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「前衛」には語弊ありだが、私は「軍国少年」として「広瀬中佐」の映画を北京で見た。逆転の反撃を!
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投稿者 木村愛二 日時 2003 年 12 月 07 日 12:09:05:CjMHiEP28ibKM

(回答先: Re: 前衛にいる人々の死を美化するのはファシズムに突入するときの通過儀礼だ 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2003 年 12 月 07 日 10:16:53)

「前衛」には語弊ありだが、私は「軍国少年」として「広瀬中佐」の映画を北京で見た。

「前衛」は、今では売れ行きが悪くて廃刊かな。今や廃業寸前の日本共産党の機関月刊雑誌の題号だった。しかし、あれは実は「後衛」だった。

私は、1960年安保闘争では首相官邸に突入した際、警棒で「額」(front)を割られた。その時の写真は、わが電網宝庫の自己紹介に入れてある。

1960から1970年代に掛けては、労組役員として、まさに資本主義の牙城のド真ん中で、最前線の戦いの先頭に立ち、不当解雇の攻撃を受け、街頭でも右翼の街頭宣伝車の妨害をはね除けるデモ行進、巨大企業、官庁、裁判所を取り囲む抗議要請行動の指揮者だった。

その当時から、私は、「前衛」とはローマ軍の重装歩兵が縦に数列の横の隊伍を組み、前の列が崩れると、次の列が最前線に出る戦法を取った際、その先頭の隊列を「額」の意味のフロントと呼んだのであって、最前線にいない塹壕の奥深くに隠れている政治屋の専従が「前衛」などと名乗るのは、おこがましいと、嘲っていた。

広瀬中佐の映画は、北京で見ただけだから、当時の国民学校の1年から3年生の時期、6歳から8歳の頃のことである。

断片的にしか覚えていないが、広瀬中佐の私とは同年代の息子が、非常に、お行儀よろしく、お父様」と、お辞儀していたので、家に帰って、それを真似たら、わが父親は困った顔、わが母親は笑って、私に、「うちでは、お父さんでいい」と止めたことを、今でも鮮明に記憶している。

当時の子供の思想支配には、かなりの影響力を発揮した映画だったに違いない。

爆弾三勇士とも言ったようだが、私は、肉弾三勇士と記憶している。

思想教育には、」反対側からも猛攻撃、しかし、あくまでも教条的ではない事実に基づく反撃を繰り広げるしかない。特に、嘘を暴く努力と勇気が必要である。

ホロコーストが嘘とも言えず、逆にシオニストの嘘の「被害者」宣伝の片棒を担ぎ、911自作自演を「陰謀論」と」決め付け手」切り捨てるイ極右スラエルの手先、似非紳士、朝日新聞などの下司商売を徹底的に批判し去ることも、ますます重要になってきている。

一斉に逆転の反撃を加えよ!

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