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簡単なコメント
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投稿者 たこ 日時 2003 年 7 月 03 日 17:34:09:KZLCEeqX13raw

(回答先: リアルな認識などという思い込みには困ったものだ。たこさんは善人であると思うが。 投稿者 Ddog 日時 2003 年 7 月 02 日 23:33:55)

ご多忙のようですね。私も最近は日帰り国外出張などがあって、先日は入管に運び屋扱いです。とりあえず簡単にコメントするだけとさせていただきます。


● 「二二六と終戦の聖断」の特別視(ついでに三国同盟)

Ddog氏の反論を検討しましょう。

「戦後の天皇および側近者の証言で、二二六と終戦の聖断が立憲君主のシステムを逸脱したと証言している。」

これは、二二六事件に関して、「この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考えを実行させた」とする独白録の記述に由来するのでしょうか。独白録が公開されるより早い時期から言われていますから、ほかにも一次資料があるのかも知れません。

最初に確認しておきますが、直接の命令あるいは禁止口調を用いず、しかも、裕仁の政治意思を実現する場合は、必ず輔弼者を経由するのは裕仁の流儀です。「流儀」を「立憲君主らしさ」と言い換えていただいても結構ですが、これは、一般には西園寺の教育と言われています。

裕仁が反乱鎮圧の意思を有していれば、「反乱」を正当化すべき内奏にはこれに疑問を呈する御下問で応え、逆に反乱を鎮圧すべき内奏にはすぐに応じる。そして、内奏が遅れるなら、「反乱鎮圧はどうなった」という御下問でこれを促すなどの方法で、この政治意思を実現するのが裕仁の流儀です。二二六事件に際しては、性急な命令口調を用いたらしく、裕仁の「積極的に自分の考えを実行させた」は、これに関するものです。

直接の命令あるいは禁止口調を用いないことを「立憲君主」として、これをありがたがるのは、論者の価値判断の問題です。しかし、これによって政治関与が否定されるとするのは無理です。Ddog氏は、「積極的戦争指導」や「積極的政治関与」との概念を持ち出して、私がこの証拠を提示しないかのように称しておられますが、東條内閣の成立、対米英開戦決定、レイテ戦その他の例で、裕仁はその政治意思を実現していることを説明させていただいたつもりです。(Ddog氏の「積極的」が裕仁の口調の問題なら、何をや言わんですね。)

なお、念のために付言しますが、「日独伊三国同盟に天皇が一貫して反対していた。これは、歴史的にたこさんも認めざるをえない事実」は理解できません。私は、このようなことを申し上げたことはありません。三国同盟も、対米英開戦と同様に、裕仁は躊躇しつつも最終的に同意したと考えております。簡単に史料を挙げておきます。以下は、「木戸日記」の1940年9月19日の条で、三国同盟締結(9月27日)の直前です。

「...愈々重大なる決意をなすときとなりたるを以て、此際、両総長宮の更迭を願いて、元帥府を確立するとともに、臣下より両総長を命ずることとしたしとの思召あり、...」

記述者は内大臣木戸ですが、「思召」の言葉にあるように、「重大なる決意」、「更迭を願い」などの主体は裕仁です。三国同盟による開戦の可能性を認識し、その際、皇族が参謀総長と軍令部総長、すなわち「両総長宮」であることを不都合としています。一般には皇族に戦争責任が及ぶのを避けるためとされていますが、直接の証拠はないのでこれは論じません。しかし、「両総長宮」を退任させ、元帥とすることによって、参謀本部や軍令部と並ぶ輔弼機関である元帥府の強化を図ろうとしたのが裕仁の政治意思です。史料の信憑性の問題もありますが、少なくとも木戸は「重大なる決意」を直説法で描写し、裕仁が三国同盟の決意を固めていたとしています。


● 裕仁の「平和主義」

さらにDdog氏の記述を挙げましょう。

「天皇独白録等の資料からすれば、対米戦争に勝つ見込みは薄いと天皇は判断していたようだ。内奏が繰り返される中で、短期決戦講和シナリオを納得させられた。御前会議で開戦派の腰をおるように戦争反対の和歌を詠まれることが、たこ氏の説明ではあまりに不自然である。レイテ作戦における天皇の発言をたこ氏は奇妙な平和論と非難しているが、その緻密な頭で冷静に考えてみろ。戦争を止めると言い出すには、それなりのきっかけが必要だ。劣勢に立たされている方が、講和を望むなら、それなりの反撃戦果が必要とされよう。」

「短期決戦講和シナリオを納得させられた」とする受動的な表現で裕仁の関与を小さく見せる解説文については、今さらコメントしませんが、このDdog氏の記述には、もっと本質的な問題を含みます。「講和を望むなら、それなりの反撃戦果が必要とされよう」です。私は、このような考え方が裕仁を呪縛し、最後まで降伏の決断に至らせなかったとしております。最後まで降伏の決断ができなかったため、多くの死傷者が出たことは多くは論じません。しかし、「降伏」を「講和」に置き換えるDdog氏のような説明が可能なら、「有利な講和を望むなら、徹底的な反撃戦果が必要とされよう」となります。このようなものが「戦争推進」でないなら、おそらく戦争推進派でない政治家は地上に存在しないでしょう。

「天皇が積極戦争推進派であるという主張は、まったく整合性に欠ける」とのコメントもありますから、もう少し説明しましょう。私は裕仁個人に「戦争の鬼」のイメージを求めたことはありません。何度も申し上げますが、裕仁は、時には逡巡しつつ、開戦や戦争の推進、そして降伏の決定を主体的に行った政治家です。それぞれの時期において、裕仁の価値観に基づいて誠実に政治決断をしたのでしょう。レイテ戦もその例です。そして、それゆえに実質的にも戦争責任を負うべきと申し上げております。

なお、「武力を背景にした平和」は裕仁の思考パターンのようです。以下は、上海事件(第二次)に関する1937年の裕仁の「独白録」です。(この部分のコメントは省略します)

「...二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をここでも取り逃した。」


● 最後に

「たこさんが擁く昭和天皇像は、どうも二二六事件の首謀者 磯辺浅一が擁く天皇像と同一」はわかりませんね。私は、政治決断を行った政治家として裕仁をリアルに把握すべきと申し上げているだけです。

五一五事件と対比したときの二二六事件に対する激烈な反応(後者のみが部隊を動かした反乱である)、東條への信任、近衛との確執など、伝えられる断片的な事実から判断すると、裕仁は、戦争末期を除いて、おそらく陸軍の統制派に近い政治思想の持ち主と判断しております。しかし、それ以上に国体護持に誠実で、そして、それゆえに戦争の惨禍を招いた政治家です。

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