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田中真紀子長女 わずか一年で離婚──週刊文春2004年3月25日号
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/422.html
投稿者 エンセン 日時 2004 年 3 月 17 日 23:48:06:ieVyGVASbNhvI
 

(回答先: 出版禁止になった「週刊文春」の中身(日刊ゲンダイ3月18日号より) 投稿者 エンセン 日時 2004 年 3 月 17 日 23:44:50)

 
田中真紀子長女 わずか一年で離婚──週刊文春2004年3月25日号
母の猛反対を押し切って入籍した新妻はロスからひっそり帰国

「話すことはありません」
 田中真紀子(58)の周辺に接触すれば、真っ先にぶつかる言葉は、これだ。
 異常なまでの慄きと怯え、そして「触らぬ神に崇りなし」という反応が、即座
に返ってくるのである。
 ある者は、
「あの女はたしかにまともじゃない。でも、話せばオヤジ(角栄のこと)に迷惑
をかけることになる」
 と口を噤み、またある者は、
「あんなやつとは関わりあいたくない。もう、(田中家との関係は)過去のこと
だ」
 と、突き放す。
 田中角栄が27歳で政治の世界に打って出て以来、ゆうに半世紀を超えた。
 角栄も死去し、はな夫人も亡くなり、角栄のきょうだいもほとんど鬼籍の人と
なった。残された田中家の“棟梁”こそ真紀子さんその人である。
 しかし、金脈問題やロッキード事件などで全国から激しい非難を受けても地元
で揺らぐことのなかった角栄への信頼や尊敬の声は、真紀子に対しては聞かれな
い。
“目白のじゃじゃ馬”
“シャモスケ(注・軍鶏のような女ということらしい)”
 などと、まだ父親の庇護のもとで多少の愛嬌とユーモアも込めて呼ばれていた
のも今は昔。昨今では、
「オヤジの唯一の失敗は、娘を教育しきれなかったことだ」
 との見解が、田中家に関わった者の共通認識ともなっている。昨年来、外相と
なって一国の外交を担うなかで、次々と飛び出す異常な言葉や行動の根源は果し
てどこにあるのか。
 それを知るには、彼女が歩んできた軌跡と、それを取り巻いた田中家の人々を
浮かび上がらせる以外に方法はないのかもしれない。

 裸一貫から総理の地位に登り詰めて“今太閤”と称され、一転、金脈報道から
ロッキード事件で逮捕。さらには創政会の旗上げによる田中派の分裂、そして脳
梗塞での引退と8年間の闘病の末の死──田中角栄の人生は、まさに波瀾万丈と
いう表現がふさわしい。
 しかし、かつての側近や秘書たち、あるいは世話になった書生たちの口から出
てくるのは、それまでの光り輝いた人生に比べて、病いに倒れて以降の8年間が
あまりに哀れで、惨めだったという嘆きである。
 「なにもあそこまでしなくても……」
 角栄の血を分けた肉親ですら、そう呻いたものだ。
 そして、その批判の矛先は、必ず真紀子に向かう。
 角栄が倒れたのは、昭和60年2月27日。それから、平成5年12月16日に死去する
までの間、角栄にとって地獄の日々が続くのだが、それは、田中家にかかわるす
べての人にとっても同じことだった。
 なぜなら、あの迫力あふれるイメージとは裏腹に、周囲の人間には驚くほどの
細やかな気配りを見せていた主・角栄が倒れたことによって、この家のすべてが
真紀子の一存で動くようになったからである。
 そして、始まった真紀子の独裁は、それまで角栄が築き上げてきた人間的な繋
がりを粉々にし、四散させてしまう驚くべきものだったのである。

唖然とする振るまい

 まず、こんなエピソードから始めよう。
 目白の田中邸には、書生やお手伝いが常駐している。
 角栄が倒れるまでは、10人前後が普通だったが、倒れて以降は、数人となっ
た。
 このお手伝いたちが、次々辞めていくことが続いたのである。
 かつてお手伝いは、越後交通から派遣されることが多かった。
 いうまでもなく、越後交通は角栄の後援会「越山会」の中核企業。地元では、
一流企業だ。ここで1年から1年半ほど働き、その中で特に優秀だった女性社員が
抜擢されて、目白邸で勤務するのである。
 しかし、時が経ち、今度は秘書が越山会を通じて直接探してくるようになる。
そうしたお手伝いが、角栄が倒れて以降、なぜか不本意な辞め方をすることが続
いたのである。
 そして、辞めたあと、彼女たちは貝のように口を閉ざし、何があったのか語ろ
うとしないのだ。
 あの目白の高い塀の奥でどんなことが起っていたのか。
「真紀子さんの猜疑心がすべての原因です。こき使われ、疑われ、そして罵倒さ
れ、ボロボロになってお手伝いさんは辞めていくのです」
 と、ある田中家の閑係者がこんなことを明かす。

「お手伝いは田中家の家事全般をやっていますが、家の中で小銭がなくなって
も、電気を消し忘れても、鍵をかけ忘れても、真紀子によって猛烈な犯人さがし
がおこなわれるのです。疑いをかけられ、面罵され、身におぼえがないのに、泣
きながら謝罪させられる彼女たちは、結局、辞める道を選びます。罰として、
素っ裸で母屋の階段を昇り降りさせられたり、雨の中、玉砂利の上で正座させら
れて謝まらされたお手伝いさんもいます。でも、彼女たちは辞める時に“事務所
の中(邸内)で見たこと、知ったことは一切口外しません”という念書を書かさ
れるんです。実際に勤めている時に真紀子の恐ろしさは十分、知った上で去って
いくわけですから、彼女たちは辞めたあと、本当に“貝”になってしまう。角栄
さんが元気だったら、とても考えられないことでした」
 そして、遂にはこんな信じられない悲劇も起こったという。
 あるお手伝いが、食卓にカレーを運んでいた時のことである。
「その時、お手伝いさんが皿を落として割ってしまったのです。その瞬間、真紀
子さんが激昂し、食卓にあったカレーをお手伝いにかけたのです。彼女はギャー
といったままうずくまってしまった。彼女は顔の半分に熱いカレーを浴びて、火
傷してしまうのです。もちろん彼女はお手伝いを辞めますが、悲劇なのは、その
跡が今も赤いケロイドになって残っていることなんです。彼女はその後、誰とも
接触せず、沈黙を続けていますが、お手伝いさんの中にはそのことを知っている
人もいるんです……」(古参秘書)
 外務省で秘書官に書類をぶちまけたり、指輪を買いに走らせたりするレベルの
話ではない。
 悲劇というより唖然とするエピソードである。

奇妙な母娘関係

 真紀子が生まれたのは、昭和19年1月14日のことだ。
 角栄が25歳、はな33歳の時である。
 当時、角栄は自ら起こした田中土建の社長。15歳で新潟の長岡から上京した角
栄は、夜学に通いながら職を転々とし、建築士の免許をとって、やがて飯田橋に
建築事務所を起こす。これが田中土建である。
 この時の事務所の大家の娘が、はなだった。彼女はその10年はど前に一度結
婚。静子という娘をもうけたが離婚し、実家に戻っていた。そして、角栄の事務
所の手伝いをするうちに妻となるのである。
 角栄が自ら著した『私の履整書』によれば、はなは結婚に際して、
「喧嘩をしても出て行けと言わないこと」
「私を嫌いになっても、足蹴にしないこと」
「将来、二重橋を渡る日(皇居に呼ばれること)があったら、自分を連れていく
こと」
 という条件を角栄に出したという。はなの最初の結婚での苦労を想像させる話
である。
 真紀子にとって、母親が再婚で家庭内で肩身の狭かったことが、のちの性格形
成に大きくかかわってくるのだが、それは後述する。
 真紀子には1歳ちがいの兄がいたが、小児結核でわずか5歳で夭折。嘆き悲しん
だ角栄は、真紀子をその長男に代わり、跡取りとして育てていくことになる。
 真紀子が3歳の時に、角栄は衆議院議員に初当選。父親の権力が次第に増して
いく過程で、彼女は物心をつけ、人格を形成していく。そして、その中で、数々
のエピソードを残していくのである。

 真紀子は、田中家にとって特別な存在であり続けた。
「跡取りの真紀子は、自宅にあっても正月や法事で親戚が集まった際には、はな
さんよりも上座に座らされていました。オヤジがいる時でも次席で、はなさんよ
りも上座でしたよ。意識するとしないにかかわらず、自分が父親の次にえらい、
という意識は、小さい時から自然に備わっていったと思います」(元越山会幹
部)
 しかし、まだ世の中の道理も分っていない子供のうちから、まわりの大人がか
しずき、甘やかすことが、その人の人生にプラスをもたらすわけはなかった。
「小さい頃から、自分の思いどおりにならないとヒステリーを起こす女の子でし
たね。オヤジも、真紀子さんの育て方のことで、まだ元気だった母親のフメさん
に注意されたことがあったと聞いています。でも、子供の頃はまだ可愛くて愛嬌
もあったから、オヤジもそのままにしていたんだね」(同)
 そんな時、母親のはなが本来なら娘に対して果たさなければならない役割は大
きかったはずである。しかし、
「はなさんは、子供の頃に中耳炎を患い、耳がやや速かったこともあって、家の
中では控えめでした。それは真紀子さんに対してもそうだったのです。再婚で静
子さんという連れ子がいたこともあり、負い目もあったのでしょう。ヒステリー
を起こすことの多かった真紀子さんの矛先がはなさんに向くこともよくありまし
た。いつの間にか母親の方が逆に娘にすがるような関係になっていたような気が
します」(角栄の元側近)

 母親の連れ子である姉・静子は、真紀子より10歳年上だった。が、その存在
は、驚くほど影の薄いものだった。
「真紀子さんは、“自分は一人っ子”というのが口癖でした。実際、多くの書生
が出入りしていた田中邸でも、静子さんの存在感は薄く、ほとんど印象に残って
いません。女性でありながら、跡取りとして育てられ、常に父親の次にいた真紀
子さんには、自分以外に角栄の子供がいることが許せなかったのかもしれない。
10歳も年上の姉ですが、彼女の口からその名が出たことがほとんどないことが物
語っています」(前出・古参秘書)
 のちに、静子と真紀子の姉妹は、財産をめぐってちょっとしたトラブルを起こ
すことになるのだが、それは次号で触れる。ともかく母親であるはなの存在感
は、真紀子が成長するにつれ、どんどん薄れていくのだ。
 ある元書生の回想である。
「ある時、はなさんが好きなワイドショーを見ていたんです。角さんと口げんか
をしてイライラしていた真紀子さんが“何よ、うるさいわね”と言ってブチッと
テレビを消しちゃったんです。でも、はなさんは何も言えずに黙っているしかあ
りませんでした。母親に向かって、学歴がない、とか、人前でなにもできない、
ということを直接いっていたところを聞いた人もいますよ」
 ふつう母親にとって娘は“分身”であり、娘にとっては母親は手本であり、人
生の先生でもある。しかし、この普遍の法則は、この母娘にはあてはまらない。
それは、真紀子本人にとって、大いなる不幸だったに違いない。
 思春期を迎え、やがて真紀子が父親に何人もの愛人が存在し、別に子供までい
ることを知った時、それは深刻なものとなる。
 自分以外に父親が愛情を注ぐ対象が存在し、そのことを母親が許しているとい
う現実。この事実に直面した時、頼るべき母親、いや真紀子の衝撃を受け止める
べき母性の存在がなかったことは、彼女にとって最大の不幸だったのではないだ
ろうか。

もう一つの家庭

 角栄には、神楽坂に辻和子という愛人がいた。もともとは木場の材木商の娘
で、家業がつぶれ、養女に出て、神楽坂で芸者をしていた女性である。
 角栄は和子を20歳の頃に見初め、二人の男の子をもうける。田中京(50)、祐
(44)という兄弟である。
 長男の京によれば、
「父はいつもSP付きの車で突然帰って来ました。そして食事を取っていくんで
す。濃い味付けが好みで、納豆やお握り、塩鮭というようなシンプルなものが特
に好きだった。学校の成績にはあまりうるさくなかったのですが、礼儀のことと
なると厳しかった。挨拶や食事の作法がまずいと張り手が飛んでくることもあり
ました。それで、しばらく寝ころんだりして、“じゃ、帰るぞ”と帰っていく。
そんな父でした」
 ある田中家関係者がいう。
「オヤジの正月は2回あったんです。元旦は目白邸で過ごし、2日は神楽坂の別宅
に行っていました。あそこには、オヤジが可愛くてたまらなかった二人の男の子
がいましたからね。真紀子さんとは年もかなり違いますが、周囲はそんなことを
真紀子さんにだけは知られないように大層気をつかっていました。でも、思春期
を迎えた娘がいつまでもそれに気がつかないはずはありませんでした」
 ある時、その存在を知った真紀子は、神楽披の“別宅”をなんの前触れもな
く、一人で訪ねていくのである。
「彼女は意を決してやってきたのでしょう。しかし、目白の意向も聞かずに会わ
せるのは問題だと辻家の方が判断し、お引き取り願ったのです。彼女は複雑な思
いで“兄弟”に会ってみたかったのだと思いますが……」(関係者)
 弱冠39歳で岸内閣の郵政大臣に就任した時のお国入りパレードでも、中学生に
なったばかりの真紀子が角栄の隣で「一人娘」をアピールし、さらには、その
後、お下げ髪の制服の中学生だった真紀子が父親に付いて外国要人とのパー
ティーでホステス役を務めるなど、真紀子は“跡取り”の役目を着実にこなして
いく。しかし、一方で彼女は父親の“もう一つの姿”を確認すべく、こんな内面
の葛藤を続けていたことになる。
 しかし、やがて日本女子大附属高校の高校生となった真紀子は、逆に今度は
次々と父親を悩ませる“パンチ”を繰り出してくるのである。

 この頃の真紀子を当時の友だちはこう見ていた。
「明るくてハキハキしたお嬢さん。ちょっとガラッパチのところがあった。附属
から来たボーッとしたおとなしい子が多い中で目立った存在でした」
「同学年には、鈴木善幸さん(当時、郵政相)のお嬢さんがいて、上級生には、
愛知揆一さん(のちの外相)や根本龍太郎元官房長官のお嬢さん、一つ下には中
曽根康弘さんの姪ごさんなどがいて、政治家のお嬢さんは珍しくなかったです
ね。でも、田中さんのお父様は学歴や経歴の面で少しその人たちとは違ってたか
ら、彼女、
そのあたりをちょっと気にしていたかもしれません」
 中学時代に池田勇人の令嬢たちと一度アメリカ旅行を経験していた真紀子は、
高校生の時にアメリカへの留学をめぐって父親と激しい衝突をしている。
 角栄の元側近はこんな意外な事実を明かす。
「実は、通っていた高校の校長先生から、角さんとはなさんが二人揃って学校に
呼び出されたことがあったらしいんです。どうも学業があまり芳しくないなど、
いろいろ学校であったようです。“うちの家系はもっと頭はいいはずなんだけど
なぁ”と角さんが嘆いていたことを思い出します。でも、留学で娘を手元から離
すなんてことは、角さんには考えられないこと。アメリカ留学が決まるまでは紆
余曲折があったようです」
 留学に反対する角栄に対して真紀子は、約1年にわたって家庭内で一切の会話
を拒否するなどして抵抗したのだそうだ。自著『時の過ぎゆくままに』によれ
ば、〈約一年の後、ついに父の承諾をかち得た時は欣喜雀躍、天にも昇る思いで
あった。切羽詰まった私が、
「日頃は“鉄は熱いうちにうて”と言っているお父さんも、本当は自分の子供を
信頼できないのですか」
 と詰め寄ったことが決め手となったらしい〉
 角栄は、結局知り合いの警察閑係者にわざわざホームステイ先を探してもら
い、娘の留学を認めたのだという。
 しかし、こうした甘やかしのツケを、のちに角栄自身がその身で贖うことにな
ろうとは、夢にも思わなかったに違いない。

 田中真紀子は、ある意味では富士山に譬えられるかもしれない。
 その目立つ言動や人を魅きつける力は、まさに日本を代表する富士山のイメー
ジにふさわしいが、
「近くで見るより、遠くで見るにかぎる」
 という意味で、この表現はまさにマトを得ているのである。
 地元・長岡では、これを“ドーナツ化現象”と呼ぶのだそうだ。少しでも彼女
の身近にいる人間は、決して真紀子に好意を抱かないが、テレビや演説で触れる
程度の遠くから見る人は、真紀子を贔屓にし、ファンになるのだという。
 生前、角栄が側近に漏らしていた言葉がある。
「直紀(注・夫の田中直紀参院議員)はえらい。あんなヤツとよく一緒にいてく
れるよ。跡継ぎまでこさえてくれて。オレなら20分も一緒にいられない」
 あの父親にして、娘・真紀子には辟易していたサマが窺える話である。
 最晩年、角栄は真紀子を甘やかしてきた報いをその身に受けることになるのだ
が、それを真っ先に経験したのは、まさに金脈報道で日本中の非難を浴びている
さなかだった。
 昭和49年秋、田中内閣が退陣に追い込まれるか否かの時、田中邸では、一人の
レジスタンスに手を焼いていた。
 真紀子その人である。
 この頃、真紀子は、長男の雄一郎の次に、二人目の子の出産を目前にしてい
た。
「あの頃、オヤジは日本中の激しい非難に晒されて精神的にも追い詰められてい
た」
 と、角栄の元側近がこんな述懐をする。

「そんな時、家庭内でも、その日本中の世論と同じ意見を吐く人間がいたんだ。
それが真紀子。彼女は、父親に“早く(総理を)辞めて!”と言い寄り、ついに
はあの目白邸の2階から、“辞めなきゃ飛び下りる”って大騒ぎになった。さす
がにオヤジも、臨月を迎えようとしている娘に“自殺する”と言われれば、総理
の地位も諦めざるを得なかっただろうね……」
 最高権力者がその地位を下りる決断をしたのが、果して娘の抵抗のせいかどう
かは、今となっては確かめようがない。
 しかし、彼女がアメリカ留学から帰ってのち、角栄にとって、それまでとは違
う存在になったことは間違いなさそうだ。
 側近の話を続けると、
「オヤジがねえ、“アメリカにやらなければよかった”とよくため息をついてい
たよ。合理主義というか、反権力というか、へんな意識を身につけて娘が帰って
きたというんだ。留学から帰ってきて、オヤジは苦労して早稲田の商学部に娘を
入れ込むでしょ。そうしたら、娘は早稲田の演劇サークルに入って、さらにプロ
の演劇集団『雲』を受験し、ここにも入ってしまう。劇団というのは、左翼的な
人間が集まっているから、当然、彼女はますますそっちに傾いていくわけだ。オ
ヤジはやけに進歩的なことを言いだした娘に困って、よく、“このままじゃ真紀
子は共産党になってしまう”と嘆いていた。とにかく、オヤジのコントロールが
きかなくなってきたんだ。それが、総理を辞任する時にも出たということなんだ
ろうねえ」
 田中家の跡取りとして、特別の育てられ方をしてきた真紀子。しかし、前号に
記した通り、彼女は人格を形成していく思春期に父親の女性関係や異母弟の存在
に気づき、内面の葛藤を続けることになる。そして父の希望とは、まったく違っ
た人間へと成長していったのである。

崩壊するファミリー

 真紀子が結婚したのは、昭和44年4月のこと。
 相手は、故鈴木直人代議士の三男、直紀。慶応大学を卒業して日本鋼管に勤め
るエリートサラリーマンだった。
 真紀子の旧友によれば、
「彼女、“私の理想のタイプは、背が高くて目鼻立ちがはっきりした慶応ボーイ
よ”と言っていたことがあります。高校生の頃です。まさに直紀さんは理想のご
主人だったのではないかしら」
 ということになるのだが、この結婚、そう単純なものではなかったようだ。
「直紀の母親の宮子さんが日本女子大卒で、真紀子の先輩にあたり、佐藤栄作夫
人の寛子さんとも親しい友人だったんです。角さんは当時、佐藤栄作の片腕で佐
藤家にもよく出入りしており、その縁で寛子夫人が間をとりもつことになった。
真紀子さんの方が一目惚れで、出会いから結婚まで半年ほどのスピード結婚だっ
たのです」(田中家関係者)
 結婚式は、ホテルオークラの平安の間でおこなわれる。
 しかし、田中家は直紀を養子にと考えていたが、鈴木家が最後まで譲らず、こ
の問題は挙式当日まで決着しなかった。
「披露宴直前、鈴木家に対して、オヤジは三つの条件を受け入れることで、強引
に婿入りを納得してもらうんです。両家控室のパーテーションのうしろで、まだ
揉めていた。その条件はオヤジにとって、かなり痛烈なものだったからね」(越
山会元幹部)

 その三つとは以下のものだった。
一.直紀を父・直人の選挙区だった福島3区から衆議院選挙に立てること。
二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。
三.以上の約束を披露宴で公表すること。
 その約束通り、角栄は、披露宴の席で、それを公表しようとする。
「今日から直紀君はウチの息子です。私が直紀君に与えたものも、自分が残すも
のも、真紀子ではなく、全部直紀君にやる次第に……」
 スピーチでここまで言った時、角栄は言葉に詰まってしまう。
「ウーッ……」
 そう唸ったまま、角栄は涙をポロポロ流したのである。
 越山会元幹部(前出)がいう。
「オヤジが、スピーチの途中で言葉に詰まった時、会場はシーンと静まり返って
しまいました。なんといっても、かわいくてたまらない娘の結婚だからね。で
も、あの時、言葉が詰まったのは、娘が嫁にいくことへの万感の思いだけなの
か。婿入りとか財産のこととか、当日まで揉めていましたから、それが一挙に頭
に去来したのかもしれません。今となっては、誰にも確かめようがありません
が……」
 直紀・真紀子夫妻は、一男二女の三人の子供に恵まれる。
 やがて“今太閤”と称される角栄の黄金期を迎え、それも金脈問題からロッ
キード事件、そして脳梗塞での政界引退という昭和史にも特筆される数々の出来
事を経て、田中家も激変を余儀なくされていくのである。

 昭和60年2月27日。
 ロッキード事件で有罪判決を受けた後、“キングメーカー”として隠然たる力
を誇った田中派は、「創政会」の旗揚げによって分裂。酒量が増え、心労がつづ
いた角栄は、この日、脳梗塞の発作を起こす。
 これをきっかけに、新たに“家長”となった真紀子のもと、田中ファミリーは
角栄を中心に鉄の結束を誇ったことが嘘のように四分五裂してしまう。
 真紀子がいきなりその本性を現すのだ。
 まず切られたのは、側近や秘書たちである。
「真紀子さんは、オヤジの入院、治療方法などをすべて取り仕切った。そして、
気に食わない者は、医師であろうが長年仕えてきた秘書であろうが容赦なく切っ
ていったのです。病院側とはコトあるごとに衝突し、ついには真紀子は極秘裡に
強引にオヤジを退院させてしまう。オヤジが郵政大臣時代から築き上げてきた逓
信病院との関係もあっという間に崩壊しました。極秘退院後、自民党の平河クラ
ブに“病院、早坂茂三秘書と田中家は断絶中。彼らの発表には一切関知しない”
という張り紙が突然出され、とにかく自分以外は角栄と一切かかわりあいがな
い、という宣言を彼女はおこなうのです。長年、金庫番を務めた佐藤昭子も何の
通達もなしに解雇したし、平河町の田中事務所も、誰にも相談なく閉鎖が決めら
れました。立ち退きを急がされた上、秘書たちがまだその作業を続けている時
に、真紀子は“事務所に侵入者がいる”という電話を警察にかけ、機動隊まで動
員した。さすがに唖然とするやり方でした」

 その異常性は、当時の東京逓信病院の看護婦も記憶している。
「田中さんは最初に運びこまれた時こそ意識はありませんでしたが、その後の回
復は比較的順調だったと思います。ただ、脳梗塞患者の場合、リハビリが非常に
重要なんですが、真紀子さんはそのあたりを理解してくれなかった。あのご家族
はなんでも真紀子さんのおっしゃる通り決まって、ご主人(直紀)もお母さん
(はな夫人)もただ真紀子さんのいうことをオロオロとして聞いていただけとい
う印象があります。病院はフィジカル・セラピスト(身体訓練士)とスピーチ・
セラピスト(言語訓練士)を準備してリハビリに入ったんですが、真紀子さんは
それが気に入らない。というより、リハビリは家族が見ていると辛くて堪らない
ので、病院に任せてくれればよかったのです。彼女は何でも思ったことが通らな
いと激昂される方でしたので、結局、強引に田中さんを連れて病院を出ていきま
した。私は今でも、初期の段階できちんとリハビリできていたら、田中さんはあ
る程度復帰できたと思います」
 真紀子は、
「パパは天皇様よりえらいのよ!」
 という有名な言葉を残して病院を去っていった。
 角栄の政界復帰の可能性は、娘によって絶たれたと言えるのかもしれない。

父を叩く娘

 角栄の元側近は昨日のことのようにこう語る。
「あの時、郵政大臣は左藤恵さん(田中派)だった。その左藤大臣がこう嘆いて
いました。“真紀子さんに、逓信病院の院長のクピを切れ、と40分間も滔々とや
られました”と。彼は“私は何を言われてもいいんですが、オヤジさんの病気が
長引きます、と答えたんです”と言っていました。あとで聞いたら、大臣だけ
じゃなく、郵政の事務次官も延々と真紀子にやられたらしい。とにかく父親の庇
護と支配がなくなって、一気に娘の本性が晒けだされたという感じでした」
 それからのファミリーの四散ぶりは、凄まじいの一語である。
 越山会の元幹部がいう。
「地元の側近たちも次々切られていきました。越後交通の社長を長く務め、ずっ
と二人三脚でやってきた片岡甚松氏をはじめ、主だった古参幹部は悉く切られま
した。“気に食わない人間は排除する”という常軌を逸した行動で、ファミリー
企業には粛清人事の嵐が吹き荒れたのです」
 それだけではない。その波は親族にも容赦なく及ぶのである。
「西山町の実家を守り、角栄が信頼していた実妹の風祭幸子さんも、角栄の治寮
法をめぐって対立し、ついには真紀子に追い出され、断絶状態となりました。叔
母ですらこれですから、異母弟である田中京・祐の兄弟にいたっては、病いに倒
れて以降、一度も父親に会わせてもらえず、裁判所に、父親に会わせてくれるよ
う調停まで起こさなければならない始末でした。京、祐の兄弟は、結局死に顔も
見せてもらえず、そのため単独でのちに遺影だけの“もう一つのお葬式”を挙げ
たんです。真紀子は、はなさんの連れ子だった姉の静子さんとも断絶状態で、遺
産の分割をめぐって訴えを起こされる騒ぎにもなる。真紀子は、こうして父親の
築いた人間関係をすべて断ち切っていったのです」
 しかし、最も悲惨だったのは、当の角栄本人であったことは間違いない。

 倒れて以降、死去するまでの8年余。それは権勢を誇った日本最大の実力者に
とって、あまりに惨めな日々だった。
 目白邸母屋の食堂。ここは、かつて家長である角栄が中心に座り、家族だけで
なく田中家を訪れる客や、田中邸にいる書生たちも一緒に食事をとった場所であ
る。 ゆうに10人以上座れる細長い大きなテーブルにそれぞれが座って食事をと
る。それが田中家の食卓だ。
 角栄が倒れて以降、それはかつての賑やかさからは想像もつかない閑散とした
ものとなるが、別の意味で騒々しく変貌したという。
 身体が思うように動かない角栄は、食事の際、よく食べ物をこぼした。
 傍から介助を受け、口にいちいち運んでもらわなければならないのだが、それ
でも食べ物をこぼしてしまう。そして、思うようにならないことで苛立ち、ぐず
ることもあった。脳梗塞患者としては、珍しくもないごく一般的なものだ。
 しかし、そんな父親に真紀子は日常的に辛くあたったという。
「そんなこと言うんだったら、アンタ、国会へ行くかね」
 ぐずることをやめない角栄に真紀子はそんな言葉を浴びせかける。
 大概はそれでおとなしくなるが、それでもぐずることはある。すると、
「もうっ!」
 真紀子はそんな声を上げて、なんと父親の顔を傍らにあった新聞紙で叩くので
ある。
 オヤジが真紀子に叩かれている──こういうシーンは、地元・長岡の越山会幹
部に伝わり、やがてひそひそと人の口から口へと流れていくことになる。
 角栄は真紀子に連れられてお国入りした時、
「目白の“骨董品”を連れてまいりました」
 と地元の人間に披露されている。
 言葉が不自由でただ涙を流すばかりの父親はそうやって選挙に利用されていっ
たのである。
「あれほど誇り高かったオヤジがなんでこの目に……」
 と、怒りに震える側近たちが少なくなかったのも無理はない。

人生最大の敵だった

 真紀子のとどまるところを知らない独裁ぶりは、やがてわが子にも向かう。
 長男・雄一郎(31)である。
 誰に聞いても、「優秀で聡明」という言葉が返ってくる雄一郎は、角栄の自慢
の孫であり、真紀子にとっても最愛の息子だった。
 慶応中・高を経て慶応大学に進んだ雄一郎は、卒業後、公認会計士として、そ
して経営コンサルタントとして、独自の道を歩んでいる。
 真紀子はその最愛の息子と、いや正確にいえばその妻と事実上の断絶状態にあ
る。
「雄一郎さんは、大学時代の友人とそのまま恋愛結婚しました。でも、それに真
紀子さんが激怒するんです。“結婚したいなら、出ていきなさい”と言われた雄
一郎さんは、そのまま家を出ていく。もちろん結婚式もしていません。真紀子さ
んは、自分の支援者である長岡駅前の和菓子屋の娘さんを嫁にと見合いを勧めて
いたそうです。それがかなわず、逆上して“出ていけ”となったんです」(知
人)
 この田中家の跡取りの結婚問題は、封印されたまま誰にも知られることはな
かった。が、1年以上経って、やがて真紀子の地元後援会も知るところとなる。
ある婦人部のメンバーが、
「息子さんの結婚を教えてくれないなんて水くさいわね」
 と真紀子にいうと、
「田中家にふさわしくない嫁なのよ」
 と、真紀子はポツリと答えたという。
 ふつうのサラリーマン家庭に育った女性では、真紀子にとって、嫁にはふさわ
しくないらしい。

 知人(前出)によると、
「2年前に長岡で行なわれた祖父(角栄)の七回忌法要には、雄一郎さんは呼ば
れています。当時、母子の確執が注目されていましたから、真紀子さんはわざと
大きい声で、“今度、嫁でも連れてきなさい”というパフォーマンスをやるんで
す。でも、逆にこれで周囲にコトの深刻さを示してしまいました。雄一郎さんも
角栄の孫ですから一度言いだしたらききません。お互い譲らない性格ですから、
引くに引けない感じですね。二人の間に真紀子さんの孫でも誕生しないかぎり、
融和はむつかしいんじゃないでしょうか」
 田中真紀子──まさに特異な人格である。
 なんの不自由もなく育ち、周囲が父親に滑稽なほどヒレ伏すサマを見つづけた
彼女は、やがて、称讃と怒号、おもねりと裏切りの中で、いつの間にか人として
本来のあり方や常識を見失っていったに違いない。
 しかし、その特異性こそ彼女の大衆的人気の根源であることもまた確かだ。
 真紀子は今、およそ800億円(推定)という資産の上に君臨している。
 田中金脈の原点ともいえる長岡市の信濃川河川敷。時を経て、ここは今や一等
地と化し、越後交通のビルや日赤病院などが聳え立っている。
 かつては、単なる川原であり沼地であったこの二束三文の土地が田中家最大の
資産だ。

 これに目白御敷や別荘などを加えた約800億円とも言われた遺産を引き継ぐ
時、真紀子は公示評価額で119億円にまで圧縮するということをやってのける。
広大な土地をファミリー企業に分散して所有させ、それを僅かな評価の株式で相
続するという形をとり、一方の目白邸は、不動産評価を下げるために13区に分筆
したり合筆したり、はたまた所有権を真紀子と直紀で分けたりと、評価額を下げ
に下げて相続するのだ。それは、
「節税した額はおよそ470億円に達します」(税理士の北田朝雪)
 というから驚く。田中一族は角栄が倒れて以後、バラバラになってしまったの
に、その財産だけは四散することがなかったのである。
 真紀子の金脈問題を追及しているジャーナリストの野田峯雄はこんなことを
いった。
「もし、彼女が父・角栄の汚名を濯いだり、また正当化するのであれば、きちん
と納税という形でその“偉業”を確定することもできたのです。しかし、彼女は
姑息な方法で、父親が最後に国家に貢献するチャンスさえ失わせた。いわば唯一
の名誉回復の機会を娘が奪ったといえるのではないでしょうか」
 角栄と真紀子──ある意味では、お互いが人生最大の敵だったのかもしれな
い。
(文中敬称略。了)

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コメント
 
1. スポンのポン[2278] g1iDfIOTgsyDfIOT 2016年4月02日 08:12:00 : 4XlTuD9eO6 : VvN5b2itcHo[477]
 
 
 
 
 
      ど う で も い い。
 
 
 
 
 

2. 歯磨き右近高山[617] jpWWgYKriUWL342CjlI 2016年4月16日 00:29:02 : hf0P0OUd2A : sBLXklCHI@8[10]
AERAでも、真紀子氏が「横暴な人物」だから、1男2女に「後継立候補を拒否」された、という意味に受け取れる記事が載った事がありますが、息子ではなく娘が跡を継ぐ事を期待されている場合、良い意味で彼女を「男」に育てるべきなのかも知れません。大塚家具は「私見としては、娘さんが正しい」と思っていますが。

気に入らない事象に遭うとスグにHysterieを起こすような、「器の小さい」人物が性痔禍や傾影斜になると、その組織のMembersとしては堪ったもんじゃありませんし、そんな光景は女性蔑視者が温存される原因にも成るでしょう。

「大物」の子女を「適切」に教育するって大変なんだなぁ、って感じますね。この日ルポが書かれてから10年以上経ち、最早眞紀子氏は立ち直れそうもないからどうでもいい、という意見もありましょうが、抑も安倍の「独裁者」振りも、「幼少時のアホな教育」に起因する事は想像に難くない、と私は思います。


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