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栃木リンチ殺人事件 【これは主犯とされている人物の父親が警察官でした】
http://www.asyura.com/0306/nihon6/msg/434.html
投稿者 エンセン 日時 2003 年 7 月 26 日 16:17:31:

(回答先: ロボトミーの歴史と事件 精神外科の犯罪 【これは洗脳と関係がありそうなので】 投稿者 エンセン 日時 2003 年 7 月 26 日 16:10:58)

栃木リンチ殺人事件
■プロローグ  消えない謎
栃木県芳賀郡市貝町にある山林で1999年12月5日、男性の惨殺死体が発見された。
死体は栃木県黒羽町で理髪店を営む須藤光男さんと洋子さんの長男で、日産自動車栃木工場に勤める正和君だった。
正和君は当時19歳。殺害の容疑者とし逮捕されたのは4人の少年だった。
うち3人は、いずれも被害者と同じ19歳の少年で、一人は16歳の高校生だった。
正和君は、殺害されるまでの約2ヶ月間、犯人たちに監禁され、カネを脅しとられつづけた。
手口は、正和君にサラ金や友人にカネを借りさせるという卑劣なものだ。
金額は728万3000円。
すべては犯人グループの「飲み食いと遊ぶカネ」に消えた。
監禁生活は筆舌にしがたい、凄惨なリンチの連続だった。
少年らは、殺害した正和君を山林に埋め、さまざまな証拠隠滅をしたあげく、「15年逃げきれば時効になる」とビールで乾杯までしたという。 
だが、犯人グループのうちの一人が警視庁に自首したため「15年逃げきる」という彼らの思惑は打ち砕かれ、遺体発見の日に犯人グループ全員が逮捕された。
自首した高校生は少年院送致の保護処分となったが、残りの3人は刑事処分となった。
2000年3月14日に宇都宮地方裁判所で、殺人・死体遺棄事件として公判が始まり、6月1日には主犯格には無期懲役、7月18日には残りの2人にそれぞれ無期懲役、5年から10年の不定期刑が、いずれも求刑どおりに言い渡された。
このうち主犯格は、この判決を不服として控訴したが、東京高等裁判所は2001年1月29日に控訴を棄却し、一審・地裁の判決を支持した。
そして、2月13日には上告の期限が切れ全員の刑が確定したのである。

警察はなぜ動かなかったのか――。
このテーマが私と須藤家に共通のものであることはまちがいなかった。
「謎」は解明されるどころか、ますます深まるばかりだった。
実は、「動かなかった」と言われた栃木県警も、正和君が連れまわされていた2ヶ月もの間、まったく無関心でいたわけではなかったことが、その後の取材で判明した。
警察は、一部の関係者から情報を吸い上げていたのである。
それなのに、なぜか、まったく捜査に着手しなかった。
犯人グーループの一人が自首しなければ、「15年は逃げきってやろう」とうそぶいたとおり、事件は永久に冷たい土の中にうもれていたかもしれないのだ。
栃木県警に「なにかの都合」があったであろうことは元警察官の私には容易に想像できた。
それがいったいなんなのかを、私はどうしても解明しなければならなかった。 
私は一人の人間として、凶悪な犯罪を風化させたくなかった。
そして、元警察官として、動かなかった警察の「なぜ」に迫りたかった。 
私は犯人グループ全員の捜査段階での供述調書など膨大な関係資料を入手し、読破する事からはじめた。
さらに関係者への取材を進めるうちに、真実であると信ずるに足りる一つの仮説にたどりついた。
供述調書などの資料をもとに、事件を客観的に再現した。
そのうちの多くの部分がきわめて惨たらしい犯行の描写である。
しかし、この陰惨さから目をそむけないことが、この事件を知るうえで第一歩となる。
そう私は信じたのだ。

■栃木・須藤正和さんリンチ殺人 隠された真実
両親は訴える 日産自動車の重大「責任」
栃木県上三川町にある日産自動車栃木工場を舞台に1999年12月、凄惨なリンチ殺人事件が発生した。
殺害の実行犯でリンチを主導したのは同社社員で、殺された被害者も日産の社員だった。
ところが会社は二人をまったく同じ処分理由で諭旨免職にしていた。
そこに隠された真実とは―――。

それは天国にいる被害者、須藤正和からの「啓示」だったのかもしれない。
2か月前、私は都内のホテルで缶詰になって原稿を書いていた。
『栃木リンチ殺人事件 警察はなぜ動かなかったのか』の締め切りが目前に迫っていたからだ。
資料の山を整理していると、一枚の書類がパラリと落ちた。
正和が勤めていた日産自動車から送られてきた「通知書」だった。
それまで何度か目にしてはいたが、まったく情けないことに、この書類が持つ重大な意味については私も気づいていなかった。
【 須藤正和 従業員就業規則第85条第6項により諭旨退職(退職金不支給)に処する 1999年11月24日 日産自動車株式会社 】
これは、処分通知書ではないか。
正和は殺害実行犯の日産自動車社員を含む三人の少年グループに監禁され、凄惨なリンチの果てに殺された。
この間、当然、出社はできなかった。
当初はそれが長期無断欠勤と受け取られていたことは知っていたが、まさか処分の対象になっていたとは。
私は、さっそく栃木県黒羽町で理髪店を営む正和の両親に問い合わせた。
すると、両親も処分については初耳だったようで、非常に驚いた様子だった。
父の光男と母の洋子が正和の遺品から日産自動車の「従業員就業規則」を見つけ出した。
第85条には諭旨退職および懲戒解雇に関する該当事項が列挙されていた。
問題の第6項、正和の処分理由を読んだとき、私は全身に鳥肌が立つのを感じ、頭に血が上っていくのをはっきりと自覚した。
[ 第85条第6項  会社施設およびその敷地内において、窃盗、暴行、脅迫、その他これに類する行為をしたとき ]
冗談じゃない。正和は殺された被害者だ。なぜこんな処分になるのか。
しかも加害者の日産社員も、まったく同じ処分だった。そんなばかな話はない。
だが、私がこの事件の取材を通じて知った日産という会社の体質を冷静に考えると、ありうる話しかもしれないと思った。
ほぼ1年にわたる取材の結果、私はこのリンチ殺人事件の本質を語るうえで、正和が勤めていた日産の責任に言及しないわけにはいかないことに気がついていた。
その理由はおいおい書くとして、その前に「事件」をざっと振り返っておこう。

栃木県市貝町の山林で日産自動車栃木工場に勤める当時19歳だった須藤正和が惨殺死体で発見されたのは1999年12月5日のことだった。
殺害の容疑者として逮捕されたのは正和と同じ日産自動車栃木工場社員梅沢昭博と
中学の同級生で主犯格とされる萩原克彦、村上博紀の三人で、いずれも当時19歳の少年たちだ。
正和は殺害されるまでの約二カ月間、犯人たちに監禁され、カネを脅し取られ続けた。
金額は合計で約700万円にものぼる。
すべては犯人グループの「飲み食いと遊ぶカネ」に消えた。
正和を殺した犯人たちは遺体を山林に埋め、さまざまな証拠隠滅を施したあげく「15年逃げきれば時効になる」とビールで乾杯までしていたという。
だが、最後にグループに加わった16歳の少年が警視庁に自首したため、彼らの思惑は打ち砕かれ、遺体発見の日にグループ全員が逮捕されたのだった。

同期入社の社員に殺された!
事件が当時、世間の関心を集めたポイントは「警察はなぜ動かなかったのか」ということだった。
息子の異変に気づいた両親の再三の訴えにもかかわらず、栃木県警はなぜか、いっさい取り合おうとしなかった。
それが、私がこの後もこの事件を追い続けることになったきっかけのひとつになった。
一審の宇都宮地裁の判決は主犯格の萩原と殺害実行犯で日産社員の梅沢が無期懲役、村上が懲役5年以上10年以下の不定期刑となった。
このうち藤原は控訴したが、東京高裁の二審判決では、求刑通り無期懲役とした一審判決を支持し、被告側控訴を棄却した。
被告が上告しなかったため、刑は確定した。
刑事的にはこれで事件は”終わり” だが、残された遺族にとっては何も終わっていなかった。
公判や報道を通じて新たな事実が次々と明らかになっても「警察はなぜ動かなかったのか」という根本的な謎は解き明かされるどころか、ますます深まるばかりだったからだ。
正和の両親は、栃木県警と加害者側を相手取って宇都宮地裁に損害賠償請求訴訟を起こすことを決めた。
請求額は総額で1億2000万円になる見込みだという。
一方、私は犯人グループ全員の捜査段階での供述調書などの資料を入手し、関係者への取材を進めた。
事件の舞台となった日産自動車栃木工場は、セドリックやシーマなど高級セダンの生産を中心に、他工場への部品供給拠点の役割も果たす、日産最大規模の基幹工場で、かのカルロス・ゴーン社長が自ら試乗に訪れたテストコースがあることでも知られている。
殺害実行犯の梅沢の父親もかつてこの栃木工場に勤めていたが、梅沢が小学生の時に退社した。
98年5月には両親が離婚、梅沢は母親に引き取られた。
植村は高校卒業後、日産栃木工場に就職した。
同期社員の一人が正和だった。
二人は同じ第二鋳造部に配属され、同じ更衣室でロッカーが隣同士になった。
この”偶然”が、以後の惨事の発端となった。


これから書くことは、犯人グループの供述調書などを基にした事件の再現である。
まずは正和の監禁からリンチへ、そして殺害へ至る過程をたどってみることにしよう――。

おとなしい人柄につけこんだ!
「日産に俺のパシリ(使い走り)がいるから、そいつを呼ぼう。須藤ってんだ。あいつはおとなしそうな男だから、カネを貸してくれと強くいえば……」日産社員の梅沢が他の中間にそういって正和を呼び出したのは99年9月29日のことだった。
正和は日産栃木工場の同僚の誰に聞いても、非の打ちどころがない、まじめで勤勉な社員だった。
中学時代の同級生で、同じ年に日産栃木工場に入社した友人は、こう振り返る。
「ちょっとでも体調不良を口にすると、水と薬を持ってきてくれた。携帯電話の支払いに困って1万円借りようとすると、『それだけで生活できるの?』と、3万円を快く差し出すような優しいヤツだった」
若い社員がいやがる残業も進んで引き受け、事件に巻き込まれるまでは1日の欠勤もなかったという。
そんな正和の性格を知っていた梅沢は、「やくざにクルマをぶつけてしまい、修理代を要求されている。カネを貸してほしいんだ……」と持ちかけた。
正和が呼び出された場所には、萩原、村上の二人もいたが、人を疑うことを知らない正和は、3人を連れたまま銀行に行き、自らの貯金の全額7万円を引き出し、植村に貸し与えた。
これに味をしめた犯人らは、以後、正和を監禁し、「カネヅル」として使い続けることになる。
「明日は会社を休んで、サラ金に行ってカネを借りてくれないか」
と持ちかけて、コンビニエンスストアで買ってきたハサミとカミソリで長髪だった正和をスキンヘッドに剃りあげた。
そうして、この日は手に入れたカネヅルに逃げられないようにするため、梅沢らが一晩中正和を連れ回すことになったという。
 
逮捕後、梅沢は正和を恐喝の対象に選んだ理由について、「まじめでおとなしそうだったから」と供述している。
正和のやさしすぎる性格が、あだになってしまったことは確かなようだ。
この日の出来事をきっかけに正和はたびたび欠勤するようになり、やがてまったく出社しなくなるのだが、もちろんそれは本人の意思ではなかった。
会社を休まされた正和は、梅沢らに強要されて消費者金融の無人契約機をハシゴさせられ、借金を重ね、そのカネを梅沢ら3人に奪いとられていたのである。だが、正和一人に借金させるには限界がある。
そこで思いついたのが、正和を使って正和の両親、友人や日産栃木工場の同僚から借金させることだった。
三人は、れっきとしたこの恐喝行為を「ご融資」と呼んで楽しんでいた。
リンチが単に殴る蹴るですまなくなったのは、三人が正和を監禁してまもない10月初旬のことだった。
正和を連れ回し、栃木県宇都宮市内のスナックを飲み歩いていた時に起きたある事件がきっかけだった。
そのとき、梅沢が、「須藤、おまえも飲め!」と、焼酎のストレートを一気に飲み干させた。
正和は気を失い、3人にラブホテルへ連れて行かれた。
地獄はまさにこのときから始まった。
火であぶり大やけどさせた!
泥酔状態の正和が部屋で失禁したため、風呂場で洗ってやろうとしたとき、「熱いシャワーでも浴びせれば起きるだろう」と思った梅沢が、最高温度のシャワーを正和にかけた。最初はそのまま眠っていた正和もそのうち、「アッチ、アッチ」と叫んだが、酔いのためまたぐったりとする。梅沢には、そんな正和の苦痛の様子がおもしろくてたまらない。「よし、今度は起きるまでかけてやれ」あわてふためき、本能のままに身をよじり、身を守るために手でシャワーをさえぎる。「アッチ、アッチ」と泣き叫ぶ正和を見て歓喜した梅沢は、みんなにこう持ちかけた。「これは殴る蹴るよりも効果があるぞ。今度からこれをやろう」
このリンチは、テレビ番組のコーナーから名前をとって「熱湯コマーシャル」と名づけられた。
これが、昼間は正和を使って知人や友人らに「ご融資」をさせ、夜は夜でホテルに泊まってリンチを加える生活の始まりだったのだ。
梅沢が再びとんでもないリンチを思いついたのは、監禁生活が始まってから一カ月後の、10月25日の午前3時ごろだった。
主犯格とされる萩原がホテルの部屋にあった殺虫剤のスプレーの噴霧に火をつけて正和を脅して遊んでいるのを見て、梅沢がこういいだした。「これはおもしろそうだ。たまには変わったことがしたかったんだ。須藤に炎を浴びせてやろう」
「そんなやめてください」と正和は訴えたが梅沢は萩原から殺虫剤を受け取ると、言った。「服を脱げ!」衣服への引火を防ぐためだった。そしてドアの前に立たせ、3、40センチの至近距離から、殺虫剤のスプレーに着火、腹をめがけて火炎を浴びせた。
「熱い、やめてください」大声で叫びながら、その場を飛び跳ね、両手で火炎から身を守ろうとした正和は、このとき右手に大やけどを負ってしまった。
殺虫剤が焼ける強烈な刺激臭と、正和の肉が焦げるにおいが入り交じり、部屋には異臭が漂ったが、梅沢の攻撃は執拗だった。全裸で逃げ惑う正和を追い回し、今度は性器をめがけて火炎を向ける。体をねじり股間を手でかばった正和は、太ももにも大やけどを負った。「熱い熱い。すいません、すいません」と、大声で泣き叫ぶ正和を部屋の隅に追いつめ、背中一面に容赦なく火炎をふりかけた。
こうして正和は右手、下腹部、両太もも、背中にやけどを負った。
水ぶくれができ、皮がむけてベロベロになった。肉は真っ赤に腫れ上がっていた。
だが、火炎攻撃を終えてからも、日課となっていた熱湯コマーシャルを怠ることはなかった。
この日のことを梅沢は警察の調べに対して、こう話している。
「泣き叫びながら『熱い』『すいません』というのがおもしろくてやった。どうせやけどをするのは須藤だし、自分が熱いわけではないので気にしなかった」
リンチは時間を経るごとに、さらに凄惨さをきわめていった。
火炎攻撃でやけどを負った正和の体は、その後に続いた熱湯コマーシャルのために見るも無残になった。
皮膚はボロボロにただれ、傷口からは体液がジグジグ流れ出し、腐敗も始まっていた。
それでも無理やり風呂場に連れて行かれた。
抵抗すれば「お仕置き」と称して、狂ったように殴りつける……
こんな繰り返しに、正和もしだいに抵抗する気力を失ったようだ。
マンネリ化したリンチへの刺激なのか、11月20日から数日間、渋谷のカプセルホテルに泊まった時は、ほかの客も入ることができる大浴場へ正和を連れて行き、それぞれ最高温度にしたシャワーを持って、狂ったように奇声を発しながら正和に襲いかかる「一斉射撃」をしたという。

コップで精液を飲ませた!
それだけではない。正和を浴槽の縁に座らせ、三人で交互にまわし蹴りを食らわせるなど、想像を超える暴行も加えた。
そのたびに正和は沈められ、もがきながら這い上がった。
新たなリンチの手口を考えつくのは、たいてい日産社員の梅沢だった。
熱湯シャワーを20秒間浴びせることを1セットとし、毎朝毎晩4.5セットの頻度でリンチを加えることも発案した。
「忍耐」を強要し、肉体だけでなく、精神的にもダメージを与えることを楽しんだ。
その後、犯人グループの一人に萩原が六本木で知り合った当時16歳の高橋〔少年院送致の保護処分〕が加わった。
凄惨なリンチ場面を初めて目の当たりにした高橋がこっそり、「殴られるのは慣れているのですか?」と正和に聞いたところ、こう答えたという。「殴られるのに慣れはないんですけど、やっぱりいたいですよね……」
渋谷のカプセルホテルを後にした一行は、11月28日に宇都宮に戻った。正和の肉体はすでにボロボロだったが、この日、泊まったホテルでもリンチはエスカレートしていった。翌午前1時ごろ、萩原が正和に梅沢の悪口を言わせようとした。「いやです」言えば言ったで新たなリンチの口実になる。正和が断ると、村上が追い打ちをかけるように脅す。
「言わなかったら、熱湯だぞ。熱湯と悪口いうのと、どっちがいいんだ」「熱湯はいやです」と正和が言うと、今度は梅沢が、「上等じゃね―か。ハイ、熱湯コマーシャルね。さあ、裸になれ」と殴りながら命令し、正和の服を脱がせて風呂場に連れていったという。
正和の人間としての尊厳をも蹂躙する、信じがたいリンチが行われたのは、梅沢の熱湯コマーシャルが終わった直後のことだ。
浴室のドアの前に、コップを持った村上が立っていた。
中身はオレンジジュースだったが、一目で白いドロドロした液体が混じっているのがわかった。
村上が命令した。「俺の精子が飲めないのかよ……」
リンチはこの瞬間に一線を超えた。熱湯シャワーを浴びせられ続けた正和の体から湯気が立ち上がり、体力的限界のなかでそれが何かを悟り、一瞬、嫌な顔をして拒否したが、考えるまもなく村上の言葉に屈服せざるを得なかった。
私が三人の供述調書からこのシーンを読み取ったときの感覚は、とても私の拙い文章で書き表せるようなものではなかった。
戦慄を覚えた?いや、そんな簡単なものではない……。
あらゆる暴力と脅迫で正和をいたぶり続けた犯人たちが、とうとう肉体的苦痛を超え、人としての尊厳まで冒してしまったのだ。
しかも、これは単なる狂気のはじまりにすぎなかった。
「おまえたちもオナニーしろ。あと3分で出せなかったら須藤にフェラチオさせる。それでも出せないやつは罰金10万円だ」主犯格の萩原が、梅沢らにそう命じたのだ。
結局、射精できなかった高橋が、正和にフェラチオされ、萩原がその写真を撮るという異常な事態に発展した。
一方、梅沢はコップの中に射精していたが、そこに小便をして正和に突き付けた。
日産が憎いと両親は言った!
「一気に飲め……」
それが終わると、犯人たちは再び風呂場へ正和を連れていき、梅沢が羽交い絞めにし、村上が正和の胸から下腹部にかけて熱湯シャワーを浴びせたというのだから、これはもはや人間の行為では断じてない。
だが、ひとたび一線を超えてしまうと、狂気はエスカレートする一方だ。
11月30日の午後、パチンコから帰ってきた萩原と梅沢が景品でとってきたスパゲティを作り、正和に見せびらかすように食べた。その食べ残しを、「吐き出したら熱湯だからな。わかっているな」と言って、正和の口に無理やり詰め込んだ。その時の様子を、高橋はこう供述している。「須藤さんの唇は連日の顔面殴打で腫れ上がっていました。必死にスバゲティを詰め込もうとする須藤さんの右目はギョロッと剥いた牛の目のようで、左目のまぶたはつぶれ、右目とは対照的にとても小さくなっている感じでした」
正和が日産栃木工場の同僚、梅沢から呼び出されて二カ月目、殺害される2日前のことだった――。
それにしても、なぜここまで凄惨なリンチが二カ月にもわたって続けられたのか。
なぜ、両親の再三の訴えにもかかわらず、警察は動こうとしなかったのか。
この1年ほど、私は正和の両親と二人三脚で真相の究明を続けてきた。この間に正和の新盆があり、一周忌があった。
だが、正和が勤務していた日産栃木工場からは、誰ひとりとして訪れる人もなく、哀悼の言葉ひとつなかったという。
そして、なぜ日産自動車は正和を殺人犯と同じ処分にしたのかという新たな疑問も浮上した。
日産自動車広報部主管の濱口貞行は
「須藤君に対する処分は事件の全容を知り得なかった当時の会社の判断としては妥当だった。会社は事件解決のためにいろいろ手を尽くしたのに、悪く言われるのは心外ですね」と語ったが、これは私の取材と食い違いがある。
事件発生から今日までの日産自動車の対応を振り返り、さらに正和の処分内容を知った父の光男は、「もちろん、犯人は憎いけれど、いまは日産と警察が憎い……」と、感情をむきだしにして、こぶしを強く握りしめた。
そして、これまで「倅の会社の車だから」と大切に乗っていた日産ローレルを売り飛ばし、トヨタ車に乗り換えた。
この意味するところはいったい何なのか。


■栃木リンチ殺人追求
日産の「重大責任」 ゴーン社長 聞いてください!!
「栃木リンチ殺人事件」の被害者、須藤正和の両親は、愛車の日産ローレルを捨て、トヨタ車に乗り換えた。
息子が日産社員に殺されたうえ、「諭旨退職」という汚名を着せられたままだからだ。
日産は処分を撤回しないばかりか、「当時の判断は妥当だった」と、あくまで主張を変えないのだ。

日産自動車社員に殺された須藤正和の両親のもとへ突然、日産自動車栃木工場の総務部長、人事課長ら幹部3人がやってきた。
父、光男からの電話でそれを知った私は、記事を読んだ日産幹部が反省して、正和の不当な処分を撤回しに来たのだとばかり思い、
「それはよかったですね」と言ったところ、光男から意外な答えが返ってきた。
「それが違うんですよ。私らもね、てっきりそうかと思って対応したら、日産の上司らは、正和が人事に書いて送った『退職願』を戻すから、問題の『処分通知書』を返してくれっていうんだわ。きっと処分の件が報道されて騒ぎになったんで、あわてて私らの手元にある"証拠"を引き揚げに来たんでしょう」
もはや驚くべきことではないかもしれない。これが日産自動車という会社の"体質"なのか。
新盆にも一周忌にも顔を出さなかった日産幹部は、「焼香をさせてほしい」と言ったが、両親が「あんたら、それより前にやるべきこと(正和の処分撤回と名誉回復)があるんじゃないの。(焼香は)それを済ませてからにしてください」と言って追い返した。
当然の感情だ。
両親にとって日産は、息子が「お世話になっていた」会社であると同時に、息子を殺した「殺人犯の雇い主」でもあった。
正和は日産栃木工場同期入社の梅沢昭博に呼び出され、梅沢を含む3人の犯人グループにカネを脅し取られたあげく監禁され、約2カ月にわたる壮絶なリンチの果てに殺された。実際に正和の首を絞めた実行犯は、日産社員の梅沢だった。
ところが”雇い主”の日産は、殺された正和も、殺した梅沢も、まったく同じ「諭旨退職処分」にしていた。事件の全容が明らかになった現在もなお、正和の処分は撤回されておらず、当然、退職金も支払われていない。こんなバカな話はないのである。
しかし、日産はいまだにことの重大さをまったく認識していないようなのだ。
日産栃木工場の幹部が両親の家から「処分通知書」を回収しようとした翌日、日産自動車広報部の濱口貞行主管から本誌編集部へ1通の内容証明郵便が届いた。
本誌前号の記事に事実誤認があるので、訂正してほしいというものだった。濱口主管が指摘した誤りは正和の処分理由に関するものだ。
前号で私は問題の「処分通知書」の文面を紹介した。
〈 須藤正和 従業員就業規則第85条第6項により諭旨退職(退職金不支給)に処する1999年11月24日 日産自動車株式会社 〉
そして、両親が正和の遺品から見つけ出した「従業員就業規則」には、
〈 第85条第6項 会社施設及びその敷地内において、窃盗、暴行、脅迫、その他これに類する行為をしたとき 〉
と記されていると書いた。
ところが、濱口主管の指摘では、日産は99年4月1日付で就業規則を一部改定しており、
第85条第6項は〈 出勤状況が不良であって、数回にわたり注意を受けても改められないとき 〉
となっているという。
それはそうだろう。いくらなんでも、正和の処分理由が「窃盗、暴行……」ではひどすぎる。
本誌は濱口主管の指摘を受け入れ、次号で就業規則に改定があったことを明記する旨、確約したが、それでは納得できないという。
内容証明郵便には、
〈 弊社としましては、上記について貴誌記者の誤った認識がなければ今回の記事掲載(すべて)は見出し及び記事構成から判断して成立しなかったものと考えます 〉
と書いてあった。
つまり、改定された現行の就業規則なら正和の処分が撤回されないのは当然で、本誌の批判は成り立たないというわけだ。そして、
〈 間違った情報を基に週刊朝日として掲載した旨、紙面及び発売前広告(中吊り広告・新聞広告)において明記していただきたい 〉
と要求してきた。就業規則の条文がどうであろうと、記事が成立するのは明らかだ。それについては後で詳しく検証する。
濱口主管はまた、
〈 先日貴殿が弊社を訪問された際、幣職より「確認させていただく」と申し上げ、貴殿もそれを了解されたにも係わらず、一方的に記事化され、しかも誤った記事として掲載されたことに対し、大変遺憾に思います 〉
とも言ってきた。
これは正和の名誉にもかかわることなので、ここできちんと反論しておく。
取材班が東京・銀座の日産本社を直撃したのは4月12日のことだった。応対した濱口主管に、記者の一人が両親から預かった就業規則のコピーを提示しつつ、もう一人の記者が条文を読み上げた。
もし、濱口主管がこの条文を不審に思うなら、その場で指摘すればよかったのだ。しかし濱口主管からは、「その条文は古いのでは」とか「確認させてほしい」という留保はいっさいなかった。社内にいたのだから、その場でデスクに戻って就業規則を確認することもできたはずだ。
濱口主管があくまでも「処分は事件の全貌を知り得なかった当時の会社の判断としては妥当だった……」という主張を繰り返すだけだったので、記者の一人が、「そうではなくて、事件の全容が明らかになった現在もなお、正和君の処分が撤回されず、退職金が支払われていないのは問題ではないか」と問い直すと「それは、人事のほうに確認しておきましょう」というになった。
だが、前号締め切りまでにその回答はなかった。
翌週月曜日に再度、質問のファクスを送ったところ、初めて条文が改定されたことを伝えてきたというわけだ。
処分撤回には、「ノーコメント」
しかし、就業規則の条文がどうあろうと関係ないのだ。正和の両親や私が問題視しているのは、
1. 正和が「諭旨退職処分」にされていた、
2. その処分が殺人犯の梅沢と同じ内容だった、
3. しかも、処分は正和の遺体発見から1年以上たったいまも撤回されていない、
ということだ。
正和の父、光男も「理由がなんであろうと、処分は絶対に納得できない。従業員就業規則が改定されたというなら、なんでウチの伜は古い規則しか持っていなかったのか。そもそも、日産は私らにさえ処分理由をいっさい説明していないんです。ウチの伜は同じ日産社員の梅沢らに拉致・監禁され、暴力の限りを尽くされた被害者です。それがなぜ、処分されなければならないんですか」と憤る。
日産は、就業規則が改定されたのだから、この両親の訴えも不当であるというのだろうか。
会社としての見解を問いただしたが、ほかの質問事項とあわせて、
〈 これまでの捜査当局の調査及び裁判の内容で明らかになっているものと考えますので、改めて弊社としてのコメントは差し控えさせていただきたいと存じます 〉
と回答してきた。要はノーコメントというわけである。
日産側が見解を明らかにしないのだから、独自に検証を進めるほかはない。
日産は、99年4月に改定された就業規則に基づき正和を処分した。
事件の全貌を知り得なかった当時の会社の判断としては妥当だった――と主張している。
現行規則の第85条第6項には〈 出勤状況が不良であって、数回にわたり注意を受けても改めないとき 〉とある。
本当に「数回にわたる注意」をしたのかも問い合わせたが、前述のようにすべての質問に対して「ノーコメント」だった。
仕方がないので、私が独自に入手した日産関係者の参考人調書や裁判資料、関係者への取材などで知り得た事実をもとに、当時の状況を振り返ってみる。
日産栃木工場の上司が正和の異変に気づいたのは、99年9月30日のことだった。
本人から工場の人事課に「親から実家に帰ってくるように言われたので休ませてください……」と電話があったという。
実はその前日、正和は日産社員の梅沢に呼び出され、現金を巻き上げられていた。
梅沢を含む犯人グループの3人は、正和を一晩中連れ回し、逃げられないようにするために正和の頭をスキンヘッドに剃り上げていた。
それが地獄へ続く監禁と壮絶なリンチの始まりだったことは詳述した。
直属の上司は、正和についてこう供述している。
「まだ仕事がテキパキできるほうではなかったが、自分なりにコツコツと努力し、4月から9月までの間は順調に働き続け、念願のマイカーを購入するために社内貯金も毎月2万円にアップしていた」
人事課の担当者も正和の出勤簿をチェックし正和が9月2日までは一日も欠勤することなくまじめに勤務していたことを認めている。
それが一変したのは、日産社員の梅沢に呼び出されてからのことだ。
前出の人事担当者によれば、梅沢に連れ回された9月30日に、正和は入社後、初めて年次有給休暇をとった。
10月1日と4日も年次休暇扱いで、6日と7日は遅刻してきたが夜勤につき、8日の夜勤を最後にまったく出社しなくなったという。
心配する両親に「退職願いを出せ」
会社は、その後も年次休暇扱いにしたが、やがて休暇を取りきってしまい、それ以後は無断欠勤となり処分の対象になったという。
だが、欠勤が正和の意志でなかったことは明らかだ。正和はこの間、犯人グループに監禁され、力ずくで職場から引き離されていたのである。職場への連絡も10月29日を最後に途絶えていた。
つまり会社側が出勤状況について「数回にわたり」注意しようとしても、この間はできなかったはずなのだ。
父の光男は、こう語る。
「日産も初めはいろいろと心配してくれていると思っていたけど、ある時期からは、とにかく『退職願を出せ、退職願を出せ』しか言わなくなったからね。それはもう毎日でしたよ。そんなに言うんだったら、正和は梅沢といっしょにいることがわかってるんだから、梅沢に言ってくれという気持ちになったこともあった。だけど、あのころは会社に迷惑かけちゃいけないって思ってたからね。正和から電話があったときも『会社に退職願を出しなさい』ってね。結局、日産は企業イメージを守るために伜に汚名を着せて切り捨てたんだよ。私ら親子は、ほんとにお人よしだったんだね……」
退職願の”督促”は、正和の上司が夜勤のときは朝、昼勤のときは夕方、毎日定期便のようにあったという。
そのころ、当の正和は、梅沢らに暴行され、熱湯シャワーを浴びせられ、まさに瀕死の状態にあったのだ。
そんな正和さんの行方を両親が必死に捜していたころ、日産栃木工場の総務部人事課長名での配達証明郵便が届いた。
〈 平成11年10月27日 須藤正和殿 出勤督促状 あなたは、平成十一年十月二十六日より、欠勤となっています。欠勤をする場合は、事前に所定の様式により届け出をし、欠勤の理由等について会社の承諾を得なければなりません。(中略)会社の承諾なく欠勤を続けると会社は就業規則にしたがってあなたを解雇することになります。(中略)また、勤務する意志がない場合は、早やかに退職の手続きをしてください 〉
あて先は両親の住所だったが、あて名は正和になっていた。もちろん、正和がこれを受け取る機会は最後までなかった。
事件後、両親が正和の住んでいた日産の寮を片づけていると、同じ文面の郵便が出てきた。
日産は、正和が受け取れないことを知っていたからこそ、実家の住所にもまったく同じ文書を送り付けてきたのではないか。
両親は激怒した「訴訟も考える」
ただ、事情はどうあれ正和が欠勤を続けていたことは事実である。
問題は、正和が事件に巻き込まれた可能性について、当時、会社は認識していたかどうかなのだ。
実は、私は「事件の全貌を知り得なかった」という日産側の主張について強い疑念を抱いているが、ここでは直属の上司が警察の調べに、次のように供述していることを指摘するだけにしておく。
「10月29日の午前8時50分ごろ、須藤から電話がありました。係の指導員が最初にその電話をとったが、須藤の声は『もしもし、もしもし』とか細く言うだけで、ほとんど聞き取れないくらい小さな声でした。それが、私の職場への最後の電話になりました。それまでの須藤の勤務状況や態度から(無断欠勤など)信じられず、ひとつの考え方としては、だれかに見張られ、逃げ出すことができなかったのかもしれないと感じたのも事実で、本当に残念な結果に終わり冥福を祈るだけです」
仮に百歩譲って、この時点での日産の判断が妥当だったとしても、処分が撤回さていないことに対する合理的な理由はどこにもない。
正和の同僚の一人は、事件後、日産の上司から「須藤はな、会社に来ないからクビになったんだ」と聞かされ愕然としたという。
この同僚は事件の全容をほぼ知っていたからだ。
だが、いまだに「クビになった」と信じる同僚も少なくない。
実際に処分が撤回されていないのだから、「クビ」というのも間違いではないが・・・。
父の光男は、こう語る。
「少なくとも昨年3月14日の初公判の段階で、検察側の冒頭陳述によって正和が監禁されて会社に行けなかったことは明らかにされている。そこには日産からも総務部の担当者が来て、傍聴していた。あれから丸一年、日産は事情を知っていながら、正和の処分を放置し続けたのです。私たちは正和の処分撤回を強く求めます。そして、日産の態度いかんによっては、訴訟も辞さない覚悟です……」
すでに判決が言い渡された裁判でも、正和が犯人らに監禁され、出社できなかった状況が認定されている。
もし、私が正和の「処分通知書」の存在に気づかず、本誌がその問題点を指摘しなければ、日産は正和の処分について永遠にほおかむりするつもりだったのか。今後も、撤回する意志はないのか。
現在、日産は栃木工場の幹部が両親から「通知書」を回収しようとしただけで、処分の撤回はない。
本社広報部はあくまで「ノーコメント」という態度なので、私は日産自動車トップのカルロス・ゴーン社長に直接、質問の手紙を送った。
日産はゴーン社長になって業績を上げた。有能な経営者なのだろう。労組のボーナス要求に一発で満額回答をしたとも聞く。
正和の両親や私の主張は不当だろうか。
 
ゴーンさん、あなた考えをお聞かせください――。

■カルロス・ゴーン氏(日産自動車社長)への手紙カルロス・ゴーン様黒木昭雄--差出人住所省略週刊朝日編集部・山口一臣・大嶋辰男--住所省略突然、このようなお手紙を差し上げるご無礼をお許しください。私はジャーナリストの黒木昭雄と申します。簡単に経歴を説明いたします。1957年、東京都に生まれました。高校を卒業後警視庁に入庁し、23年間勤務しました。1999年に警視庁を退職し、それ以降、フリーランスのジャーナリストとして、警察問題、社会的事件を取材しています。本も何冊も書いております。必要ならあなたの日本人スタッフに私のことを調べさせてください。名だたる新聞社、出版社と仕事をしていることがすぐにわかるでしょう。それはともかく、ゴーンさん。本日、こうしてお手紙を書くのは他でもありません。私はどうしても、いくつかの質問をあなたにしなくてはなりません。何のために? そう、あなたはご存じないかもしませんね。1999年、あなたの会社、日産自動車栃木工場に働く社員が、同じ職場の社員を2ヶ月間にわたって監禁し、リンチを加え、大けがをさせ、最後に首を絞めて殺害したという事件が起きたことはご存じでしょうか。そして、あなたの会社は、この事件についてとても奇妙な対応をしています。殺害されたあなたの会社の社員、須藤正和君は被害者であるにもかかわらず、同じくあなたの会社の社員だった犯人の植村隆宏(仮名)と一緒に処分されました。あなたの会社の「人事関係規定集」を開いて見てください。就業規則第85条には「諭旨退職または懲戒解雇に処する」と書いてあります。その該当事項として、第6項に「会社施設および敷地内において、窃盗、暴行、脅迫、その他これに類する行為をしたとき」とあります。詳しくは後述しますが、須藤君を殺した植村も、殺された須藤君もこの就業規則85条第6項によって「諭旨退職」となりました。そしてこの処分は事件が明るみになり、須藤君が被害者とわかった今も、撤回されておりません。死んだ人間なので、名誉を回復する必要はない・・・・・・というのが、あなたの会社の姿勢なのでしょうか。私はこの問題について、近々著作にまとめて発表するつもりでいます。また、本の出版と前後して、朝日新聞社で発行している週刊朝日というニュース週刊誌でも、取材の結果記事を発表するつもりでいることをご報告しておきます。それでは、Mr.ゴーン、あなたは事件についてご存じないのかもしれないので、少し長くなりますが、あらためて事件について概略を申しあげます。なお、私が報告する「事実」は警察の捜査資料・公判の資料をもとに作成していることも重ねてご報告しておきます。 事件の被害者、須藤正和は高校を卒業後、1994年4月に日産自動車に入社し、栃木工場の第二鋳造という部署で働いていました。栃木工場の人事部に聞いていただければわかりますが、須藤君は事件に巻き込まれるまではただの1日の欠勤もなく、残業も進んでこなす、極めてまじめな社員でした。そんな須藤君が今回の事件に巻き込まれたのは、須藤君が日産に入社してからわずか5ヵ月後の9月のことでした。同じ栃木工場で働いていた植村隆宏から呼び出されたことがきっかけです。植村の評判も人事部で聞いてください。私が知るところによれば植村は素行の悪い、社内でも問題の社員だったそうです。それはともかく、植村には藤原勝(仮名)、松下将樹(仮名)という仲間がいました(この二人は後に事件の共犯者となります)。3人が須藤君を呼び出した目的はほかでもありません、遊ぶ為のお金でした。三人は「自分たちの背後にやくざがいる」といって須藤君を脅し、お金を巻き上げたのです。須藤君にお金がなくなると、須藤君を脅し、知人や友人たちを呼び出させて金を借りさせました。それは何回となく続けられ、須藤君に借りさせたお金は、遊興費(飲食や買春など)に消えてしまいました。こうやって3人が須藤君から巻き上げたお金は日本円で総額約700万円にものぼります。(その全額は須藤君の家族が工面して返しました)須藤君が呼び出してお金を借りた人たちの中には、日産自動車栃木工場の社員たちも多く含まれていました。そのため日産栃木工場の内部でも須藤君のことは問題になっており、「職場の中での金の貸し借りはしないように」と注意されていたそうです。ゴーンさん、ここまで聞くと、あなたは須藤君も植村たちの仲間だったのではないか?と思うかもしれませんね。あるいは須藤君がもし彼らの仲間ではないとしたら、なぜ途中で逃げださなかったのかと思われるかもしれません。しかし、最初に私が申し上げたように、事件は最後に須藤君が殺されて終わったという事実を思い出してください。須藤君は犠牲者だったのです。しかも、とてもとてもこの世の出来事とは思えない、むごい仕打ちをうけて死んだのです。9月に植村に呼び出された須藤君は、殺されるまでの2ヵ月間、植村、藤原、松下の3人によって監禁され出社できなかったのです。3人は須藤君に暴力を働き、須藤君の頭と体に恐怖を植え付け、抵抗したり逃げたりできないようにしていました。須藤君を脅かして巻き上げたお金で、3人はホテルを転々と泊り歩いていたのです。そして、ホテルのなかで3人が須藤君に何をしていたか想像できますか?3人はホテルの部屋で連日須藤君に最高温度の熱湯のシャワーを浴びせていたのです。また、直接須藤君の体に殺虫剤の炎をかけることもありました。逃げ出せなかった理由は、遺体となって発見された須藤君の姿を見れば一目瞭然です。須藤君の体のいたるところにひどい火傷の跡が残っていました。しかも、手当もされなかったため、火傷の跡は腐っていました。三人から毎日こんな仕打ちを受け、須藤君は日産自動車の同僚社員たちをはじめ、多くの友人を呼びだしてはお金を借りなければならなかったのです。須藤君はどんな思いで、彼らからお金を借りていたのでしょう。お金欲しさに須藤君をもて遊んだ三人を、私は許すことができません。ボロボロになった須藤君は、1999年12月2日事件が警察に発覚することを恐れた三人によって殺害されました。ネクタイで須藤君の首を絞めて殺したのは、須藤君の同僚であり、あなたの会社の社員だった植村隆宏なのです。しかし、悪魔のような三人のことはともかく、あきらめられないのは警察が須藤君を救うチャンスがあったのにもかかわらず、捜査に着手しなかったということです。そして、警察が動かなかった大きな理由のひとつは、日産自動車栃木工場の不誠実な対応にあった。ということなのです。 私があなたにいうのは、須藤君が殺されたことの怒りや、ただ感情にまかせて、言ってるのではありません。それは以下のような事なのです。須藤君は1999年9月、植村に呼び出された直後に監禁され、そのまま会社に出社しなくなったことは書きました。須藤君の両親が須藤君がいなくなったことを知ったのは、その後のことです。日産栃木工場の人事課から須藤君の両親に電話があり、「須藤君が工場に出社してこない」という報告を両親が受けたのです。須藤君のご両親は須藤君のまじめな、時にまじめすぎる性格を考えると、理由もなく会社を休むことは信じられませんでした。そこで何かあったのではないかと思い、須藤君の銀行口座を調べてみると残高のすべてが引き出されていることがわかったのです。須藤君の両親はこの瞬間、「正和が何かの事件に巻き込まれた」のだと思ったそうです。さらにその数日後、両親は再び日産自動車工場の人事課から呼び出されました。「須藤君が同僚から100万円もの大金を借金している」と言うのです。須藤君にお金を貸した同僚の社員の話によれば、須藤君がお金を借りにきたとき、須藤君といっしょにガラの悪い連中も一緒だった(植村・藤原・松下のことです)。須藤君はその三人に脅かされている様子だったというのです。須藤君の両親は人事課の人たちと話をし、「いずれにせよ警察に話した方がいい」と言うことになり、須藤君の母親が、1999年10月18日栃木県警石橋警察署に行って「家出人捜索願い」を出す事になりました。それは、須藤君が殺される一カ月前のことです。そのとき、須藤君の母親といっしょに石橋警察署に行った人物がいます。日産自動車栃木工場総務の「S」という人物です。Sさんの肩書は「総務部付き」というものでした。 Sさんは日産に入る前、栃木県警の警察官でした。総会屋事件のときも話題になりましたが、日本の企業はトラブルを処理する時のために、元警察官だった人間を社員として採用します。なぜ日産がSさんを雇ったのか、当時の須藤さんの両親には詳しいことはわかりませんでした。そして、須藤君の母親は石橋警察署に行くとき、日産の総務部から「これを警察に渡すように」と言われたものがありました。それが問題の「報告書」なのです。つまり、この時点で日産栃木工場は、出社しない須藤君のことを調査し、いくつかのことがわかっていたのです。この時点では須藤君の両親は、日産総務部の人たちのことを全面的に信頼していました。そこで、須藤君の母親はこの報告書に何が書かれているのかも確かめることもなく、総務部の人に言われた通り、この「報告書」を石橋警察署に提出したのですが、これが大きな間違いでした。事件後、私も須藤君の両親からこの報告書を見せてもらいましたが、この報告書には、「須藤君も植村の仲間で、二人はいっしょに遊び回っている」と事実とは違う嘘が書かれていたのです。先ほども申しあげましたが、須藤君にお金を貸した日産の社員は「須藤君は、誰かに脅かされて金を借り歩いているようだ」と人事担当者に話していました。それは人事課の聞き取りでわかっていたはずです。人事担当者は須藤君は無断欠勤もしたことのない、まじめな社員だったことを知っていたはずなのです。それなのに何を根拠に、何が目的で、こんないい加減な報告書を日産自動車栃木工場総務部は作成したのでしょうか?須藤君の両親は須藤君が消えてからというもの、いろいろな場所を、いろいろな手段を使って捜し出そうと努力しました。3人に脅かされた須藤君は最初にまず自分の貯金を引き出しています。その後も両親から振り込まれる現金は、瞬く間に引き出されていたのです。須藤君の両親は取引銀行に事情を説明しました。そして、キャッシュ・ディスペンサーのコーナーに設置されている防犯ビデオに、「包帯をまいている須藤君の姿が写っている」と銀行側から伝えられたのです。そして銀行は「必要なら防犯ビデオを警察に提供してもいいです」といってくれたのですが、警察は「裁判所の許可がなければそれはできない」と突っぱねたのでした。繰り返しますが、警察の反応が鈍かったのは、あなたの会社が書いたウソの報告書の存在があったからなのです。嘘報告書について、栃木県警の本部長(当時)は、「日産の報告書が捜査に着手しなかった原因だった」と認めています。、当時の新聞報道を翻訳して読まれたらいいでしょう。以上のような経緯から、私が日産の対応に疑問を持つのは、ジャーナリストとしておかしいことでしょうか。 日産がこのように不可解な対応にでたのは、企業のイメージダウンを恐れたからではないかと私は考えています。「社内調査の結果を正直に警察に報告したら、警察が動くかもしれない。そうしたらマスコミで報道されてしまうかもしれない。だから、内々で処理してしまおう」と言う図式です。実際、根拠もあります。ゴーンさん、調べてもらえばわかると思いますが、日産は早い段階から警察と水面下で情報交換していたと思われます。栃木県警の警察官だった「総務部付」のSさんは栃木県警とのパイプ役になっていたと思われます。地元の新聞記者に聞いた話では、Sさんはこれまでにも日産の社員が警察沙汰になるような不祥事を起こしたときに、警察にもみ消しをするよう動いていたこともあったそうです。須藤君を殺した犯人の一人、藤原の父親も栃木県警の警察官でした。 藤原は少年時代から恐喝を繰り返していた地元でも有名な不良少年だったのです。同じ栃木県警の同僚だったSさんは、そのことを知っていたはずです。警察官出身のSさんであれば、その時の情報を総合的に見て(須藤君が脅かされていたようだという社員の証言、これまでの須藤君のまじめな勤務態度など)これが事件なのかどうか適切に判断を下せたはずです。いや、警察官出身であればこそ、積極的に捜査を進めるよう警察に働きかけることもできたはずなのです。ゴーンさん冷静に聞いてください。私がこんなことを申しあげるのもほかではありません。両親は須藤君が日産に就職が決まったときの、あのうれしそうな表情を今でも鮮明に覚えているのです。そして家族はそんな須藤君の姿を見て、日産の車に乗り続けてきました。 最後にもう一つだけ申し上げておきます。日産が企業イメージをダウンさせないように、事件を処理しようとしたと思われる点は、須藤君の『処分』にも感じられます。日産自動車栃木工場の人事部は、須藤君の母親が、日産から渡された嘘の報告書を警察に提出させた後、今度は須藤君が長期にわたり欠勤していることを取り上げて、早く退職願いを出すようにと催促するようになったのです。須藤君の両親は須藤君からかかってくる連絡が一方的であったため、どうすることもできなかったのですが、「退職願いはまだですか」と厳しく言われるようになり、精神的にも苦しい思いをさせられたのです。息子がどこにいるかわからない。しかも何らかの事件に巻き込まれているのではないかと心配している。警察も動かず自分たちで探しだそうとしている…そんな須藤君のご両親に対して会社は、早く辞めろとプレッシャーをかけてくる―。もし、あなたが須藤君の両親だったらどんな気持ちになったことでしょうか。そして須藤君が殺害される約一週間前、1999年11月24日付で日産自動車栃木工場は、冒頭に申し上げたように、就業規則第85条6項によって須藤君を「諭旨退職」処分にしたのです。そして須藤君を殺害した植村も同じ理由で「諭旨退職」処分にしています。その後事件が明るみになり、須藤君が事件の被害者だったことが明らかになっても日産はこの処分を取り消していないのです。繰り返しますが須藤君は出勤したくなくて、出勤しなかったわけではありません。植村ら3人に監禁されて出勤できなかったのです。ゴーンさん、これまでの報告を思い出して考えてみて下さい。須藤君がいったい何時就業規則85条にあたるような行為をしたのでしょうか?今も、日産の栃木工場ではあの有名なリンチ殺人事件の被害者須藤正和君と、加害者植村隆宏が日産の社員だったことを知らない人も大勢います。事件の被害者と加害者の一人が社員だったと会社が社員に知らせなかったからです。会社としては、事件が明るみになる直前に、須藤君はもちろん、植村も退社しているので「日産の社員がかかわった事件ではない」ということなのかもしれませんが、それはおかしな話です。 話は戻りますが、社内調査が行われたころ、須藤君が働いていた職場では、「社員同士での金の貸し借りはしないように」という指導がなされていました。ならば事件が明らかになった段階で、正しく社員に事実を知らせる必要があったのではないでしょうか。二度とこのような事件を起こさないという決意、あるいは再販防止という観点からも社員への説明はあってしかるべきだと思いますがいかがでしょうか。 ゴーンさん。お忙しいところ、長時間にわたって私の手紙を読んでいただきありがとうございました。まだまだお伝えしたいこともありますが、いったんここで筆を置くことにしますが、最後にジャーナリストとしていくつかの質問をさせてください。(1) ゴーンさん、あなたは1999年に起きたこの事件を知っていましたか?(2) この事件の被害者と加害者が、あなたの会社の社員であったことを知っていましたか?(3) 日産が警察に渡した「報告書」に嘘が書かれていた事実をどう思いますか?  警察の対応をどのように受け止められますか?(4) 今後、この事件の対応について、あらためて社内調査し、検証するお考えはありますか?(5) 須藤君の処遇について、誰が調査し、誰が判断して処分を決定したのか教えてください。(6) 今後処分を撤回するつもりはありますか?ゴーンさん、須藤君の両親は栃木県内で小さな理髪店をやっています。 まじめ働き一生懸命に子供を育ててきました。裕福ではありませんでしたが幸せに暮らしてきました。それなのにこんなにひどい事件が起きてしまい、今でも信じられない気持ちです。今となっては時間を戻すことはできません。死んだ者は帰ってこないのです。しかし今、なによりも悲しいのは須藤君とその両親に何一つ救いがないことです。処分も撤回されず、会社として事件を封印した為、昨年の須藤君の1周忌には日産から哀悼の言葉ひとつ、お花の一つもなかったのです。あれだけ嬉しそうに日産自動車に就職した須藤君の人生はいったいなんだったのでしょうか?車を作るというお仕事は、人の命を預かる大切なお仕事です。そんなお仕事をしている日産自動車のこの対応は、果たして本当の意味で、人の命を大切にしていると言えるのでしょうか。4月11日、私と一緒に取材している週刊朝日の記者、山口一臣と大嶋辰雄がこの事件について日産自動車栃木工場総務課の横越課長に取材にきました。そこでの対応は実にひどいものでした。その詳細はここでは明らかにしませんが、課長はこういったそうです。「とにかくこの件の取材については、本社が対応しているのでここでは話せない・・・」記者が、「それでは本社に行けば対応してくれるのですか?」と聞くと、「本社へ行けとは、私の口からは言えません」 と言ったそうです。 この不誠実な対応は誰もが責任をとらないと言う風にしか受け取れません。ゴーンさん、あなたが日本に来て、本当に日産自動車は変わったのですか?その証を見せてくれませんか?もし、あなたがこの事件について関心があり、前向きに対応していくつもりがあるのなら、私が取材した限りの情報を提供しますので、併せてインタビューさせていただけないでしょうか。黒木昭雄

*本文中の関係者及び、加害者は仮名となっていますが、ゴーン氏への手紙では実名で記載されています。



■栃木リンチ殺人事件 追求・日産の「重大責任」
これでも知らなかったというのか!!
日産はかなり早い段階から事件性を認識していたのではないか。それが警察の捜査に影響を与えることはなかったのか。
これまでの取材でそんな”疑惑”が浮上してきた。本誌の報道で日産は須藤正和の処分を”撤回”したが、事件の裏にはさらに隠された日産の重大責任があったのだ。
またしても日産自動車は信じられない対応で、遺族の心を傷つけた。
4月24日付の地元紙に、日産が4月19日付けで、須藤正和の「諭旨退職処分」を撤回したという記事が出ていたのだ。
4月19日といえば、正和の実家に日産栃木工場の幹部3人がやってきた日ではないか。
本誌が日産自動車広報部に問い合わせると、この日、実家を訪れた幹部が口頭で処分の取り消しを伝えたという。
だが、父光男の話は180度違っていた。
「工場幹部が家にきたのは事実ですが、処分を撤回したとは聞いていない。私が聞いているのは、正和の書いた退職願いを返すから、処分通知書を戻してほしいということだけです。彼らは、私らには何も報告しないで、マスコミには処分撤回だなんて流したことで、日産に対する不信がますます募りました」
すでに詳報したとおり、正和は日産栃木工場に同期入社した梅沢昭博に呼び出され、梅沢を含む3少年グループにカネを脅しとられたあげく監禁され、熱湯を浴びせられる等の凄惨なリンチを受け続けた。
ところが”雇い主”の日産は、被害者の正和も加害者の梅沢もまったく同じ「諭旨退職処分」にしていたのだ。
「須藤君に対する処分は事件の全貌を知らなかった当時の会社の判断としては妥当だった」〔広報部〕
と、日産は私の追求に対してコメントしてきた。
私は、これに強い疑念を抱いている。それどころか、さらに「重大な責任」が隠されているとさえ考えている。
正和が監禁されていた約二カ月もの間、両親が必死の思いで捜し続けたことは言うまでもない。
ところが、再三の訴えにもかかわらず、栃木県警はまったく動こうとしなかったのだ。
象徴的な例が、銀行の防犯ビデオの件だ。
取引銀行の支店長から両親に正和が何者かに脅かされ現金を引き出している様子が防犯カメラの映像に残っているという連絡があった。正和は顔を隠すようにフードをかぶっていたが、顔には明らかにひどいやけどの跡が見えたという。
支店長から「必要があればいつでもビデオはお貸しします。早めに警察にいったほうが・・・・・・」
とアドバイスされ、両親は訴えたが、警察はこれでも取り合おうとはしなかった。
正和が事件に巻き込まれた証拠をそろえて相談してもダメだった。「警察は事件にならないと動けない・・・・・・」
これが警察側の言い分だ。
警察はなぜ、動かなかったのかという点について、私は膨大な捜査資料と公判記録、さらには関係者への取材をもとに導き出された一つの仮説がある。それはかなり早い段階から事件の全容をキャッチしていた日産が、企業イメージを守るため、事件が警察沙汰にならないよう内々で処理しようとしたことが、結果として警察の捜査に影響を与えてしまったのではないか、ということだ。
ここでは重要なポイントだけ指摘する。
警察はなぜ、動かなかったのか――――。
00年6月9日の栃木県議会文教警察委員会で、県警の広畑史朗本部長が「家出人捜索願いを受理した段階で、誤った先入観を持ってしまった。それがあとあとまで尾を引いた・・・・・・」と釈明している。
県警が捜索願いを受理したのは99年10月18日のことだった。その日、正和の母、洋子が日産栃木工場の総務部人事課から呼び出され、正和が日産の同僚から多額の借金をしていることを知らされた。洋子は会社の勧めにしたがい、「日産自動車栃木工場総務部部長付」の肩書を持つ「S」と正和の上司に付き添われ、初めて石橋署を訪れた。そこで捜索願いが出されたという。
ちなみに「S」は栃木県警の元警視で、日産と警察のパイプ役を務めている。
広畑本部長は、このときに誤った先入観を持ってしまったと話している。いったい何があったのか。
母の洋子が振り返る。
「実は、捜索願を出しに行ってとき、会社の人から『警察の人に渡してください』と言われてもらった書類があるんです。そのときは、言われるまま中身も読まずに警察に出してしまったのですが、あとで見てびっくりしました。まるでウチの正和が、梅沢らと遊び歩いているようなことが書いてあったんですよ」
日産は欠勤を始めた正和と梅沢に対して早い段階から社内調査を行っていた。
日産は、梅沢と正和を別々に会社に呼び出し、話を聞いた。
警察に提出された書類は、その報告書のコピーだった。
そこには事情聴取をした上司の「判断」として〈梅沢は質問に対してハキハキと答えるし、正直に話しているものと思われる。須藤は梅沢に話した内容、私ら監督者に話す内容、会社同僚に話す内容がすべて違い、三者三様の内容を話していることから、うそをついているものと思われる〉と書かれていた。
「これじゃあ、まるで正和が悪いみたいですよね。これを見た警察は、いったいどう思ったかね……」と、光男はため息をつく。
つまり、これが広畑本部長が答弁した「先入観」を生んだ原因だったようなのだ。
これについて日産自動車広報部の濱口貞行主管は「『報告書』はあくまで欠勤に対する社内的な調査をまとめたもの。しかし、何かの参考になればという”善意”から提出された。悪く言われる筋合いはない」と憤慨するが、仮にもしそうであったとしても、結果として日産の”善意”が警察の先入観を生んでしまったことへの責任はあるはずだ。
いずれにせよ、日産がかなり早い段階から事件性を認識していたことは間違いないと私は見ている。
それは、日産栃木工場総務部の素早い対応ぶりにも表れている。
日産栃木工場で、正和の1年先輩にあたる木崎政則(仮名)が正和の上司から休憩室に呼び出されたのは、問題の報告書が出される5日前の10月13日のことだった。
「君が知っていることを、頼むから全部、話してくれ」こう言って、上司は木崎に切り出したという。
実は、木崎は10月2日に正和から呼び出しを受け、現金2万円を貸していた。
「友だちがヤバイ人の車にぶつけちゃって、すぐにカネが必要なんです。俺も友だちの車に一緒に乗っていたんですが、先輩、すいませんがカネ貸してもらえませんか」と、木崎の携帯電話に正和から連絡が入ったのだ。
待ち合わせ場所には正和のほか、日産社員の梅沢と主犯格の萩原と村上の犯人グループ3人が勢ぞろいしていた。
このうち村上については木崎もよく知っていた。高校時代の水泳部の後輩だったからだ。
梅沢についても”評判のよくない新入社員”として知っていた。
主犯格の萩原についてはまったく面識はなかったが、そのふてぶてしい態度から木崎の頭の中に不吉な構図が浮かび上がった。
「『カネを貸してくれ』という須藤の不自然な口ぶりからして、村上たちにむりやり言わされているのではないかと思いました。車の事故という話も、実は村上たちがカネをせびる口実に使われているのではないか。須藤が会社を休んでいるのも、村上たちが無理やり連れ回しているからではないかと考えました」木崎は事件後、検察庁の調べに対して、こう証言している。
つまり、木崎はこの段階で事件の全容をほぼ把握していたというわけだ。
参考人調書からの再現を続けよう-----。
上司から休憩室に呼び出された木崎は、正和の身をずっと案じていたので、すべてを話すことにした。
その話は嘘だ!!
同僚は直訴した「(新入社員の)梅沢のことは知ってるよな。村上ってのも知っているか」上司の言葉に木崎は正直、驚いたという。
なんで村上の名前を知っているのか。
「村上は高校時代の後輩でした。でも、ボクは彼を信じていません」
「それは、なぜだ」
「高校時代からいい加減だったので……村上の性格も知ってましたし……」
いずれにせよ、日産栃木工場総務部は10月13日の時点で事件関係者の素性をほぼつかんでいたことになる。
木崎は上司がそこまで知っているなら、必ず力になってもらえるものと確信し、前述した検察庁の事情聴取で話したような事件の”背景”についての考えも述べた。
正和の上司がそのうえで木崎に尋ねた。「ヤツらがどんな車を使っていたか、車種とか色とかを覚えているか」
「黒っぽい色のインテグラです。家に帰ればナンバーもわかります。帰りがけにメモしておいたので……」
ところが、そのあとの上司の反応は意外だった。
「いや、警察じゃないからそこまではいいんだ。このことは警察にも連絡したから、ここから先は警察にまかせればいい。だから、おまえはもうかかわるな。いいな」ちょっと変だと木崎は思った。
もし本気で正和のことを心配するなら、ナンバーを知っていることがわかれば喜ぶはずだ。
「もうかかわるな」という一言は、まるで口止めに聞こえたと、木崎は正和の両親に語っている。
もう一つ。
「このことは警察にも連絡したから」ということは、捜索願を出すより前に、すでに警察と連絡を取り合っていたことになる。
「木崎君のことを知ったのはずっとあとになってのことでした。妻が捜索願を出すより前に日産が警察と接触していたことも知らされていませんでした。村上や萩原の名前にしろインテグラのナンバーにしろ、私らがどれだけ苦労して割り出したか。日産は知っているのに、なぜ教えてくれなかったのか……」父の光男は、そう憤る。
日産の不審な動きはそれだけではない。
休憩室でのやりとりを続けよう------。
上司は1通の書類を取り出した。
「梅沢から事情を聞いたものだ。ちょっと見てくれ」 石橋署に提出された問題の「報告書」だった。
ざっと目を通した木崎は、カッと頭に血が上るのを感じた。
10月2日の欄には〈須藤とは別行動〉とあったからだ。木崎は思わずまくしたてた。
「梅沢の話は全部ウソです。10月汲Q日は私が須藤に頼まれて2万円を持っていった日です。このとき、須藤は梅沢と一緒でしたから、明らかに梅沢はウソをついている」
この木崎の事情聴取の翌日に書かれたのが〈(正和は)嘘をついているものと思われる〉という問題の報告書だ。
なぜ日産の上司は木崎の話を聞きながら、こんなデタラメを書いたのか。そしてなぜ、それを洋子に持たせて石橋署へ行かせたのか。
日産は本誌の取材に対して「捜査当局の調査及び裁判の内容で明らかになっているものと考えますので、改めて弊社としてのコメントは差し控えさせていただきたい」と言うばかりだ。
日産が警察のいう事件性を十分認識していたという”証拠”はこれだけではない。
木崎から話を聞いた2日後の夜、正和の上司のもとへ同僚の加藤隆史(仮名)から電話があった。
加藤はその前日に正和から呼び出され、100万円という大金を巻き上げられていたのだ。
加藤はそれを上司に話した。もちろん正和がいかにひどい状態でとらわれていたかも、克明に話した。
警察は両親に対して「警察は事件にならないと動けない…」と言い続けたが加藤が被害届を出しさえすれば即、事件になる状況だった。
しかし、上司は加藤に被害届を出すようアドバイスはしなかった。それだけではない。
このころ、正和は梅沢たちに脅されて日産の同僚などにカネを借りまくっていた。
カネのない友人は消費者金融に連れて行かれ、その場で融資を受けた現金をとられた。
犯人グループはこれを「ご融資」と呼んで喜んでいた。
正和の親友で同期入社の社員二人が総務部人事課に呼ばれたのは、11月に入ってすぐのことだった。
二人は「ご融資」の被害者で、そのときの状況を詳しく聞かれた。
二人は、梅沢たちに脅されて無理やり消費者金融から借金をさせられたこと、二人の目の前で正和が殴られ土下座させられこと、顔や手におびただしいけがをしていたことなどを詳しく説明した。
事態を重視した総務部は犯人グループの襲撃に備えるため、二人の寮の部屋替えをしている。
つまり、日産の総務部はそれほど切迫した事態になっていると、はっきり認識していたわけだ。
これでもまだ「事態を知り得なかった」と言い張るのか。
処分撤回で判明
弔慰金も未払い
ちなみに前出の加藤もこの二人も警察OBの「S」に連れられ石橋署を訪れている。
だが、なぜか対応した刑事は調書もメモも取らず、ただ話を聞くだけだったという。
いずれのケースも、犯罪構成要件を十分満たしているのは明らかだ。元警察官の私が言うのだから、間違いない。
日産も警察も、とっくの昔に犯人グループの全貌をつかんでいたし、一連の事態が単なる金銭貸借(民事)ではなく恐喝・強盗(刑事)であることもわかっていたのだ。にもかかわらず、なぜか共同歩調をとるかのように事態に対してまったく反応しようとしなかった。
日産に至っては、正和から退職願をとることばかりに腐心していた。その結果の「諭旨退職処分」である。
4月27日に日産栃木工場の総務部長名で両親の弁護士に送られてきた処分取り消しの文書には、
〈本件見直しが遅れましたことは、誠に申し訳なく思っております。なお、本件取り消しにより、平成11年12月2日付ご本人死亡による退職となります。つきましては、添付別紙のとおり、賞与等のお支払がありますので、ご確認くださいますよう……〉とあった。
驚いたのは、本来支払われるべき賞与や祝金・見舞金支給規定に基づく弔慰金など約53万円が、これまで未払いだったことだ。
このカネは、もし本誌の指摘がなければ、永久に支払われなかったのかもしれないのだ。
それはさておき、処分の撤回と未払い金の支払は、あまりに当然のことである。日産はこの文書1枚で責任を果たしたつもりなのか。
なぜ、いまだに処分撤回が遅れたことの理由を説明しようとしないのか。
日産がかなり早い段階から事件性を認識していたことはほぼ間違いない。
労働法に詳しい弁護士などによると、企業は従業員の安全に配慮する義務があるという。
日産はこの「安全配慮義務」に違反しており、当然、損害賠償の対象にもなるのだ。
正和の両親は、県警と犯人側を相手取った損害賠償請求訴訟を起こしているが、処分取り消しを通知する文書を手にした父の光男は、体を震わせながらこう語った。
「正和は同じに日産社員によって殺されたのです。日産が正和の殺された経緯を明らかにしないで、こんな紙きれ1枚ですませるなら、私らは日産を訴えます。不買運動を起こしてでも復讐します・・・・・・」
 
私がゴーン社長あてに出した質問に対する回答もまだない。日産はなぜひとこと「すまなかった」と言えないのか・・・・・・。


出版社を通して、私宛てに日産OBから書簡が送られて来ました。
添付されていた日産宛ての抗議文を以下に掲載します。(黒木)
冠省  最近の日産の印象につき、OBとして、一言苦言を呈したい。
既にご周知の通り、今般「栃木リンチ殺人事件」(黒木昭雄)なる本の出版と共に、「週刊朝日」にはシリーズで報道され、世間に大きな波紋を投げ掛けるに及び、社のイメージを著しく失墜させている。
同じ工場出身の一人として、誠に慙愧に堪えず、会社の体質がこれまでしても保身の方が大切なのか、と驚愕させられた。
自分の子供であっても果たして、こういう冷めた対応が出来るものか、もっと真剣に考えてみたらどうなのか。
小生にしても、在職中の業務においては、常に社の名誉を優先して来た一人ではあるが、それでも、ここまでは、と考えさせられる。
従って、小生の経験からして、会社が何と言おうと、黒木氏の指摘は、その総てが当たらずとも遠からず、である事には間違いない。
会社は常に我々に対して、企業の社会的責任、と云う事を強調して来たが、羊頭狗肉であったのだろうか。
日産は体面を重んずる余り、却って醜態を晒してしまったのだ。
「日産という会社は、つくづく警察と体質が似ている」と書中にある如く、NRPだ何だと騒いでいても、本質的には旧態依然だ、という現実を見せつけられた思いだ。
昨今、陰湿な事件の多発傾向にあるが、こうした社会環境は何としても是正して行かねばならない。
特に、身内を見殺しにする様な体質は、断じて許す事できず、今後とも弾劾されねばならない、と考える。
3月初旬、当方に同封の書面が届いた。
内容は、ノンフィクションとなってはいるが、実際には、限りなく事実に近いものであるが故に、無視は出来ない。
上記事件への対応と合わせて、日産の良識を疑うと共に、同じ企業に在籍した者として、決して黙認は出来ない。
時あたかも、NRPの進展により最高益をあげるに至り、復配等により一応の評価を得てはいるものの、現時点では、これ等、周囲の多くの血の滲む様な努力の上に成り立っている、と云う現実をもっと直視すべきであり、軽々に喜べるものでは決してなかろう。
尤も、空調のきいた涼しい部屋で、机上仕事をしている諸兄には、真実は理解し難い事なのかも知れないのだが。
そして、NRPにより強引に再編を余儀なくされる鉄鋼業界や、禿げ鷹ファンドにまで売却された関連会社等の反感たるや、会社が考えている程、生易しいものでは決してなく、日産車は金輪際買わない、とする仲間がドンドン増えているのだ。
このNRPには、その高圧的な展開方法に問題があり、仲間の日産離れを加速させている。
確かに、今日の自由経済下にあっては、原低に協力出来るところだけが生き残れる、と云う事は、至極当然な事なのであろう。
古来、陸続きの欧米民族では、絶えず侵略したり、されたりの歴史があり、常に勝つ為の合理性を要求され続けて来た、と云う狩猟民族の文化がある。
一方、日本では、蒙古の襲来以外には外敵に脅かされること少なく、春に種を蒔けば、天変地異が無い限り、確実に秋には収穫できる、と云う農耕民族であり、地域等の周囲との関係を重視する文化である。
時には、隣人さえも信用出来ず、常に寝首を欠かれない様に、と強者連合を組んで来た狩猟文化の様な打算は少ない。
今回、我々も時勢の流れで必然的に、この狩猟文化を受け入れざるを得ない事とはなったものの、何世紀にも亘るこの両異文化の融和は容易ではなく、相応の努力を要すると、思われるが故、周囲は日産の動向に注目しているところである。
即ち、トヨタの様に仲間の結束力を重視する戦略と、正反対のこのNRPのどちらが、最終的に成果を上げ得るのか、と。
処でNRPは、こうした背景と共に、関連各社に相当の協力を要請するものである以上、その展開には、思慮遠謀が必要と考えるに、現実は実に粗暴極まりない。
例えば、最初の展開時35%もの原低を各社に依頼するにも拘わらず、数百社も一同に集めておきながら担当役員の挨拶一つなかった。
参集者の中には、各社の代表者も多くいるのにである。日産は、役所のつもりなのであろうか。
これでは、「お願いする」と云う立場ではなく、出来るところだけついて来い、との高圧的態度で、誠に非礼極まりない。
その後の対応にしても、高慢な官僚的色彩は未だ払拭されていない、との印象が強いのは、当方一人だけでは、なかろう。
過って、松下電産では、役員が各社を廻って、原低への協力をお願いに来た、と日産の取引先の一員でもある企業から聞いた。
そこまでは望むべくもないが、相応の配慮があってしかるべき、と考えるがどうか。
この様な状態では、追随出来ない者は、挙って日産を離れて行くは、覚悟せねばならない。
もっとこまめに各社を廻って実態を把握すべき、と思うが無理な事か。
尤も、日産は先刻承知での展開だろうから、余計なお節介と、言うところかもしれないが。
資産や仲間を切売りした後、本当の意味での「裸の王様」に、ならなければ良い、心配するのは、私だけか。
当方、後半の約15年を営業で過ごしたものの、こうした体質に嫌気がさしたのが、退職した理由の一つでもある。
今まで、売り辛い車を売る為に、多くの人々の世話になって来た結果の販売台数であり、NRPではこうした義理の関係を切るわけだから、魅力的な商品が出なければ、良くて15、16%程度のシェアが精一杯、と云うところか。
然るに、最近のF50、G10、NT30等々が自信作というのでは、甚だ心許無い。
例えば、G50のスタイルは、法人向けではなく、リッチなオーナ層に一巡すれば先細るは必定。
確かに、それぞれが計画台数を越え収益は一応回復してはいるものの、本当の快心作、と云うのであれば、ストリームやオデッセイ等の後塵を拝することもなかろう。
而して、日産には近年、月販数千代台を超える車種が殆どなくなったのだ。
20年ほど昔、当時の塩路体制を瓦解させる為、地下で工作して来た一人として、現状は極めて残念な状況にあり、今では、寧ろ諦めに近い心境にある。
とりもなおさず、こうした仲間の心離れが他社より著しい実態は、マツダ同様、日産グループの明日をも予測している、と言えよう。
会社はCSと共にESについても、もっと配慮する要があろう。
最後に敢えて一言いわせて貰う。
我々の仲間一人を死に追い込んだ残虐非道な事件を抑止するよりも、寧ろ会社の体面の方を重んじた日産の体質に、改めて大きな失望の念を抱くと共に、社会正義を求める為にも、この様な思考は弾劾して行かねばならない。
何故なら、これらの行為に対し大企業としての社会的責任、と云う立場から、その責めを負わねばならないだろうから。
日産に限らず、他企業、他の機関同様、下々にだけ無理を押し付けている現状は、余りにも理不尽ではないのか。
そして、自信はのうのうとしている上層部の淀んだ眼を覚まさせる為にも、必要なのだ。
そうする事により、せめてもの被害者に対するレクイエムとなろうから。
そして、周囲に、これだけ苦悩を強いている様では大きな発展を望むべくもなく、猛省を促したい。
因みに当方としても愛想が尽きれば、今まで大変お世話になって来た手前、甚だ不本意ではあるものの、他社への乗り換えも考えねばならない、とも思っている。
尤も、1台、2台位、日産にとっては痛くも痒くもないのだろうが。
末筆乍ら、ご多忙の折、ご自愛専一に願い上げ、こうした声もあるのだと云う事を認識して戴き、一層のご活躍を祈念致して居ります。

草々



★神も仏もナイとはこの事
壮絶なリンチの末虐殺された被害者とその遺族
両親が何度も警察に足を運んでも相手にされず、逆に悪態をつかれる始末
しかも真面目に勤めていた会社が、かなり早い段階で情報を掴んでいたにもかかわらず捜査に協力するどころか会社の体裁の為、捜査しないよう警察に圧力をかけていたというんだから話にならない
さらに警察は保身の為、マスコミにウソの情報を流している
事件発覚の翌日の朝日新聞朝刊で『元暴走族仲間を殺害』と報じられたらしい
確かに暴走族同士となれば、世間の警察に対する風当たりも弱まるだろう
桶川ストーカー事件の被害者=風俗嬢という初期報道と同じ図式らしい
自らの失態で救えたかもしれない命を見殺しにしたばかりかその不祥事をよりによって被害者を生贄のようににすることで隠蔽しようというのだから恐ろしい
被害者と遺族にとっては犯人はもちろん警察、会社も加害者同様だったという救いようのない事件だったわけだ
さらに、犯人に脅し取られた700万以上の金は1円も弁済されず、両親が苦労して返済してるとのこと
というのも、主犯の親が最初に提示した700万の示談金を326万で済ませてくれと言ってきたので受け取りを拒否してるのだ
須藤君の両親は息子を無残に殺されたうえに700万もの金を奪われている
娘の結婚資金のために用意していた預金も解約し、正和君の葬式代さえも人に借りなければならない状態だった
犯人の親たちは、慰謝料も当然だけど、とりあえずすぐに700万を返せと思う
しかし萩原の親は、最初1300万円と言っていた慰謝料を、なんと300万円に値切ってきているそうです!
その理由が、「人目を避けてのホテル住まいで金がなくなったから」だそうです
たった300万で済まそうとして、須藤さんに拒否されている(当然だ)
さらに梅沢の母親は「金がないので支払えない」と言い
村上の両親に至っては「息子に請求してくれ」と開き直ってる。
とにかく1円も弁済されてないらしい

事件後の新聞報道
『元暴走族仲間を殺害、山林に遺棄』 (朝日)
『19歳殺害コンクリ詰め 暴走族仲間リンチ』 (産経)
『暴走族仲間を暴行加え殺害』 (日経)
毎日も本文中で「暴走族などを通した仲間」、読売も「仲間の少年ら」と書いてあったそうだ
刑事の電話での「警察だ」発言が須藤君殺害の直接の引き金になってしまったのは周知の事実
しかし当時は事件発覚後も、栃木県警の態度は何も変わってなかった
「遺憾だが、処理は適切で問題はなかった」と結論づけて、捜査の遅れなどを訴えていた両親の批判に反論した
この時点では、事件はまだ栃木県のローカルニュースで、全国的な広がりを見せていなかった
県警もそれをいいことに、遺族に対して警察特有の不遜な態度で臨んでいた
両親がなにを言おうが、しょせんは力のない一般市民だ
しかし地元マスコミが県警の不審な動きを連載しはじめ、全国ニュースへと発展した
県警もようやく、両親の調査要請に対する調査結果の回答を約束する
その回答書が例の母親が電話に出て『おまえみたいなバカ野郎は死んじまえ、このデレスケ野郎』と怒鳴り電話が切れたというやつ
母親はこう振り返る「息子を殺されたうえ、警察にその責任を押し付けられるという二重の苦しみを味わいました同席している多くの証人がいるのに、なんで警察はそんな嘘をついたのでしょうか」「だいいちデレスケ野郎なんて言葉使ったこともない」とも言っている
栃木県警が母親の「デレスケ野郎」発言を撤回し、「警察だ」と名乗ったことが殺害の要因になったと認めたのは遺体発見から半年も後のことだった。
しかしよくこんな嘘がつけたもんだ
被害者を見殺しにし、犯人に殺害のきっかけまで与え、さらにその罪をよりによって被害者の母親に押し付けるとは
しかも被害者は暴走族とマスコミにでっち上げの情報まで流して・・・・・

これが警察のやり方か



時系列のまとめ

09/29:正和さんを会社近くのコンビニに呼び出し拉致
10/18:両親と日産の上司が石橋署に相談。生活安全課の巡査部長が対応
   家出人捜索願提出。
10/19:両親が石橋署を訪れ、事件性の相談。「おたくの息子さんが悪いんじゃ」発言
   正和さんから石橋署に、家出人捜索願を取り下げ依頼の電話(?)
10/22:両親が石橋署を訪れる。巡査部長「麻薬でもやってるんじゃ」発言
   以後、両親は自力で捜索。友人の元へ借金を返しに来る正和さんを目撃
   一方、石橋署も日産の同僚への借金の電話から主犯格の存在を認識
11/03:父親が石橋署に電話、車のナンバーを警察に照会、負傷していることを伝える
11/09:両親が石橋署を訪れ、正和さんの動きをまとめた資料を提出
   11月半ば以降、金の無心の電話が両親の元へ頻繁に入る
   11月下旬、渋谷区内の居酒屋で都立高校1年生と知り合い、犯行グループに
11/25:東京の丸の内支店で現金が引き出されたと足利銀行黒羽支店支店長から連絡
   母親が石橋署に電話し、正和さんの顔に火傷があることを伝える
11/30:両親と共犯の親ら6人が宇都宮東署生活安全課に車の手配を要請するも門前払い
   やむなく石橋署を訪れ、証拠として防犯ビデオの取り寄せと車の手配を要請
   正和さんからの携帯電話に「石橋の警察だ」発言
12/01:午後六時半頃、宇都宮で正和さんの乗せられた車がバイクと接触事故、
   午後八時半頃、バイクの男性が宇都宮中央署に事故を届出
12/02:事故の件で宇都宮中央署から共犯の自宅へ連絡、共犯の母親が事件を説明、
   午前9時半、宇都宮東署生活安全課へ赴き事件を説明するも取り合わず
   「主犯格の父親は警官」との言葉に、捜査員が主犯格の携帯電話に電話
   午後2時40分頃、市貝町の山林で絞殺。共犯2人がネクタイで殺害し、
   主犯と高校生は車の中。花火のあとホテルで乾杯
12/04:黒羽署「身内がかわいい」発言
   午後10時頃、男子高校生が母親に伴われて警視庁三田署に自首
12/05:遺体発見、逮捕
   当初の発表は「暴走族の仲間同士のケンカによる傷害致死」
1999・10・25
『殺虫剤による火炎放射器』 
なんと正和の性器にまで火炎を向けたのだ「熱い熱い。すいません、すいません」
大声で泣き叫び、逃げまどう正和を、Bは執拗に追いまわし部屋の隅に追いつめ、背中一面にキンチョールの火炎を容赦なく浴びせたのだった
その結果、正和は、右手、下腹部、両太股、背中に火傷を負い、身体全体にできた水ぶくれが破けて皮がむけ皮膚はベロベロの状態になり、肉は真っ赤に腫れあがった
Bは逮捕後の警察の調べに対して「正和が泣き叫びながら『熱い』『すいません』と言うのがおもしろくてやった。どうせ、火傷するのは須藤だし、自分が熱いわけではないので、気にしなかった」と話している
さらに、これほど残虐非道のリンチをおこないながら、夜になれば三人そろって熱湯シャワー攻撃を加えたというのだ
だが、鬼畜と化した彼らにはこんな凄惨な行為も、それからさらに果てしなく続いていくリンチの序章にすぎなかったようだ
『熱湯コマーシャル』(最高温度のシャワー)は毎日、定期的におこなわれる習慣になっていたらしい
正和の皮膚は、火炎攻撃と熱湯シャワーによって、ボロボロにただれ傷口からはジクジクと体液があふれだし、腐敗すらはじまる状態だった
それでもBはむりやり正和を風呂場に連れていく
もしも抵抗して逃げるようなことがあれば、その「お仕置き」として狂ったように体じゅうを殴りつける
正和が大声でシャワーから逃げる姿がおかしく、体じゅうに熱湯を浴びせるのだ
Aたちにとっては、あくまでも熱湯シャワーを使った『遊び』だ
肉体的にダメージを与えるだけでは飽き足らなくなったAたちは、正和に忍耐を強要することを思いつく
それは、熱湯シャワーを約20秒間連続して浴びせることを1セットとし、毎朝毎晩4、5セットの頻度でリンチを加えるというものだった
遺体の鑑定によれば、頭皮、顔面は変色し表皮が剥がれていた
いずれも重度(三度)の熱傷によるものだが、実に正和の体の80%はこうした熱傷でおおわれていた
そして、陰茎の先端部分にもやはり重度の熱傷があった(※注A=主犯、B=正和の元同僚)
正和は、殺害されるまでの約二ヶ月間、犯人たちに監禁され、金を脅しとられつづけた(親に振り込ませたり、サラ金や友人、同僚に借りまくらせた)
その金額は合計で728万3000円
すべては犯人グループの「飲み食いと遊ぶ金」に消えた

1999・11・29
コップの中にはオレンジジュースが入っているが、ひと目で白いドロドロした液体が混ざっているのがわかった
Cが命令した「俺の精子が飲めねえのかよ」
正和は一瞬、いやな顔をして拒否したが、二人の精子が入ったオレンジジュースを一気に飲み干した
犯人グループの狂気の沙汰は、その後も際限なく続いた「おまえたちもオナニーしろ。あと3分でだせなかったら、須藤にフェラチオさせる」
AはB、D、正和の三人にそう命じた
だが、結局射精できなかったDは、正和にフェラチオさせることになる
一方、Bはコップの中で射精を終え、その中に小便を満たした
「一気に飲め」黄色まじりの白く濁った液体を正和に突きつけた
正和は顔を引きつらせ、吐き気をもよおしている
だが再度、Bに命令されると、ほんとうに気持ちの悪そうな顔をしながら数回に分けて飲み下した
彼らの狂った行動はそれでもおさまることを知らなかった
結局、この日は三回目の熱湯シャワーを浴びせるために、正和を風呂場に連れこんだ
そして、Bが後ろから羽交い絞めにし、Cが防御のできない胸から下腹部にかけて熱湯を浴びせつづけた
その後、Aは「プロミス」のCMソングを正和に歌わせながら、その場で何回も回転させ目がまわって倒れたところを「俺のブーツは革が硬いので有名なんだ」と言って、太股を何度も蹴りあげた

1999・11・30
「5秒がまんしろ、がまんできたらそれで終わるからな」
じっと耐える正和の頭の上から熱湯シャワーをCは浴びせる
「イチ、ニイ、サン」笑いながら号令をかけるのだが、一秒をカウントする間隔は異常に長い
「熱い、熱い、もう勘弁してください」悲痛な叫び声が浴室内にこだました
約15分ほど熱湯を浴びせられた
その後、ふたたび熱湯シャワーが約10分間にわたって繰り返された
さらに風呂場のドアをようやく開けて這いだした正和を捕まえては顔面を5.6発もこぶしで殴り睾丸≠立て続けに2.3回蹴りあげた
そして、その場にうずくまる正和の身体を今度は約50センチの木製靴べらで、力いっぱい叩くのだった
頭を叩かれないように、両手で防御した正和の手をBは集中的に叩き、正和がうめき泣き叫び
こらえきれずに手を放すと、今度は顔面といわず頭といわず狂ったように殴りつけた
結局、正和には睾丸、背中、腰骨に100回以上の殴打が加えられた


1999・11・30
「20発叩かれても動かなかったら、きょうはこれで終わりにしてやるよ」
Bは正和を直立不動にし、焼けただれている尻を靴べらで叩いた
そして20発を終えて正和が気をゆるめたとたん「動いたの見たぞ」と、ふたたびゼロから尻叩きをはじめた
Bが「殴るのが疲れた」と言いだすまで続けられた
このときの正和の体はあまりにも惨たらしい状態となった
右耳がグニャグニャに潰れ、顔と肩は殴られつづけたため腫れあがり、ひどい内出血を起こしていた
胸、背中、足の付け根、右手、左足は火傷の水疱がつぶれて皮がベロベロにはがれた
集中的に叩きつづけられた尻の左半分は異常に大きく腫れあがって、バスケットボールのようにパンパンになって血が滲んでいた
にもかかわらず、そばにいたCは、新たなリンチの準備をしていたのである
「おーい、熱湯の準備ができたぞー」 

1999・11・30
「よーし、熱湯だ。熱湯だ」喜びはしゃぐBの声だった
Bは、ポットの中に入った熱湯をコップに移し、「おーら、おーら、かけるぞ、かけるぞ!」と、おもしろそうにフェイントをかけ、そのすきをついて煮立った熱湯を正和の頭や胸のまわりに浴びせかけた
「熱い、熱い、痛い痛い、すいません、勘弁してください、助けてください」正和は大声で泣き叫んだ
しかし、簡単には終わらなかった
ポットの湯がなくなるとふたたび湯を沸かし、このリンチは続けられたのだ
正和の体じゅうの皮膚はベロベロにささくれ立ったようにはがれ、肉がむきだしになる状態だった

1999・12・1
昨夜、留守にしていたAがホテルに戻ってくると、部屋の隅で正和が全裸のままガタガタふるえていた
正和の火傷は前にも増してひどくなっており、皮膚がめくれてあちこちから血や体液がたれていた
正和にどんなことをしたのかをBとCに聞いたAは、こう言った。「再現してみろ」
「正和の火傷はまったく治療をしていなかったので、皮がベロベロになり、汁みたいなものができていて気持ちが悪かった」
Bは後にこう供述している
だが、そのとき、それほどまでに弱り果てた正和に、ふたたび煮えたぎった熱湯をかけようとしていたのだ
Bは、正和の胸をめがけて一気に煮えたぎる熱湯を浴びせた
正和は、悲鳴をあげて飛びあがったが、それでもBは許さず、二杯目の煮えたぎった熱湯を浴びせかけた
正和はそのたびごとに泣き叫び
結局4回も湯わかし器で湯を沸かし、15〜16杯もの熱湯を正和に浴びせつづけた
すでに暴れることもなく、その場にしゃがみこんだ正和は「熱い、熱い」と、うわ言のように何度も弱々しくうめくだけだった
だが、Bはそれでも満足できなかったらしい
動かなくなった正和の頭の上から、残った熱湯を全部浴びせた

1999・12・2 殺害当日
彼らがなんのために穴を掘っているのかを、正和は悟っていた
「生きたまま埋めるのかな、残酷だな」正和はつぶやき、Dのほうを向いた
「悪いけど、セブンスターをくれませんか」
このときは死を覚悟していたのか、正和はそれを要求した
しかし、Dの一存では最後の願いさえかなえることができなかった
殺害前の緊迫感に付近は包まれた
だが、Aには外見上、さしたる変化はなかった
この期に及んでも、相変わらず正和に歌わせる「黄色い看板プロミス・・・・・」
現場到着から40分ほどですべての準備が終わった
掘り下げられた穴の前でAは言った
『チャッチャとやってこい』


1999・12・4 自首
Dは、芝浦にある自宅に帰り着いていた
母親に事件を打ち明けたが、母親は自首に強く反対したという
犯行二日後の12月4日、反対する母親を押しきり、Dは警視庁三田警察署に自首した
あまり報道されなかったが、この自首によって栃木県警と関係のない警視庁三田署が動いたことが事件発覚の端緒となったのだ
このDが、メンバーの中で唯一人の栃木県警管轄外の住人だったことが事件発覚のための大きなポイントとなったのだ
もし、Dが母親の反対を押しきって警視庁に自首しなければ、Aたちの思惑どおり「15年間逃げきって」完全犯罪が成立するところだったのだ
正和君には三歳年上の姉がいた
姉は正和君を「まあくん」と呼んでいた
正和君が中学生の頃までは、姉弟ゲンカをすることもあった
だが、いつも姉が勝っていたようだ
姉は、弟の死後、報道によってその監禁生活の惨たらしさを知った
そのとき彼女にできたのは、弟の遺品をとりだし、その小説を読んだり、CDをきいたりして、弟のことを思いだすだけだったという
物静かであまり多くを語らない姉だが、その心のうちを思うと、私は胸が張り裂けそうになる
殺された正和君や、両親も含めた穏やかな日常が、あっという間に破壊されてしまったのだ
犯人グループの一人の供述によると、正和君を車に乗せて両親の住む実家の近くを通りかかった事があったという
そこで犯人らは須藤家の家族構成を聞きだし
「もし、おまえが言うことを聞かずに逃げだすようなことがあったら、おまえの親も家族もみんな死ぬことになるぞ」と脅かし、「どうするんだ、それでも家に帰るか」と迫ったという
正和君は両親の家を間近にしながら、「僕は帰らない・・・・・」と話したそうだ
正和君は、おそらくこの時点ですべてを引き受ける覚悟を決めたのだろう


荻原の『チャッチャとやってこい』発言について
「一審のときは頭が真白になっていて、言われるがままに認めてしまっただけで、自分は絶対に言っていません」
自分はあくまでも事件の主犯でなく、殺害行為にも主導的立場ではなかったと主張
しかし、「もし殺害計画がなかったら、どうなっていたのか」と裁判官に聞かれると
「たぶん、その後もリンチしながら同じことを続けていたでしょう」と躊躇なく平然と口にしたのだ
長期間にわたっていたぶられつづけた正和君の肉体はもちろん、心もすでにボロボロになっていたはずだ
それでもなお、そんな言葉が出てくるとは、もはや矯正のてだてはない

12月5日  
警視庁三田警察署からTEL
「誠に残念ですが、正和さんは殺されて埋められていたのが発見されました」

警視庁三田警察署にて両親
「作新学院だよー」罵声のようなばかでかい声が、ほかの部屋から聞こえてきました
その声を聞いて、私たちは顔を見合わせ、「村上だ」(共犯のC)とうなずきました
梅沢(共犯のB)は宇都宮学園高校を卒業し、村上は作新学院を中退したと聞いていました
その村上は、私たちの息子正和を殺した犯人にほかなりません
私は取調室に飛び込んでいって村上をどうにかしてやりたいという衝動にかられました
「ここにいるのは正和ではない、別人がいるんだ」
私は自分にそう言い聞かせ、意を決して霊安室に入っていきました
他人でありますようにとの願いもむなしく、そこにあったのは、変わり果てた正和の姿でした
不思議に涙は出ませんでした
出てくるのは犯人に対する恨みだけでした
そして、「絶対に許さないぞ。正和が味わった苦痛以上のものを与えてやるからな」と心に誓ったのです

12月7日 
桐ヶ谷斎場
私たちは、萩原の両親と梅沢の母親に向かい、気が狂ったように怒鳴りつづけました
一緒にいた娘は斎場の壁に顔をつけ、泣き出してしまいました
たった一人の弟を喪った悲しさをこらえていたのが、いっぺんに噴き出してしまったのでしょう
そのとき、三田署の刑事が私に声をかけました「あの警察のジャンパーを着たのが萩原ですか」
「そうです」
「あんなのが栃木県で制服を着ているのか」
犯人の親たちの口からは、ついに何の言葉も聞くことができませんでした


2000・3・14  初公判
被告人たちが入廷してきました
殺人の罪で裁判にかけられるというのに、胸を張り、がに股で体をゆすって歩いてきたのです
記者席からも思わず「なんだこいつらは」という声が聞こえました
初めて聞く事件の内容に、私たちは驚きと恐怖の連続で声も出ませんでした
あまりにも残酷な内容に、傍聴席の柵を飛び越えていって
「もうやめてくれ」と犯人たちの首を絞めたくなる衝動にもかられ、はてしなく長い時間に感じられたのです

検察官と梅沢昭博のやりとり
検察官    須藤さんはどんな様子でしたか?
梅沢    皮がはがれてボロボロになっていた
検察官    どう思いましたか?
梅沢     どうなってもいいと思った
検察官    苦しむ須藤さんを見てどういう気持ちでしたか?
梅沢     面白かった

思わず叫びそうになりました。
これは、もはやリンチなどという生やさしいものではない「拷問」と言うべき残虐きわまりない暴行行為でしかない 

萩原は被告人質問でこんなことを答えています
『早く更生して、もう一度彼女とやり直し、須藤君のぶんまで長生きしたいです』
この言葉のどこに真剣さを感じられるでしょう
私が、正和の思い出や行方不明になっているあいだの苦しみ、現在の悔しさなど文章を読みあげているあいだ、萩原はあくび≠していたそうです
判決の日には裁判官から「あなたはふんぞりかえって、眠そうにあくびをしながら聞いているように見えましたが違いますか?」と質問されました
萩原は「ちゃんと聞いていた」と答えましたが
被告人席で両足を開き、首を片方にかしげ、ふてくされたような態度でした 





◆萩原 克彦◆
身長約170センチ 丸顔の小太り 細く鋭い目つき 事件当時は短髪でグレー(逮捕前、人相を変えるため染める)
栃木県警の萩原孝昭警部補 (事件当時・栃木県警氏家警察署交通課係長) の次男
宇都宮市立豊郷南小学校・宇都宮市立陽北中学校 卒業 ・ 宇都宮高校の通信制 中退
建設会社「三共リース」で、とび職として働くが、早退・無断欠勤を繰り返したうえに、作業日誌を改ざんして出勤したかのように見せかけたのがバレて、クビになりそうになる。そのときは、母親が社長に泣きついて尻拭いするが、後に「仕事がきつい」と退社
その間、地元の暴走族「幻影」の構成員になり、宇都宮市内の地元暴力団(住吉会系)との付き合いもはじまる
傷害や恐喝、窃盗などで保護観察処分を受けたこともある

一審・控訴審   無期懲役

◆◆◆[主犯:萩原 克彦 語録]◆◆◆
「逃げるからそんな目にあうんだ。逃げたりしたらますます痛い目に遭うからな」(正和さんを監禁し、拷問中)
「階段で転んだんだ」(監禁、連行中にホテルの従業員が正和さんの様子を心配した時
「仙台にいる。ある人に30万円明日までに返さなければならないから銀行に振り込め」(11月半ば 監禁中、正和さんの父に。当然「ある人」とは「萩原」本人)
「再現して見ろ」(須藤君に湯沸し器の熱湯をかけた後、梅○に)
「明日まで殺すかどうか決めておけ」(・・・と梅○、村○に言い残して、自分は女のところに遊びにいってしまう。12/01)
「(被害者から)金を引き出してるのがバレルとやばい。火傷がひどいし、殺しちゃった方が早い」(12/02 殺害当日、そして正和さんのお金でコンクリート等を購入)
「ちゃっちゃっと、やって来い」(12/02 梅○、村○に殺害を命たとき)
「おれって、こういうの苦手なんだよな。あいつら(梅○、村○)本当にやべえなぁ」(12/02 殺害を命じ自動車で待機中少年Dに)
「15年は逃げ切ってやろう。死体が見つからなければ迷宮入りだ」(12/02正和さんの遺体をコンクリート詰めにして、花火を上げ、その後ホテルで乾杯したとき)
「出所したら彼女とやりなおします。そして彼女と一緒に須藤くんの分まで長生きしたいと思います」(3/14〜公判期間中、裁判所にて)
「僕はそのうち刑期を終えて外にでてくる時がくると思います。(中略)須藤君の分まで生きたいと思います)(殺された正和さんの、父親に宛てた手紙より)
「僕は毎日夜眠る前に手を合わせ、須藤君に一日の報告をし、心から頑張って更正すると須藤君に伝えています。これから更正して1日も早く『謝罪』したいと思います」(5/23 論告求刑の日そう言った後、須藤君の両親のすぐ前をふてぶてしく肩を揺らせ「頭」も下げず通り過ぎ出て行った)
論告中ずっと、萩原は首を傾げて聞いていたという・・・。
参考までに
従犯:梅沢「(正和さんが)リンチを受け、逃げ惑う姿が楽しかった」(5/23 論告求刑の日)

◆◆◆[ 萩原 考昭 警部補語録 ]◆◆◆

「この子はこれで捕まると、少年院にいかないとだめなので、これで許してくれ」(事件の半年前、恐喝事件を起こし被害者に詫びに行って)
「妻が体の具合がわるいので帰らせてくれ」(ダビにふす前、正和さんの変わり果てた姿を見せられそうになって)
《事件発覚後》
「こっちも犠牲者なんだ。静かにしてほしい」
「あなたはこちらの気持ちが分かるんですか。飼っている猫が死んだら、育てている花が枯れたら悲しいでしょう」
「須藤さんのご両親に対しては何も言えません。その辺りの気持ちは『弁護士』に聞いてください」
「あやまりたいですよ。向こうの人(被害者の親)が来てくれたらいいんですが・・」
「あの程度の温度(約90℃)のお湯だったら熱湯とは言わないんじゃないのか?」
「でも、弁護士さんが入ってやってるんですよ。弁護士さんが入っているところに私が入っていけない」(被害者に会いにいかないのか?の問いに)
「そんなこと・・・あんたにも、あたしにも、判りませんわな」(被害者の方は苦しみながら死んでいったのですよ!の問いに)
※主に事件がマスコミに取り上げられる様になっての言葉。おそらく5/17以降
「むずかしいね。コメントにならないね」(市民の安全を守る立場の方の家庭で起きていることについてはどう思うか?との質問に)

※ 父親は須藤夫妻に1300万円で示談の申し入れをしている
※ 萩原が約720万円正和さんからかっぱいで居る為、実質、約580万
※ 事件後半年経っても未だ、現役で職務に就いている。

◆共犯『村上博紀』の親ヴァカ発言集◆
「これ以上、正和君のことに息子を巻きこむなら、名誉毀損で訴えますよ」(正和捜索で村上を疑う須藤君の両親に)
「須藤さん、とんでもない結果になってしまって」(遺体発見後、須藤さんからの電話に、まるで他人事)
「私たちは息子を信じているし、かわいいんです。言いたいことはいろいろあるが、下の弟もいるし騒ぎにしたくはないんです」(産経新聞より)
「うちの子も被害者なんです」(TVのインタビューや告別式後の須藤さんからの電話に)
「須藤さん、うちの息子は五年で出所できる。そしたらあいさつに行きたい」(裁判で)
「息子に請求してほしい」 (示談金について)




・・・・・なぜ警察は動かなかったのか
栃木県警の広畑史朗本部長は、事件後の県議会で「捜索願を受理した段階で誤った先入観をもってしまった」と答弁している
なぜ石橋署は「先入観」をもったのか
正和の母親が日産の上司に付き添われて石橋署に捜索願を出したとき上司に、何かの参考になるかもしれないと言われ、四通の報告書を提出している
そこには犯人の一人で同僚の梅沢は正直で、正和は「嘘つき」というようなことが書いてあったことが後に判明する
父親は「これでは正和が悪いから捜さなくてもいいと受け取られかねない内容でしょ。まるで正和を悪者に仕立てあげたいかのようにも感じる」と語っている
さらに母親が会社に呼ばれたときに、直属の上司の藤井係長からも「いやあウチの息子も悪いほうだけど、須藤君ほど悪くなくてよかった」などと暴言を浴びせられている
これらのことから、日産から警察にどんな情報が伝わっているかは想像がつく
つまり県警本部長が答弁した「捜索願を受理した段階で誤った先入観をもってしまった」の正体は日産が警察に向けて発した情報が元だったのだ
ではなぜ、日産はこんなデタラメな報告書を母親に持たせ、正和をワルにしたかったのか
事件の詳しいことがわからず、判断を誤ったのか・・・・・むしろ逆であった
日産の総務部は会社の対面にもかかわる不祥事情報を、かなり早い段階で入手し実に素早い対応を見せている
まず10月13日、正和の先輩・木崎に藤井係長が事情を聞いている
木崎は正和に呼び出され、頼まれて2万円を貸していた
さらにその場にいた萩原や村上に脅されて、サラ金に連れて行かれそうにもなっている
村上は木崎の高校の後輩で素性は知っていた
正和の身を案じた木崎は、帰り際に正和と梅沢の二人だけを呼び「主犯は村上か」と聞いている
正和は否定したが、木崎にはそれが嘘だと感じられた
しかし、同じ会社の梅沢までが「犯人側」の人間だとは、木崎も気づかなかった
藤井係長に呼び出された木崎は、すべてを正直に話すことにした
藤井係長の質問がはじまった「梅沢のことは知ってるよな。で、村上っていうのも知ってるのか」
この藤井係長の言葉に、木崎は正直驚いたという・・・・・なんでそこまで知っているのか
「もう一人、萩原ってのもいただろう?」・・・・・知らない名前だ
「萩原っていうんですか。なにやら後ろから にらみをきかせていましたね」
このやりとりを木崎から聞いて驚くのは、藤井係長の口から「萩原」の名前がでたことだ
正和の父が「萩原」の名前を知ったのは、11月30日のときだった
二ヶ月近くかけてようやく割りだした名前である
それを日産総務部は10月13日の時点ですでにつかんでいた
梅沢、村上、萩原と、犯人のすべての素性が日産にはわかっていたのだ
木崎はそこまで知っているなら、必ず力になってくれるものと確信し、メモしておいた車のナンバーを教えようとした
ところが藤井係長は「いや、そこまではいいんだ。このことは警察に連絡したから。おまえはもうかかわるな」と言ったという
もし本気で正和を助けるつもりなら、ナンバーを知って喜ぶはずだ「もうかかわるな」は口止めのように聞こえる
さらに「警察に連絡したから」ということは、日産は事態をある程度把握していて、正和の両親が捜索願をだすよりも前に、すでに警察に通報していたことになる
このとき木崎は「梅沢から事情を聞いた」という書類を藤井係長から見せられた
これが正和の母親から石橋署に提出させた問題の「報告書」の一通だと推察される
そこに描かれた正和像は、木崎が知る正和とは似ても似つかないものだったし、明らかな嘘も書かれていた
木崎は思わずまくしたてた「梅沢の話は全部嘘ですよ!」
この木崎の事情聴取の翌日に書かれたのが「(正和は)嘘をついていると思われる」という、もう一通の問題の「報告書」だった
木崎の貴重な証言はまったく顧みられることもなく上司は正和を「嘘つき」とする報告書を母親の手から石橋署へ提出させていた
ここには日産サイドの明らかな「意思」があったと考えるのが妥当だろう
県警本部長が認めているように、この報告書が県警の先入観となり捜査着手が阻害され結果として正和が殺されているのだから「意思」の解明がきわめて重要になってくる
結論から言うと、すでに日産は警察のいう事件性をじゅうぶん認識していたのだ
そのことをさらに決定づける事実もある
実は、木崎から話を聞いた二日後の10月15日の夜、藤井係長のもとへ社員の加藤から電話があった
加藤が100万円という大金を巻きあげられたときの状況を詳しく話しているのだ
もちろん、正和がいかにひどい状態で囚われていたかも、克明に話している
その三日後、加藤は日産の上司に連れられ、石橋署を訪れた
正和の母親が、石橋署に捜査願をだしたのと同じ日だ
藤井係長に事情を話したのと同じように、金をとられたときの状況を説明した後、携帯電話の着信履歴から犯人グループの番号を取り出し、石橋署の刑事に伝えた
警察は、番号照会で萩原の母親名義の携帯電話であることを割りだした
さらに、加藤は十数枚の写真の中から「恐喝現場」にいた萩原と村上の写真を選びだしていた
10月19日の段階で内々の捜査はここまで進んでいたのだ
日産も警察も、とっくに萩原を含む犯人グループの全貌をつかんでいたし、これは単なる「金銭貸借」でなく「恐喝」(刑事事件)であることもわかっていたわけだ
こうした情報は、日産からも警察からも、正和の両親にはいっさい伝えられていない
そして石橋警察署は、日産と共同歩調をとるかのように、事態に対してまったく反応しなかったのだ
この不可解な状況がさらにはっきりするのが、11月に入ってすぐのことだ
正和と同期入社の小林と中井が総務部人事課に呼ばれ、正和に現金を貸したときの状況を詳しく聞かれた
すでに20万円づつ脅し取られていた小林と中井は、再度呼び出され、梅沢からの要求に今度はきっぱりと断った
すると正和が同期の二人に土下座するのだ「おカネを貸してください」すがりつくようにして、泣きながら頼むのだ
梅沢が、いきなり土下座している正和の顔面をこぶしで強く殴りつけた
「おまえの頼み方が悪いからだろ」と何度も顔や頭を殴りつけた
その光景にいたたまれなくなった小林が車から降りて正和のもとに近づいた
そのときを待っていたかのように、萩原と村上が取り囲む「おまえ友だちなんだから須藤に貸してやっていいんじゃねえのか」
結局、さらに10万円渡すことになる
小林と中井の話を聞いた上司の判断で、二人は寮の部屋を引っ越すことになった
日産の総務部は、小林と中井に部屋替えを命じなければならないほど、切羽詰った事態だと認識したわけだ
さらに小林と中井は、日産のある人物に連れられて石橋署へ行く
二人はこれでやっと警察が動いてくれるだろうと信じたという
二人は警察で
萩原や梅沢、村上にサラ金に連れて行かれて無理やり借金をさせられ、金を脅し取られたこと
目の前で正和が殴られ土下座させられたこと
顔や手におびただしいケガをしていたこと
などを詳しく説明した
ところが刑事は調書をとるでもなく、最後は説教までされて終わったという
この日のことを中井は「ほんとうに信じられなかった」と語っている
こうなるともう「絶対に捜査はしない」という強い意志が感じられる
そして「事件にならないよう、うまく処理してほしい」という意向の発信元は日産以外にあり得ないということだ
これが刑事事件になれば、容疑者として日産社員が逮捕されることになる
しかも被害者の多くが日産社員で、栃木工場を舞台にした大がかりな「恐喝」が発生していたのだから
マスコミの好餌にもなりやすいということだ
この事件で重要な役割を果たしている人物がいる
母親が捜査願をだしたときも、小林と中井が石橋署に行ったときも、日産側の人間として立ち会っていた「S」だ
彼こそが、日産自動車の不祥事処理人として雇い入れられた栃木県警OBである
「S」の退職時の階級は「警視」だという
警視なら石橋署程度の所轄の署長と同じ階級だ
さらにタテの関係を重んじる警察では「先輩」であるSのほうが「上」になる
署長クラスが関与していれば、さまざまな「意向」を周辺各署にまで伝達することが可能になる
正和の両親は、石橋署だけでなく、宇都宮東署、宇都宮中央署、黒羽署管轄の駐在所、県警本部の相談窓口
など記録に残っているだけでも、16回も足を運んでいる
にもかかわらず、どこの警察も動かなかったのはこのためだと思われる
日産は、この県警天下り「S」をパイプ役に警察と「事件にならない」方法での事態の収拾を模索していたのだろう
地元有力企業としてのメンツから「縄付き」を出すわけにはいかなかった
そこで、正和の母親に捜索願をださせることにしたわけだ
母親が警察に行ったことが社内の風評として広まれば、やがて梅沢の耳にも届く
それで犯人グループの行為が収まれば、会社としては御の字だ
正和の債務は最終的に両親が返済しているのだから、問題はなにも残らない
そのためには、正和が一方的な被害者であっては困るわけである
これが、正和が「嘘つき」であるとされた問題の報告書が、石橋署に提出された事情だ
ところが、期待どおりの成果はあがらなかった
犯人グループの悪事は収まるどころか、エスカレートしている
そこで今度は小林と中井を石橋署に連れていく
刑事は調書も取らずに・・・・・というシーンにつながるわけである
このときも最初から、小林と中井が「警察に行った」という事実を作りたかっただけなので
警察が小林の話にとりあわず、捜査に着手しないのも当然というわけだ
しかし、それでも事態はいっこうに収束に向かわない
そこで日産側が考えたのが、梅沢と正和に「退職願」を書かせることだった
正和の父親は言う
「会社に連絡するたびに言われました『退職願を早くなんとかしてくださいね』って。はじめは、いろいろと心配して相談にのってくれていると思っていたのに、とにかく『退職願をだせ』しか言わなくなったからね。それはもう毎日でしたよ。けど、あの頃は会社に迷惑かけちゃいけないって思ってたからね。正和から電話があったときも『会社に退職願をだしなさい』ってね。私ら親子はほんとにお人好しのバカだったんだね」
結局、正和は『諭旨退職処分』になっている
これは犯人側の梅沢と同じ処分だ
監禁されリンチされていた正和は、自分の意思で怠業していたわけではない
事件の発覚後、処分のまちがいに日産も気がついたはずだ
しかし、日産側は企業イメージを守ることにのみ終始し、遺族に処分の撤回と謝罪の言葉をだそうとはしなかった
事件から1年以上過ぎた2001年1月23日、正和の両親は、弁護士とともに日産自動車栃木工場を訪れた
日産側は、正和の上司で問題の報告書を書いた藤井係長、県警天下りの「S」などが対応した
両親の問いつめに、実はかなり早い段階から事件を把握していたことを認めるのだがウソの報告書については
「私らもすっかり梅沢にだまされて」と反省の色は微塵もない
この間、県警天下りのSは意味ありげな笑みを浮かべるだけだったという
日産側の不誠実な説明にも両親は自制し、がまんを重ねた
ほんとうならば「おまえらがもっと真剣に行動してくれていれば、正和は救われたんだ」とぶちまけてもおかしくない状況だった
一つだけ、父親は言葉にした
「去年の新盆には、会社から誰一人として焼香に来てくれなかった。それがほんとうに残念だった・・・・・」
このやるせない言葉を取って返したのが藤井係長だった
「私は行きたい気持ちはありましたよ。でもお宅さんらのほうが、まだ訴訟をやっている最中だったので行っても失礼かなと思って遠慮したんだ。いま、そういうことを言われると、私は憤慨する」と声を荒らげたというのである
藤井係長も、きっとこの一年間、心の中に苦しい葛藤が生まれ良心の呵責にさいなまれつづけていただろうと信じて疑わなかった
だが、藤井の口からでたのは「私は憤慨する」という言葉だった
父親は言う
「正和は犯人に殺されてしまったけれど、実際は企業イメージを守ることを優先した日産と、それに荷担した警察に殺されてしまったようですね。もちろん、犯人は憎いけど、いまは日産自動車と警察が憎い」と感情をむきだしにして、こぶしを強く握り締めた
事件に巻き込まれなければ、正和さんも平成12年―世紀末に20歳を迎えていたはずだった
そこに3人の少年は強引に割り込んできたのだ
正和さんは、会社の労組が窓口になった25年満期の生命保険に加入していた
支払い額は月々3000円
正和さんの死後、須藤さんの両親に死亡保険金が下りた
受取人の名義を見て、須藤さんの両親は号泣した
正和さんの直筆で、受取人の欄に書かれていたのは「未来の妻子」
未来の妻子はおろか、20代のいちばん楽しい時間も見ずに、正和さんはわずか19年間の思い出と、未来の妻子に託した保険金を残して逝った…

★この事件について一つ気になることがあるのですが
それは日産労働組合委員長と須藤正和さんを惨殺したA 萩原克彦 が「同姓同名」であることです。
Aの「実名」をyahooで検索すればすぐわかります。
○○氏は事件当時も今も日産労組委員長です。
有名企業である日産自動車にとって、会社の労組委員長が凶悪犯と同姓同名で、しかもその凶悪犯は会社の従業員を惨殺し、おまけに被害者の死には労使双方に過失が疑われているケースです。
日産自動車がこの事件を闇に葬りたがっているのもこれでは無理が無いと思います。
私は日産自動車をかばうつもりはありませんが、この件については厄介なことだと思います。

★「・・・股間には、陰茎部あたりに長さ二センチほどの陰毛がわずかばかり生えているものの大部分が剃られていた。
そして陰茎の先端部分にもやはり重度(二度〜三度)の熱傷があった」
V度熱傷(全層熱傷)
組織の変化  血管や神経の熱性破壊、組織の壊死、感染性変化
発生温度   65℃以上
外表所見   蒼白、羊皮紙様
治癒期間   1ヶ月以上
治癒後    瘢痕を残す

★ネクタイで絞殺されて埋められた
萩原は殺害の直前でさえも須藤君に『プロミス』のCMソングを歌わせていた
歌い終えた須藤君は一言『萩原さん 、あの・・・』と、言いかけてやめたそうだ
それが最後の言葉だったという
その後は『服を脱げ』『そこに正座しろ』と言われるまま殺される準備にも抵抗せず従ったそうだ
もう諦めていたんだろうし心身共に限界を超えていただろうしね

最後に須藤君は何を言おうとしたんだろうか・・・・・

いったい、なんのために警察はあるのか
これは単なる「警察不祥事」レベルの話ではない
警察官が窃盗を働いたとか、薬物に手をだしたとか、そんな次元の問題ではない
警察の存在意義そのものにかかわることなのだ


栃木リンチ殺人事件 抜粋編
鑑定によれば、直接の死因は、頸部圧迫による窒息だと考えられる。
だが、その頭皮は灰褐色、淡褐色に変色、同様に顔面も淡褐色や赤褐色に変わり、表皮がはがれていた。
いずれも重度(三度)の熱傷によるものだが、実に正和の身体の80%はこうした熱傷でおおわれていた。
まず、「日本クレジットサービス(JCS)」で15万円を、続いて「レイク」でも15万円を引き出させ、藤原達はわずかの時間に30万円もの大金を手に入れた。
藤原と松下は、正和から巻き上げた金でソープランドに遊びに行き、正和だけが一人、藤原のオデッセイに残された。
藤原らが正和を連れまわしていた約2ヶ月の生活費のすべては、正和の知人やサラ金等でだましとった金と正和の両親に振り込ませた金によって賄われていた。
食事代、ラブホテルの宿泊代、ガソリン代などのほか、パチンコ、ソープランド、ファッションヘルス、ピンクサロン、ストリップ、パブ・居酒屋での飲食、洋服、下着、北海道への旅費などの遊びに消えていったと、彼らは供述している。
犯人グループと正和が、宇都宮市内のスナック「ロコガール」で酒を飲んだのは、十月初旬のことだった。
9月30日に、正和にサラ金回りをさせて30万円、正和の会社の同僚である中井からは20万円もの大金を巻き上げた。
その収穫に藤原は上機嫌だった。
担ぎこまれた場所が「モロッコ」というラブホテルの一室だった。
泥酔状態におちいった正和は部屋の片隅に投げ出され、そのとき小便を漏らしてしまった。
「このバカヤロー、面倒かけやがった。起きろッ、須藤」松下が正和の頬を平手で叩き、目を覚ませようとするが、いっこうに起きる気配がない、植村と松下は、正和の服を脱がせて風呂場に運び込んで、小便で汚れた身体を洗うことにした。
「熱いシャワーを浴びせれば、目を覚ますだろう」植村の頭の中をちょっとしたイタズラ心がよぎった。
風呂場のよくそうで寝込む正和の身体に、最高温度のシャワーをかけたのである。
1999年10月19日
石橋署に着いたのは午後1時頃だった。
生活安全課巡査部長の難波繁男(仮名)刑事が応対し、両親にこう告げた
「きのう捜索願を受理したので、あとは職務質問でわかることもあるし、 事件や事故でわかることもあるから・・・」光男(父親)は瞬時にやる気のなさを感じ取ったが、警察もいろいろあって忙しいのであろう、ただ単に息子の行方がわからないというだけでは相手にされないのであろうと解釈して、それまでに得た情報をもとに、正和が事件に巻き込まれている可能性が高いことを理解してもらおうと話し始めた。
それまで一度も無断欠勤したことがなかった正和が、10月12日以来、ずっと会社へ行っていないこと、寮へ戻った形跡もないこと、携帯電話も通じないこと、友人の話では長髪だった髪が剃られて丸坊主になっていたことなど、知り得た情報のすべてを、藁をもつかむ思いで難波刑事に伝えた。
しかし、難波刑事はボールペンを指でくるくるまわしながら、次のような信じられない言葉を吐いたという。
「でも。今回は息子さんが金を借りてるんでしょ。 悪いのはあなたの息子で、借りた金をほかの仲間に分け与えて おもしろおかしく遊んでるんじゃないの? 警察はね、ちゃんと事件になんないと動けないの」
1999年10月22日
以下は難波刑事と光男のやりとりだ。
「で、今日はなにしにきたの?」
「実は、先日、正和と連絡がとれまして、電話での話の中に『助けてほしい』といった言葉はなかったのですが、まわりから変な笑い声が聞こえたりしていました。誰かに監禁か軟禁状態にされているんじゃないかと・・・」
「あんたの倅は19歳になるんだろ。携帯ももっているし、トイレに入ったときとか一人になれるはずでしょ。その気があるなら、そういうときに逃げるとか、携帯で助けを求めないのはおかしいだろ」
「でも、以前に彼女がいるとか言っていましたので、彼女を人質に取られたりして、そういう事ができないのでは・・・」
「あんたね、憶測でものを言うな。何度も言うけど、金を借りているのはあんたの息子なんだ。悪いのはあんたの倅なんだよ。(こんなに金がいるというのは)もしかしたら、倅は麻薬でもやってんじゃないか」
「それなら、麻薬の線で操作してください。お願いしますよ、刑事さん」
「だから、警察は事件にならないと動かないって言ってるでしょ」
正和に殺虫剤のキンチョールを使って「火炎攻撃」を加えたのも、「熱湯コマーシャル」と同様に植村の発案だった。
それは10月25日の午前3時頃のことである。
藤原が「ホテル博多」の部屋に備え付けのキンチョールの噴射に火をつけ、30cmもの火炎で正和を脅かして遊んでいた。
               ―中略―
植村は、全裸の正和を燃えにくい木製のドアの前に立たせると、ライターでキンチョールの噴射に着火し、30〜40cmの至近距離から正和の腹をめがけて火炎を浴びせた。
「熱い。やめてください」正和は大声で叫びながらその場で飛びはね、両手で火炎を防ごうとした。
植村はそんな正和の姿を楽しんだ。
彼にとっては遊びでしかない。
植村は何度も何度もフェイントをかけながら、正和に火炎を浴びせつづけた。
室内に異様な臭いが立ち込めた。
殺虫剤が燃える強烈な刺激臭と、正和の肉体が焼けこげる臭いが入り混じったものだ。
残忍な植村の執拗な攻撃は、いつ果てるともなく続いた。
いじめゲームの世界にハマってしまった植村の目は殺気だち、狂っていた。
その後も4,5分間この攻撃を続け、なんと正和の性器にまで火炎を向けたのだ。
正和は身体をねじり、股間を手でかばい、恐ろしい火炎から身を守ったが、結局、太股にも大火傷を負うことになる。
「熱い、熱い。すいません、すいません」
大声で泣き叫び、逃げまどう正和を植村は執拗に追いまわし、部屋の隅に追い詰め、背中一面にキンチョールの火炎を容赦なく浴びせたのだった。
その結果、正和は、右手、下腹部、両太股、背中に火傷を負い、身体全体にできた水ぶくれが破けて皮がむけ、皮膚はベロベロの状態になり、肉は真っ赤に腫れあがった。
陰湿な「熱湯コマーシャル」の攻撃方法は、まず正和を素っ裸にすることから始まる。
「そろそろはじめるぞ。裸になれ」そんな声にも正和は逃げ出すことはできない。
もはや抵抗する気力さえ、失ってしまっていたのだ。
しかも、すでにこの頃には「熱湯コマーシャル」は毎日、定期的におこなわれる習慣になっていた様子がうかがえる。
素っ裸の正和の皮膚は、火炎攻撃と熱湯シャワーによって、見るも無残な状態だった。
皮膚はボロボロにただれ、傷口からはジクジクと体液があふれだし、腐敗すらはじまる状態だった。それでも、植村はむりやり正和を風呂場に連れて行く。
もしも抵抗して逃げるようなことがあれば、その「お仕置き」として狂ったように体じゅうを殴りつける。
こうした虐待が繰り返されたために、逃げることを断念していたとしか思えない。
飲食を終えてホテルに帰り着くなり、正和は植村のスーツを着るよう、藤原に命じられた。
正和は、それが植村から制裁を受ける口実になることを充分に承知していた。
しかし、それを無視すれば、今度は藤原の逆鱗に触れる。
どうしたって正和は殴られる運命にある。
だから、正和は意を決したように植村のスーツを着てしまった。
「なんだッ、その格好はッ!」
植村はそれが誰のさしがねであるのか当然理解しているが、正和をいたぶることは、時間をもてあます植村にとって快感だった。
「てめえ、殺してやる」
いきなり正和の頭上に木製の椅子を振り下ろした。
まともに食らった正和は後方によろけて倒れこんだ。
植村は、その上に馬乗りになり、正和の顔面をまるでサンドバッグのように「ワン、ツウ」と左右のこぶしで殴りつけ、最後は正和の背中を蹴って松下の方に倒れこませた。
藤原が正和に因縁をつけると、「さあー、熱湯やるぞ」植村と松下が声をあわせて、本格的なリンチの再開を宣言した。
「いやです、もう勘弁してください」正和は必死に懇願するが、これははじめから彼らのゲームとして予定されていた行動だ。
植村と松下はむりやり正和を全裸にさせ、引きずるように風呂場に連れて行き、深夜の「熱湯コマーシャル」がはじまった。
浴室からは「ギャー」という悲鳴と、狂ったように泣き叫ぶ声が聞こえる。
ドアにしがみつき、必死に熱湯シャワーから逃げまどう正和の姿が、ガラス越しに高橋にも見えた。
藤原はそれを見ながらニヤニヤと笑っている。
「アチィ、アッチィ、アチィ、助けてください、勘弁してください」
正和は悲鳴をあげて風呂場から逃げ出そうとする。
だが、藤原と松下が外からドアを抑えて浴室に閉じ込められてしまう。
その間、植村は容赦無く正和に熱湯を浴びせつづける。
そして数十分が過ぎた頃、浴室の前に藤原とコップを持った松下が立っていた。
コップの中にはオレンジジュースが入っているが、ひと目で白いドロドロした液体が混ざっているのがわかった。
「オレンジジュースを飲め」松下が命令した。
「俺の精子が飲めねえのかよ」
それは、まるで狂人としか言いようのない所業だった。
熱湯シャワーを浴びせられつづけた正和の体から湯気が立ちのぼり、体力的限界の中でそれが何かを悟り、一瞬、いやな顔をして拒否したが、考えるまもなく松下に屈服せざるを得なかった。
2人の精子が入ったオレンジジュースを一気に飲み干したのだ。
あらゆる暴力と脅迫で、この間、正和をいたぶりつづけた藤原らが、とうとう肉体的苦痛を超え、人としての尊厳まで侵したのだ。
「おまえたちもオナニーしろ。あと3分で出せなかったら、須藤にフェラチオさせる。それでも出せない奴は罰金10万円だ」藤原は、植村、高橋、正和の3人にそう命じた。
だが、結局射精できなかった高橋は、正和にフェラチオさせることになる。
コンドームを装着し、正和に舐めさせ藤原がそれを写真に撮るという異常な事態になった。
一方、植村はコップの中で射精を終え、その中に小便を満たした。
「一気に飲め」黄色まじりの白く濁った液体を正和に突きつけた。
正和は顔を引きつらせ、吐き気をもよおしている。
だが再度、植村にそれを飲むように命令されると、本当に気持ちの悪そうな顔をしながら数回に分けて飲み下した。
結局、この日は3回目の熱湯シャワーを浴びさせるために、植村と松下が正和に難癖をつけて正和を風呂場に連れこんだ。
そして、植村が正和の後ろから羽交い絞めにし、松下は、防御のできない正和の胸から下腹部にかけて熱湯を浴びせ続けた。
その後、正和は解放されたかのように見えたが、藤原は消費者金融会社「プロミス」のコマーシャルソングを正和に歌わせながら、その場で何回も回転させ、目がまわって倒れたところを、「俺のブーツは革が硬いので有名なんだ」と言って、太股を何度も蹴り上げた。
「ホテルエムズ」に入った3人は、備え付けのビデオで映画「アルマゲドン」を観ていた。
すると突然、松下が全裸になり、ホテルにあったコンドームを自分のペニスに装着し、正和に向かって「ヒロヒト、シャクれ」と命令した。
「ヒロヒト」というのは、藤原が中学生時代にいじめていた同級生の名前で、彼らは正和のことをこう呼んだりしていた。
彼らに恐怖をさんざん叩き込まれていた正和は、抵抗することなく、その命令にしたがうだけだった。
「もういい。へたくそヤロー」
松下はこう言い放ち、その場でマスターベーションして射精した。
風呂場の中では、ふたたび熱湯シャワーが約10分間にわたって繰り返された。
さらに、風呂場のドアをようやく開けて這い出した正和を捕まえては、顔面を5、6発もこぶしで殴り、睾丸を立て続けに2,3回蹴り上げた。
そして、その場にうずくまる正和の身体を、今度は玄関においてあった約50cmの木製靴べらで、力いっぱい叩くのだった。
頭を叩かれないように、両手で防御した正和の手を、植村は集中的に叩き、正和が「ウーッ、痛い痛い」と、うめき叫び、こらえきれずに手を離すと、今度は顔面といわず頭といわず狂ったように殴りつけた。
結局、正和には睾丸、背中、腰骨に100回以上の殴打が加えられた。
まさに殺さんという勢いだった。
「20発叩かれても動かなかったら、今日はこれで終わりにしてやるよ」
植村は正和を直立不動にし、「イーチ、ニーイ、サーン」と号令にあわせながら焼けただれている尻を靴べらで叩いた。
そして、20発を終えて正和が気をゆるめたとたん「動いたのを見たぞ」と、ふたたびゼロから尻叩きをはじめた。
それは植村が息切れして、「殴るのが疲れた」と言い出すまで続けられた。
結局、リンチの時間は4、50分にも達した。
このときの正和の身体はあまりにも惨たらしい状態となっていた。
右耳がグニャグニャに潰れ、顔と肩は殴られつづけたため腫れあがり、ひどい内出血を起こしていた。
胸、背中、足の付け根、右手、左足は火傷の水泡がつぶれて皮がベロベロにはがれた。
集中的に叩きつづけられた尻の左半分は異常に大きく腫れあがって、バスケットボールのようにパンパンになって血が滲んでいた。
植村は洗面所のあたりまで正和を追い込むと、そこでポットの中に入った熱湯をコップに移し、「おーら、おーら、かけるぞ、かけるぞー」と、面白そうにフェイントをかけ、そのすきをついて煮立った熱湯を正和の頭や胸のまわりに浴びせかけた。
「あっちち、熱い、熱い、痛い痛い、すいません、勘弁してください、助けてください」正和は大声で泣き叫んだ。
しかし熱湯のリンチは、簡単には終らなかった。
ポットの湯が無くなると再び湯を沸かし、このリンチは続けられたのだ。
こうして、この日も植村と松下に熱湯のシャワーをかけられた。
正和の身体じゅうの皮膚はベロベロにささくれ立ったようにはがれ、肉がむきだしになる状態だった。結局、この日のリンチが終ったのは午前5時だった。
植村と松下はソファーに、高橋がテーブルの脇の床に寝た。
正和はテレビの下の冷たい床で、一枚だけあてがわれたタオルを敷き裸のまま放置された。
植村は、うがい用のプラスチック製のコップにポットから熱湯を注ぎ、正和を逃げることのできない壁際に立たせ、約1メートルの距離から正和の胸をめがけて一気に煮えたぎる熱湯を浴びせた。
正和は、悲鳴をあげて飛び上がったが、それでも植村は許さず、フェイントをかけ、二杯目の煮えたぎった熱湯を浴びせかけた。
正和はそのたびごとに「熱い、熱い」と泣き叫び、あまりの暑さに耐えきれず背中を植村に向けたが、植村はそれでも許さず、結局4回も湯わかし器で湯を沸かし、15〜16杯もの熱湯を正和に浴びせ続けた。
すでに暴れ回ることもなく、その場にしゃがみこんだ正和は「熱い、熱い」と、うわ言のように何度も弱々しくうめくだけだった。
だが、植村はそれでも満足できなかったらしい。
動かなくなった正和の頭の上から、残った熱湯を全部浴びせた。
11月30日、藤原は正和に携帯で光男(父親)に電話をさせた。
心から心配する親の声を聞いた正和は「俺だって本当に帰りたいんだよ、電車賃がないと帰れないじゃん」とほんきになって泣き出した。
一方、難波刑事の近くで正和と話をしていた光男は「正和。今ここにお父さんの友達がいるから、ちょっと話してみろ」と、とっさに言って、携帯電話を難波刑事に渡した。
「須藤か、どこにいるんだ。早く帰ってこないとダメじゃないか。みんな心配しているぞ」
「あんたは誰だよ」正和の問いに難波刑事が答えた。
「石橋だ、石橋の警察だ・・・・・あれ、切れちゃったよ・・・・」
不用意にも身分を明かしてしまったのだ。
刑事たるもの、事態が監禁に類する疑いがあれば、絶対に立場を表にださないのが鉄則だ。
しかも、光男は「お父さんの友達だ」と紹介しているのに、難波はそのとき光男が発した言葉をはっきりと聞いていたはずで、状況を理解しているかのようにうなずいていた。
にもかかわらず、電話を手にすると、「石橋の警察の者だ」と答えたのだ。
正和からの電話は、それが最後だった。
実は、このときの電話が、正和殺害を決定づけることになる。
電話に出た刑事が身分を明かしたことが殺害のきっかけになったことは、裁判でも認定された。
藤原はイライラしたように怒鳴りはじめた。
「このままだったら捕まっちゃうぞ。警察に捕まるのはいやだ。警察を甘く見るんじゃない。留置場に入れられて朝から晩まで取り調べで、白い飯も食えねえぞ。おまえら捕まったことがないからのんきなんだ。俺たちのしたことは、『逮捕監禁、強盗、詐欺、傷害』で、結構長く刑務所に入ることになる。俺は絶対に捕まりたくない。須藤を殺して山に埋めちゃえば絶対バレない、おまえもいつも須藤のことを殺すって、そう言ってたじゃないか」
藤原は、植村に正和の殺害をもちかけた。
はじめは黙っていた植村だが、正和が生きて警察に発見されてしまった場合、数々の悪事が明かされることになるとあせった。
「わかった。じゃあやる」
植村がこう答え、松下にも同意を求めた。
「やる」
松下が短くうなずいた。
いくつかの意見が出されたが、最終的には松下が提案した芳賀方面に決定した。
遺体の処理については、藤原が「穴を掘って死体を入れ、その上にセメントを流し込み固めて、土をかける」と提案。スコップとセメント、砂を用意することになった。
だが、それらを用意するためには金が必要だった。
植村は、正和の最後の給料が振り込まれていることを思い出した。
「須藤の給料が振り込まれているはずだから、銀行に寄って金をおろし、その金で道具を買おう」藤原と松下も植村の意見に同意した。
ホームセンター「サンハウス」に立ち寄り、作業着、長靴、スコップ、桶、砂利、ポリタンク、ベニヤ板、黒色スプレー、セメント、砂、給油ポンプを購入した後、殺害現場となる芳賀方面に向かった。
         −中略−
藤原がインテグラに乗っている正和に近づき、「車を埋める穴だ」と伝えた。
だが、彼らが何のために穴を掘っているのかを、正和は悟っていた。
「生きたまま埋めるのかな。残酷だな。」
正和はつぶやき、高橋のほうを向いた。
「悪いけど、セブンスターをくれませんか」
いつもなら正和がタバコを吸うこと自体、リンチのきっかけになる。
だが、この時は死を覚悟していたのか、正和は平然とそれを要求した。
しかし、高橋の一存では最後の願いさえかなえることができなかった。
藤原には外見上、さしたる変化はなかった。
この期に及んでも、相変わらず正和に歌わせる。
「黄色い看板プロミス・・・」
変化があったとするならば、正和を殴らなかったことくらいだろう。
充分な大きさの穴が掘られ、コンクリートの準備ができると、藤原はベニヤ板に黒色のスプレーを吹き付けはじめた。
黒い面を上にして穴をおおうためだった。
これで、遺体の発見がより困難になると思ったのだ。
植村はインテグラの助手席に置いてあったスーツのポケットから、日頃から着用している赤色っぽいネクタイを取り出し、運転席に置いた。
掘り下げられた穴の前で藤原は言った。
「チャッチャとやってこい」
松下には白昼堂々と殺害を決行する気持ちはなかったが藤原の命令で初めてそれが「いま」だということを知った。
植村は何のためらいもなくインテグラに向かって歩く。松下がその後を追った。
植村がチャイルドロクのかかった左側後部ドアを外側から開け「降りろ」と正和に言った。
正和は観念した様子で、なんの抵抗も示さない、言われるままに外に出た。
「服を脱げ」植村の声は終始、命令口調だ。
正和は黒のフード付きダウンジャケットを脱ぎ、植村に手渡す。
ついでオレンジ色のトレーナー、青色のスウェットパンツを脱ぎ、全裸となった。
植村はそれらをインテグラの後部座席に入れようとしたが、松下が抗議した。
「臭えから袋に入れてからにしろよ」
長期間のリンチによって受けた火傷は手当てされることもなく放置されたため、すでに腐っていた。水泡が破れて皮はベロベロになり、いたるところから汁が滲みだす。
正和の身体からはすごい腐敗臭が漂っていた。
すべての殺害準備を終え、まさしくそのときが来た。
二人は地面を固めるように足で地ならしし、両足を踏ん張り、正和の首にネクタイを一回巻きつけて首の裏側で交差させ、たがいの呼吸を計るように目と目で合図をかわし、力いっぱい引き合った。
正和はその苦しみのために、両手を上げて必死に首とネクタイの間に指を入れようとするが、二人はかまわずに引き合う。
まるで綱引きのように松下と正和の身体は強引に引く植村の方に傾く。
松下は正和を見ることができず目をつぶったまま、つかんだネクタイを慌てて引き戻した。
グルグルという音をさせたあと、「うーッ」と、正和はうめき、ゴボッゴボッと血を吐き、咳き込み、痙攣し、失禁した。
静かな山の中に、正和の苦痛のうめき声が広がった。
人に聞かれてはマズイと植村は慌てて正和の後ろにまわりこみ左手で正和の口をふさいだ。
90秒ほど絞めあげると、正和の身体は左斜めにうつぶせで倒れた。
「おめえ、根性ねえな。ここまでやったらしょうがねえ、やるっきゃねえ」
と言い、うつ伏せで倒れている正和をまたいだ。
そして、馬乗りの格好になり松下が放したネクタイの一方をさらに1、2回首に巻きつけ、2,30秒ほど力いっぱい絞めつけた。
一方、運転席に座っていた藤原は、正和のうめき声に耐えられなくなっていた。
林道をおよそ10メートル登ったところに、あらかじめ掘っておいた穴がある。
3人はゆっくりと正和の死体を運び、その穴の斜面の上から見て左にいったん正和の死体をおろした。
「せーの」植村の掛け声にあわせ、3人は正和の死体をうつ伏せのまま投げ込んだ。
だが、思ったよりも穴が小さく浅かったために、正和の身体ははみ出している。
植村が穴の中に入って、正和の足をくの字に曲げて姿勢を整えた。
それから桶を傾け、松下がスコップで中のセメントをかき出し、正和の頭の方から流した。
土をかぶせ、長靴で踏み固めた上に藤原が黒く塗ったベニヤ板を2枚敷き、さらに再び土をかぶせて落ち葉や木の枝を敷きつめた。
正和の遺体は遺棄され、偽装された。
12月3日午前零時頃、藤原はふたたび植村らと合流。
そこで、将来の逃走計画が練られた。
松下が「殺人罪の時効は15年だから15年逃げきれば大丈夫。北海道に行って暮らしたい」と言うと、植村は「彼女と伊豆あたりでのんびり暮らして時効まで逃げる」と言う。
だが、藤原は「それは認めねえ。こういう時は、みんなで一緒にいたほうがいい」と反対した。
その後、正和の死ぬ場面を松下がゼスチャーで再現し、植村はマスターベーションしたという。
12月4日、藤原だけは宇都宮に残り、その夜は彼女と2人で過ごした。
植村ら3人は、午後1時頃上野駅に到着。
高橋は自宅に戻り、植村と松下はパチンコをした。
そうして時を見計らい、植村は彼女に会いに行くと言って、平塚に向かった。
結局、松下だけがウィークリーマンションに泊った。
一方、高橋は、午後3時20分頃、芝浦にある自宅に着いていた。
その後、帰宅した母親と祖母に事件を打ち明けたが、母親は自首を強く反対したという。
犯行2日後の12月4日午後9時15分、反対する母親を押し切り、高橋は三田警察署に自首した。
高橋の自首を受けた警視庁三田署は色めきたった。
事件はただちに「特異報告」として、署長に伝わり、捜査員が集められた。
取調べを受ける高橋からは、事件の信憑性につながる詳細が引き出され、警視庁捜査一課に速報された。
一方で、栃木県警に対し、事件の背景が照会されたはずである。
事件を放置した石橋警察署の窓口となっていた生活安全課の刑事は、なにを考えただろうか。
そして、実際に「不作為」を指揮していたと思われる、石橋警察署長は目の前が真っ暗になったにちがいない。
現場に呼ばれた芳賀カントリークラブの支配人を立会人として、高橋が指示した場所を捜査員が掘り始めた。
3〜40cmほど土を掘り下げると、コンクリート片が出て来た。
続いて45cmX90cm大のベニヤ板2枚が出土した。
さらに、捜査員が注意深く掘り下げていくと、午前11時36分、人間の顔の部分が土中から発見された。冷たく変わり果てた正和だった。
遺体はどす黒く変色し、身体じゅうの皮膚がベロベロにむけている。
藤原らに連れまわされた2ヶ月ものリンチの凄まじさを物語っていた。
操作に長けたベテラン捜査員でさえ、この光景に言葉を失ったほどだ。
現場では検証がおこなわれ、正和の遺体は手厚く回収された。
さらに、被疑者らが投棄した正和の衣類や、犯行に使用したスコップ、ポリ容器、そして松下のインテグラなどが、高橋の指示どおりに発見された。
こうして、藤原、植村、松下らの残虐非道の犯行は裏づけられたのだ。
12月5日午後4時、宇都宮からオデッセイを運転してきた藤原は、平塚から帰ってくる途中の植村と合流。
松下が宿泊する高田馬場ウィークリーマンションに向かい、到着したところで警視庁の捜査員に逮捕された。
事実関係を報告書にまとめる作業は、警察官にとって基本中の基本である。
なぜ、事実とはあきらかに異なる報告書が作成されたのだろう。
理由は簡単だ。
実は、今回の事件に関して警察現場はまったく記録を残していなかったのだ。
母親の洋子はこう証言する。
「刑事さんにやる気が無いのは感じていましたよ。だって、こっちが真剣に話しているのに、刑事さんは椅子にふんぞり返って足を組んで椅子をグリンコグリンコと回しているだけなんです。それで、指にはさんだボールペンをくるくる回し、重心が狂うとそれを整えるために、ボールペンの先をノートの上でトントンと叩くんです。その間も、まったくメモは残していませんでした。それは、私たちが警察に足を運んだ毎回のことでした。」
「刑事控訴事件記録」をめくる指が止まったのは、証人として出廷した藤原の母親の次の言葉を見つけたときだった。
「当時、夫が警察に勤務しており、なにか悪いことをすると、警察から連絡があったものですから、その時は連絡が無かったので安心していました」
藤原は日頃から素行が悪く、保護観察処分歴さえあった。
その父親は栃木県警の現職警察官だ。
警察は組織防衛上からも、身内の犯罪については過剰なほどに敏感になる。
だから、普段は「なにか悪いことをすると警察かられんらくが」あるのだが、正和の事件に限ってはそれがなかったのだ。
いつもの「悪いこと」と今回の「悪いこと」はいったい何が違うのか。
県警はかなり早い段階で現職警察官の息子である藤原の関与を把握していたのではないか
正和が殺された2日の昼に、光男は宇都宮中央署生活安全課の成澤哲夫課長(当時)をたずね、「正和を犯罪者にしてもいいからなんとか警察が事件として動く方法はないか」と相談をもちかけている。
光男はこのとき、現職警察官の息子である藤原の名前もはっきり告げた。
成澤課長は、過去に藤原が恐喝事件を起こした際の取調官で、そのことをおぼえていた。
にもかかわらず、藤原の父親には伝わらなかった。
異常である。
警察官が警察官の家族など関係者の犯罪を認知したら、しかるべき捜査に着手するのが鉄則なのに、それがなされていなかった。
もし、成澤課長が機転を利かせて藤原の父親に連絡し携帯電話で藤原をつかまえていれば、あるいは間一髪で正和を救い出すことができたかもしれない。

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