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グラバー邸
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投稿者 エンセン 日時 2003 年 12 月 25 日 15:59:13:ieVyGVASbNhvI
 

(回答先: メ−ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画 投稿者 エンセン 日時 2003 年 12 月 25 日 15:53:23)

 
施設名称 旧グラバー邸 旧施設名称 グラバー邸
現所在地 長崎県長崎市南山手8(グラバー園内) 旧所在地 長崎県長崎市南山手8
電話番号 095−822−8223


グラバー邸 応接間
(庭園北側より撮影)
着工時期 1863(文久3)年
竣工時期 1863(文久3)年
改築時期 昭和41年1月
設計者名 不 明
施工者名 小山 秀
構 造 木造平屋建て寄棟屋根桟瓦葺き
様 式 −
面 積 510.85u
指 定 国指定重要文化財(昭和36年)
利用状況 グラバー園内の公開施設
交 通 JR長崎駅より市電グラバー園下車徒歩
5分
T.沿  革
1.グラバーの生涯
トーマス・ブレーク・グラバーは1838年スコットランドの東北部にある漁港フレイザーバラで生まれた。父はイギリス海軍の一等航海士であった。父の転勤で州都アバディーンに移り住んだトーマスは同市ギムナジウムで中等教育を受けた後、商会事務員として働いていた。1856年パスポートを取得し、単身上海に渡り、1859(安政6)年9月開港したばかりの長崎(1859年7月開港)に来日した。21歳の若さであった。
 長崎に着て間もなくグラバーはジャーディン・マセソン商会で事務員として採用されたのをかわきりに、貿易商としての経験を積んでいく。1861年、中国に転進するジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の後を継ぐこととなったグラバーは、他方でコミッション・エージェントとして独立し、トーマス・グラヴァー商会を設立すると共にデント商会、サッスーン商会などの大手商会ともエージェント契約を結んだ。1862年にはアーノルド商会、ブレイン・テート商会とパートナー契約を結びグラバー商会と名称を改め、これらの商会の業務を引き継ぐと共に茶の再生工場を設け茶の輸出を主要な業務とし(1863〜1865年には長崎からの茶の輸出量の20〜30%を占めた)、発展の基礎が築かれた。この時期にグラバー邸が建てられている。
 グラバー商会が軌道にのり始めた時期のわが国の政局は、開国派の大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、長州藩や三條実美らの公卿を中心とする過激な尊皇攘夷を唱える勢力と徳川慶喜、松平慶永、山内容堂、島津久光などの開明藩主による公武合体を唱える勢力が拮抗していた。事態は刻々と変化し、ある時は尊王攘夷派に、ある時は公武合体派に有利に展開し、この間に外国艦隊が鹿児島や下関を砲撃するなど混沌とした様相を呈していた。この様な状況の中で、グラバーは五代才助、坂本竜馬、伊藤博文、桂小五郎、木戸孝允等を自宅に匿ったり、五代を中心とする薩摩藩の19名の視察団と留学生あるいは伊藤博文、井上聞多など長州藩の留学生の資金的援助を行うなど、西南雄藩との接触を深めた。また、この時期からグラバー商会の取引の重心は茶の再生輸出から艦船や武器へと移し、長崎最大の貿易商に発展した。
グラバーが最初に艦船の輸入に携わったのは、1864(元治元)年鉄製蒸気船・カーセージ号を佐賀藩に売却した時からで、以後1868年(グラバー商会倒産)までの5年間に24隻(薩摩藩6隻、熊本藩4隻、幕府、佐賀藩、長州藩各3隻、その他5隻)、価額にして168万ドルの艦船を輸入している。これは長崎に輸入された艦船の30%をしめ、2位のウォルス商会の8隻を大きく引き離していた。他方武器の取引は1865(慶應元)年幕府からに70ポンド先込砲15門、12ポンド後込砲10門など合計35門の大砲と弾丸700トン(砲弾数101,200発)、総額18万ドル余の注文を受けアームストロング社へ発注している。小銃の輸入も1965年頃から急激に増加し、1865年から1870年に長崎で172,000挺、横浜で328,600挺、合計約500,000挺が輸入された(イギリス領事の報告分のみ)。この期間中のグラバーの取引量は不明であるが、1966〜1967年の2年間の長崎での小銃の取引量は33,875挺で、このうちグラバーの取引量は12,825挺(38%)であったという報告があり、長崎を中心とする西南雄藩に対する最大の武器輸出商であった事は間違いない。
この時期の艦船や武器弾薬の取引はアメリカの南北戦争が1865年に終了し、不要となった艦船や銃が中国市場に大量に出回っていた一方、わが国では混沌とした政治状況の中で幕府、各藩が競って軍備の拡張に乗り出しており、貿易商にとっては格好の市場であった。1865(慶應元)年末、互いに反目しあう薩摩と長州の間を結びつけるために坂本竜馬等が銃・弾薬を調達し、伊藤博文、井上馨と共に、薩摩から融通を受けた船舶で、長州へ運んだ際に、グラバーが便宜を図っている。これが契機となって薩長は連合し討幕、王制復古へ大きく転換していく。このような歴史の転換点に立って、グラバーは1867年頃から自身のビジネスを商業資本的な形態から産業資本への転換を図ろうとする。
 グラバーのビジネスの転換は、1つは薩摩藩との共同出資で建設した小菅修船場であり、他の1つは佐賀藩との共同出資による高島炭鉱の開発である。小菅修船場は長崎・小菅に建設した船舶修理のためのドックを持った工場で、明治元年の完成とともに明治新政府に売却されている。詳細はホーム・ページ30号・データ・シート(産業施設/造船・港湾)1.「小菅修船場」を参照されたい。高島炭鉱の開発計画は1868年6月グラバーと佐賀藩との間で契約が締結されている。高島は長崎の南西海上約14.5qの所にあり、当時は佐賀藩の支藩である深堀藩の所領で、18世紀の始めごろから石炭の採掘が行われていた。炭鉱開発契約は、販売をグラバー商会が担当し、売上高から鉱山採掘料が佐賀藩に支払われ、その他経費を差し引いた利益は折半するというものであった。資金のない佐賀藩は出資金はほとんど払わず、おまけに別に契約していた蒸気船ユージン丸と武器支払い残額も将来の佐賀藩の取り分から支払うというもので、グラバー商会の資金的負担は巨額なものであった。それでも、石炭需要の増大と炭鉱の将来性を見込んだグラバーは楽観的で、採炭用機械設備をイギリスに発注し、イギリス人技師を雇い入れて立坑の開鑿に着手し、明治2年12月、1年半に及ぶ難工事の末ようやく操業に成功した。
 グラバー商会による高島炭鉱計画は成功するかにみえたが、同商会を構成していたグラバー、グルーム、ハリソン、ホームの4名によるパートナーシップの期限が明治2年12月末日に到来し、直ちに解散することとなった。グラバーが一人でその債務を引き継ぐこととなり、資金繰りが一挙に苦しくなり、同3年8月長崎のイギリス領事法廷で破産宣告され、倒産した。負債総額は87,400ドルであった。
グラバー商会の倒産後、高島炭鉱は最大の債権者であったオランダ貿易会社と佐賀藩の経営となった。炭鉱の操業は比較的順調で、明治3年には年産1,800トン以上の良質炭を生産し、アメリカ、フランス、ロシア海軍や太平洋郵船などの海運会社に対して販売するようになった。その後明治政府は明治6年に日本坑法を公布して外国人の日本国内における鉱山所有権を禁止し、オランダ貿易会社より洋銀40万ドルで高島炭鉱を買収した。その後後藤象二郎に払下げられた後、明治14年に三菱の岩崎弥太郎が引き取り、わが国の最大の炭鉱へと発展していった。高島炭鉱は石炭から石油へのエネルギー転換により昭和61年11月に閉山された。
グラバーは、商会倒産後もしばらくの間高島炭鉱の操業に従事したが、貿易商の仕事からは身を引き、長崎クラブの書記やポルトガル領事を勤めるなど引続き長崎居留地自治会の指導的立場にあった。グラバーは明治9年から東京飯倉の狸穴町に転居したが、同13年に長崎に戻り、後藤象次郎の高島炭鉱の支配人に就任した。しかしながら、後藤が経営する高島炭鉱は必ずしも順調ではなく、翌14年には岩崎弥太郎によって買収され、以後グラバーは三菱の顧問として活躍している。明治19年再び上京し、芝公園53番地に居を定め、明治16年に開館した鹿鳴館の書記などを勤めた。またこの頃、横浜居留地内で売りに出されていたわが国最初のビール工場を数名の外国人と共に買収し、ジャパン・ブリュワリー・カンパニーを設立し取締役に就任している。これが後の麒麟麦酒株式会社(明治40年設立)である。
明治41年、グラバーは外国人としては異例の勲二等旭日賞を受賞した。伊藤博文、井上馨など明治維新をになった西南雄藩の若者達の留学を支援したり、武器の供給などを通して薩摩や長州による維新政府の樹立に貢献したからであろう。伊藤博文は晩年のグラバーに対して芝公園の邸宅を寄贈している。グラバーは三菱の顧問をしながら悠悠自適の生活を送っていたが、明治44年12月、慢性腎臓炎で死去した。享年73歳であった。
グラバーは慶応3年ツルと結婚し長女ハナを設けたが、男児がなかったため庶子・富三郎を跡継ぎとした。富三郎(1870〜1945)は、倉場富三郎と名乗り、学習院を卒業しペンシルヴァニア大学で生物学を学んだ後帰国して、長崎汽船漁業会社を設立、トロール漁法を導入し、わが国の漁業の近代化に貢献すると共に『日本西部及び南部魚類図譜』作成の基礎を作った。

2.グラバー邸
 グラバー邸はグラバーが自身の住居として1863(文久3)年に建てた住宅で、現存するわが国最古の木造洋風住宅である。長崎港や長崎の市街地を見下ろす高台にあるこの住宅は、広々としたベランダをめぐらせたコロニアル・スタイルの異国情緒あふれるもので、プッチーニの「蝶々夫人」の舞台とされ、長崎観光の最大の名所となっている。
 江戸末期長崎に来た外国人はインドの英国植民地や香港、上海のいずれかを経由して来ており、これらの地の商館や住宅はほとんどがベランダ・コロニアル・スタイルが採られていたことから長崎や横浜で建てられた洋館もほとんどがこのスタイルを踏襲していた。このスタイルは緯度の高いヨーロッバから来た人々がアジアの高温と強い陽射しに苦しみ、住宅に幅の広い庇を張り出し、その下にベランダを設け、家の中に涼しい風を入れるために編み出されたものであった。わが国では冬寒くなるため、ある時期からベランダにガラス窓で囲うようになった。ベランダ・コロニアル・スタイルの住宅は、わが国では明治30年代の中頃まで(神戸にあるハンセル邸(明治29年竣工)やハッサム邸(明治35年竣工)等の秀作を残したイギリス人建築家A.N.ハンセル以降このスタイルを設計する建築家が途絶えた)、数えきれないほど多く建てられているが、グラバー邸ほど特異な平面をもち、その本来の目的を果たしている建物は他に例を見ない。
 グラバー邸は、グラバーの書いた簡単な間取り図を元に、小山秀が請負って建てたものといわれている。小山秀は天草下島出身の棟梁で、9人兄弟の末っ子であったが、一族で長崎居留地の造成や建築を請負っていた。小山秀はグラバー邸の外、大浦天主堂(1864(元治元)年竣工)や旧オルト邸(1864年竣工)、旧リンガー邸(明治元年竣工)も設計、施工を請負ったといわれている。
 グラバー邸はグラバーの死後、倉場富三郎が住んでいたが、昭和14年三菱重工が買い取って社員クラブとして使用していた。戦後、進駐軍の将校宿舎として使われた時期もあったが、三菱重工に返還された。昭和32年に三菱重工長崎造船所操業100周年を記念して長崎市に寄贈され、一般に公開された。昭和36年には、現存するわが国最古の木造洋風住宅として、国の重用文化財に指定された。その後昭和41年3月〜43年3月まで保存修理工事が行なわれて、現在に至っている。 旧グラバー邸客用寝室
(庭園西側より撮影)

T.建築詳細
1.構 造
  木造平屋建て寄棟屋根桟瓦葺き(ベランダ・コロニアル・スタイル)。

2.平面計画               
立地は東側からの比較的急な傾斜の丘の中腹にあり、南側が長崎湾の湾口方向で、南西から西北側に長崎湾が開け、北から北東側が市街地や東山手の丘が展望され、素晴らしい眺望である。主屋の背後に付属屋が渡り廊下でつながりその裏手に厩舎と納屋があった。主屋と付属屋はベランダ・コロニアル・スタイルで、建物の周囲をベランダが巡らされ、玄関を設けずにベランダから出入するバンガロー・タイプである。
主屋は3つの重要な部屋が3方に突き出していて、南西に向かって突き出しているのは客用寝室、西北に向かって突き出しているのは応接室、北東に向かって突き出しているのは部屋は大食堂と付属棟でツルや使用人の部屋及び料理室に当てられていた。応接室と大食堂の間には温室が北に向かって突き出している。3つの部屋の内側に向かって部屋が配されている。客用寝室の内側には重要書類室、小道具室があり、東側には勉強室があり、奥に向かって各室に通じる廊下が曲がって伸びている。応接室の内側には寝室がある。大食堂の奥には小食堂がつ グラバー邸平面図
けられている。応接室と大食堂、小食堂との間に広間があって (『旧グラバー邸修理報告書』より)
互いに行き来出来るようになっている。

3.ファサード
  主屋は先端部が多角形の壁面で囲われた3つの部屋が三方に突き出し、その周りに幅の広いベランダが廻らされ、ベランダの縁に扁平な櫛形アーチをつけたアーケードが連なる様は、どの方向から見ても変化があり、異国情緒が溢れている。アーケードのアーチの上は、風通しを良くするために4〜5p幅の板が斜めに木摺り状に付けられ、いかにも涼しげである。列柱間に架けられたアーチの頂にはあたかも要石のような楔形の板が貼り付けられている。各室の多角形部分の壁面には床までとどくフランス窓が付けられ、放射状の桟を付けた櫛形アーチのファンライトが付けられている。
 アーケードの楔状の板やファンライトの櫛形アーチなど洋風のスタイルを真似ようと精一杯努力しているのに対し、屋根は桟瓦葺きで大棟や隅棟の先端部には鬼瓦が付けられ、いかにも和風の感じである。

4.屋根形式
  小屋組は和風小屋組で、梁や束などの材木は近所の民家の転用材を使っているという。客用寝室から大食堂に向かって大棟が走り、中間から南側の応接室に垂直に棟が走り、T字形の棟構成となっている。各棟の先端部から隅棟が6〜8本下ろされて多角形の寄棟屋根を造っている。三方の棟の先端部には水芭蕉の花のような飾りをつけた鬼瓦が飾られ、各隅棟の上には隅棟瓦が積まれ、先端部には鬼瓦が付けられている。

5.外 壁
  ベランダが廻らされた部分の外壁は漆喰壁であるのに対し、丘に面した外壁は一部下見板張りである。

6.窓、窓回り
  ベランダに面した客用寝室、寝室、応接間、大食堂の窓は内向きの両開きフランス窓で腰部は縦枠で2分割されて鏡板が張られ、上部は2本の桟で横に分割されて3枚のガラスが嵌め込まれている。フランス窓の上部は窓の幅より広い扁平の櫛形アーチのファンライトが付けられている。ファンライトは同心上に小さな櫛形アーチと放射状に伸びる3本の桟が組み込まれて中にガラスが嵌め込まれている。窓周りは、額縁の材は細く、蛇腹も簡素である。ファンライトの上部壁面はあたかも石材がアーチに沿ってジグザグにはめ込まれているかのように漆喰を盛り上げていて、少しでも洋風に見せようとする涙ぐましい努力が見られる。
7.内回り
  床は、現在は絨毯が敷かれているが、創建当初は板敷きと思われる。壁や天井は壁紙や天井紙が貼られていた。詳細は不明。

               グラバー邸 応接室内


V.建物の利用状況
  旧グラバー邸は長崎市の手で昭和41年3月から43年3月にかけて保存修理工事が行なわれ、グラバー園のなかで最も人気のあるスポットとして一般公開されている。グラバー園は、長崎市がグラバー邸を中心にリンガー邸、オルト邸等を修復保存すると共に、旧ウォーカー邸、旧三菱ドック・ハウス等を他から移築して、わが国の初期洋風建築の集落を作り、保存と観光を兼ねた公園である。
         グラバー園案内
  開園時間 : 10/10〜7/19 ; 8:00〜18:00。
          7/10〜10/19 ; 8:00〜21:30。
休園日  : 年中無休。
  入園料  : 個人 ; 一般 600円、高校生 300円、小・中学生 180円。          団体 ; 一般 500円、高校生 240円、小・中学生 140円。          (30人以上、1人につき)
         前売券; 一般 500円、高校生 240円、小・中学生 140円。
  電 話  : 095-822-8223.

W.参考資料
  『明治維新とイギリス人商人―トマス・グラバーの生涯』(杉山伸也 著)岩波新書 2002.1.17.   『グラバー園物語』(かむら・くにお 著)長崎文献社 1988.6.20.
  『長崎居留地と外国人商人』(重藤威夫 著)風間書房 昭和42年3月
  『長崎の天主堂と九州・山口の西洋館』(太田静六 著) 理工図書 昭和57年7月
  『日本の近代建築 上』(藤森照信 著)岩波新書 1996.5.              ―了―

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