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カバラ神秘主義を離散数学で乗り越える
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投稿者 きゃべ爺 日時 2003 年 11 月 18 日 09:13:42:jfzS9MOte8/0k

(回答先: ちゃめ爺えずら爺さまに会いに行く 投稿者 ちゃめ爺 日時 2003 年 11 月 15 日 21:27:06)

ちゃめ爺さま,えずら爺にお会いになれたのはたいへん結構でした.

> きゃべ爺さま、面白い手掛かりを下すってかたじけないことですじゃ。
> しかしまぁ、諸方の方々への答えの宿題もたっぷり蓄えこんじまっておって、そこにえずら爺さまの事、A+B=海老?たらいう定理の事まで抱え込んで…ワシの寿命までに答えられそうもない。なんまいだぶ、なんまいだぶ… ヽ(ー_ー )ノ  ←念仏踊り

ワシもそんな気がしてきたが,なんとか今日のことから遊離せず一歩でも前に進めんものかのぉ?

PS:今日のことについて今日書けないのは残念だが,ワシに取って'それ'はリアルな事実で
あるからして,もはや退却することも交代することもかなわぬ.貨幣はメディアであるなどと,
他愛もない思いつきを引っさげて舞台に登ったはいいが,袖の方で転落して気を失っておた.
新規の理論体系を構築するなどというのがいか程左様に難しいか,ほとほと思い知ったよ.
前の《共同的..》などは,単なる既存理論のアセンブリに過ぎんからのぉ...
身の程を知れ!か?はい.<(_ _)>

...それにしても,あんた踊りがうまいねぇ.こんど教えてもらお.

> やっぱりねぇ(あねさん:ぷち熟女さん風に、キセルを煙草盆のふちにカンと打ちつけて)そういう感じがします。

(爺:伏せ目にて)この把握はおそらく間違ってないと思われますな,
まだ向こうでも成案はできあがっていないとしても.(とあらぬ方)

> ベルナルド・リエター氏自身なにか非常に胡散臭いのですよ。ユング心理学をオカルト的に捻じ曲げて騙し(あるいは方便、これこそ金融の要?)に使っているようでした。後の方々のことはよく存じませんが。

<カバラ神秘主義を離散数学で乗り越える>という観点から論を進めてみよう.
前に経済学をグラフ理論的に説明するという約束をしたことがあると思うが,中々果たせなんだ.
ワシはつねづねグラフ理論を初等教育のカリキュラムに組み込むべきだと思っておるが,この板の
読者諸子にもあまりなじみがないかと思うて躊躇してきた.とまれぽちぽちとでも始めてみるかのぉ.

アリストテレスの論理学を小学何年生で教わるのかよく知らぬが,論理的思考がすべての言語活動
に先立って確立されていなくてはならないことは説明を要しないであろう.つまり,3段論法のような方
法の正当性が共有されていなければ,議論を一歩も進めることができないどころか,当たり前の会話
すらまともにできなくなる.しかし,我々はすでにそのような直列的な論理だけでは世界をうまく説明
できないことに気付き始めている.たとえば,複雑系のようなシステム的な思考が必要となってきた.
そのような思考の基礎がグラフ理論であるぞ.

グラフというのは,一言で言えば点を辺で結んだものじゃ.たとえば,三角形という図形は3点グラフ
と見ることができる.グラフ理論的に見れば,N多角形と円周上にN個の点を置いたものは等価じゃ.
辺には向きが与えられる場合もある.この場合には辺は図形的には→で示される.このようなグラフ
は有向グラフと呼ばれ,そうでないものを無向グラフと言う.グラフの点ないし辺に重みを付けたもの
を特にネットワークと呼ぶこともある.ワシの認識するところでは,グラフ理論とは関係に関係する学
問であるのだが,それはさておきそろそろ本論に進もう.

彼らは議論の中でしばしばprofound(深遠な)という言葉を使うことがあるが,この辺がどうも臭い.
つまり,韜晦な議論に巻き込み相手を煙に巻いてしまうという手口じゃな.仏法の方便というのもや
やそれに近いかもしれん.ワシのスタンスはむしろ単純なメビウスの輪で結界するというものじゃが...
方法論的に言うと,カバラ神秘主義を離散数学で乗り越えるといった感じではないかと思っておる.

この辺りを論じるにはどうしても,ゲーデルの不完全性定理に言及しないわけにはゆかない.
ゲーデルの不完全性定理は以前にもちょっと触れたことがあるが,一言で言えば「表現可能な
自然数論は無矛盾であれば不完全である.つまり,真であることも偽であることも証明できない
ような命題が存在する.」というもので,この命題が正しいことは数学的に完全に証明されておる.
 
直感的に言えば,十分大きく無矛盾な論理体系は不完全であるということになり,これはある意味
で人間は完全な知(真理)に到達できない,ないしそれを言表することができないという我々の無力
を確定するものである.仏法は無ないし空という項(0項)を導入することによって,この矛盾を吸収
しようとする試みと言ってもよいだろう.絶対神(G項)を立てるというユダヤ教の原理はこれを反転
したものであり,ヘーゲルの弁証法は運動論的(動態的)にこれを解決しようとする企てと見る.

ニーチェはイエスを歴史上最大の嘘つきと呼んでいるが,これは彼が「私は必ず来る」と言ってか
ら2000年近くを経ているにも関わらず,いまだにその約束を果たしていないという事実を裏づけと
する.(確かに弟子を教化するのに,「私は盗人のように来るから」いつも気をつけていなさいという
警告より効果的なものはなかったに違いない!)つまり,「汝の隣人を愛せ」という普遍的真理とし
ての<イエスの原理>は<最終審判>という虚構なしには完結し得ないと言い換えてもよい.
キルケゴールはこのパラドックスを十字架の背理と呼んでいる.

黙示録は予言の書ではなく,まったくの虚構(フィクション)ではないとしても,ノンフィクションと呼
ぶのもためらわれる類の,高々旧約の中に埋め込まれたさまざまな断片的記述の記憶をトリガ
ーとしてヨハネを襲った強烈な幻視・幻聴の経験を綴った記録(ドキュメント)に過ぎまい.新世界
秩序派はこれを台本としてその「予言」を文字通り成就し(でっち上げ)ようとしているのであるが.
(ウソから出たマコトとは,実に言い得て妙である...)

キリスト教徒がイエスの再臨を待ち望むようにユダヤ教徒はメシアを依然として待ち続けておる.
イスラエルの建国とその地へのユダヤ民族の帰還というプランは,地上におけるもっとも深刻な
争い,イスラエル・パレスチナ問題の種芋である.英米連合軍のイラク侵攻ももちろん,深層で
は深くこれに関わっている.明らかに言えることはその「時」が迫っているということだ.

我々日本人には,どうもこのようなことはほとんどピンとこないところがある.実際,日本人の中で
キリスト教徒は1%未満であるし,国内に在住するユダヤ人の数はかなり増加しているにしてもほ
とんど無視できる程度の小部分である.だが,あえて言えば,我々はすでに事実上第3次世界大
戦に入っているのではないか?(この認識を読者と共有できるかどうかは不明だが...)

私がここで主張しようとしているのは,次のようなことである.つまり,もしある十分大きな系が完
全なものであることを求めるとすれば,少なくとも1個のパラドックスがその系に含まれることを認
めなくてはならない.煎じつめれば我々は「パラドックスに強くならなくてはならない」というのが私
の立場である.しかし,このような<最終矛盾>としてのパラドックスと,虚偽ないし虚説(経過的
な矛盾と言い換えてもよかろう)は峻別されなくてはならぬ.

ここがおそらくはもっとも困難なところであるように見える.たとえば,法華経はこのような経過的
矛盾にかなり寛容であったかもしれない.(もし,「真理」を言表することができないのだとしたら,
方便によって説くしかない...)しかし,日が昇るたび毎に七色に変化するブッシュ政権の言い
逃れは真正の虚偽であり,どのようにも正当化することの出来ない種類のものである.

建前と本音の食い違いというのは日本文化の特徴的な様相であると言われる.この意味で我々
はかなり,経過的矛盾に対し寛容であるように思われる.一方,国際政治を含む政治過程にお
いては,ダブルスタンダードと呼ばれる明白な虚偽が頑強に存在している.次の例はどうか?

明らかに日本国憲法第9条戦力不保持の原則と自衛隊の存在は相容れない.誰の目から見て
もこれは矛盾であり,それを虚偽と呼ぶのは容易い.しかし,私はこれを我々が受容すべきパラ
ドックスとして再定立するしかないのではないか?と考えている.キルケゴールの言葉を再度引
用するなら,このパラドックスは我々(日本)の負った十字架である.これが私の護憲論者として
の立脚点であり,開始点である.これについては後でもう少し詳しく述べる機会があるだろう.

以上で,私の立場もいくらかはご理解いただけたのではないだろうか?つまり,韜晦(深遠)な議
論は胡散臭いというのが私の基本的な立場であり,スタンスである.もちろん,原理がどれほど
シンプルなものであっても,いやむしろ原理がシンプルであればあるほど,その適用面,展開過
程では複雑な事象が見出されることは避け難く,むしろであるからこそ複雑な事象が説明できる
ということが言えるのであるから,もとより一概に込み入った議論を排除するものではない.

> そのメディアとは何のメディアなのででありましょうか、霊体と読み直しても同じ“それ”は誠に凝り固まるのでありまするか。
> (ーー;

経済とは基本的に交換であり,交換は即コミュニケーションである.貨幣はこのようなコミュニ
ケーションの媒体,つまりメディアと考えられる.(お気付きのように私はコミュニケーションの
用語を最大限に拡張して使っている.たとえば,争,和,性,食,奪,愛,歌.これらはすべて
人間の行なうコミュニケーションという活動の一部である.)私は必ずしも三位一体論者ではな
いが,ここではとりあえず聖霊の凝り固まったものを神と理解し,同様に貨幣が集積して物神
に転化すると想像した.明らかに貨幣が物神に転化するためには,その流通する領域が相当
程度拡大している必要があるように思われる.これは「蓄積の量」に関わる.

蓄積されることがなければ,崇拝されることも起こらなかったはずであるから,「蓄積」は物神
化の基礎である.従って,それを所有する個人ではなく,貨幣そのものが崇拝されるという次
元に至るための条件は,その流通範囲がある限度を越えることが必要であるように思われる.
もちろん,どのような瑣末なオブジェクトについても「フェチ」のようなことは起こるのだから,
そこから立論するという立場もあるだろう.(マルクスはむしろそのように説明している.)

> 知的財産権の分野では「化体」という言葉があります。ある権利が物象や事象に内蔵されているとする(強引な)合意のようですが
> むしろこっちのいかがわしい論法の方が近いのでは…。

コミュニケーションという活動を人間のもっとも根源的ないし本然的な活動と考えるというのが
私の立場である.貨幣が他の物象と異なる著しい特徴は,それが抽象であると同時に具象で
もあるという点にあり,この意味で著作物と貨幣の距離はかなり近い.実際,著作物はコミュ
ニケーションの媒体以外の何物でもない.貨幣がある強制力をもって流通するためには法が
必要であり,その法を裏付ける強制力が必要であることは事実である.化体はもちろんその
ように仮託された観念であり,実体としての強制力を伴わなければ,ただちに化けの皮をはが
されてしまう類のものである.私がコミュニケーションという言葉から始めるのは,それが人間
にとって本然的なものであり,その発生にはなんら強制力を要しないという点にある.

社会分業論では分業の開始を人間にとってのある種の不幸と捉えている趣があるように感じ
られる.つまり,自給自足の生活において生活に必要な物資すべてを自作することのできる
万能人間のような存在が想定されており,そのような能力を失って社会的に部品化してゆく
過程が分業であると捉えられているのではないか?(ある種の原罪論のようにも思われる.
であるとすれば確かに原始的農耕生活に戻るのが理想であることになるのかもしれない.)

私はむしろ社会というのは,発足の当初から協調的なものであったはずだと考え,そのよう
な立論を展開する基礎としてコミュニケーションという概念を導入した.このような意味での
コミュニケーションはもちろん動物界にも植物界にも遍在するものである.

> きゃべ爺さまの新時代『化学』を成立させている鍵の定理、あるいは魔法の過程のひとつは、こういう形でも現われるのでは…。

確かに,貨幣論を解くということは「新化学」の一課題であると思います.(ここで代役に交代)

> 物質や数値情報は、積み重ねも合算もできますが、貨幣がメディアとして働くおおもとの“それ”は積み重ねも合算もできないので
> はありますまいか。しかし、“それ”はいったいどこに存在、あるいは現象するのでありましょうか。こちらを問わせて頂きたいです。

貨幣がメジャー(計量)の具であるとすれば,それはそもそも何を計量しているのか?
ということですね?(もしかすると題意を取り違えているかもね...)

私の定義するコミュニケーションには物量的なものを含んでいますが,コミュニケーション
を情報の交換に限定したときの物理量を計測する単位としてビットがあります.画像・音声
を含むすべての情報はある記号セットに含まれる有限個の記号の並び,つまり記号列と
して表現可能であり,それぞれの記号に数値を割り当てることによって,任意の情報は数
(2進数列)として表現することができます.ビットはその数字列の長さを表示します.

しかし,私はビット表示による情報量という考え方には納得していません.たとえば1ワード
のテキストは1億ビットの画像情報より伝達する情報量が少ないと言えるでしょうか?

伝送されたコードの物理量そのものではその通信路が運搬している「真の」情報量を表示
することはできません.なぜなら,伝送路の両端では「真の情報」を伝送路に載せるため
のコード変換,つまりエンコード・デコードの操作が行なわれ,受信側ではさらにデコード
されたコードの<解釈>が行なわれなくてはならないからです.このとき暗黙に想定され
ていることは,伝送路の両端つまり発信者,受信者の頭蓋骨という筐体に収容されたそれ
ぞれの脳みそと呼ばれる装置の内部に,少なくとも同じ言語体系とそれを用いて伝達可能
かつ相互理解可能であるような蓄積された知識・体験があるという前提です.

これらをとりあえず共有的内部知識と呼んでおくことにしましょう.このような共有的内部
知識は論じるまでもなく社会的性格を持つと,ここでは前提します.

コード(記号)としての貨幣は何によって<解釈>され,何を計量するのでしょうか?
貨幣がコミュニケーションの手段としてのメディアである限り,上記のような社会的性格
を持つ共有的内部知識に該当する何かが,そのチャンネルの両端で共有されていなく
てはならないと仮設します.このとき,この共有的内部知識に相当するものは,その貨
幣の流通する範囲と対象,つまりその貨幣の流通する経済共同体総体(のイメージ)
であると考えられます.ならば貨幣の経済共同体における意味を解釈するということは,
経済共同体総体の経済的価値を参照して貨幣価値を定量することに他なりません.

ここでは理想化された場合を考えています.つまり,経済共同体全体が総体的に認識・
計測可能であると推定します.経済共同体全体が総体的に認識・計測可能であるとい
うことは,必ずしも当事者が実際に総体的な認識を獲得していることを意味するもので
はなく,実際には獲得されたごく限られた部分情報から全体を推計するに過ぎないとし
ても,そのような全体知識に対する到達可能性が確立しているということを意味します.
仮にすべての公的機関におけるすべての内部情報が完全に公開されていたとしても,
すべての成員がすべての書類を読むことは不可能であり,またその必要もありません.

パスカルの原理が厳密には理想気体と呼ばれる仮想的な気体に対してのみ成立する
のと同様の意味合いで,これはある種の理念型,理想モデルであり,経済活動はゲー
ム理論で言う完全情報ゲーム(手の内をすべて公開して行なわれるゲーム)となります.

「貨幣がメディアとして働くおおもとの“それ”とは,その貨幣をメディアとする経済共同
体総体(の経済的価値)である.」これが与えられた設問に対する私からの回答であり,
かつ唯一つの解であるように思われます.経済活動が人間の(集合的)欲望に突き動
かされて動いているのが事実であったとしても,少なくとも貨幣が直接に計量している
のは,そのような得体の知れないものではないということは強調されてよいでしょう.

しかしながら,経済共同体全体が総体的に認識・計測可能であるという推定は,明ら
かに実際的にも原理的にも不可能であることは論を待ちません.上記で確立した結
論が「原理的なもの」であるとすれば(実際そうでなくてはならないのですが),我々は
ここで完全なパラドックスに逢着したことになります.もちろん,ここまでを読み進んで
こられた読者なら,経済という大きな体系の中にパラドックスが見つからないとしたら,
むしろその方がおかしいと納得されるかもしれません.

C.H.ダグラスは(多分)社会信用論で(おそらく)「信頼できる経済」?について論じて
います.隠されている部分,見えない部分が存在する場合に我々にできることは,
「信じる」ことだけであるかもしれません.従って,「信じる」ことと「見える」ことの間に
はトレード・オフがあります.「神」が信じられないようになったのは,「見え過ぎてしま
った」からでしょうか?一方,公的機関などの場合には,「情報公開」の度合いが進
むほど「信頼度」が上がるようにも思われます.あるいは,古典派経済学理論におい
てさえ,自由市場が成立するためには情報の自由な伝達・取得を大前提とします.

経済共同体全体という概念はかなり捉えどころのない漠然としたものです.この中
には生活と環境のすべての要因が含まれるので,宗教を含む人間のすべての活動
が関係します.ただし,貨幣をメディアとするコミュニケーションは必ずしも経済共同
体の全領域で行なわれるわけではありません.個別には商取引(トランザクション)
として発生し,集合的には市場において行なわれると考えることができます.

市場経済の外側にも多くの重要な経済活動は存在しますが,それらを暫定的に捨
象して,市場経済のみからなる経済を考えれば,個別の市場を連結した1個の大き
な複合市場をもって経済活動を行なう単一の場と看做すことができます.もちろん,
この単一市場には最終消費者の参加する小売市場,サービスエリアが含まれます.
さらにこの複合した単一市場によって,大きな歪みを伴うことなく貨幣をメディアとす
る経済共同体全体を近似することができるでしょう.

経済共同体全体を一個の単一市場によって近似するという前提のもとで,アダム・
スミス的自由市場経済を再考してみます.アダム・スミスの理論のもっとも卓越して
いる点は,全体を観測できない局所的な取引の総体がある均衡点に自動的に遷移
する,つまりあたかも全体を知っているかのように振舞うことを立証した点です.
これを敷衍すると次のようなことが言えます.

「全体を観測できないにも関わらず全体を知っているかのように振舞うことができるの
であるから,おおまかに言えば全体を知っていたことになる」と推量することができる.
よって,貨幣メディア論の定理『貨幣はその貨幣をメディアとする経済共同体総体の
経済的価値を参照し,その価値を定量する』が自由市場経済の上でも概ね妥当する.

◆総体的に認識・計測可能と推定される経済共同体の貨幣媒体にコンタクトする
◆情報の伝達・取得を制限されない古典派経済学的自由市場に参加する
◆巨大自動計算機であるアダム・スミス的マーケットにログインする
◆アダム・スミス・マシーンに接続し情報交換するチャンネルがある

上記4つの命題は基本的(おおまか)に同値であると考えられます.古典派経済学と
我々の経済学の根本的な相違点は,彼らが「市場」から出発するのに対し,我々は
「経済共同体」を起点とするというところです.彼らが経済共同体から市場を切り出す
ために切り捨てた部分こそ,生きた生身の人間の血が流れている部分であり,経済
の根本原因とも呼ぶべき,もっとも肝要かつ具体的な肉質であると私は考えます.

> ストックという観念自体が、南方系の要素も持つ日本にとってそれほど強烈な価値を持てなかったという事情もありましょうね。

なるほど,我々は南方系であったのですね.これは結構重要な視点かもしれません.

ところで,あっしらさんがどこかで,「科学とは人間がいかに快適に暮らすかの経験的
知識の総和であるに過ぎない」というようなことを言われていたと記憶します.私の立場
がかなり異なるものであることはご理解頂けると思います.岡倉天心→フェノロサ→
エズラ・パウンド,フランク・ロイド・ライトのような流れがありますが,パウンドは古典を含
む文化的遺産をストックとして非常に重視しています.私もそのように認識しています.

※※しかし,テキストを字句通り解釈するのも考えものだ.実は上記の立場は実際には
滑稽なほどに逆転したものである.万巻の書を読み,極め尽くしたあっしら氏がああ言い,
古典どころか何も読んでないに等しい暗愚爺がこう言うことを真に受けてはならぬ.
彼は我々無知蒙昧の徒を慰めてくれてるんですね.(*^_^*)

> 南洋の島では主食のタロイモ等が保存出来ずに腐るものだから主交換対象物の蓄積が効かないようです。その日暮しが基調?

穴を浅く掘って,その中にイモを埋け,その上で焚き火するという感じでしょうか?
私の暮らしも似たようなものです.空腹が切迫したときには,手近なジャガイモをチン.

南方における香辛料というのは元来腐敗防止の(ないし腐敗を粉飾する)ために使われ
てきたのではないかと思っているのですが,知財の腐敗防止に関わるペッパーというの
は存在するでしょうか?刹那的かつ扇情的ジャーナリズムとかはそれかな?

※念のため:上記は激辛香辛料を用いる各地の民族料理を貶める意図を含むもので
はないことをあらかじめお断りします.

> しかし、そもそも貨幣を下支えする“それ”を貨幣に化けさせてしまうことを、禍々しい事として避けるような文化的傾向性が日本にあったという事はないでしょうか(あまり積極的ではなかったという意味です)。

お金を不浄と見る感覚は明らかに存在したし,今でも存続していると思います.不浄と
聖性というのはほとんどつねに表裏の関係にあります.お札を踏んだりするのはひどい
罰当たりとして戒められてきましたから,不浄でありかつ神聖なものという背反する性質
を持っていたことは確かです.これまでの説明だけでは明らかに不足していますね.

議論を簡略にするために,流通貨幣の総量は経済共同体の全物資を買い上げるため
に要する貨幣の量に等しいとします.このような状況下で蓄積された貨幣が局所的に
偏在するということは,自分が所有していると思っているものすら失う可能性があるとい
うことを意味するかもしれません.(現状では世界の全物資の名目貨幣価値を数倍す
る通貨が流通しているのではないか?)富の偏在というとき,貨幣的富の局在と物量的
富の偏在を分けて考えたほうがよいのではないでしょうか?おそらくもっとも不健全な
のは貨幣的富がある個人(法人を含む)に集中することであるような気がします.
(実際,銀行家から所有する貨幣を取り上げたら,ほとんど何も残りません.)

なぜ不健全なのか?それに答えるにはやはり「社会的平等」とは何かということから始
める必要があるかもしれませんが,それにしても貨幣(の価値)が共同体総体の経済
的価値を担保にしているものとすれば,その貨幣を独り占めすることは明らかに実体か
ら乖離した虚像であり,不正義であるということになるのではないでしょうか?もちろん
金兌換制のもとですら,備蓄された金塊は発行された紙幣を担保するには過小です.
一方金貨などの金属貨幣の場合には,流通通貨で共同体の全物資を買い占めること
は原理的に不可能(物資の一部として通貨自体が含まれている)ですから,はるかに
健全なシステムであったと言えそうです.

貨幣の物神化という倒錯と貨幣の貴重性を混同されないようお願いします.少なくとも
金貨などの金属貨幣はそれ自体の交換価値を持っていました.米一粒を大事にする
感覚はいまやほとんど失われてしまったのかもしれませんが,かつてそれが存在して
いたときには,懐中の個別的貨幣がそれら(米一粒)と交換可能という意味において,
等しく大事と思う感覚もあったと思われます.

また,不浄感というやや神秘的感覚と離れて,お金に屈服を強いられるという(経験的)
屈辱感はあるのではないでしょうか?これは経済論的な問題というより,むしろ社会論
的な問題と言った方がよいような気もします.セックスの聖性・わいせつ性という背反す
る性質と貨幣が結びつくところがあるのかないのかは,今のところ私には分りません.

マルクスは金物神という倒錯をフェティシズムから説明しました.当時の通貨が金貨を
主軸とするものであったとすれば,この考察はむしろ実態に近いものであったかもしれ
ません.私の立論はこのような段階にあっても通用すると思いますが,どちらかという
と紙幣発行量が飽和しつつあるような段階により適合します.

世界金融資本家の世界支配が確立する連邦準備法成立以降の世界では,人間が物
神に拝跪する段階からついに,支配者が自ら人神であると宣明する段階に至ったと言
えるかもしれません.彼らの力の源泉は「経済共同体の貨幣システムが総体的に認識・
計測不能である」という事実に依拠します.ここに我々は,最初に仮設した「経済共同
体全体が総体的に認識・計測可能であるとする推定」が完全に瓦解するのを見ます.

あるいはことによれば「経済共同体の貨幣システムが総体的に認識・計測不能である」
ような事態に移行しつつある段階で始めて,暗闇に潜む亡霊が立ち上がってくるように,
マネタリシステムの闇の中から呼び起こされた邪神が活動を始めたと言うべきかもしれ
ません.この方が説得的であるような気もします.もう少し考えてみたいと思います.

(経済共同体の貨幣システムが総体的に可視であるか否かという問題がここで表れて
きたということは,これまでの議論の方向が正しかったことの証左であると思います.)

> 建築に関して言えば、伊勢神宮のように、「神」の依代(結界でもある)を設ける構造物を、最初から取り替えて新しく出来るものに積極的に創出していますから、そもそも“それ”を化けさせて納得させる装置や機構に対する観念や姿勢が根本的に違うという事を見るべきではないかと想います。縄文時代の祭祀用土偶(依代)に壊されたものが多いのも同じ姿勢の表現かもしれません。

この観念は明らかに線形なものではなく,循環を表象しているもののように思われます.
<循環>というとき,私は以下のようなことを思念しています.

線形構造と循環はグラフのもっとも基本的な要素です.グラフ理論では循環を<サイ
クル>と言います.サイクルを含まない(極大な)グラフを<木>と言います.このよう
なグラフを木と呼ぶのは,そのグラフのどれかの点を取って最上位に置くと(下向きに
重力が働くとして)自然にこの点を根とする(倒立した)木のように見えるからです.

パソコンの画面に見るディレクトリツリーはまさにこのような木の一種です.木構造が
位階(ヒエラルキー)を表示するものであることは明瞭ですね.グラフ理論的には木と
サイクル(セット)は完全に双対な概念です.(※双対:それぞれについて完全に対称
的な定理が対応する名前を入れ替えただけで成立すること.)木が位階制という垂直
的秩序を表示するのであれば,サイクルが水平的な秩序,つまり平等性に類似する
観念を表示すると考えるのはむしろ自然です.私の(異端的)グラフ理論では,木とし
て表象される位階を男性原理,サイクルとして表象される循環を女性原理と捉えます.

この意味で唯一神を頂点に戴くユダヤ教,キリスト教,イスラム教はすべて男性原理
に基づくシステムであると考えることができます.孔子らの唱える儒教もまた,社会の
ヒエラルキーを重視する男性原理に基づく構造を持っています.最上位神が日輪によ
って表象されるような女性であるとすれば,日本という国の(隠された)支配的原理は
循環に基づくと言えるかもしれません.仏教には循環という観念がありますから,明ら
かに女性原理が支配的な思想と呼べると思います.

> これは、これからの地球の経営のためにふり返られるべき活きた“遺産”と想います。

日本的なもののユニークさはかなり貴重なものであり,これから重視されると思います.

> 『西洋的な自然科学が発達しなかった真因』これについては現在仮説ですが深化して考えています。
> 過去の別の議論スレッドで考えることを開始しました。

マハティールが(ユダヤと比較して)問題にしているのもこの点です.
日本,アラブ,中国,インドに共通する課題だと思います.

> 今度は、東洋的な自然科学が発達する時代に転換したと想っていますが、その前提としての西洋的自然科学を受容する土壌が、日本では江戸時代から醸成されていながら、ついに西洋的自然科学の純粋な形のようなものに至らなかったのはなぜかという事を考えています。この事の根源には、実はこれからの地球の経営の為に積極的に評価されるべき姿勢・思想があると見ています。

関孝和がライプニッツ以前に微積分を発明していたという説がありますが,否定されて
います.確かに類似問題を解いてはいますが,普遍的な原理を発見できていません.
江戸末期には和算家は各流儀に分派して難解極まりない問題を解いたりしてますが,
原理的な問題を解かずに末節に入っていってしまっているため,どこまでもややこしく
なるばかりという袋小路に陥っています.実際その証拠に明治政府が洋算の採用を決
めるやいなや,あれほど隆盛を極めた和算の各流派はあっという間もなく霧散します.
(各地の神社に難問を解いた記念として算額と呼ばれるものが奉納されてますね.)

> 西洋的自然科学への道において未熟だったというより、免疫性というべきものが強くてそちらに行けなかったという理解です。

グラフ理論に隣接して計算量理論というのがあります.問題の難しさを数量的に計測
しようという学問なのですが,そこに「手に負えない問題(Intractable Problems)」
という問題のクラスがあります.これは問題文の長さ(とりあえず,問題文が長ければ
問題はそれだけ難しくなると考える)をNとして計算に要するステップ数がNの指数関
数になってしまうような問題群です.私はオリエントは最初から<手に負えない問題>
に手を付けてしまったのではないのだろうか?と考えています.

手に負えない問題はいくらでもありますが,中でもNP完全問題という非常に重要な問
題のクラスがあります.このクラスの問題の特徴は,そのクラスに属する問題を(多項
式時間内に)相互変換できるということで,これは,ある1個の問題を短時間(多項式
時間)で解くことができれば他のすべての問題も同様に解けるということを意味します.
NP完全問題はほぼ人間(ないし計算機)が一般的に解ける問題の限界を示すと考え
られます.NP完全クラスに属する知られているだけでも数千個に及ぶ問題群はあた
かも地球を取り巻くバンアレン帯のように我々の計算可能な圏域を規定しています.

NP完全問題の代表的な問題として,ハミルトン閉路問題というのがあります.一筆書
きというのを子どもの頃やった記憶がおありだと思いますが,一筆書きできるようなグ
ラフはオイラーグラフと呼ばれています.ハミルトングラフはオイラーグラフによく似て
いますが,すべての辺を通るのではなく,すべての点を1回だけ通ってもとの点に戻
るというところが違います.ハミルトン閉路問題というのは,そのグラフがハミルトング
ラフであるかないかを判定するという問題です.オイラー閉路問題にはよく知られた
解法がありますが,ハミルトン閉路問題にはそのような解は知られていません.

アリストテレスに始まり,デカルトで完成する西洋科学の依拠する方法論は分析です.
それは以下のように行なわれます.まず,問題を下位問題に分割し,次にその下位
問題をさらに再分割します.最終的にすべての小問題が容易に解けるところまでこれ
を反復します.西洋自然科学はこの方法論をあらゆる課題に適用してきました.
この手順をトレースすると,木として再構成されることは容易に理解できます.

私が何を言おうとしているのかお分かりでしょうか?手に負えない問題を解析してみ
ると,問題を難しくしている基本的な要素は明らかに循環(サイクル)にあります.

東洋哲学のアプローチは西洋科学の分析的手法に対し,綜合的であるとしばしば
言われます.オリエントの自然科学の失敗は問題を分析的に扱うのではなく,循環
を含む問題を総体としてまるごと解こうとしたところにあるのではないか?つまり,

「手に負えない問題」に着手して「循環の罠」にはまってしまった...

のではないか?と私は考えています.現代の数学者の大部分はNP完全問題はお
そらく解かれないだろうと考えているようです.事実そうであるとしたら,これは人間
の能力の確定的な限界ということになります.

NP完全問題を解くということは,NP完全問題を多項式時間で解くことのできるアルゴ
リズムを提示するか,ないしそのようなアルゴリズムは存在しないことを証明するか
のいずれかです.私自身この問題に取り組んできましたが,いくつかの状況証拠か
ら,この問題はおそらく解くことができないばかりでなく,それを解くことができないと
いうことを証明することすらできないということになるのではないか?と考えています.

私がカバラ神秘主義を離散数学で乗り越えると言っていることの真意をいくらかで
もご理解戴けたでしょうか?

> 日本で『東洋的な(そして全地球に汎用化可能な)自然科学がこれから発達する根源的理由』がここにあると考えています。

上記のような理由から私はかなり悲観的なポジションにいますが,オルタナティブ
という意味でなら,同意できるかもしれません.いずれにせよ,西洋科学はほどな
くある限界に達するのではないか?と私は見ています.ブッシュに見られるような
あからさまな詭弁はアメリカ的弁論術の詐術的傾向の現われと看做すこともでき
ます.このような傾向がアカデミーに波及すれば,科学者の堕落と質の低下は避
けられません.王様の仕立て屋のような詐欺師ばかりが横行することになります.

上記の考察から結論的に言えることは,貨幣的富の蓄積は不健全であり,貨幣は
可能な限りシステムのどの部分にも滞留しないような設計が健全であるということ
であるように思われます.このような設計思想はすでに物流システムや生産プロ
セス(たとえばトヨタのカンバン方式など)でかなりの程度実現されています.もし,
このようなシステムが物流の分野で可能であるとすれば,貨幣循環システムでそ
れができないというはずはありません.確かに日本はそのようなシステムが芽生
えるのに適した風土的特質を持っているような気がします.

> この考え方が、通貨システムによる「世界最終戦争」を戦う根本的な戦略システムを創らせるだろうかと淡い期待もしています。
> あっしらさんの「開かれた地域主義」(←開かれた地域共同体)に繋がるかなという淡い予感はします。地域の地域性を護りつつ
> 相互に開かれた通貨システム(まだまったく具体像が解らないけれど)を支援する思想です。ノーテンキ楽観かもしれません。

地方分権が声高に叫ばれてますが,私はまだ「地域」というのがよく見えてません.
あるところからこんな問い合わせがありました.「自治体の既存のホームページを
改修して,障害者のために拡大表示と音声出力できるようにしたい.」なるほど,や
ろうとしていることは分ります.「ただし,従業員数50人以上の企業には出せない」
まぁ,それも結構な方針じゃないんでしょうか.予算は聞きませんでしたが,おそら
く50万とかそんなもの(はした金)でしょう.翌日にはその企画が流れたということ
も聞いたので,担当者一人の裁量というより思いつきで実施可能な範囲です.

私はネットでちょっとリサーチしてみました.確かに岐阜県のホームページではそ
れをやっています.「要はそのパクリということでしょう?」と尋ねると正直にそうだ
と答えました.だけど,そもそも,その自治体では事前にアセスメントをやったので
しょうか?つまり,(そのホームページの)拡大表示とか音声出力とかを求めるリク
エストが実際にあるのでしょうか?小さい町です.私はもっともっと先にやることは
いくらでもあるような気がしました.岐阜県のホームページの内容にも落胆しました.

...何か(地域で)やらなくてはならないというプレッシャのもとで,何かやろうとは
しているのだが,やろうとしていることが間違っているのか,せこ過ぎるのか?そも
そもやる気がないのか?ゆきあたりばったりの浅い思いつきしか見当たらない...

目が不自由と言っても拡大して見えるのなら,メガネをかけた方が見やすいんじゃ
ないでしょうか?目がまったく見えない人には音声出力はうれしい機能ですが,手
探りで画面をなぜることもできないのに,どうやってページを選択したり移動したり
できるでしょう?確かに今のコンピュータの機能をフルに活かすことができれば,
100人も1000人もの塙保己一が生まれることは間違いないと思うのですが...

> *……………
> なるほど、やっと了解できたようです。いわゆる錬金術と科学の間に存在する知の次元で、化学をka・gakuと読むよりke・gakuと読んだほうが良いというような学でしょうか。化身や化生のkeから物の怪のkeにも通じますけれど…。

もちろん,私はkeからkaに脱出することを希求しています.

> もちろん『共同的資本主義、改め共有的資本主義』に通じるのでしょうね。

えー.いつから共有的になったんでしょう?私は土地の私有というのは合理的では
ないと考えてますが,それ以外については私有でよいと思っています...
あれー?ほんと!いつの間にか「共有」になってますね.(+_+)これでいいんでしょうか?
英文ではCommunalを使っていますが,確かに共有的の方が当ってるようですね.
辞書では「地方自治体の,公共の,全住民が共有する」となっています.訳語的には
ちゃめ爺さんの力説されてる「地域」というニュアンスを含んでるようですね.!(^^)!

この稿を終えるにあたり,見えてきた近未来の社会システムについてはっきり言えること
は,なんであれそのシステムでは<位階>ではなく,<循環>が支配的な思想になるだ
ろうということです.この意味で来るべき社会が女性原理優位の社会になるのではないか?
という直感は正しいように思われます.ニューエージャらの描く未来社会がその最上部に
ある種の位階を置いていることはご存知と思いますが,明確に反動であると言えそうです.

> まだなんですが、ご紹介のサイトに行ってこのサイトは当たりでした。びっくりしたな♪

何年か前は日本語のサイトというのが(欧米に比較して)あまりに貧弱なので情けない
思いをしてましたが,最近は読み応えのあるところがずい分増えてきてますね.

> 「内的独白あるいは自伝」http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/essay8.htm
> ここにある事にいちいち共感しています。ただし、書かれている事はこれからもう過去になり行く事象だろうと想います。(パウンド自身過去の方だから時代が進む限り当然ですが)筆者の方は批評家のスタンスで、自ら創作や創る事、造る事に関わっていない方のようですが、きっちりと知の彫刻刀で成果を刻んでいらっしゃる印象です。

パウンドが過去の存在であるというのは違うような気がします.むしろこれからかもしれません.
(国際的な)エズラ・パウンド学会なんてものまで実在して活発に活動してますよ.

> 探検し、読むのに時間が掛かりそうですね。ご紹介を感謝しています。

不思議なのは,こうしたものに「出会う」ということですね.

> *……………
>
> 宿題:A+B定理について
>
>
> ◆引用はじめ…………
>
> R・F・ハロッドは、『ケインズ伝』の中で、彼が一九二二年頃、オックスフォード大学でケインズとしばらく一緒に滞在していたときに、ケインズと同じように確率論を研究していたオックスフォードの哲学者H・W・B・ジョセフとケインズを朝食の席で引き合わせた時のことを書いている。その時に、会話はダグラスの社会信用論に向かい、ジョセフが入念に、それを論駁した。ケインズは黙って聞き、最後に「ダグラス少佐の誤謬を私がこれまで聞いたうちでもっとも明瞭にかつ見事に暴露したもの」(16)であるといった。
>
>  しかし、ジョセフが誤謬を正しく論駁できたとは、彼は考えていなかったのだろう。それどころか彼自身も、論駁できないでいたに違いない。彼が、ダグラスの理論を論駁できたのは、その十年以上も後の一九三五年、『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版によってであったといえる。この中でケインズはダグラスについてこう述べている。
>
> 歴史の中のエズラ・パウンド 第14回 第9章 社会信用論 http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/epih14.htm
>
> ◆引用終わり…………
>
> なんちゅう酷い人だ(┰_┰)

この問題は初等的な問題ではあるが,専門家でも即答しようとするとまごつくかもしれんな.(^^♪

> ケインズもしばらくは(十年!?)解らなかったらしい事を、経済学始めて半年にならない人間に出題するのですか。 。゜(T^T)゜。

ちゃめ爺の半年はケインズの10年に優に匹敵する!かっかっか.

> 頑張ってやってみますが…教授!下の「解」のチェックをお願いいたします。この「理解」は正しいかどうかをご判断頂けませんか。
> 『この論はあっしら氏のS=D等式理論にも通ずるものである.』と仰る馬場英治教授にお願いいたします。m(_ _)m

まだ読んどらんが,難しく考えすぎとらんか?もっとやさしく解けるはずじゃが...

> *……………
>
> ●「私は解ったのだろうか『あっしら経済学』」 その1
> ………………………………………………………………………………………………………………
>
>
> ◆【需要=供給】 (すでに近代的経済システムの中にある社会内で《循環的動態》の断面にて成立している基本的な経済論理)
>
>
> 需要… 供給機制即ち「労働:生産力+機構」を通して労働者等に支払われ、被支払者の所有の元にあり、同時にその被支払
>       者の購買欲求等が裏打ちしている「購買力:貨幣」
>
> 供給… 市場に用意された「購買力:貨幣」の保持者の欲求に対応すべく、「労働:生産力」の機制に投入された「購買力:貨幣」
>
>
> 需要と供給、この二つは「購買力:貨幣」の保持者としての労働者等において、マクロレベルでの経済活動「持続」が目的ならば、時間的断面においてミクロの総計で同一の数量となる。(貨幣の循環からの漏出退蔵は無いものとする)
> この「購買力:貨幣」の数量は、保持者としての労働者等を経て市場に投入される前と、投入された後の貨幣量が時間経過の前後の姿で、相対して現われ、等記号=の左右に並んだものに他ならない。

うむ.例の高名なあっしら氏のS=D等式理論というやつじゃな?
これに対する批判もないではないが,今日のところはもう疲れたので止めとこ.

> ◆デフレの現況維持の場合の陥穽と、社会破壊的な解法
>
> 需要が上記の定義の通りに、供給の機制をへて労働者等に用意されていなければ、次いで新たな供給も十全に機能し得ない。
> つまり、無い袖は振れないどころか、袖なしの腕がそもそも血液循環を失って動かなくなってゆく。
>
> しかし、政府貨幣等のように、供給の機制、即ち「労働:生産力」の機制の稼動を経ずに投下された「購買力:貨幣」は、「労働:
> 生産力」の機制の競争場における新たな価値創造性、生産性の向上に資することが無く、新たなる欲求に裏打ちされた需要を
> 再創出し難くなる。これは競争の中での健康な社会的新陳代謝と秩序生成的価値観(貨幣流通の効果的なカスケードを創る
> 価値観)を、さらに崩す結果を招く。
>
> また、このような方法は、貨幣循環上の幾つもの「退蔵への抜け穴」を経由して退蔵化され、貨幣の循環的動態を収縮させやすくなる。この抜け穴自体が、社会の基盤をすでに侵食している旧態化した受注形態等の習慣によって穿たれてしまっているので、(利権等による流出を含む)そのままではさらにこれらの抜け穴からの流出と退蔵が継続し、貧富の差の不健全な拡張と同時に経済循環のさらなる収縮という結果を招く。つまり、既得権者等による価値非創出的な形でのピンハネの溜め込みを招くのみ。

これはデフレギャップを打開するための政府貨幣政策が無効であるという議論かな?

>   ★実はこの経済学を成立させる前提として、あくまで労働を経ることによる価値創出以外の価値が、商品と貨幣の交換に
>     介在する事はないものとするという哲学が存在する.(現実はそうではないが、量的に無視できるほど小さいという判断)

これでおしまいかい?
弱ったな,採点しようがないというより,これは明らさまなカンニングではないか.これを採点したら
あっしら氏に叱られるが,一応目を通してみよう.「この経済学」と言ってる「この」は上記の2段の
ことかいな?まぁいいだろう.「という哲学」が何か知っておるんかいのう?それこそまさにマルクス
の「剰余価値理論」じゃないか.まぁそれを知っててなら結構.

マルクスの剰余価値理論によれば(これは真理であるから,「よらずとも」でもよい),すべての生
産物の価値は労働によってもたらされる.たとえばA+B式のB項に含まれる「原材料」を見てみよう.
仮にもっとも原始的に得られるたとえば露天掘りの鉱石であるとしても,それを掘り出すための人工
がいる.掘り出すときに使用されるつるはしについても,その各部の制作および組み立てに必要な
工賃があり,原材料のコストとして減価償却されねばならぬ.実際のところ,B項に含まれる項目は
(利子を除き)すべて他社への支払いであり,他社から見れば売り上げであって,製品価格に含ま
れるものであるから,>再帰的<にA項の賃金(配当を除く)の支払いに充当すべきものである.

上記のグラフ理論の説明では問題を分節してゆくときのデカルト的方法を示したが,まったく同様
にあらゆる生産物の価値=コストを再帰的に分節してゆくことが可能であり,最終的にはすべての
コストは人間の労働に一意に帰着する.よって,製品コストA+Bという生産物をAという賃金で買い
切ることはできないという命題は,ミクロ的には正しいとしても,マクロ的には誤りじゃ.

※鉱石の原価が入ってない,というのかね?鉱石(鉱物)は経済循環の中で増えも減りもしないから,
大地のコストがゼロであるのと同様の理由により,ゼロとみなしてよい.(もちろん,これは完全循環
社会を前提としての立論じゃが.)一般に採掘権と呼ばれている付加価値はその鉱脈を探すための
探索コスト(これは労働の対価じゃ)と考えればよい.もちろんプレミアムはたっぷり付きそうだが.
希少価値というのは,仮にその物質が枯渇しないとしても,莫大な探索コストがかかるという意味で
あって,その物質自体の価格ではないと考えた方がよい.絵画などの価値も似たようなもの(一種
の枯渇資源)ではある...つまり,天然資源は「お借りしている」と考えるべきだね.

> ………………………………………………………………………………………………………………
>
> きゃべ爺さまからのお返事はまっこと楽しゅうござったじゃ。

いやいや,ワシも楽しみました.

> なかなか仕事も大変じゃということじゃからの、お返事くりょうならワシがお迎えを頂くまえでええ。無理せんどくれじゃ。

返事もろうたからって,明日にもコロッとゆくなよ!

> うう、さぶい… お、お、お、 ばふしんっ…!       はふはふ・あふあふ 

ま,まてまて.

> 入れ歯飛んだじゃ。「(^^; )

いたたた....っつ

> おやすみじゃ。 

こんなもんいらぞ.もって帰れや.つーか,ワシ入れ歯ほしー!もろた.

※ カバラ神秘主義者共のワシに対する対抗尋問は予想がついておる.つまり,「木として
表象される位階が男性原理であり,サイクルとして表象される循環が女性原理であるとして,
巡回しつつこの木を登るものの名前は何か?」であろう.それをワシの口から言わせようと
いうのがきやつらの魂胆じゃ.ワシの返答は無論沈黙じゃ...しかしワシは,あまり言及さ
れておらんようだが,彼のエデンの園の中央にはもう一本の木があったことを知っておる.

馬場英治の今日の宿題: オイラー閉路問題(一筆書き)の解法を示せ.
(オイラーグラフを判定する方法,つまり一筆書き可能なグラフの要件を述べよ.)

ps:レスは個別に付けられても返答できそうもないので,感想程度にしてほしいじゃ.
ほな,おやすみ.じゃないな,今日こそは掃除して仕事始めねば...

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