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Ddog氏、田島の「大日本育英会用箋」への万年筆「落書き(ないしメモ書き)にいたく感涙するの巻き
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/1034.html
投稿者 月刊文春愛読者 日時 2003 年 7 月 13 日 03:56:29:

手元に文芸春秋8月号がある。Ddogさんはこれを読んでこの投稿文書を感涙しながら書いている模様だ(7月号ではなく8月号であることが明らかにされていない)。

この「昭和天皇国民への謝罪詔勅書」の背景などについて、8月号は座談を通じて議論をし、またこれを読んでの感想を11人の識者から寄稿させている。この文書が、権威ある詔勅原稿だったかについては、8月号座談と、感想寄稿者の中で強い疑問が提示されていることをDdog氏は天皇の正当性のプロパガンダ・イデオローグの立場からだろう、公正に取り上げる態度を示していない(8月号と引用元を明らかにしないのは。こうした否定的情報に接してほしくないという潜在的な気持ちだろうか)。

  この座談では、この文書は、基本的に田島宮内庁長官が書いてかつ彼の意思が強く反映された原稿だろうという点で一致している。問題は、この原稿は、権威ある詔勅原稿だったか、という点だ。つまり、天皇が実際にこの原稿を読み、内容的にOKしていたものか、という点では、非常なる疑問が8月号でも提示されているが、私もその疑問に同意する。


この文書がなんと、大日本育英会の用箋に万年筆で書かれているという事実の意味である。田島が昭和23年6月に宮内庁長官に就任するその前職は大日本育英会の会長だったという。公職・政府閣僚に就任した彼が詔勅の原稿として使ったのが前の職場で使われていた用箋だったというのである。仮にも宮内庁長官である。宮内庁専用の用箋など当時存在しないとはいわせない。なぜ、それを使わず、大日本育英会の用箋に書いたのか。

そして、この座談メンバーで、かつこの原稿の発見者である加藤女史の説明によれば、田島家の変色してしまった封筒や紙の束に紛れ込んでいたところを偶然発見したという。自分はこのような大切なものがあるとすれば当然金庫の中にあると思い、銀行などにいって貸し金庫の中まで田島の子息に調べてもらったがなかったところ、田島家側から借りていた書類などの間に無造作に挟まっていたのを発見したという。つまり、この原稿は、重要性のない各種の文書類にまぎれる形で発見されたという。

この2つの事実が推測させるのは、一つには、田島は天皇にはこの原稿を渡してはいなかったであろうことだ。「大日本育英会」の用箋のまま、彼が天皇に閲覧を求めたと考えるのは非常に無理がある。前職の会社のレターヘッド(会社用箋)に書いた原稿を、ヘッドハントされた会社の最高責任者に出すものだろうか。いかにも失礼ではないか。何らかの閲覧を求めて書いたものなら、いったん「大日本育英会」の用箋にメモ書きしたものを正式に宮内庁の用箋に書き換えて天皇に閲覧をもとめたはずである。

また、万一この前職「大日本育英会」の用箋に田島が書き、その生原稿を天皇の閲覧に供し、天皇のフィードバックをえたものなら天皇の権威が正式に与えられたものといってよい。その重みのある正式原稿を、その後公式には出されなかったとしても、それを、自宅の書類の山の中に無造作放り込んで置くものだろうか。それは到底考えにくいのだ。

この2点からして、この文書は田島による原稿だったとはいえるものの、天皇の閲覧に供し裁可をもらう段階に達していた原稿とはとても考えにくいといわざるをえない。原稿だとしてもあまりに初期の初期段階、つまり、田島の構想の段階のメモ書きだった物の可能性が高い。「大日本育英会」の余りの用箋が自宅にあり、それに、とりあえずのメモ書きとして、自宅で書いたもの、自分の習作だった可能性が高いのではないか。

またたこ氏の以下の分析と疑問は非常に傾聴に値すると思われる。

引用開始ー

裕仁が書いた文面とは思えませんが(戦前・戦後を通じて、裕仁が詔書や勅語を起草していた形跡はない)、謝罪と退位拒否を内容とする詔書案の体裁です。

内容は、謝罪と退位拒否です。謝罪部分は、戦争の被害を挙げ、これを「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」としています。「億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃トイウベク」とありますから、言及している戦争の被害はもっぱら国内です。そして、「敢テ挺身時艱ニ當リ」として、退位を否定しています。

文体は一見して異様です。「事(ヲ 列強ト構ヘ)」や「屍(ヲ戦場ニ暴シ)」など、名詞の過半が1文字という特異なものです(詔書の通例、たとえば、いわゆる「終戦詔書」では、「時局」、「康寧」、「宣戦」など、名詞のほとんどが2文字)。また、「誓ツテ」も異例で、往時の正書法は「誓テ」です。ほかに、「朕ノ不徳ナル、..」という連体形中止法も異例で、往時の正書法では「朕ノ不徳ニシテ、..」または「朕ノ不徳、...」ですね。「臣民」などの往時の用語を避けた苦労はわかりますが(その結果、「萬姓」と「國民」が混用されている)、起草者はこの種の文に慣れない者のようです。

報道では宮内府長官田島道治の自筆とされていますが、新憲法下ではもちろんのこと(宮内府は新憲法施行時に宮内省が改組されたもの)、旧憲法下でも、国務事項の詔書は宮内大臣の職掌ではなく、国務大臣(内閣総理大臣を含む)の職掌です。なお、旧憲法下では、宮内大臣は国務大臣ではなく、宮内省は内閣に属しません。(宮内府長官が本当に勤務時間内に書いたとすれば、職務専念義務違反です。)

「殃ヲ攘ヒ」など、特徴的な語句がありますから、この典拠を確認すれば、実際の起草者がわかるかも知れません。しかし、ほとんど落書きですね。

引用終了ー

世代からいって、60年代生まれのDdogさんより、漢文の素養を高度に持っている世代と思われるたこさんの文章分析は信頼がはるかに置ける。文章としてここまで稚拙・不用意なもの・雑なものが天皇閲覧に最終的に直接付されたか疑問が残る。実際、8月号4人の座談者のうち、高橋氏らはこういう。

高橋:「この文章自体に天皇が目を通していたかといえば、私は見ていないと思います。もしこれが天皇の目を通した最終決定稿だとすると、田島長官の書いたものに専門家が目を通して、いわば宮中風に改めるのが普通です。その上で宮内府の右筆が清書したものを天皇に見せる。これが通常の手順です。今回発見された「草稿」は大日本育英会の用箋に万年筆で書かれている。これを天皇の前に出したかというと、疑問が残ります。文体に非常に思い入れがあり、熱っぽい。私は、決定稿ではないと思う。」(p175)

吉田:「最終稿に至る、かなりの手前のものではないか。」(p175)

また座談に続く、感想寄稿者のうち、通常、強烈な天皇制擁護論を張っている大原康男・国学院大学教授がこう書いている。

「この趣旨(*投稿者注:謝罪と国民への激励)の詔勅を出すことに執心していた田島は発出(*投稿者注:詔勅を発表すること)に向けていっそう尽力しつつ、一方でその準備のために先行して試みに書いたのがこの詔勅案ではなかったか。」「したがって、天皇のご意思が「『謝罪詔勅草稿』とともに封印された」という断定は、この段階ではまだ田島の試案にとどまっているものが、あたかも正規の詔勅案であり、しかもその発出が具体化しつつあったかのような印象を与え、いささか誇張が過ぎるといわざるを得ない。」(p193)

同じく保守論者保坂正康氏

「そうした経緯を考えると、この草稿は田島道治宮内府長官が書いた第一稿ということになるだろう。」(p191)

高橋氏

「田島長官の長男で、当時、学習院大学の教授だった譲治氏に、村井元侍従が「詔勅草稿」はないかとたずねたところ、「ああ、それならば亡き父のメモ帳の中に、確かあった。」という答えがかえってきた。しかし、遺言で見せるわけにはいかないという。」

またたこさんのいうように、田島が、公務として詔勅を書く任にあったのかはなるほど本質的な疑問なのだ。座談でも指摘されていない、実に重要なポイントだと思われる。詔勅という最高レベルの文書が、本来皇室の身の回りのお世話をするためにある宮内庁レベルが担当するものではないだろう。しかもそれ以前公務経験のまったくない着任したばかりの人間にその任務が与えられるものだろうか?疑問が大きい。

結論から言うとこの文書は、田島が書いたことは間違いないだろう。余りの「大日本育英会」用箋を用い、万年筆で、自分が、天皇はこう考えているだろうと忖度しながら、また、こういう文書が詔勅で国民に発出するべきだろうの熱い思いで、メモ書き・習作・試書きとして自宅のデスクかちゃぶ台で書いた原稿で、そのまま公務所にはもっていくことなくほかの山積みゴミ書類の中にはさまれたまま死蔵され今日にいたったものと推察される。たこ氏のいう「落書き」説は言葉尻の問題をよそにすれば、実態に最も近い判断と思われる。

宮内庁に持ち込まれ書き換え作業など天皇に閲覧するためコースに乗っていたら、それに携わっている宮内省内か国務大臣周辺の人物たちがいたはずで、彼らの証言が補強証拠としては決定的に必要となる。それも一切ないなら、文字通り、この文書は田島の個人的なメモ書きの史料価値でしかないことになり、「幻の昭和天皇 国民への謝罪詔勅草稿」ですらないことになる。

田島の天皇退位を求める立場、のちに退位せず巡行に力をいれるべしの情熱の背後に、「(この文書は)天皇を日本国民にとって親しみの深い存在にするように「ヒューマナイズ」せよという指令が、当時ワシントンからマッカーサーに伝えられていたが、あるいはそのことと関係があるのかもしれない。」(感想寄稿者、ドイツのウエツラー教授)ということがあったのかは想像の域を超えていて分からない。

この文書を発見し今回の話題の中心となっている加藤恭子氏はめだかを捕まえたのを鯨を捕獲した、と騒いでいる印象が強い。ちなみに、文春7月号・8月号で彼女の専門分野・経歴など意図的に書かれていないとしか思えないが、インターネットで調べればすぐ分かるように文春もセンセーショナリズムを使った商売優位の印象もぬぐえない。彼女は本来高校生や大学生に外国語(英語フランス語)を教える、外国語ないし異文化専門の先生なのだ。日本史の専門家でも歴史家でも、ジャーナリストですらもない。このような問題を議論する資格を持たない。わたしも彼女のファンで昔外国語勉強の参考図書として彼女の本を何冊か使っていたので、私の中ではなぜ英語の先生がなぜ突如「天皇詔勅書」なワケ?の世界に陥った。

ちなみにこの8月号別項で、立花隆が天皇の政治責任の問題に言及し、こう書いている。「聖断」について御前会議で三対三に分かれたため鈴木貫太郎首相が最終決断を出すように求めた来たので自分は自分の考えを述べてそうした、ということに対し

「大筋は昭和天皇のいう通りだったかも知れないが、現実問題としては、天皇は自分がどうしても肯んじられない案件に対しては技術的に抵抗する手段がいろいろあったはずだし、事実、そうもしている(たとえば満州事変での朝鮮軍の越境事件では、予算が通っていないなどの理由をつけて、なかなかサインしなかったし、後述の熱河作戦では条件付で許可するなどといったことをしている。疑問点を次々に質すといった手もある。)のだから、形式的理由だけで(立憲君主は形式が整った案件なら意に沿わないサインもしなければならない)、「責任なし」論を貫くのは難しいような気がする。」(p375)

軍最高指揮官として戦術指導まで与えていたことを認めるとともに、軍部の独走をもっと阻止・牽制することが立場上可能だったという立場を打ち出している。断っておくが彼は文春を代表する保守論者、あえてDdog分類で言えば保守、右の人である。事実認定の判断に右も左も関係ないのである。

Ddog氏は意図的に、この8月号に盛られた以上のような検討すべき点(座談者たちが強い疑問を呈していること)を一切紹介せず、あたかもこの文書が、歴史資料として権威があり、また、昭和天皇の裁可を得た重要文書のように扱っていて、議論の仕方を踏み外しているといわざるを得ない。この文章にみる天皇の人格が素晴らしいではないか涙が出るではないか、だから天皇には戦争の政治責任はないといいたいがために、ここまで必死なのである。これは議論ではない。

文字通りプロパガンダなのだ。

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