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Re: テスト
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投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 9 月 11 日 14:33:51:WmYnAkBebEg4M
 

(回答先: Re: テスト 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 9 月 02 日 22:59:09)

 下記書籍の冒頭部分からです。スキャナで読み取りOCR処理しました。気がついた誤認識文字は直したつもりです。しかし、見落としもあるかも知れません。その時はご容赦願います。

>チェチェン やめられない戦争
>
>●著/アンナ・ポリトコフスカヤ訳/三浦みどり
>●発行/NHK出版
>●価格/\2,400+税

チェチェンの歴史

チェチェンとは何か?チェチェン人とはどういう人たちか?ロシアとチェチェンの戦争は何回あったのか?誰が何のために戦ってきたのか、そして戦っているのか?

 まずいくつか客観的データをあげてみよう。チェチェンというのは、コーカサス山脈主峰の北東部にあるそれほど大きくない地域を指している。チェチェン語は東部コーカサスの言語(ナフ・ダゲスタン語)に属している。チェチェン人は自らをナフチと称していて、チェチェンという名はロシア人が十七世紀につけたものと推定されている。チェチェン人の隣人はイングーシ人であるが、彼らの言語とチェチェン語は、非常に近い。文化も似ている。チェチェンとイングーシの両民族は自らをヴァイナフ――「我々の国民、民族」という意味――と称している。チェチェン人は北コーカサスでもっとも人数の多い民族である。
 チェチェンの古代史はよくわかっていない。客観的資料があまり残されていないからだ。中世、ヴァイナフの民族がいたこの地域全体は、大遊牧民のチュルク語族、イラン語族が移動していく道にあたっていた。チンギス−ハンもその孫のバトゥ−ハンもチェチェンを攻略しようとしたが、ほかの北コーカサスの民族と違ってチェチェン人はキプチャク−ハン国が倒れるまで白由民の地位を維持し、決して征服者に屈することがなかった。

ふたりの英雄

 ヴァイナフからモスクワヘ初めて公式の使節団が送られたのは一五八八年であった。十六世紀後半にチェチェンの地域に初めての小さなコサックの小都市がつくられ、十八世紀にロシア政府はコーカサス攻略を始めて、特別のコサック軍団を組織し、それがロシア帝国の植民地政策の拠点となった。その時から今日にいたるまでのロシア−チェチェン戦争の歴史が始まった。
 その第一段階は十八世紀。その頃七年間にわたって(一七八五年から九一年にかけて)チェチェンのシェイフ(族長)、マンスールに率いられた北コーカサスの多くの民族の連合軍が、ロシア帝国に対抗して解放戦争(カスピ海から黒海にいたる)を戦っていた。この戦争の原因は、まず土地であり、第二に経済であった。チェチェンの領土を通っている通商のルートをロシアがわがものにしようとしたのだ。一七八五年までにロシア帝国政府はコーカサス強化線をつくりあげていた。いわゆるカスピ海から黒海までのコーカサスラインで、それはまず、山岳民の豊かな土地を徐々に奪っていくこと、第二にチェチェンを通って運ばれる商品に対して、ロシア帝国に有利な関税を取り立てることを目的とするものだった。
 マンスールは、チェチェンの歴史上特別な存在で、ふたりの英雄のうちのひとりだった。彼を知る人によると、熱狂的にその使命に打ち込んでいた。それはロシア帝国に対する北コーカサス諸民族の団結であり、民族を裏切る者たちとの戦いであった。彼は一七九一年に捕虜になるまで戦いつづけ、その後ソロヴェツキー修道院(白海上の島にあり、一九三〇年代のスターリンによる粛清の時にも流刑囚が送り込まれた)に送られ、そこで落命した。一八一三年にロシアは外コーカサス(コーカサス山脈以南の地)に完全に腰を落ち着けた。北コーカサスはロシア帝国の後方となった。一八一六年にコーカサスの総督に任命されたのがアレクセイ・エルモーロフ将軍で、彼は一貫して苛酷きわまる植民地政策を実施し、コサックの入植を進めた(一八二九年だけでチェチェンの地にはチェルニーゴフ、ポルタヴァの二県から一万六千人以上の農民が入植した)。エルモーロフ軍はチェチェンの村落を住民もろとも容赦なく焼き払い、森林、畑を焼き尽くし、生き残ったチェチェン人は山へ追いやった。山岳民がわずかな不満でも示そうものなら懲罰作戦が行われた。
 ミハイル・レールモントフやレフ・トルストイの作品が、それを証言している。両作家とも北コーカサスで従軍したことがあり、この事態を体験していた。
 一八一八年にはチェチェンを脅しつけるためにグローズヌイの要塞(現在のグローズヌイ市)が築かれた。エルモーロフの圧政に対してチェチェンの反乱が起きたが、これを鎮圧する目的で一八一八年にコーカサス戦争が始まった。これは断続的に四十年以上続いた。一八三四年、マンスールの後を継いだシャミーリがイマーム(イスラムの宗教的指導者)とされた。
 彼こそ、もうひとりの英雄、イマーム・シャミーリ(一七九七〜一八七一年)であった。彼はコーカサス戦争の第二の段階つまり、十九世紀のリーダーだった。彼に率いられたゲリラ戦でチェチェン人は死にものぐるいで戦った。
 十九世紀のロシアの歴史家R.ファデーエフの証言がある。「ロシアの戦記に重要な時代を書き込むことになった山岳軍は比類なく強力なものだった。ロシア帝国の相手となったもののうちで最強の国民軍だった。スイスの山岳民も、アルジェリアやインドのシーク教徒もチェチェン人やダゲスタン人ほど高いレベルで戦うことはなかった」
 一八四〇年にチェチェン人の全面的な武装蜂起が起きた。これに成功し、チェチェン人は初めて自らの国家を建設しようとした。シャミーリのイママト(イマームの国家)である。しかし、この反乱はさらに残虐に鎮圧されてしまう。「コーカサスでの我々の行動は、アメリカ大陸を攻略した当初にスペインが味わったものと同じすべての不幸を思い起こさせる」と一八四一年にラエーフスキー将軍は書いている。「スペインが歴史に残した血生臭いページと同じものを、コーカサス征服がロシア史に残さないでくれればいいが」。
 一八五九年にシャミーリは敗北、捕虜になる。チェチェンは壊減的な打撃を受けるが、それでもなおロシアヘの併合に絶望的な抵抗を二年間続けた。

コーカサス戦争終緒から第二次世界大戦まで

 一八六一年にロシア政府はようやくコーカサス戦争の終結を宣言、コーカサス征服のためにつくられたコーカサス強化線を廃止した。チェチェンの人たちは十九世紀のコーカサス戦争でチェチェン人の四分の三が失われたとしている。ロシア、チェチェン双方では数十万の死者を出した。
 戦争終結とともにロシア帝国政府は生き延びたチェチェンの人びとを、地味豊かな北コーカサスから追い出した。そしてその土地には、ロシアの辺鄙な場所から来た兵士、国境防備のコサックや農艮が移り住むようになった。政府は入植者の移動手段と補助金を提供する移住委員会を設置。
 一八六一年から六五年までにトルコに五万人のチェチェン人が追放された(この数字はチェチェンの歴史家によるもので、ロシアの公式発表では二万三千人以上とされている)。また一八六一年から六三年、ロシアに併合されたチェチェンには、百三十三のコサック集落がつくられ一万三千八百五十世帯のコサックが住み着いた。
 一八九三年にグローズヌイで本格的な石油採掘が始まった。外国の銀行がやって来て、投資が始まり大企業が設立された。産業、商業が急成長し、ロシアとチェチェンの間では、恨みや傷が癒されていった。
 十九世紀末から二十世紀の初めに、チェチェン人はロシア側の戦士として戦争で積極的に戦った。ロシアに対して決して裏切り行為をしなかった。それどころか限りない勇気と献身を示し、死を恐れず、痛みによく耐えるチェチェン人についての証言がたくさん残っている。第一次世界大戦でもチェチェン人とイングーシ人の連隊「檸猛師団」が勇名を馳せた。当時の記録に「彼らはお祭りに出かけるかのように戦いに出ていき、華々しく死んでいった」とある。
 大半のチェチェン人は革命後の国内戦では、反革命側の「白軍」にはつかなかった。ボリシェヴィキこそロシア帝国と戦っていると考えたからだった。この時、「赤軍」についたことは、現在のチェチェン人にとっても変わらぬ原則的立場である。
 一九二一年に山岳ソビエト共和国が宣言され、チェチェンもそこに合流した。その条件はロシア帝国が取り上げた土地をチェチェン人に返却し、チェチェン民族の風習、イスラムの法典と慣習法を認めるということだった。しかし、その一年後には山岳ソビエト共和国はないに等しい状態となった(一九二四年には完全に廃止された)。山岳ソビエト共和国の構成要素であったチェチェン州は一九二二年十一月にはすでに別個の行政単位として、共和国から分離されてしまった。しかしチェチェンの発展は、二〇年代に始まっている。一九二五年には最初のチェチェン新聞が発行され、二八年にはチェチェンのラジオ放送が始まった。識字率を上げる対策も進められた。グローズヌイにはふたつの教育高等専門学校とふたつの石油関係の高等専門学校が開かれ、一九三一年には最初の国民劇場がつくられる。
 しかし、それは新たな国家的テロの時代の到来でもあった。
 最初の波でそれまでにもっとも権威のあったチェチェン人ムッラー(イスラム法と教義の権威者)と裕福な農民が、合わせて三万五千人掃討された。第二の波ではやっと産声をあげつつあったチェチェンのインテリ層三千人が排除された。一九三四年、チェチェンとイングーシはひとつのチェチェン・イングーシ自治州になり、一九三六年にはグローズヌイ市を首都とするチェチェン・イングーシ自治共和国となった。しかしそれも救いとはならなかった。一九三七年七月三十一日から八月一日にかけて、教育や社会的な活動によって少しでも目立っていた人たち一万四千人がさらに逮捕された。その一部はほとんど直ちに銃殺され、残りはラーゲリ(強制収容所)で命を落としていった。逮捕は一九三八年十一月まで続いた。その結果チェチェン・イングーシ自治共和国の共産党と経済界の首脳部が壊滅させられた。
 チェチェン人たちは、政治弾圧のこの十年間(一九二八〜三八年)にヴァイナフ民族(チェチェンとイングーシをあわせた呼び名)のもっとも先進的な層二十万五千人以上が殺されてしまった、としている。
 それでも一九三八年にグローズヌイでは教育大学が開設された。これは伝説的な大学で、その後数十年にわたってチェチェン・イングーシ自治共和国のインテリ層を育てる場となり、それが活動を停止したのは強制移住の時期と度重なる戦争の間だけだった。第一次チェチェン戦争(一九九四〜九六年)と、第二次チェチェン戦争(一九九九年以来今も続いている)でもユニークなその教師陣は奇跡的に残っている。
 第二次世界大戦以前、チェチェンで文字が読めない人は全体の四分の一だけだった。当時三つの大学と十五の中等専門学校があった。第二次世界大戦には二万九千のチェチェン人が出征し、その多くは志願して戦列に加わった。そのうち百三十人がソビエト連邦英雄の称号を与えるよう推挙され(「好ましからざる」民族に属する人びととされ、授与されたのは八人だけだったが)、四百人以上がブレストの要塞(ベラルーシにあり、ソ連西方の重要な要塞)を守って戦死した。

 一九四四年二月二十三日(赤軍記念日というソ連時代からの祭日、現在は「祖国の守り手の日」と呼ばれる)、スターリンによる強制移住が行われた。三十万以ヒのチェチェン人と九万三千のイングーシ人が中央アジアヘ一日で強制移住させられた。これによって十八万人の命が奪われた。それから十三年間チェチェン語の使用が禁じられた。一九五七年になりスターリンが偶像の座を降ろされてから(スターリンの死は一九五三年)、生き延びた人びとが帰還し、チェチェン・イングーシ自治共和国再建を許された。一九四四年の強制移住は民族にもっとも深いトラウマを残し(現在のチェチェン人の三分の一が流刑の経験者とみなされている)、人びとは今でも強制移住の再現の恐怖に身を震わせる。いたるところで「KGBのしわざ」を疑い、新たな強制移佳の兆しを探る習慣ができてしまった。
 今、多くのチェチェン人が「もっとも良い時代だったのは、強制的なロシア化の政策が行われつつ、チェチェン人がまだ"不審者"(原著では縦書きなので脇点)とみなされていた一九六〇年代から一九七〇年代だ」と言う。チェチェンはすっかり再建され、再び産業の中心となり、数千の人びとが質の高い教育を受けられるようになった。
 グローズヌイは北コーカサス一の美しい街となり、そこでは、いくつかの劇団が活動し、フィルハーモニー、大学、全国に知られる石油研究所が活動していた。しかもグローズヌイはコスモポリタンの街として発展していた。ここでは実に多様な民族が平和に仲良く暮らしていた。グローズヌイでロシア人にとってもっとも頼り甲斐のある隣人はチェチェン人だった。

新しい民族独立運動

 ペレストロイカと、それにもましてソ連邦崩壊によってチェチェンの地域は再び政治的ないさかいと挑発の舞台となる。一九九〇年十一月、チェチェン民族会議が開かれた。翌年、国家主権宣言を採択し、チェチェンの独立を宣言した。年間四百万トンの石油を産出するチェチェンは、ロシアなしでも揚々と生き延びられるという考えが活発に議論される。
 ここに急進的な民族のリーダーが登場する。ソ連軍少将ジョハール・ドゥダーエフである。ポストソビエト時代のいたるところで主権宣言がはやる中、新しい民族独立運動といわゆる「チェチェン革命」の頭目となる。
 一九九一年八月から九月にかけて、モスクワでクーデター未遂事件(反ゴルバチョフのクーデター)があったあとの一連の動きとして、ソ連の行政機構であったチェチェン・イングーシ自治共和国最高会議は解散させられ、従来のソ連の憲法規定にない機関(民族会議の執行委員会)に権力が渡った。この民族会議で選挙の実施が決まり、ロシア連邦の一員であることを拒否した。日常生活のあらゆる面が「チェチェン化」し、ロシア系住民の流出が始まった。
 一九九一年十月二十七日にドゥダーエフは、チェチェンの初代大統領として選出された。選挙のあと、ドゥダーエフは、チェチェンをロシア連邦から完全に分離する方向へ、ロシア帝国の櫃民地主義を再びチェチェンに寄せつけない唯一の保障として、チェチェン人自身の国家をつくることへと導いていった。
 一九九一年のこの「革命」の時期にも、わずかに残っていたチェチェンのインテリたちは、グローズヌイのトップの座から追い払われ、主としてより勇敢で妥協を受け入れない、断固たる元の反主流派がその座についた。
 経済の何たるかを知らない者たちが経済を牛耳るようになった。共和国では熱病にかかったように、集会やデモが繰り返された。どさくさにまぎれて、チェチェンの石油はいずこへともなく流出していく。一九九四年十一月から十二月にこれらすべての出来事の結果、第一次チェチェン戦争が始まった。ロシアがこの戦争に与えた公式の名称は「憲法体制の防衛」だった。血の雨の降る戦いが始まり、チェチェンの新編成部隊は死にものぐるいで戦った。グローズヌイヘの最初の襲撃は四か月続いた。連邦軍による空爆と砲撃でグローズヌイの市民とともに次々に市街が破壊されていった。戦火はチェチェン全土に広がった。
 一九九六年には連邦軍とチェチェン双方の犠牲者が二十万人を超えたことが明らかになった。クレムリンはあまりにチェチェン人を甘く見ていた。氏族(テイプ)間の利害対立を利用しようとしたことが、逆にチェチェン社会の団結とこれまでにない民族精神の高揚を呼び起こし、ロシアにとって見込みのない戦いとなってしまった。一九九六年夏の終わりに当時のロシア安全保障会議書記だったアレクサンドル・レベジ将軍(二〇〇二年に飛行機事故で死亡)の尽力で無意味な流血を停止することができた。八月にはハサヴユルト合意がなされ、「声明」つまり政治宣言と、「ロシア連邦とチェチェン共和国の相互関係の基本を確定する原則」、すなわち「五年間の非戦について」が調印された。この文書にはレベジ氏とチェチェン・レジスタンス軍の参謀長マスハードフのサインがある。その時期にはドゥダーエフ大統領はすでに故人であった。彼は衛星電話をかけている時に誘導ミサイルで爆殺された。
 ハサヴユルト合意は第一次チェチェン戦争にピリオドを打ったが、第二次チェチェン戦争の前提を用意した。連邦軍は「ハサヴユルト」によって侮辱され屈辱を味わった――「軍が最後まで事を全うする」のを政治家が邪魔した――と感じていた。それが第二次チェチェン戦争における前例のない残虐な復讐、一般市民や武装勢力に対する中世を想起させる報復のエネルギーの源となった。
 一九九七年一月二十七日、第二代大統領になったのはアスラン・マスハードフだった。選挙は国際監視団の見守る中で行われ有効と認められた。彼は元ソ連車大佐で第一次チェチェン戦争ではドウダーエフ側についていたリーダーだった。
 一九九七年五月十二日にロシア大統領(ボリス・エリツィン)とイチケリア・チェチェン共和国という名を宣した国の大統領(アスラン・マスハードフ)によって「平和と平和な相互関係の原則についての条約」(今は完全に忘れ去られているが)が調印された。ハサヴユルト合意にしたがって、「チェチェンの政治的地位については先送りにして」チェチェンを管理することになったのが、第一次チェチェン戦争で指導権を握るようになっていた野戦司令官たちで、その大半が勇敢ではあるが、あまり教養のない文化に暗い人たちだった。
 時が経って、チェチェンの軍事エリートは政治的経済的なエリートに成長することはできなかったということがわかった。空前の権力争いが始まり、その結果一九九八年夏にチェチェンは内戦突入の瀬戸際に立たされていた。マスハードフと彼の敵たちの対立の結果だった。
 一九九八年六月二十三日、マスハードフの暗殺末遂事件が起きた。一九九八年九月、シャミーリ・バサーエフ(その時期、イチケリア・チェチェン共和国の首相だった)に率いられた野戦司令官たちがマスハードフの辞任を要求した。
 一九九九年一月、マスハードフはイスラム法典による統治を導入し、広場での公開処刑を開始したがこの措置も分裂と不服従から救ってはくれなかった。同時にチェチェンは急速に貧困化が進み、人びとは賃金も年金も受け取れず、学校は機能不全もしくは機能停止の状態に陥った。ワッハーブ派、(「あごひげ」)と呼ばれるイスラムの急進派が、わが物顔に各地区で決まりを押しつけ、人質ビジネスが横行し、共和国はロシア犯罪社会の掃きだめとなり、マスハードフ大統領はこれをどうすることもできなかった。
 一九九九年七月、シャミーリ・バサーエフとハッターブ派のひとりの野戦司令官が率いる部隊がダゲスタン共和国(チェチェンの東隣にあるロシア連邦内の共和国)の山村に行軍。ロシアはチェチェン側のこの行動に対して返答するのが当然に思われた。しかし、クレムリンでは意見の一致をみない。ダゲスタンヘのチェチェンによる襲撃の結果起きたことは、ロシアの強権機関の指導部交代であり、ウラジーミル・プーチン連邦保安局長官がよぼよぼの大統領の後継者兼首相に任命されたのである。八月から次々に起きたモスクワ、ブイナクスク、ヴォルゴドンスクで多数の犠牲者を出すアパート爆破事件を根拠に、プーチンは一九九九年九月、「北コーカサスにおける対テロ作戦」の開始を命じ、第二次チェチェン戦争を始めることを認めた。

終わらない戦い

 それ以来状況は大きく変化する。二〇〇〇年三月二十六日、プーチンはロシア大統領選に勝利し、ロシアが敵との戦いにおいては「強いロシア」であり、「鉄の手」を持つ、というイメージづくりに戦争を最大限利用した。大統領になったプーチンはその後何度か現実的なチャンスがあったにもかかわらず、やはり戦争をやめなかった。その結果コーカサス戦役は、今や二十一世紀だというのに、再び慢性的な、あまりに多くの者にとってうま味のある戦争になってしまった。それについては後述する。
 第二次チェチェン戦争も多数の犠牲者を双方から出した。開始してから三年後の今日、チェチェン人がどのくらいチェチェンに住んでいて、世界中ではどのくらいいるのか誰にもわからない。いろいろな情報源によってその数は様々で、数十万単位の開きがある。ロシア連邦側は人的損失や難民の規模を少なめに言うし、チェチェン側は誇張して言う。
 そこで唯一客観的な情報源はソ連での最後の国勢調査(一九八九年)の結果だ。当時チェチェン人は約百万人だった。トルコ、ヨルダン、シリアほか西欧諸国にあるチェチェンの離散民(デイアスポラ:これらは主として十九世紀の露土戦争と一九一七年から二〇年の国内戦の時の移住者たち)も合わせると百万人強だった。
 第一次チェチェン戦争から現在までに移住していった者を考えると、国外のチェチェンディアスポラはいたるところで拡大していることが明らかだ。私が第二次チェチェン戦争の間中、チェチェンの地区や農村部の行政責任者と常にコンタクトを持っていたことにより集められた、個人的かつ客観的とは言えないデータをもとにすれば、チェチェンには現在五十万から六十万人が残っている。
 多くの居住地点では自力でその日その日を生き延びており、グローズヌイ――「新チェチェン政権」からの支援も、マスハードフ派のいる山からの支援も期待しなくなっている。それより結局、チェチェンの伝統的な社会体制であるテイプが守られ強化されている。
 テイプとは、氏族制あるいは「大家族の集まり」のようなものだが、それは必ずしも血縁によるのではなく、同じ居住区や地域の近在隣人共同体でもあり得る。かつてテイプを形成することの意義は土地を守るというものであった。現在の意義は事実上生き延びるということだ。
 チェチェン人によれば、現在百五十のテイプがあるという。今日、政治的な役割を果たしているテイプもある。そのうちの多くはこの十年間にあったふたつの戦争中も、その戦間期のイチケリアが存在しテイプのような社会構造を否定するイスラム法典が施行されていた時期にも、社会的に揺るがなかった。
 しかし、この先、何が中心となるのかは、今のところ明らかでない。

※著者:アンナ・ポリトコフスカヤ
 ロシア人ジャーナリスト、一九八〇年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙評論員。一九九九年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えている。その活動に対して、ロシア連邦ジャーナリスト同盟から「ロシア黄金のペン賞(2000)」、アムネスティ・インターナショナル英国支部から「世界人権報道賞(2001)」を受けた。2002年、モスクワの劇場占拠事件では、武装グループから仲介役を指名され交渉にあたった。

なお、アンナ・ポリトコフスカヤは女性ジャーナリストです。

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