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(故)高山登久太郎氏(博徒任侠):地域住民の皆様方へ
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/722.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 6 月 30 日 21:00:20:


 本日、この場をお借りいたしまして、皆様方にご挨拶させていただく機会を得ましたことに、まず厚く感謝申し上げます。
 施設建設中には、特に近隣の皆様には騒音や振動など、多大なご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
 さて、今回私どもが建設致しました施設について、誤解や偏見、あるいは警察当局の悪意に満ちた意図的な風評から、一部に「暴力団事務所だから反対しよう」といった動きがあることを聞き及んでおります。
 このため本日は、私ども任侠道を歩む者へのご理解を少しでも深めていただき、皆様方の不安を解消致したく、お時間を頂戴する次第でございます。

                ◇     ◇     ◇

 忘れもしません。戦時中、軍事教練で訪れた琵琶湖の美しさに魅せられ「戦争が終わったらこんなところに住んでみたい」と思ったのがはじまりでした。
 以来、この長等に居を構え五十年近くになります。この地を第二のふるさととして愛する想いは、皆様にも決して引けをとらぬものと思っております。
 その間、数多くの者が任侠道を志し、地元の皆様に育まれながらこの地で過ごして参りました。その中には、戦中、戦後の混乱期を生き抜き、ただ食うことに精一杯で過ごしてきた者や、社会からの差別ゆえに教育を受けられなかった者、家庭の愛情に恵まれず、行儀も何も教えられぬまま社会に放り出された者など、様々な環境を背負った者たちがおりました。
 彼らに対し、「任侠とは、文字通り"男を任ずる"生き方であり、真の男とは人の為に生き、人の為に死ぬもの」と教え、「決して人様のご迷惑になることなどしてはならない」と諭して参りました。このことは任侠道を歩む者の"いろはのい"として、誰もが骨身にしみるまで叩き込まれることです。
 それゆえに、この地にあって、私どもの身内で皆様方のご迷惑となった者は、これまで一人もいなかったと自負いたしておりますし、また、今後もそのような不心得者は決して出ることはございません。
 まずこの点を充分お含み置きいただいた上で、私自身のことについて語らせていただきたいと存じます。

先の戦争を生きた方なら誰しもご存知のように、すべての者があの戦争に巻き込まれていきました。私も徴用に借り出され、軍需工場で文字通り寝食を忘れ、すべては「お国の為に」と、働き詰めの毎日を過ごしました。それは最前線で戦う者と同じように、大切な青春期を捧げた"銃後の戦い"でもありました。
 ところが終戦となって、これまで信じてきたものがすべてご破算となると、今度は壮絶な飢餓状態の中で、苛酷な生存競争という新たな"戦い"がはじまりました。 およそこれまで頭で考えてきたものなどすべて吹っ飛んでしまい、とにかく毎日どう生きるか、どう空腹を満たすか ・・・ ということに精一杯で、およそ理性的な判断ができる余地などございません。 かくいう私も、ちょうど育ち盛り、遊び盛りのころという年代もあって、祖国・朝鮮に帰る親や兄弟から逃げるように、日本に残ることを決意いたしました。
 そこでは将来のことや家族のことに思いをめぐらせるより、どっちが空腹を満たせるか、どっちが面白いかといった刹那的な思いだけの決断でした。 混乱の中で唯一頼みとするものは、自分の才覚と腕っ節だけでした。そんな実力の世界で生きることに魅せられながら、それまで閉ざされていた青春の日々を取り戻すかのように、ただ美味いものを腹いっぱい食べること、そして楽しいことを追い求めるのに夢中で過ごしたものです。
 人間の"生きる"といったエネルギーには底知れぬものがあります。そのエネルギーは「戦争に負けて天皇陛下に申し訳ないことをした」などといった"敗戦で打ちひしがれた気持ち"など軽く凌駕し、凄まじいパワーとなって戦後のヤミ市に集約されていきました。
 おおげさでなく、飢餓に苦しむ当時の人々の命を支えたといえるヤミ市に携わりながら、戦後の混乱期を生き抜いた者にとって「このパワーこそ、その後の日本経済の原点となった」という密かな自負があります。


当時ヤミ市は、それまでのあらゆる階級など関係なく、やりたい者すべてが集まり、道路にムシロを広げ、物を売る ―― といった「日本で始めて民主主義を実践したもの」(ロバート・ホワイティング著『東京アンダーワールド』)でした。
 そんな中、「ヤミ市で圧倒的なパワーを誇ったのが、強制連行や徴用から解放されて街頭にあふれ出してきた在日朝鮮人・中国人・台湾省民からなる第三国人であった」(宮崎学著『不逞者』)とあるように、彼らのパワーにもまた凄まじいものがありました。
 戦前、思わぬ侵略を受けて祖国を好き勝手にされた挙句、連合国からは「戦争中は"日本"だった」として戦勝国の位置付けも許されなかった彼らにとって、日本人に対する苛立ちや復讐心は当然のことです。
 一方、ヤミ市を我がものにしようとする彼らに対し、治安を担う日本の警察は「敗戦で自信を喪失し、占領で武装を制限され、闇市に沸騰するこれらのアナーキーなエネルギーに対抗できなかった」(同)し、「ヘタに手を出すと国際問題化するおそれがあった」(猪野健治著『やくざ戦後史』)ことから、まったくのお手上げ状態でした。
 このため、日本の警察官が彼らに襲われることがよくありました。東京では渋谷事件が有名ですが、昭和21年1月、京都でも七条署が彼らに包囲されるという事件がおきました。俗に"三蓋松事件"といわれるものです。
 そのとき敢然と立ち向かったのは、他ならぬ任侠道を志す者たちでした。自分たちの縄張りを守ろうとしたことも事実であった一方で、「警察の依頼を受けたこともまた事実」(宮崎学著『鉄』)でした。
 信を受けたら義に生きる ―― 。「助けて欲しい」と頼まれれば、命を賭けて守るのが任侠道に生きる者の勤めです。「署長の非常ベルで駈けつけた職員との間に小競り合いが生じ、これに応援のため付近の親分ら百余名がとって替り棍棒、匕首(あいくち)などをふるって乱闘となり」(京都新聞・昭和24年1月28日付)、双方、多くの犠牲者を出しました。
 しかし「皆のため、国のため」と一途に信じるその想いから、警察を、そして日本人の命を支えるヤミ市を我々自身の手で守ろうとする動きは、全国すべての任侠道を志す者にとって共通した想いとなりました。
 あの山口組三代目の田岡一雄氏が、警察から"一日水上署長"に任ぜられた事実を見ても、たとえ警察とヤクザといった立場の違いはあっても、心ある者同士ならば、想いを同じくすることがあることの証左と信じております。

後年、様々な書物から、この抗争の陰の「仕掛人」が、実は日本の旧支配層であったことを知りました。「日本人アウトロー集団が『窮民の尖鋭』として、『解放国民』と階級的に一体化する」(猪野健治著『やくざ戦後史』)ことを恐れた旧支配層は、在日朝鮮人、中国人、台湾省民ら「『解放国民』武装団と、日本人アウトローを血みどろに戦わせる必要があった」(同)わけです。
猪野健治氏は言います。
「(日本人アウトローは)権力に色目をつかったり、法のウラをこそこそとくぐりぬけるような小市民的小心性は微塵ももたなかった。法そのもの、既成秩序そのものに積極的に挑戦し、公然とこれを破壊しようとした」
 権力者にとって、任侠道を貫こうとする者が往々にしてもつこの直情傾向ほど恐ろしいものはありません。しかしこれは、私どもがもつ善き面であると同時に、権力者の都合に騙されやすいといった悪しき面でもあります。
 その後の『反共抜刀隊計画』も、さらにそれに続く『安保斬り込み隊』も、権力者たちの自己保身ための道具として、私どもが利用されやすかったという事実は否定できません。
 猪野健治氏はこう続けています。
「われわれが反共抜刀隊計画から学びとるものがあるとすれば、権力は危機に直面したとき、恥も外聞もなく、やくざを瞞着(だますこと)してまでも、体制維持に死力をつくすということである」

話を私事に戻します。
 昭和25年、大津に移り住み、親分となる中川芳太郎に出会い、それこそ侠客の第一歩から多くのことを学びました。博徒である一方、三校出(今の京都大学)のインテリでもありました。
「寒い思いをしている者がいたら、自分の着物を脱いで着せてやれ。ひもじい思いをしている者がいたら、自分の食べているものを食べさせてやれ」「そんな男になれ。それが侠客というものだ」と。
 またヤクザである以上、バクチもケンカもありましたが、それはあくまで「弱きを助け、強気を挫く」ものでなければなりませんでした。
「堅気衆をいじめてはいけない。でないとヤクザは飯を食えない」
『忍苦三省』という言葉をもらったのも親分からでした。「耐え忍んで生きろ。なおかつ一日3度は自分を省みて反省する気持ちをもて」
 私の渡世人としての人生は、まさしくこの教えから始まりました。

                ◇     ◇     ◇

 そんな中、滋賀県や大津市から「開設して間もない大津競輪場の警備をしてもらえないか」との話が参りました。中川が競輪場から正式に依頼を受けたものです。その後、競艇場からも同様の依頼を受けることになるのですが、当時、まだ整備されていない警察にとって、私どもの力を借りたいという意向は、それほど不思議なことではありませんでした。
 博徒といっても、時代の流れとともに、いつまでもそれだけを生活の糧としているわけには参りません。また何よりも、正業をもち、しっかりとした経済基盤を築いてこそ、侠客としての人生を全うすることができると考えました。
 期せずして、田岡氏もインタビューに答えて同じことを言っています。
「侠客の祖の幡随院長兵衛は人入れ稼業、つまり労働力供給という正常な稼業を持ち、その収入によって世のため人のために尽くしたので、真の侠客として後世に伝えられているのだろう。国定忠治のほうは、博徒で得た金で人の世話をした。(略)私はこの両者の違いをはっきり認識すべきだと思っている」(猪野健治著『山口組三代目』)
 こうして私はこれまで、様々な正業を手掛けて参りました。
 しかしこの状況も、昭和39年、東京オリンピックを境に変わっていきました。警察によるいわゆる『第一次頂上作戦』を機に、暴力団排除が叫ばれるようになりました。
 この施策もやはり、時の権力者の都合によるものでした。
 警察の取締り要因は@抗争事件の頻発A暴力団の広域化Bオリンピックの開催 ―― の三点だったといいます。しかし実際は「暴力団を様々な形で利用してきた体制側が『組』そのものの壊滅を狙ったことについては、それ相当の政治的背景があった」(猪野健治著『やくざと日本人』)わけです。

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 ともあれその余波は、滋賀県の私どもにもやって参りました。公営ギャンブルの警備について、まず警察が暴力反対だとか、暴力団の資金源となっているという攻撃を仕掛けてきました。それにマスコミが追随し、県もどうしようもなくなったようです。
 まさしく警察による"経済封鎖"でした。
 結局、"頼まれごと"として始まったこの仕事の最後も、"お願い"されて手を引くことになりました。
 警備だけではありません。私が起こした建設会社・万和建設も同様に解散を余儀なくされたのでした。建設を通じて、地域社会や湖国の発展に貢献したいという想いで興した会社でした。
「ヤクザで企業をしている者は全部つぶされてしまう。これからおまえらは本業一筋でやっていけ」
 この意を伝えるための解散式を、仲間70人らとともに近江神宮で行った時の悔しさは、まるで我が子を葬り去るような思いでした。
 その後、万和建設解散のあとを受け、それぞれが堅気となってできた企業は、現在、県下で最大手となっている桑原組をはじめ、30年近くたったいまも、なおいくつか残っています。いずれも公共事業など建設を通じて湖国の発展に寄与し、そしてある者は財を築き、ある者は経済競争の荒波の中で淘汰されていきました。

                 ◇     ◇     ◇

 警察が"暴力団"と決めつけ、卑劣な"経済封鎖"を行ったことは、私どもにとって、いかんともしがたいものでした。
 こうして正業をもって、侠客としての人生を全うするという生き方は、時の権力者の都合という、私どもにとってはまったくの理不尽な理由から、徐々に閉ざされていったのです。


ヤクザといえども人間である以上、食べていくために何がしかのお金を稼がなければなりません。
 しかし警察は、これまで必要なときはさんざん私どもヤクザを利用しておきながら、いざ自分たちに不都合となると、その攻撃はとどまることを知らず、徐々に追い詰めていきました。
 憲法に保障された基本的人権を無視し、生身の人間を『根絶すべき悪』と決めつけ、完全に息の根を止めようとしたのが平成3年にできた暴力団対策法です。
 ご存知のように日本は法治国家です。悪いことをすれば誰だって法律によって罰せられます。その法律があるにもかかわらず、ヤクザだけを狙い撃ちする差別法を新たにつくったのでした。
 この法律では、ヤクザというだけで職業選択の自由を奪われ、会社を起こすことや営業するといった正当な経済活動さえ出来ません。
 ヤクザ、すなわち任侠道を全うしたい、侠客になりたい ・・・ そう願って生きようとするだけで、一切が封じ込められてしまうのです。これは明らかに人間を差別するものです。
 憲法では思想信条の自由が認められ、法の下ではすべての者が平等であるはずです。法の番人であるはずの警察が、ヤクザだけを対象に、人権をも無視した差別法をわざわざつくり、家族や友人までも巻き込んで「暴力団と関係している」といったレッテルを貼りまくっているのです。
 また警察が"暴力団"と決めつける根拠も欺瞞に満ちています。@暴力団の威力を利用して組員に資金を稼がせる団体A犯罪経歴者の政令で定めた比率を超えている団体B代表者に下に階層的に構成されている団体 ―― を暴力団としています。
 しかし@「堅気をいじめてはならない」とする教えに背いてまでする商売を私が許すはずもないAいかに前科者であっても刑に服し、罪を償った者を、さらに"犯罪予備軍"として扱うこと自体、差別ではないのかB親孝行することは、人間の有史以来、ずっと続いている教育ではないのか。ヤクザ社会での親分を"真の親"として敬い、慕って来る者を『階層的に構成されている』と決めつけること自体、どのような認識をしているのか ―― と問いたいと考えます。


暴対法で恐ろしいのは、その根底にある差別意識です。
「暴力のない社会の方がいいに決まっている」
 誰しもがそう思っています。そこに異存はありません。
 確かに暴力団は文字通り"暴力をふるう団体"かも知れません。しかしヤクザは暴力団ではないのです。『ヤクザ=暴力団』と決めつけているのは警察だけです。
 この悪意を持った意図的な決めつけ、そして『暴力団対策法』といった誰も異論を挟めないような上手いネーミングによって巧妙に世論を誘導し、人々を騙していくのが警察のやり方です。
 警察は、いまの段階でこそヤクザを"暴力団"と決めつけ、私どもだけにその網をかけています。しかしその決めつけは、普通に市民生活を送るあなたにも、いつ振りかかって来ないとも限りません。
 人と少し違ったことをしている、他人からは理解され難いが、強く信じる宗教がある、警察や政府に対して批判的である ―― たとえばこんな理由だけで何らかのレッテルを貼られ、いまの私どものように封じ込められる可能性があるということに気づいて欲しいのです。
 ひとつの差別を許せば、その差別は次の日にはあなたに向けられるかも知れないのです。
                 ◇     ◇     ◇

 暴対法は、国会の場で上程から1カ月、わずか8時間の審議の末、全会一致で成立しました。
 憲法を守ることを標榜する政党も、戦前、思想弾圧に苦しんだ政党も、誰ひとりとしてこの"現代版・治安維持法"に異を唱えるものはいませんでした。
 マスコミもまた然りでした。あのとき「次に差別されるのは自分たちかも知れない」といった危機感があれば、報道や言論の自由を標的にした今回の個人情報保護法の成立も阻止できる素地が芽生えていたかも知れないのです。
 10年前、この差別法を許したばっかりに、その後、盗聴法をはじめ住民基本台帳など、市民社会をがんじがらめにする法律が次々と生まれていきました。
 警察や政治家など、権力者にとってみれば「市民など騙しやすいもの」と、なめてかかるきっかけを与えてしまったようなものです。

もうひとつ許せないことがあります。
 先に申し述べました通り、警察の暴力団対策のウラには必ず自分たちの都合があります。警察や時の権力者の得手勝手な政治的背景が潜んでいます。
 暴対法の場合、様々な理由があるといわれていますが、いちばん大きな要因は警察官OBの就職先の確保でした。
 彼らはそれをどのようにして手に入れようとしたのでしょう。

                 ◇     ◇     ◇

 東京オリンピックを機にはじまった暴力団への締付けによって、警察はこれまで私どもがやっていた建設、警備、パチンコの景品買い、興行といった正業をどんどんと奪っていきました。暴対法は、まさしくそのトドメを刺すものでした。
 正業を奪っても、それを再び、我々とは縁もゆかりもない『民』に返すならまだ筋は通ります。しかし警察がやったことは、その"空いた席"に自分たちが座ったことでした。
 いまや庶民の娯楽になくてはならないものとなったパチンコ・パチスロ産業は、その際たるものです。パチンコホールの設置許可はもちろん警察が握っています。
 更にそこから先、ホール業者の組合に、パチンコ・パチスロ台の製造業者の組合に、パチンコ・パチスロ台の検査に、その検査済みシールの販売に、景品買いに、その景品を卸す業者に (ホームページ"警鐘"2003年1月7日更新分『何じゃこれは』同9日更新分『警察による脅しのからくり』参照)・・・ と、すべて警察とそのOBが"天下り"という形で介入しているのです。(プレジデント・2001年3月号)
 おおげさでなく、客が一歩、ホールに足を踏み入れた瞬間から出るまで、警察がかかわらないものはありません。(ホームページ"警鐘"2002年2月26日更新分『パチンコなんかやめよう』参照)
 ささやかな娯楽としてあなたが使うお金は、すべて警察OBを養うために廻っていくのです。

                  ◇     ◇     ◇

 これだけではありません。
 いま、警察OBによる公益法人が次々とつくられ、その数48にものぼっていることをご存知でしょうか。先のパチンコ関連や警備業はもとより、運輸業、道路やその施設についての関係、企業の危機管理、あげくの果てはダンス教室の団体まで、ありとあらゆる業種に及んでいます。
 それらすべてに専務理事や常務理事といった肩書きで"天下り"し、再就職先が確保される代わりに、特定業種だけがお目こぼしに預かり、お上公認の用心棒を得る ・・・ というカラクリです。
 このカラクリは、特定業種の団体だけではありません。いまや建設、ホテル、デパートはじめとする流通業者、金融機関など、それこそあらゆる企業に警察OBが巣食っています。
 昨今、その重要性が叫ばれている企業のコンプライアンス(法遵守)は、警察OBを迎え入れ「処罰する側の者を味方に引き入れれば安心」と考えることほど人々をバカにした話はありません。


作家の宮崎学氏が警察官不祥事について健筆をふるい、近く出版を予定されていますが、取材を進める中でこんなことを語っています。
 「この4年間で警察不祥事の数を調べたらなんと3000件を上回っている。そして不祥事を起こした警察官が裁判でどれほどの量刑を受けているかというと、これがもう、90%以上が執行猶予になっている。たとえそれが覚せい剤の犯罪であっても。ところがこれがヤクザだったら実刑は確実。更に執行猶予となった元警察官がどこに再就職したかというと、全部といっていいくらい警察関係の天下り法人に行っている。悪いことをしても執行猶予、クビになっても天下り先がある。そこに2〜3年いたらまた退職金がもらえる。これはやっぱり明らかな差別だ」
                 ◇     ◇     ◇

 不祥事だけではありません。
 金がすべてという考え方が日本をおかしくしているように、この拝金主義が警察そのものを堕落させました。
 法の番人を自負するならば、自らはもっと法に対して厳格に、そして謙虚でなければなりません。民間の中小・零細企業が不況にあえぎ、真面目に働いているサラリーマンが次の日には職を失うといった時代に、警察官だけが人の弱みに付け込み、民間企業を食い物にし、法律をタテに奪っていった職業の上にぬくぬくと過ごす社会 ―― 。やはりこんな社会はおかしいと言わざるを得ません。
 金(天下り先の確保)、警察官不祥事、20%を切った犯罪検挙率の低下。これらはすべて根底で繋がり、いまの警察の本質を浮き彫りにしています。

                ◇     ◇     ◇

 それともうひとつ。皆様に是非お気づきいただきたいことがあります。
 警察国家の足音が忍び寄ってきているという事実です。
 天下りで市民社会に張り巡らされた警察の網は、自分たちに不都合な人間や自分たちの不正を暴こうとする人間をいつでも逮捕できるといった危険性をはらんでいます。
 警察による暴行や別件逮捕の上に犯罪のデッチ上げ、あげくには神奈川県警で起こった取調室での発砲殺人など、彼らがその気になれば、殺人すら"合法的"に行えるのです。学生運動華やかりしころ、セクトの内ゲバに見せかけて自分たちにとって目障りな人間を殺したことなど公然の事実です。
 権力者はその体制を維持するために恥も外聞もなく死力を尽くします。そこには市民など存在しません。あるのは彼らの安住と利益だけです。
 ひとつの差別を許せば、それは必ず別の差別を生みます。そのうちほんの一握りの強権をもつ者だけが、残りの大多数を支配するという国が出来上がります。それはイラクや北朝鮮に見るように、その体制維持のために、子どもが親を密告するといった社会に通じていくのです。
 その危険性にもっと敏感にならなければなりません。そしてそのような危険をはらむ芽は、確実に摘んでいかなければなりません。
 でなければ、次はあなたの番です。


昔、常世川(つねよがわ)という渡世名をもつひとりの侠客が大津にいました。清水次郎長率いるあの"清水一家28人衆"のひとりに数えられていた男でした。
 晩年、次郎長が幕臣・山岡鉄舟に感化され、富士の裾野の開拓に携わった折、「自分は根っからの博徒ですから」と、次郎長と袂を別ち、滋賀に流れついたといいます。
 明治24年、神崎郡選出の県会議員・磯部亀吉氏が、滋賀県庁舎を彦根町(当時)に移転することを求める建白書を議会に提出しました。その主張は「大津は国の片隅にあって不便。彦根は中央に位置して便利だ」というものでした。
 彼の建白書は県議会を二分しただけでなく、滋賀県全体を巻き込んで、大きな論議を呼び起こしました。大津にすれば県庁を渡したくない。一方、彦根からすれば是が非でも県庁を誘致したい ―― 。双方が中央政府への働きかけを強める中、県民も賛否両論、各地で演説会を開き、ついには双方、一触即発の事態となりました。
 そのとき、地元大津の意を受けて立ちあがったのが常世川でした。
 200人の子分を引き連れて県庁を取り囲み、制止に入った警察を相手に「県庁を(彦根に)もって行くなら、この常世川の屍を越えて行け」と啖呵を切ったと伝えられています。
 またこれ以前には、やはり彦根の熊役、下駄常という二人の侠客が常世川を訪れ「県庁移転に憤激した常世川の子分が暴行を計画しているようだが、何とか引き止めてくれ」と直談判。対して常世川も事態を憂慮し「熟慮して穏やかにせん」と応えていることがしたことが、当時の新聞(日の出新聞・明治24年12月23日号)で報じられています。
 結局、この結末は中央政府まで巻き込み、県議会は強制的に解散、県庁は大津に残され、次の移転論議まで約半世紀を待つことになります。(以上、京都新聞滋賀本社編著・新近江史を歩く近代編、滋賀県議会史より)

                 ◇     ◇     ◇

 民衆に『ヤクザをヤクザとして』受け入れる度量のあった時代、またそれが許された時代には、自分が身を寄せる地域の求めを受けて、常世川のように「地元の人々のためなら命を張ることも辞さない」という人物が生まれ、またそのような人物が地元の手によってはぐくまれる ・・・ といった土壌がありました。

ひるがえっていまの世の中はどうでしょう。
 自治会はその意志を放棄し、唯々としてすべて警察から言われるままパレードをし、横断幕をかかげ『暴力追放』を訴えます。
 しかしそれで何が変わったでしょうか。
 警察は「暴力団対策法が出来れば暴力団は根絶する」といっていましたが、この法律が出来て以来、根絶どころかその数は確かに増えています。
 彼らが"資金源"と決めつける"私どもの生きて行くための糧"を奪ったがために、彼らのいう"暴力団"は潜在化、巧妙化し、ますます陰湿化することになっただけでなく、凶悪な外国人犯罪までも誘発する結果となりました。

                 ◇     ◇     ◇

「大津に暴力団はいらない」
 警察は私どもを壊滅しようと、家族や友人までをも巻き込んで、それこそ手段を選ばない卑劣な攻撃を何十年と続けてきました。
 こんな権力の横暴に屈したわけではありませんが、時代の流れとともに私が渡世の世界から身を引き、そして今や、中川組もなくなりました。
 警察がこれまで皆様に言い続けてきた"暴力のない明るい社会"がやっと実現したはずです。
 では、本当にそんな社会が到来したのでしょうか。答えは否です。
 そこには、利権だけを追い求めて勢力を伸ばし続けてきた、地元への何の愛着もない他府県の組織が取って代わっただけのことです。
 以前、この勢力が滋賀県に進出してきたとき警察は、
「アンタは手を出さんといてくれ。俺らが全部追い出すから」
 こう、私に断言しました。
 しかし今や滋賀県中、この組織ばかりとなり、特にこの10年、ますます顕著になってきていることは皆様もご承知の通りです。
 警察の言うことや行うことがいかにデタラメで場当たり的だったか … が、よくお解りになると思います。

先にも申しましたように、私の親分であった中川芳太郎という人は、三校出(現・京都大学)でありましたことから、市役所や県庁に出入りしても幹部職員と同級生であったりして、市政や県政について相談を持ちかけられることも多くありました。
 競輪場、競艇場の警備依頼もそんなところから頼まれた話で、私をはじめ中川組の面々は、市、あるいは県の臨時職員としての身分でその任にあたりました。
 競輪も競艇も、いまほど公正で科学的な判定のない時代でしたから、ひとたび客が暴れはじめると、それは暴動でした。警察が「あとはまかしたぞ」といわんばかりに逃げてしまった後、最前線でその鎮圧にあたるのは文字通り命がけの仕事でした。
 しかしその際、暴徒と化した客たちが逆にケガをしようとも、すべて罰金で済みました。主催者たる市や県にすれば『公の仕事の上でのこと』という認識があったわけです。まさしくこの警備の仕事は公務なのでした。
 それだけではありません。共産党襲撃や幹部党員への刃傷沙汰さえも、時の市政の事情から依頼を受けた、わかりやすく言えば"ケツを掻かれた"あげくのことでした。そして現に処分は罰金で済み、やはり公務だったことを証明しています。
 確かに"単細胞""乗せられやすい"といった性格からの行動ではありましたが、そこに私利私欲はなく、市からの依頼、すなわち"民衆の意"によって行うことであって『このことが人のため、国のためになる』と信じての誇りある行動でした。
 ヤミ市に携わったことでも、私利私欲だけでは、命まで張って縄張りを守ろうとする動機づけにはなりません。物のないドン底の時代にあって、庶民の生活と生命を守り、この仕事こそ流通経済の根幹を担っているという自負があってこそのことでした。
 地元の商店街が火事に見まわれた時、私どもの若い衆が一丸となってバケツを持って駆けつけ、消火にあたったこともありました。

                ◇     ◇     ◇

 いま私はここで、これまでの来し方を自慢しようとか、皆様から過大な評価を得ようとしているのではありません。
 私ども任侠を志す者は義をもって信に生き、すべては『世のため、人のため』に動いてきました。そして『これからもそうありたい』と願っています。
 しかし警察をはじめ、市も県も国も、およそ"お上"と名のつくところはすべて、自分たちの都合だけで利用したい時だけ利用し、都合が悪くなると、私どもを"暴力団"と決めつけ、容赦なく潰してきました。
 自治会もまた、私どもがこれまで公のために働いてきた歴史の事実を忘れ、まるでそれを抹殺するかのように、警察主導のまま、唯々諾々と暴力追放の輪に加わり、踊らされています。
 ヤクザといえども皆様と同じ日本人です。警察の犯罪はうやむやにされる一方で、ヤクザだからという理由だけで"経済封鎖"によって職を奪われ、刑法があるにもかかわらず、ヤクザ専用の法律をつくって一般の人より重い罪を科す ―― 。これはやはり明らかな差別です。
 義務を課すなら、普通の人と同じように生き、自らの人権を守る権利が保障されなければなりません。
 このようなおかしな仕組みの社会を許してきた反省の上に立って、いまこそ市民、そして自治会は、本来あるべき社会の姿を求め、お上が何と言おうと「違うものは違う」「地元の利益はここにあり、そのためにこうする」と、はっきり言い切るべきではないでしょうか。
 それができなければ、すべて警察のロボットと化してしまう社会になってしまい、いま、私どもが受けている受難は、きっといつか、皆様方にも降りかかって来ることになる ・・・ と危惧します。


昔は地域、地域に親分と呼ばれるような人がいました。ですからその呼び名には、"大津のだれそれ""三条のなにがし"と必ず地名がついたものです。
 彼らは身体を張って町内の安全を守り、親も見離した荒くれ者を預かり、更正させ、困りごとの相談を引き受け、時には夫婦喧嘩の仲裁までしました。
 その人徳と人望は、『忘己利他』すなわち自分のことより人の幸せを願う自己犠牲の精神に由来するものです。侠客とはこのような人物をいいます。
 侠客の"侠"は仏教用語で『おとこぎ』を意味します。また"客"は客気、つまり『はやる心、情熱』とも言えましょうか。
 私たちが目指すものは、侠客たる人物になることです。
 青年と呼ばれる年齢を過ぎてもなお、この理想を追い求めるのも、世間一般からすれば不自然かも知れませんが、それほど任侠道というのは奥深く、人を魅了するものです。
 また、その青年の心は、いつまでも"青臭い"正義感で「違うものは違う」「悪いことは悪い」と、誰に遠慮することなくはっきりと言い続けることを忘れません。
 すると当然、それを嫌う人もいるでしょう。不正の上にあぐらをかいている人、権力をもつ立場にいる人ならなおさらのことです。

                 ◇     ◇     ◇

 男の中の男でありたい ―― そう願い、生涯かけてそうあろうとする人間を社会が否定し、認めなくなったころから、いまの日本は病みはじめたような気がします。ならばその後、それに代わる人間は現われたでしょうか。政治家は信頼するに足らず、学校の先生は疲れ、坊主は利権に走り、警察に至ってはこれまで述べてきた通りです。
 暴力団が来る。怖いぞ!! ―― 。そんな警察が発信した情報だけを「お上の言うことだから」と真に受けず、私どもの話にも等分に耳を傾けていただければ幸いです。
 皆様に理解を得る努力を、私どもは怠るまいと思っています。どうか皆様も、地域の力で侠客を育ててやっていただきたいと存じます。【了】


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