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本を投げたのはお行儀が悪かったです
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投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 12 月 05 日 18:37:55:xnvpUXgHxuDw6

(回答先: 本を投げるとき-すみちゃんへ 投稿者 愚民党 日時 2003 年 12 月 04 日 05:41:08)

愚民党さん。 レスありがとうございます。

自由に思いつきを書かせていただきます。


(「本を投げる」切断する時間が舞踏の始まりだと自分は演出家から教えられました。
表現様式は演出家によって、それぞれ違うのですが、
舞踏者が「物語」をもって、おどりますと、内向が、お客様に意味付けされてしまいます。
ダンスを見に来るお客様は、舞踏者と空間の波動をみにくるわけです。
舞踏者の内面などは、あってほしくないわけです。
何故なら舞踏者はお客様の想像力が入る身体の器だからです。)


私は芸術家ではないので、あまり自信がないのですが、
なるほどそういうものかと思いました。
「ウツ−ワ」というのは不思議な言葉だと感じます。
「ウツ」は空虚。カラッポ。 しかし、とそこには「ワ」が充満している。
それは「和」であり、「環」であり、「輪」であり、「円」であり、「弦」である何物か。
自らの形を見いだす以前の空間に渦巻くエネルギーのごときものか。
エネルギーは固有の振動を有し、
自らの形態をこの世に表そうと渦巻いている。


(すみちゃんがぱーんと本を投げ出す瞬間は舞踏的時間です。
舞踏の時間はスライスされた瞬間の時間を、
かろうじて舞踏者の身体が接続しているという断面の非連続として構成されています。
舞踏者はその瞬間そしてつぎの瞬間
猿になったり、犬になったり、蛇になったり、仏になったり、赤ちゃんなったり、馬になったり、草になったり
魚になったり、非連続的に憑依していくわけです。
また舞踏者は、おのれをかろうじて立たせてくれる光景と風景と情景(舞踏者が没入すべきイメージ母体)を、
非連続として表出していきます。)


(おのれの脳から出力したイメージ母体におのれの身体を没入させていく行為です。
01,01,01、と組み立てて行く作業はダジタルと類似しています。
このイメージ作業がないと身体の器になれず、お客様は舞台から引いてしまいます。
何故ならお客様とは舞台を切り取る映像カメラのアングルであり、カメラマンだからです。)


(演出家の存在理由とはお客様のかわりとして、稽古場にいることです。
演出家が稽古で作業しているのは、「お客様からどう見えるのか」この思考です。
お客様の立場で思考する、それが演出家の空間想像力です。)


これはもう私が何か言えるようなお言葉ではないですね。
実践者の凄味があります。

私もピアノとクラシックギターを10台までやっておりましたが、
20歳過ぎからは、とてもそれどころではなかったですね。
私は楽譜を見るのが嫌いで、暗譜してから楽曲の練習を始めていました。


(薪能は神社とか寺院の境内での野外舞台で、能と狂言が演じられますが
あれこそ宇宙惑星そして星雲との応答関係にあると思います。
お客様が、地球そして宇宙そして演者による過去の死者たちの時間と対話する宴こそ薪能かもしれません。
装置としたしましては、シンプルの極意です。ただ演者の衣裳はすごいです。

佐渡は芸能の島と呼ばれておりますが、能をやっている人は衣裳代で財産をつぶすと聞いたことがあります。

能と狂言そして歌舞伎また日本舞踊は幼少児から、意味ではなく、形としての器(所作)の習得から訓練していきますが
それが日本伝統芸能の強さであると思います。

浄瑠璃の謡でも高齢になればなるほど芸が豊かになると聞いたことがあります。
三味線のバチが持てるまで、耳その聴音能力があるまで、芸を追及していく死生観は、すごい迫力です。)


私は芸能にはうといので、
なるほどそういうものかと、うなづくことしかできませんが。
「カタ−チ」という言葉も意味がありそうです(これも縄文語か?)。
「カタチ」は形式ではなく、
正式の後ろに渦巻いている、人間にとって絶対に必要な最も大事なモノを表しているように思えます。
チは「血」であり、「父」であるような何者か。
それを型とっていく所作。


(自分が演劇の演出家から教えていただいたのは
「わからなくなったら、中世にもどれ」でした。

三島由紀夫の戯曲は近代演劇の要素が濃いと思います。
三島由紀夫を強烈に意識していた寺山修司が表現装置としてめざしたのは、「近代」をいかにはずして行くか、
だったのではないかと思います。)


すいません。 三島由紀夫の主要小説、評論はすべて読んでおりますが、
実は戯曲をまったく読んでおりません(読むものなのでしょうか?)
「近代能楽集」「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」とかの題名しか存じません。

三島由紀夫さんは、異様に先鋭な批評家であり、近代精神の塊のように思えました。
おそらく批評家として(文明批評家としても)大成できる方だったのではないかと思います。


(自分は、三島由紀夫をめぐる対話をえまして
「豊饒の海」は三島由紀夫がインド的宇宙に打倒されてきたと、長らく思いこんでいた観点をいま修正できます。

三島由紀夫は情熱をもってインド的宇宙と仏教的世界に、からだごと飛びこんだのだと思います。)


三島がインド的宇宙に打倒されたなんていうことは絶対ないですよ。
「豊穣の海」第3部には長々と唯識論が続きますが、
これも手品のシカケのネタであり、小説的な必然の流れに沿ったものです。
完全に小説の一部をなしています。
これを小説から切り離して読むことは妥当ではありません。
この小説家は、インド的世界を、小説内で「使えている」と思います。

この小説は壮大な冗談です。
もちろん冗談だから駄目だと言っているわけではありません。
生命をかけた、決死の、大真面目の冗談ですね。
なんでこういうことになるかと言うと、この人が一流の批評家だったからだと思います。
頭の良すぎる人が小説を書くと、往々にしてこういうことになります。
この批評性が唯識論の現実批判性と出会っているように見えます。

この人にとって戦後世界って、無きに等しい幻影だったのではないでしょうか?
その幻影の感覚も、小説的唯識論とぴったり合致しています。
ある意味で見事な表現になっていると思います。


しかし聡子は良くないですねえ。
清顕との船の中の一夜を忘れてはいけません。
この終わり方はやはりねえ。
「美しい星」をお読みになったことはございますか?
やはり終り方がメチャメチャなんですよ。
残念ながら、ひどい小説になってしまっています。
ここには相変わらず疑念を持っております。


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