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Re: 竹中さん。こんばんわ。
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/723.html
投稿者 愚民党 日時 2003 年 12 月 27 日 22:40:24:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: Re: 愚民党さん、つらいけんども、いい思い出だなあ。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 12 月 26 日 06:14:26)


闇の日本史
数と形
卑弥呼をたずねて・九州編
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tv_kazu.htm


 竹中さん、こんばんわ。
 やめてさんと竹中さんやみなさんの縄文をめぐる対話を読みながら、おら再度、九州に興味もったもんで
 卑弥呼・九州編、読んだだよ。いやぁ〜時間かかったんべぇ。
 おら古田武彦氏の本は何冊も読んだもんで、九州王朝説信じているんだっぺよ。
 
 竹中さん、天皇制の神話たる天孫降臨という垂直の統治支配システムに関しては、いずれゆっくり
 書かしてもらいますだ。

 70年代は独自的に、おら必ず総括していきますだ。
 
 おらペンキ塗装のとびこみ営業訪問をやっていたとき、鎌倉市と藤沢市の境界あたりの町で、
 徳川家康のブレーンだった天海(たしか日光東照宮をつくった僧)の系譜があるという薬局の奥さんから
 聞いた話なんだけんど、鎌倉近辺あたりも縄文人が住んでいて、桓武天皇のとき
 大和朝廷の軍隊に、壊滅されたとのこと。薬局の奥さんの話によると、多くの縄文人が
 虐殺されたとのこと。近くには霊を鎮める神社が立っていて、その近辺を開発すると必ず工事関係の人が
 死んでしまうという話を聞いたことがありますだ。
 
 おらの故郷である、栃木県は桓武天皇の平安京あたりから、東北侵略の補給基地にされていたようですだ。
 
 栃木県日光裏には栗山村があるんだけんど、平家落人の里で、いやぁ、美男美女で、背が高い人が多いです。
 
 竹中さん、奥羽本線の話なんだけんど(おらが若いときのひとり旅)
 秋田から青森に近づくと、貴公子が乗ってきて、おらびっくりしたわぁ。
 
 まぁ、40歳からアンダーグランド芸能舞台関係に入って10年だけんど
 青森の人は背が高い人が多い、おそらくロシア系統の血が入っているとおら思う。
 あとは平家落人の関係なんだろうか・・・・
 
 9月10月も闇黒舞踏の共演で青森からイタコさんが来てくれたんだけんど
 なんか、日本ばなれした感じだった。やはりロシア系統を観じました。
 
 おらが属している闇黒舞踏の主役は四国徳島出身なんだけんど、「青森は日本ではない」と言っておりました。
 舞踏舎の親分が青森出身なんですけんど、モダンです。
 
 四国はなんというか、原日本人というかぁ、すごいです。
 四国の人は近代的自我ではないと思います。
 空海の民です。四国は御遍路さんが旅している場所だし、おらなんか四国はすごいと思います。
 
 やはり、竹中さん。日本が単一民族であるというのは嘘です。
 それぞれ、違いますよぉ。
 
 教科書の歴史とは統治支配者の書かれた歴史ですけん。
 書かれなかった民の歴史がありますわぁ。ありますわぁ。
 
 日本とは古代からアジアの混血どころか、世界の混血だとおら思っていますだ。
 
 おら、九州はまだ1回も旅したことないですけんど
 死ぬまで1回は旅しますけん。おらなんといっても九州人が好きですわぁ。
 個人の強さをもっていますけん。博多のロックバンドは京大西部講堂にも演奏に来ておりました。
 
 竹中さん。おら教科書で教わった日本歴史など、全然信用しておりません。
 やっぱ、おら50歳から「民の歴史」を再度勉強するべぇ。おらは、今、小学生からやり直すべ。
 歴史とは書かれなかった文物だっぺ。
 

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さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する「『源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものといえます。『源氏物語』の舞台の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的には観世音寺創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。」とものべています。 したがって従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』での出来事である 『大化の改新』 ・法隆寺を舞台にした 『聖徳太子』 等々の話は、作り話と言うことになります。
隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。『旧唐書』で言う 『倭国』 である。
ただ、『同書には土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』とあります。このことは何を意味するか、(もう少し細かく書いておいてほしかったものだが…、)。
女が多いってことは、男は半島での戦争に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだと言っているのでしょうね。

すこぶる文字多しとは、当時既にカタカナ・ひらがな・サンカ文字・アビル文字・漢字などがあったということでしょうし、またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦650年頃の九州は、寺・寺院が町にあふれ市民のそれぞれがお経を唱えていたこととなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…?。すなわち源氏物語の世界ということになりましょうか。
いっぽう、同書『旧唐書』には 『日本国』 は倭国の別種なり、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりともある。即ち『秦国』から脱皮した奈良王朝の初見である。

このことが、何を意味するか?。今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
すなわち『九州』 の北部一帯には、交易によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったこととなります。

邪馬壹国(邪馬臺国)・漢委奴国・親魏倭国・倭国・大倭国・?国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう? それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。
九州王朝『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦663年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城(秦)・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。

政権交代の時期は、そんなに古くない!。『倭国』が白村江の敗戦の、およそ10年后 『壬申の乱』(西暦672年) がその時期である、この時期に九州『倭国』は滅亡した。
替わって登場したのが『新羅』指示のもと、九州『倭国』と飛鳥『秦国』とを解体・改組し成立した、奈良の中央集権国家『日本国』王朝である。
なお、この王朝は弱体(新羅・唐のかいらい政権?)で、更に100年後、京都の『桓武王朝』へと引き継がれることとなる。現王朝・天皇家のはじまりである。

今の日本人には『倭国』と『日本国』とが、同じものとして受け止められているが、全くの別物と云えましょう。
日本人は戦前のある時期より『万世一系の皇統譜』 を教え、信じ込まされてきましたが、この広い世界中のどこにそんな国がありましょう。皆さんは疑問に思われないのでしょうか、日本だけは特別なのでしょうか?。
日本書記は大きな史実『九州王朝』を抹殺し・無視し・隠している。そしてそれと知りつつ、日本の歴史学者・奈良京都の遺跡管理者はそれに加担している。先の東北の偽の石器のたぐいとはかけ離れた、とんでもない“ワル”と云えましょう。


http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/

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--------------------アテルイは昨年から、演劇界では若い観客を圧倒したと聞きました。
◆アテルイ
7世紀に入り、律令国家建設を目指す朝廷が、東北のエミシ征伐を開始する。このとき朝廷が第一に注目したのが『水陸万頃の地』とたたえられた日高見国であった。8世紀に入り、朝廷は日高見国に軍を送りその肥沃な大地の占領を試みるが、これに立ち向かったのがエミシのリーダーである阿弖流為(アテルイ)であった。『続日本紀』などの正史にようとアテルイは、802年に征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏するまで3度にわたって朝廷軍を相手に交戦。一度目の巣伏の戦いでは、巧みな戦略で朝廷軍を一蹴し、京で君臨する権力者たちを震え上がらせた。


◆胆沢城
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂が阿弖流為軍を押さえ込み、古代東北の地を平定するために造営された。造営後は多賀城より鎮守府が移され、陸奥鎮守の拠点として、10世紀中ごろまで機能した。城の南には朝廷の権威を示す赤塗りの南門があり、場内には政治を司る『政所』を中心に役所『官衙』、台所『厨屋』などがあり、多くの役人や兵が生活していたことがわかっている。
(写真提供<水沢市埋蔵文化財
調査センター所有)

◆時代背景◆
東北地方の支配の拠点として、多賀城を造営した律令政府は、さらにその北方の胆沢の地を占領するために、都合3次にわたる遠征軍を派遣してきた。第一回遠征軍は延暦8年(789年)の征東将軍紀古佐美率いる52,800余人の軍で、これを胆沢の阿弖流為や母礼らは千数百人のゲリラ戦で迎撃し、北上川流域の『巣伏の合戦』で大勝した。この段階は蝦夷による胆沢の連合が軍事首長阿弖流為らを中心に組織されていたため、組織的作戦が可能であった。第2回胆沢遠征は、5年後の延暦13年で副将軍に坂上田村麻呂が任じられ10万の大群で侵攻してきた。戦いでは蝦夷軍も多くの損害を受けたが、阿弖流為たちは戦い抜いた。第3回遠征は延暦20年、征夷大将軍は田村麻呂で4万の兵で攻めてきた。しかし3次におよぶ戦いについに阿弖流為らは降伏した。延暦21年(802年)のことである。降伏した阿弖流為と母礼は、同年8月河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。(文<水沢市埋蔵文化財調査センター)


http://www.aterui.jp/history.html

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和 暦 西 暦 記        事
大化3 647 越後国(えちごのくに)に渟足柵(むたりのさく)造営
大化4 648 越後国に磐舟柵(いわふねのさく)造営
斉明天皇4  658 越後国に都岐沙羅柵(つきさらのさく)造営
和銅2    709 陸奥(むつ)・越後のエミシを討つ
和銅3    710 平城京遷都
和銅5    712 出羽国(でわのくに)設置
養老4    720 陸奥国のエミシ反乱
神亀1    724 陸奥国海道のエミシ反乱 多賀城(たがじょう)造営
神亀2    728 陸奥国に白河軍団(福島県)、玉造軍団(宮城県)を設置
天平9    737 大野東人(おおのあずまんど)、出羽直通路を開く
天平勝宝1  749 陸奥国から日本初の金が産出する
天平宝字3  759 桃生城(ものうじょう 宮城県河北町・桃生町)、雄勝城(おがちじょう 秋田県)できる
神護景雲1  767 伊治城(これはるじょう 宮城県築館町)造営
宝亀1    770 エミシ・宇漢迷公屈波宇(うかんめのきみうくはう)一族を率いて賊地に逃げ帰る
宝亀5    774 海道のエミシ、桃生城を襲う
宝亀7    776 陸奥国、軍士2万人を発して山海二道のエミシを攻める。胆沢のエミシを討つ。出羽国志波村(しわむら・盛岡市)のエミシ反乱
宝亀11   780 胆沢攻略のための覚?城(かくべつじょう)造営計画、伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)乱で挫折。呰麻呂、紀広純(きのひろずみ)と道嶋大楯(みちしまのおおだて)を殺害、多賀城を焼く
延暦3    784 征東将軍・大伴家持(おおとものやかもち)が派遣される
延暦8    789 アテルイ、「巣伏の戦い」で紀古佐美(きのこさみ)率いる52,800人余の朝廷軍を破る
延暦9    790 政府軍ふたたび胆沢を攻める
延暦13   794 平安京遷都。政府軍侵攻。征夷副将軍坂上田村麻呂登場、エミシ側に大きな被害
延暦15   796 参議坂上田村麻呂、陸奥出羽按察使(あぜち)、陸奥守、鎮守将軍を兼任
延暦16   797 坂上田村麻呂、征夷大将軍となる
延暦20   801 坂上田村麻呂、エミシを攻め
延暦21   802 胆沢城が造られる 正月11日:東海・関東地方から浪人4,000人が胆沢城に配される 4月15日:アテルイ、モレ、500人あまりを引き連れて降伏 7月10日:アテルイとモレ、田村麻呂に従い平安京に着く 8月13日:アテルイとモレを願いのとおり胆沢に帰すことを坂上田村麻呂などが申請するが、都の公卿は「申請により奥地に放還することは、虎を養い患いを遣す」として二人を河内国椙山で斬る
延暦22   803 志和城(盛岡市大田)が造られる
弘仁2    811 和我(わが)、稗縫(ひえぬき)、斯波(しわ)郡を置く
弘仁3    812 徳丹城(とくたんじょう・矢巾町)を造り、志波城(しわじょう)の機能を移転する。
承和6    839 胆沢城周辺世情不安、多賀城から援軍を送る
貞観4    862 黒石寺の「薬師如来坐像」作られる
元慶2    878 出羽のエミシ反乱、秋田城が焼かれる(元慶の乱)
永承6   1051 安部頼良、鬼切部の戦いで国府郡を破る。前九年の役のはじまり(〜10629
永承7   1052 源頼義、陸奥守(むつのかみ)になる
天喜5   1057 安部頼時、鳥海柵(とのみのさく・金ヶ崎)で没す
康平5   1062 ≪衣川柵の戦い≫安部貞任、衣川関を脱出し鳥海柵に入る。 ≪厨川の戦い≫安部一族滅亡
永保3   1083 後三年の役はじまる(〜1087)
寛治3   1089 藤原清衡、陸奥押領使となり、胆沢、江刺、我が、稗貫、斯和、岩手の奥六郡を支配する
      1099〜1140 この頃、藤原清衡、江刺豊田館から平泉に移る
長治2   1105 藤原清衡、中尊寺を建てる
大治3   1128 藤原清衡没す
文治5   1189 奥州藤原氏滅亡

http://www.aterui.jp/nenpyo.html

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