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「イスラームの世界観とムスリム少数派」 [中田考](4)
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投稿者 なるほど 日時 2003 年 12 月 13 日 18:39:36:dfhdU2/i2Qkk2

(回答先: 「イスラームの世界観とムスリム少数派」 [中田考](3) 投稿者 なるほど 日時 2003 年 12 月 13 日 18:37:53)

「イスラームの世界観とムスリム少数派」(4)

ダール・ル・イスラームというのは、まずイスラーム公法への忠誠がある。イスラームはすべての法を含んでいますので、世界全体にかかわるような刑法の部分とか行政の部分に関してはイスラーム法が国の法として適用されますが、民事の部分ですべてのイスラーム教徒と他の宗教に共通する部分は、生命、財産、名誉に関してはイスラームの公法に従うのです。イスラーム国家のなかに住むことを同意する限りは、生命、財産、名誉に関してはイスラーム教徒と異教徒の間にまったく差はありません。これは個人の権利なのです。そういう意味で人権にあたるようなものかもしれません。宗教に関係なく、国家に忠誠を誓う限りは住んでいるすべての人間に保障されます。
 今度は宗教法に基づく民事自治というものがあります。イスラームはそういう意味では宗教の自由を認めていますが、そこでいう宗教の自由というのは決して個人の宗教の自由ではないのです。宗教共同体の自由なのです。イスラーム世界のなかにはキリスト教も認められており、それもそれぞれの宗派が認められています。カトリックもありますし、プロテスタントもあります。もっと古い東方教会も、アルメニア正教とかコプト派とかマロン派とかいろいろな派があるのですが、それぞれが宗教法をもっていまして、それが認められています。これはキリスト教やユダヤ教だけではなくて、インドが入ってまいりますのでヒンドゥー教とか仏教も全部含まれます。
 そういったものもすべて自分たちの習慣に従って、宗教法に従って生きることが許されています。生きることが許されるというと現代的な感覚になりますが、そうではなくて、イスラームでは最終的には預言者ムハンマドによって神の教えが完成されたと考えますが、イスラームというのはもともとアダム以来のすべての人間に送られた預言者たちの宗教というふうに考えていますので、すべての民族に預言者が送られているのです。神の教えというのはすべての民族が授かっている。ただし、それが歴史的に歪曲されたりしていくので、何度も預言者を送り直して元に戻していく。それで最終的にはイスラームが最高のものだと考えるわけですが、すべての民族はそれぞれ不完全な形であれ神の法を授かっている。その神の法に従って生きることが許されているというか、生きる義務があるわけです。ですから各共同体は神の法をそれぞれの範囲で守る義務があります。そういうことで、共同体単位で宗教の自治が認められているわけです。そういう世界がイスラームの世界です。
 ですから、法が単一ではないわけです。たくさんの法が共存する。もちろん単一の部分もあるのですが、それぞれの共同体によって法が違う。これは実はイスラエルも同じなのです。今日はあまりこの話はしませんが、パレスチナ問題がおそらく今いちばん世界的な関心という点からいってもムスリムのマイノリティの問題として大きな問題だと思います。それにかかわってくるイスラエルという国の基本的な法律の枠組みは、オスマン・カリフ国の法律なのです。もともとあそこはオスマン朝の支配下にありましたので、オスマン朝の法律が今でも、最近少し変ったのですが、枠組みとしてはそのまま残っています。
 というのは、各宗教共同体はその宗教の自治をもっており、ユダヤ教徒もそうですし、キリスト教徒もそうですし、イスラーム教徒もそうであります。ドルーズ派というイスラームの分派がありますが、これもそれぞれの宗教裁判所をもっています。このシステムはもともとオスマン朝から引き継いだもので、イスラエルもそういうシステムをもっています。その意味では、イスラエルにおいてもイスラーム教徒は民事の部分においてはイスラーム法に従って生きることができるわけです。もちろんモスクで礼拝もできます。その意味では、他の国と変らないのです。エジプトとかシリアとかレバノンとかみんな同じです。どこへ行っても、その範囲でのイスラーム法というのは中東ではどこでも守られています。
 逆にいうとその範囲のイスラーム法しか守られていないのです。その意味でも、イスラエルとエジプトとレバノンとはあまり変らないわけです。ですから、この問題は実は宗教の問題というよりは政治の問題なのです。その話はまたあとでいたします。
 今はダール・ル・イスラームの話をしまして、ダール・ル・イスラームというのは法の支配する場である。そしてそれはけっして単一の法ではなくて、いろいろな宗教集団がそれぞれの自治を保つような重層的な法があって多元的である。そういう法の支配する空間がダール・ル・イスラーム、イスラームの家である。その外にはダールルハルブがあります。ダールルハルブをそのまま訳すと、戦争の家といいます。要するに無法地帯です。法がない地帯になります。ダール・ル・イスラームというのは法がある地域で、その外には法のない世界が支配している。それがイスラームの世界観になります。
 そういうと非常に違和感があると思うのですが、とくに現在の世界ではイスラーム世界は紛争や戦争が絶えないのに対して西欧は比較的平和である、というイメージがありますので、ダール・ル・イスラームを法の支配する平和の世界、ダール・ル・ハルブ(非イスラーム世界)を無法地帯と言われても、ピンとこないかと思いますが、取敢えず理念的にどう考えるかと言いますと、イスラームでは法というのはあくまでも神が与えたものです。その意味では、もちろん狭い意味でのイスラームだけではなく、キリスト教にしてもユダヤ教にしてもすべて神の与えられた法が法であります。法の支配というのは神の法の支配なのです。神の法が支配するから法の支配になります。では、ダール・ル・イスラームの外にあるのは何かというと、神の法の支配しない世界、つまり戦争の支配である。これはどういうことかというと、神の法が支配しないところにあるのは法ではないわけです。イスラームの考え方でいうと、法ではなくて、そこにあるのは力の支配です。これは法というものに対する考え方の違いです。これも違和感があるというか、何を言っているのかよくわからないと思います。
 要するに、われわれが法と呼んでいるものはイスラーム的に言うと法ではない。何かというと、力の妥協です。これは実際のところ一本のプロセスを見るとわかります。たしかに殺し合いはないわけですが、ここでは利害関係の違うものたちが集まって、力のあるものが自分に有利な秩序を押し付けるという争いの世界なのです。ですから力のあるものが得をするような法律ができる。それはイスラーム的にいうと法ではないわけです。それは争いの世界でしかないのです。たまには実際に争いが起きないという平和に見える瞬間もありますが、それはイスラーム的にいうとけっして平和ではないわけです。それは力のある人間が力のない人間を押さえつけて、たまたまそれが一時的に収まっているだけの状態です。それはいつでも戦争に転化するものです。そういう意味で、イスラームの世界の外には無法地帯が広がっていると考えるわけです。これがイスラームの世界観です。
 イスラームの世界観というのは、ダール・ル・イスラームという法の統治する世界があって、そこでは多元的な法がある。しかしそれは同時に普遍的な法でもあって、すべての人種を含んで適用されるものです。その意味において、イスラーム世界は単一であって、民族とかそういったものによって分断されて法が分かれることはありえない。それがイスラームの考え方です。
 ここまでがイスラームの世界観の部分で、そういう世界観を前提として今のイスラーム世界がどういうふうになっているのかがわかってくるのです。
(続く)

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