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(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論
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投稿者 愚民党 日時 2003 年 12 月 20 日 15:34:02:ogcGl0q1DMbpk

(回答先: (西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで 投稿者 愚民党 日時 2003 年 12 月 20 日 15:30:06)

(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論

(征韓論の経緯)

 いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。前にも少しですが書いた通り、
 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 
 では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきたかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の
 交際を復活させようとしたことに始まります。元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。
 
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧迫に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は、
 日本と国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、
 外国と交際を始めた日本とは交際出来ないという判断だったのです。
 
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている
 時間がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内外に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
 
 そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を
 通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 
 しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から
 送られてきた国書の受け取りを拒否しました。朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、
 朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 
 このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮
 に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。
 
 そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、
 斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、要領を得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
 
 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」
 と遊説してまわったのです。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には
 出仕していません。
 
 そして、この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允です。
 
 木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは事実です。
 木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 木戸はこのようにして征韓論に熱心になったのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、
 その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。
 
 そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうという
 ことになりました。しかし、前述の佐田らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも説いてまわっていたので、
 征韓論は人々の間で次第に熱を持ってきたのです。
 
 そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けた
 との報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
 
 その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
 こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。

(西郷の遣韓大使派遣論)

 閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、
 「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、
 二つに一つの選択しかありません」と説明しました。
 
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、
 政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、
 兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
 
 しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
 
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。
これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。
そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。
ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、
朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」

西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」
と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、
威儀を正して行くべきでごわす。」

この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)
だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、
今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。

こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を
自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、
相当の自信もあったのでしょう。

しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。
また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。

西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。
そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、
この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 このように、これまで征韓論と呼ばれる一連の出来事の経過を、軽くですが書いてきました。
 これを読んで頂ければ分かるように、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこない
 ことが分かることでしょう。
 
 逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
 これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡
 (西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当て
 の外れた推測としか言いようがありません。
 
 この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後もテーマ随筆で取り上げて
 いくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。
 しかし、一応、この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
 
 西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりで
 準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が、西郷の前に立ちはだかります。
 岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べるのです。
 
 理由は、次のようなことでした。西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争
 をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
 一見すれば尤もな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを
 前提として論を展開しています。
 
 しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っているのです。
 岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷は納得がいきません。
 ここで、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定
 されたのですが。しかし、岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。
 
 岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上する
 と言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思うかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。
 そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのでしょうか、と思わざるを得ません。
 一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして、西郷の遣韓論は潰されたのです。
 
 ここで、一つ付け加えます。よくこの明治六年の政変(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)
 と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。
 
 しかし、それはまったく事実と反します。
 
 まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
 また、今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。
 また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、
 明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
 
 朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
 西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。
 これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったかが分かることでしょう。
 
 いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性
 を主張するがゆえのまやかしであったのです。
 
 また、その他にも色々な理由があるのですが、それは後日テーマ随筆で取り上げていきたいと思います。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/


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 岩倉具視ら倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの理想実現を阻む「敵」であった。
 彼らの目には、旧態依然とした権威にしがみつく危険な攘夷派の象徴で、
 徳川家を温存させてその上に君臨したいと願う保守的な帝として映っていたのだ。
 孝明天皇を排除し、「幼君」睦仁親王:明治天皇)を擁立して一気に新しい体制へ移行したいと考えても不思議ではない。
 

慶応2年(1866)12月5日、徳川慶喜に第15代将軍を宣下して1週間後疱瘡を発病し、
25日「容態急変で崩御」となっている。
明治と改元される1年前、35五歳の若さだった。
あまりにも急な崩御のため倒幕派による毒殺の嫌疑もかけられた。
また厠から出た天皇が下から槍で刺殺されたという噂も当時ささやかれたが、
例によっての決まり文句、真相は闇の中、である。

孝明天皇の崩御直後、天皇の信任厚かった将軍・家茂も急死した。家茂急死も暗殺だったと言う説もある。

<孝明天皇暗殺説>

 犯人は岩倉具視とする説がもっとも有力である。
 実際に毒物を投与したのは、孝明天皇の妾で、岩倉の姉(異母姉)だった堀河紀子だと言われる。
 
 岩倉具視の孫で16歳になっていた具定(ともさだ)も、天皇の近侍だったので下手人の可能性は大とされる。
 孝明天皇の死を巡っては当時も現代でも論議されており、前述したように真相は誰にもわからない。
 
 検死した医師の記録は宮内庁編纂の「孝明天皇記」にも記載がないと言う。

http://inoues.net/yamataikoku/tenno/koumei_ryo.html

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 維新はいくつかの重要な山場を通りすぎながら達成されていく。それは、日米修好通商条約調印(1858年6月)、安政の大獄
 (1859年10月)、桜田門外の変(1860年3月)、生麦事件(1862年8月)、イギリス艦隊鹿児島砲撃(1863年7月)、英米仏蘭
 連合艦隊下関砲撃(1864年8月)、大政奉還(1867年10月)、江戸開城(1868年4月)、榎本武揚五稜郭で降伏(1869年5月)
 廃藩置県(1872年7月)と続く歴史の節目である。
 
 1871年7月14日、三条実美右大臣、岩倉具視、西郷隆盛(薩摩)、木戸孝充(長州)、板垣退助(土佐)、大隈重信(佐賀)を
 参議とする明治政府が創設される。同年10月、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文ら一行が欧米に派遣され、政府はいわゆる
 薩長土肥の藩閥でかためられ、西郷は明治政府の中枢を占めることになった。
 
 明治元年(1867年)政府は江戸時代より尊敬の念で交流していた李氏朝鮮に対し、王政復古を通告、国交を迫ったが、欧米の
 侵略に対し警戒心を抱く朝鮮政府は排外攘夷政策をとり、鎖国主義を続けた。
 
 このため、朝鮮政策をめぐる明治政府の意見は激昂した。西郷は征韓論については一言も発言していない。むしろ西郷は釜山に
 赴き、解決を望んでいたのであった。明治政府は西郷の意見をとり入れ、三条実美より天皇にその旨上奏文を提出、裁可を得る
 手はずになっていた。しかし、明治6年(1873年)9月、岩倉具視一行が帰朝してから事態は一変する。
 
 岩倉、大久保らの激しい反対に会い、閣議は紛糾、一時大久保らは辞任の騒ぎを起こした。しかし三条は予定通りに上奏文を
 陛下に奏上する決定を下す。ところが三条は突然死(謎の死)をとげる。
 【孝明天皇暗殺に続いて三条実美の暗殺=岩倉具視】
 
 岩倉は三条に代わり、太政大臣に就任、上奏書を改ざんして天皇に閣議決定とは全く別の裁可を得る。この一大ドンデン返しに
 より、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らは敗退、野に下る。
 
 朝鮮政府との平和、友好関係を唱えた西郷らが、後に事実とは全く逆の強硬な征韓論者とされたのは、歴史の謎である。
 むしろ、岩倉具視、大久保利通、木戸孝充らの方が対朝鮮主戦論者であったと見るべきだろう。
 
 彼らは欧米中にフリーメーソンに入社した可能性が高く、西欧的植民地・帝国主義路線に洗脳されていたはずである。
 つまり、「脱亜入欧」は、彼らを中心とするその後の主流派によってダイナミックに推進されており、明治政府の基本
 方針となっている。
 
 事実、西郷追放後の明治8年(1876年)2月には、ついに修好条約を締結するなど、その後の朝鮮支配への足がかりを作っていく。
 
 1906年には韓国統監府が開庁、初代総監は伊藤博文であった。
 伊藤はその後、朝鮮独立運動家安重根により1909年10月中国のハルピンで狙撃され死亡。さらに1910年8月には日韓併合と日本は
 朝鮮半島を拠点に大陸侵攻へと突き進んでいく。
 
 西郷は下野後、故郷の鹿児島で私学校を開き、子弟の教育に努めた。しかし、西郷を師と仰ぐ全国の不平士族は明治政府と対決。
 ついに明治10年(1877年)2月、3万人の兵をもって武装決起し、西南の役が勃発した。
 
 だが大久保利通を中心とした政府軍6万の鎮台兵に討たれ、故郷の城山で自刃、命を絶った。
 上野の森の西郷隆盛の銅像はあまりにも有名であるが、今も日本人が西郷隆盛を慕ってやまないのは、その生き様、清廉な人柄の
 せいでもあるだろうが、その他に陰謀ひしめく明治の権力闘争の中で敗れ、朝敵の汚名をかぶらせられた西郷に対し、一抹の
 うしろめたさもあるのだろう。
 
 その後の日本は、西欧追隋、富国強兵、帝国主義、植民地主義、軍国主義への道をまっしぐらに突き進み、太平洋戦争を迎える。
 しかし、ここでも日本の中枢には親英米派が巣食い、戦前、戦中、戦後を指導していたことは明らかである。
 
             
  世界支配のプログラム 
 最後の強敵 ■日本を撃て  ヤコブ・モルガン 忍野昭太郎/訳   第1企画出版 1993年発行
    
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