この大暴風は天皇の呪術のおかげだとされ、神国思想が広まった。本地垂迹説に対して、反本地垂迹説が唱えられたのもこの頃である。後醍醐天皇の討幕が成功した理由の一つには、この時の天皇の権威復活がある。
明治天皇が江戸幕府を倒した時、日本は欧米列強の植民地化の脅威にさらされていた。江戸時代後半からロシアやアメリカが開国を要求したが、多くの日本人は尊王攘夷の立場を取った。武士は当時政治経済的には徳川将軍の傘下にあったが、日本の精神的統一原理としては天皇が担ぎ上げられなければならなかった。明治維新後、神仏分離例が出され、廃仏毀釈運動が起きた。
天皇が実権を取り戻したというほどではないが、対外的に最大の危機に陥った太平洋戦争の際に、明治維新後の大正デモクラシーの時期には一時冷めていた天皇崇拝熱が極限に達したことは指摘するまでもない。

ところで歴代の天皇はほとんどが男である。なぜ天皇の祖先である天照大御神は女性であったのだろうか。古代日本でもエジプトなどでと同様に、太陽は男性として表象されていたと考えられる。巫女が処女でなければならないのは、それは男性である太陽神に仕えるためである。ところが日巫女は、スケープゴートとして殺害されることにより日神子あるいは日御子へと昇格し、太陽神として表象されるようになった。同じプロセスは、キリスト教にも見られる。イエス・キリストは、もともと神の預言者であって、彼自身も周囲も、イエスが神そのものだとは思っていなかった。しかしイエスは処刑され、それによって神聖な存在者に祭り上げられ、三位一体論の教義において神の子、あるいは神そのものと観念されるようになった。イスラム教徒がモハメットをアラーと同一視しないのは、モハメットがスケープゴートとして屠られなかったからである。


http://www.nagaitosiya.com/lecture/0012.htm

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