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Re: 帝国陸軍の兵器開発について
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/324.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 11 月 02 日 02:39:07:0iYhrg5rK5QpI

(回答先: 帝国陸軍の兵器開発について 投稿者 書記長 日時 2003 年 11 月 01 日 18:18:52)

>沖縄戦あたりでは日本戦車でも結構装甲や砲力が高水準なものが出てきていますし、
>本土決戦用の戦車のなかには欧米のものと比べても遜色のないものが用意してあっ
>たと記憶しています。

書記長さん今晩は。

私はノモンハンが、第二次大戦の前哨戦であったこと、これに日本軍が大敗を喫したことと歴史では教わっております。日本軍は戦車を失い、航空機を失い、最後はソ連軍戦車に対してモロゾフや地雷を抱えた肉弾攻撃だった由、生き残りのかたから聞いております。生き残りだったから武勇伝にも聞こえましたが、日本軍(関東軍)の自信過剰が敗北の原因だと言われてました。

ただ、私が関心を持ったのは、記憶している限り沖縄で高水準で欧米のものと比べても遜色のない戦車が事実として投入されたかどうかということです。

もし事実としてあったのならば、何両、どこで、いつ展開されたのかその戦闘の様子はいかようであったか、どのような戦果を挙げたのかお知らせいただきたいと思います。

沖縄戦のはじまりは1945年の3月23日の米軍の艦砲射撃から開始されたのであり、6月23日ごろまでの期間を言います。日本軍はすでに制空権も制海権も失っていま対した。そんな中沖縄の守りを固めるために持ち込んだのでしょうが、本土から沖縄へどうやってああいう戦車を移動させたのか知りたいと思います。元来沖縄の守りは、「本土決戦」に従属するもので沖縄が本土を守るために捨石にされたことを考えると、「高価な」戦車を投入してまで守ろうとしたのかどうか。
私には疑問に思えます。

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(参考資料)
太平洋戦争開始から沖縄戦前夜まで
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennokeika/taiheiyousensoukara.html

沖縄戦から敗戦・米軍支配へ
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennokeika/okinawasen.html

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(参考資料)

http://www.m-t-o.co.jp/gakudou.html
第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲(昭和19年8月21日〜19年10月30日)

昭和19年8月21日
7月19日学童疎開に関する通達が出された。
疎開の対象は、国民学校初等科第3学年から第6学年までの男子希望者を原則とし、初等科第1、第2学年のものも心身の発達十分で付き添いがいらないと認められたものは許可するとなっており、児童40名に対し1名の割合で教員を付することとされた。
疎開学童約700名は一般疎開者約1000名とともに対馬丸(6754トン)に乗船し、曙空丸、和浦丸と共に8月21日午後6時35分に那覇を出発した。
護衛には駆逐艦 蓮、砲艦 宇治が当たった。

8月22日、午後10時15分頃、鹿児島の南西約260km悪石島北西方で対馬丸は米潜水艦の雷撃を受け沈没した。護衛艦蓮は直ちに爆雷攻撃を加えたが効果は不明。
遭難被害は学童死者約640名、生存者59名。
一般死者約830名、生存者168名。であった。
疎開輸送は延べ187隻におよんだが海上における犠牲は対馬丸1隻だけであった。

(中略)

昭和19年10月10日
0640時から1600時まで奄美大島以南の南西諸島の主要な島々を空襲。

沖縄本島
第1次:0640〜0820、延約240機:飛行場に来襲
第2次:0920〜1015、延約220機:船舶および飛行場に来襲
第3次:1145〜1230、延約140:機那覇、渡久地、名護、運天港、与那原、泡瀬などの港湾施設に空襲
第4次:1240〜1340、延約130機:那覇市集中攻撃
第5次:1445〜1545、延約170機:那覇市集中攻撃
大東島
1355〜1550:18機:漁船、飛行場
奄美大島
0745〜1607:延約50〜60機:古仁屋、名瀬を爆撃
徳之島
1450〜1500:延約50機:飛行場
宮古島
0730〜1335:延約32機:海軍飛行場および船舶
石垣島
0835〜0910:8機

被害状況
日本軍
戦死:218名(第32軍136名海軍82名)
戦傷:243名(第32軍227名海軍16名)
民間
死亡:330名(内那覇255名)
負傷:455名(内那覇358名)
全焼、全壊:11451(内那覇11010)

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(参考資料)
第5部 特別攻撃隊と学徒動員(昭和19年10月25日〜20年3月31日)
http://www.m-t-o.co.jp/totukou.html

(中略)
昭和20年2月21日
神風特攻第2御楯隊:彗星12機、天山8機:直掩、零戦12機:香取発:大尉 村川弘指揮官
沈 没:護衛空母ビスマ-ク.シ-
大損害:正規空母サラトガ、防潜網輸送艦キ-アカック
損 害:護衛空母ルンガ.ポイント、戦車揚陸艦477号、戦車揚陸艦809号

疎開の状況
現地32軍は非戦闘員の全員疎開が希望で、計画は10万人であつた。
県外疎開:
19年7月から20年3月上旬にかけて沖縄島、宮古島、石垣島から県外に疎開が行われた。
九州以北に60,000人。台湾には那覇を中心に2,000人と宮古、石垣から約20,000以上。

沖縄島内の疎開:
1,60才以上の老人及び国民学校以下の小児を20年3月末までに疎開させる。軍は北行する空車および機帆船をもって疎開を援助する。
2,その他の非戦闘員は戦闘開始必至と判断する時機に軍の指示により一挙に北部に疎開する。
20年3月中旬までに約3万人が北部の国頭に疎開した。
県当局は国頭疎開のため、国頭の各村に収容割り当てを行い、設営班を設け避難者の小屋作りを実施し、食料の集積を行つた。
20年3月24日の沖縄本島が艦砲射撃を受けてから、南部から国頭への避難が米軍上陸前夜まで続き、軍の作戦行動と交錯し道路上の混雑が甚だしかった。
しかし、多くの者が南部地区に残留し、戦闘の渦中にまきこまれ多大の犠牲者を生じた。

昭和20年3月1日
米軍沖縄本島空襲
第一波:0704〜0810時:延べ約150機:那覇港船舶および中、北飛行場を急降下爆撃
第二波:0810〜0900時:延べ約160機:船舶、飛行場および対空火器陣地攻撃
第三波:0900〜1010時:延べ約60機:第二波と同じ
第四波:1010〜11020時:延べ約80機:船舶、飛行場を攻撃
第五波:11200〜1230時:延べ約70機:船舶、飛行場を攻撃、那覇在泊の駆逐艦沈没。
第六波:1230〜1330時:延べ約70機:渡具知海上の帰帆船を攻撃
第七波:13300〜1500時:延べ約65機:対空火器陣地船舶、北飛行場および部落を攻撃

戦闘の焦点となつた、沖縄第62師団長本郷義雄は満州の関東防衛軍司令官に転出。後任は華北の独立混成第9旅団長藤岡武夫中将、歩兵第22聯隊長吉田中佐の着任は米軍上陸の14日前であり、部隊の掌握、地形の認識などきわめて不十分のまま戦闘に突入していった。
 (中略)

昭和20年3月23日
南西諸島全域に空襲警報発令。
沖縄本島地区:米艦載機355機攻撃
先島方面:米艦載機46機攻撃
大東島地区:米艦載機49機攻撃
奄美地区:米艦載機27機攻撃
1030時:沖縄本島南東90km付近に空母を含む機動部隊発見

第5基地航空部隊の陸攻7機が台湾から比島を攻撃した。

昭和20年3月24日
0625時:沖縄本島南部の沖合いに米艦艇を目視。
0650時:来襲:延べ約600機
0900時;南部地区に艦砲射撃約700発
1750時頃南進し視界外に去った。

高射砲部隊を各兵団に配置し、対艦砲、対空戦闘、対上陸作戦を準備した。
1204潜水艦部隊に対し回天搭載の潜水艦を沖縄近海に伏勢させることを命じた。
第5航空司令官宇垣中将は天山隊(艦上攻撃機)に攻撃を命じた。
第1航空指令官大西中将は銀河(陸上爆撃機)に攻撃を命じた。
天山7機彗星2機が沖縄周辺の米機動部隊を攻撃した。

学徒隊編成 19年12月、軍は沖縄作戦に備えるため、県当局と中等学校生徒の戦力化について協議し、次ぎのように決定した。
1,敵が沖縄に上陸した場合に備えるため、中学下級生に対して通信訓練を、女学校上級生に対して看護婦訓練を実施する。
2,学徒通信隊、学徒看護婦の動員は、沖縄が戦場となり全県民が動員されるときであり、身分を軍人及び軍属として取り扱う。

20年1月から適性検査に合格したものに通信教育、女子生徒には看護教育が開始された。
師範学校および中学上級生は学徒隊を編成して各部隊に配属されて戦闘に従事するように準備された。

3月24日、沖縄に艦砲射撃が開始されるに及んで、計画に従つて各隊に配属され逐次入隊した。

男子学徒
沖縄師範学校:第32軍指令部.第2野戦築城隊:総員358名:死亡217名:職員死亡19名
県立第1中学校:第5砲兵指令部、独立測地第1中隊、野戦重砲第1聯隊、独立重砲第百大隊、独立工兵第66大隊:総員398名:死亡193名:職員死亡20名
県立第2中学校:独立混成第44旅団第2歩兵隊、第62師団通信隊:総員140名:死亡102名:職員死亡7名
県立第3中学校:独立混成第44旅団第2歩兵隊、第3遊撃隊:総員363名:死亡35名:職員死亡2名
那覇市立商業学校:独立混成第44旅団通信班、独立歩兵第22大隊:総員82名:死亡59名
県立水産学校:電信第36聯隊、第4遊撃隊:総員49名:死亡22名:職員死亡7名
県立農林学校:第44飛行場大隊:総員170名:死亡32名
県立工業学校:第5砲兵指令部(通信)、沖縄憲兵隊:総員78名:死亡70名
県立八重山中学校:独立混成第45旅団指令部;総員20名:死亡1名

男子学徒は鐵血勤皇隊と命名され、指令部、通信部隊、砲兵隊、工兵隊、飛行場大隊、築城隊、歩兵部隊、遊撃隊など各種部隊に配属されて各種の業務に服した。若さと地理に明るいことは伝令、偵察などnほか斬込み案内などに特性を発揮した。
戦況不利になり兵員の損耗の増加に伴い、斬込隊、戦車に対する肉迫攻撃など決死の奮戦力闘した。

女子学徒
沖縄師範学校:沖縄陸軍病院:総員120名:死亡103名:職員死亡7名
県立第1高等女学校:沖縄陸軍病院:総員200名:死亡64名:職員死亡8名
県立第2高等女学校:第24師団第1野戦病院:総員65名:死亡25名:職員死亡11名
県立第3高等女学校:沖縄陸軍病院(分院):総員10名:死亡1名
県立首里高等女学校:第62師団野戦病院:総員83名:死亡40名
私立積徳高等女学校:第24師団第2野戦病院:総員25名:死亡6名:職員死亡5名
私立昭和高等女学校:第62師団野戦病院:総員40名:死亡10名:職員死亡5名

女子学生の大部分は看護婦としての業務に従事し、傷病者の増加に伴い業務は多忙となり、1名の学徒看護婦が30名の重傷患者の看護にあたるという状態で逐次死傷者もでた。
首里戦線から南部への後退時においてよく患者を助け決死献身の努力をした。
各病院は6月20日ころ解散し、自由行動となり、学徒達はあるいは国頭への突破を企図し、あるいは自決を撰び多大の犠牲者を出した。

昭和20年3月25日
0545時から沖縄本島に来襲、延べ515機。
1400時ころ米艦艇は4群で44隻。艦砲射撃約200発。
糸満の西方海域を掃海中の状況が目視された。
北、中飛行場確保の為、台湾から沖縄に派遣する独立混成第32聯隊は基隆に集結していたが沖縄が23日空襲、24日艦砲射撃を受け輸送不可能な状態となったため、聯隊の派遣を中止した。

第1機動基地航空部隊は艦爆2機、艦攻7機で米機動部隊を攻撃した。
第5機動基地航空部隊は艦爆5機、陸爆4機で米機動部隊を攻撃した。

昭和20年3月26日
米艦艇の艦砲射撃(戦艦6隻、駆逐艦38隻、輸送船12隻、その他12隻目視された)
0800〜1100:北飛行場地区:60発
1200〜1340:湊川、知念岬:550発
1340:那覇南方:10発
伊江島、久米島も艦砲射撃を受けた。

艦載機の攻撃は沖縄本島713機、宮古島79機、大東島94機、奄美地区120機。
九州地区にはB-29約150機が来襲した。

聯合艦隊指令長官は「天1号作戦」を発動した。

第1機動基地航空部隊は黎明、艦爆10機、陸爆7機で薄暮には、陸軍重爆16機、陸爆8機、艦攻機で米機動部隊を攻撃した。
第5機動基地航空部隊は月光2機で慶良間列島の米機動部隊を攻撃した。

昭和20年3月27日
米艦艇の艦砲射撃(約1000隻目視された)、英機動部隊確認された。
残波岬〜平安山区:約600発
小祿〜喜屋武地区:約25発
摩文仁〜知念地区:約350発
大東島、久米島も艦砲射撃を受けた
艦載機の攻撃は沖縄本島500機、奄美地区300機。
九州地区にはB-29約150機が来襲した。関門海峡に機雷を投下した。
夜間北九州にB-29約70機が来襲した。

蛟龍隊の出撃
第27魚雷艇隊:10隻:本部半島、運天港:大尉 白石信次郎指揮官
巡洋艦2隻、駆逐艦1隻轟沈

神風特攻第二菊水彗星隊:彗星12機:喜界島発:少尉 佐藤一義指揮官
神風特攻第一銀河隊:銀河7機:宮崎発:中尉 高橋惣吉指揮官
陸軍特攻誠第32飛行隊:九九襲9機:沖縄中発:中尉 広森達郎指揮官
陸軍特攻赤心隊:九九軍偵2機:沖縄中:軍曹 谷川広士指揮官
大損害:戦艦ネバタ、駆逐艦キンバリ-、駆逐艦オブライエン、中型揚陸姦88号
損 害:戦艦テネシ-、軽巡ビロクシ-、駆逐艦カラハン、駆逐艦ポ-タ-フィルド、輸送駆逐艦ニュ-ドスン、輸送駆逐艦ギルマ-、護衛駆逐艦フォァマン、敷設駆逐艦ロバ-ト.H.スミス、敷設駆逐艦サウザ-ト、掃海駆逐艦ド-シィ

昭和20年3月28日
沖縄本島への来襲機は約550機で艦砲射撃は2046発であった。
南九州地区の航空基地が200機で空襲された。
那覇南方150kmに空母4隻を含む輸送船100隻の大船団が現れた。

第24師団は湊川方面に敵が上陸する見込みとして、上陸軍撃滅の命令を出した。
第24師団は南部海岸に地雷を設置した。

蛟龍隊の出撃
海上挺身第二戦隊第一中隊:4隻:慶留間:少尉 大下真男指揮官
駆逐艦1隻轟沈、大型輸送船2隻大破

第5機動基地航空部隊は夜、陸爆3機、月光4機、艦攻3機、水上爆撃機5機で沖縄周辺の米機動部隊を攻撃した。
第6航空軍は重爆10機で出撃した。
第8飛行師団は台湾から爆撃4機、軍偵特攻3機と中飛行場から軍偵特攻4機を出撃させた。

昭和20年3月29日
沖縄本島への来襲機は約350機。
艦砲射撃は北飛行場地区2500発、中飛行場地区800発、北谷地区1500発、小祿地区1000 発、湊川方面1300発であった。
沖縄本島周辺の敵艦船800隻であった。
九州地区は終日、敵艦載機600機の攻撃を受けた。

蛟龍隊の出撃
海上挺身第29戦隊第一中隊:17隻:沖縄、北谷:少尉 中川康敏指揮官
中型船1隻轟沈、不詳船2隻撃破

機雷施設状況
石垣島、宮古島:九三式機雷各200個:深度2m
沖縄島:九三式機雷各700個:深度2m

第1機動基地航空部隊は、彗星4機、陸爆11機、陸軍重爆15機、天山4機で米機動部隊を攻撃した。
制腔直掩機は104機であった。
第6航空軍は18機が出撃した。
第8飛行師団は台湾から軍偵爆撃2機と中飛行場から特攻5機を出撃させた。

昭和20年3月30日
沖縄本島への来襲機は約350機。
米軍艦砲射撃の主火力は北飛行場以南の西海岸、一部は湊川方面であった。
湊川方面で上陸用舟艇12隻が海岸状況を綿密に偵察した。

米軍上陸まで兵力の配置を隠すため、敵艦船に対する射撃を厳禁していたが、砲兵中隊を遊動砲兵とし、適時陣地を移動しつつ夜間米艦隊を急襲射撃するように命じた。
北、中飛行場の滑走路の破壊を命じた。

魚雷艇隊基地(本部半島、運天港)は200機以上の空襲をうけ、31日も空襲され機能を無くした。
第5基地航空部隊は水上爆撃機5機が沖縄周辺の艦艇を攻撃した。
第1機動基地航空部隊は陸爆8機、重爆12機、天山21機、戦闘機6機で艦船を攻撃した。
第8飛行師団は徳之島から特攻5機、台湾から2機を出撃した。

昭和20年3月31日
0800時、那覇西方10km神山島に米軍上陸開始。(日本軍配兵なし)
夕刻、神山島に重砲陣地を構築し、沖縄本島に対し射撃を開始した。

艦載機の攻撃は沖縄本島700機、宮古島、石垣島50機、奄美地区140機。
九州地区にはB-29約150機が来襲した。

艦砲射撃は北、中飛行場方面500発、北谷方面100発、湊川方面110発であった。

陸軍特攻誠第39飛行隊:一式戦5機:徳之島発:大尉 笹川勉指揮官
大損害:重巡インディアナポリス、機雷敷設艦アダムス
損 害:戦車揚陸艦724号

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(参考資料)

第6部 米軍沖縄本島に上陸(昭和20年4月1日〜20年4月4日)
昭和20年4月1日
本島周辺には、輸送船以上の大型艦船300隻以上、嘉手納沖には大小艦船が充満していた。
0720時の状況
敵は嘉手納(中飛行場北西:渡具知海岸)にLST(戦車揚陸船)大150隻、小60隻、輸送船20隻。
湊川にLST大30隻、小70隻、輸送船20隻で接岸しつつありと報告された。

3月下旬の沖縄本島の戦力概要
陸軍兵力:約86,400名
陸軍弾薬:歩兵弾薬0,6会戦分、砲兵弾薬0,8会戦分
陸軍糧秣:3月10日現在約9カ月分
海軍兵力:約10,000名
砲台(各種火砲約25門)噴進砲約20門、迫撃砲約50門、各種機関銃約300。

米軍からみた沖縄本島の戦力
陸海軍兵力:53,000〜56,000名
砲;70cm以上の砲198門
戦車搭載砲および対戦車砲(37〜47mm):約100門
戦車聯隊:軽戦車および中戦車:90台
250mmロケット砲および迫撃砲がある

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(参考資料)
第7部 戦艦大和の特攻出撃(昭和20年4月5日〜20年4月9日)------この項略
http://www.m-t-o.co.jp/yamato.html
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(参考資料)

第9部 沖縄本島の戦い(5月)(昭和20年5月3日〜20年5月31日)------この項略
http://www.m-t-o.co.jp/okinawa.html

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(参考資料)

第10部 終 戦(昭和20年6月1日〜20年9月2日)
http://www.m-t-o.co.jp/owari.html

(前略)
昭和20年6月6日
0600時から米軍機は活発になり、那覇沖から艦砲射撃も激烈になり、小禄西側、金城、赤嶺付近では激戦が続いた。赤嶺の陣地では米軍の馬乗り攻撃をうけ戦況は切迫した。
夕方、海軍部隊大田司令官は「戦況は切迫せり、小官の報告は本電を以て此処にひとまず終止符をうつべき時期に到達したものと判断する、御了承ありたし」と電報した。


身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも
守り遂ぐべし大和島根は


海軍部隊大田司令官は夜、沖縄県民の献身的作戦協力について海軍次官宛に次ぎのように電報した。
沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し県民に関してはほとんど顧みる暇なかりき。然れども本職の知る範囲においては県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難し、砲爆撃下風雨に曝せれつつ乏しき生活に甘んじありたり。
しかも、若き婦人は率先軍に身を捧げ看護婦、炊事婦はもとより砲弾運び挺身斬込み隊すら申し出るものあり。
所詮敵来たりなば、老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしと親子生別れ娘を軍衛門に捨てる親あり。
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷者を助けて真面目にして一時の感情に駆せられたるものと思われず。更に軍に於いて作戦の大転換あるや自給自足、夜中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無のもの黙々として雨中を移動するあり。之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来始終一貫勤労奉仕物質節約を強要せられて御奉公の---を胸に抱きつつ遂に---ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形---一木一草焦土と化せん。
糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂う。沖縄県民かく戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを。

(中略)

昭和20年6月11日
小禄海軍部隊;夜、敵戦車群は我が指令部洞窟を攻撃中、根拠地部隊2330時玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈ると電報した。
海軍部隊大田司令官は13日0100時司令部壕内で自決した。

具志頭、安里付近は11日も米軍の猛攻をうけ、玻名城東方の91高地頂上付近は米軍に占領され、玻名城部落、安里北部断崖に続く主要陣地を辛うじて保持した。
具志頭陣地は夜総員斬込みを敢行しほとんど戦死した。

米軍は牛島軍司令官に降伏勧告を行い、米軍代表は11日午後糸満の高地で日本軍の軍使を待っていた。

(中略)

昭和20年6月19日
牛島軍司令官の軍命令
全軍将兵の3ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり、然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命且夕に迫る。既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり、爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし。

昭和20年6月20日
摩文仁、新垣、真栄平を中心とする地区で戦闘が激烈であった。

昭和20年6月21日
神風特攻菊水第二白菊隊:白菊8機:鹿島発:中尉 古賀一義指揮官
神風特攻徳島第四白菊隊:白菊8機:串良発:中尉 井上国平指揮官
神風特攻第12航戦水偵隊:白菊8機:指宿発:中尉 野路井正造指揮官
陸軍特攻第26振武隊:四式戦8機:都城東発:中尉 相良釟郎指揮官

沈 没:中型揚陸艦59号、駆逐艦バリ
大損害(終戦まで復帰不能):水上機母艦カ-チス
損 害:護衛駆逐艦ハロラン、水上機母艦ケネス.ホワイティング

昭和20年6月23日
午前4時30分:牛島軍指令官、長参謀長は自決した。

菊水10号作戦
第十神風特攻神雷桜花隊:桜花6機:鹿屋発:中尉 藤崎俊英指揮官
第十神風特攻神雷桜花隊:陸攻6機:鹿屋発:中尉 伊藤正一指揮官
神風特攻第一神雷爆撃隊:爆装戦闘機8機:鹿屋発:中尉 川口光男指揮官
陸軍特攻第27振武隊:四式戦6機:都城東発:中尉 川村勝指揮官
陸軍特攻第179振武隊:四式戦5機:都城東発:中尉 金丸享指揮官

損 害:掃海駆逐艦エリソン

6月23日で各部隊に組織ある戦闘は終了した。
しかし、小部隊ごとに洞窟陣地によって各個の戦闘が続き、海岸の断崖に散在する洞窟には一般の住民と残存将兵が相当数潜伏していた。
米軍は降伏を呼びかけるとともに掃蕩作戦を続けた。
残存将兵の相当数は国頭地区への突破を計画して、中央地区または東西両海岸線を北上し米軍の警戒網にかかり多くの将兵が戦死した。
夜間斬込みを実施した部隊もあり、自決者も多数いた。
降伏を承知せず洞窟に立てこもり終戦時まで戦争を継続した部隊や降伏する将兵もいた。
米軍は一般住民に対し知念半島方面への移動を勧告した。
終戦時、日本軍将兵は国頭地区、中頭地区、島尻地区の全島に散在しており、終戦後収容された将兵は数千名に達した。

沖縄戦で日本軍の戦死者約6万5千名、一般住民の死亡は約10万名と云われている。

昭和19年12月31日現在:沖縄本島人口は492,128人(男219,786人、女272,342人)


(以下略)

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