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善悪とは必要性の度合い
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投稿者 調和人 日時 2004 年 6 月 12 日 23:54:24:YeUEew8g6.9hA
 

(回答先: 善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 12 日 20:40:24)

あっしらさんお待ちしておりました!
(薄々気づいておりましたが・・・)

>たぶんですが、悪や善を認識することについての見方の違いがあると思います。

私が把握する善悪は主体的なものと大多数の支持するものという形で分けており、人間にとって大切なものは、主体的な善悪により行動することであると思っております。
また私は「善」は「真実」と置き換えられると考えますので、その辺りも比較しながら、考えて行きたいと思います。
私が理解不足で平行線になるのかもしれませんが、あっしらさんとなるべく認識をかみ合わせる様に努力致しますので、認識が間違っておりましたらご指摘下さい。

>人は悪を直観的に認識できるが善は思念的にしか認識できないものだと思っています。
>(動物もそうであろうという思いがあります)
>たとえば、善とされることも、悪を避けるということで説明が可能です。(困っている人
>を放置するのは悪であるとかの類で、動物でも行っていることです。調和人さんが考え
>られている善のほとんどは、こういう悪は避けるべきだということで説明できませんか?)

発想が乏しいせいかもしれませんが、善悪というのは感じ方によってどちらにも転び得るので、難しいものですね。
動物が行っている行為は、その主体にとって善なのか悪なのか・・・。
放置することが悪なのか。それを悪と自覚しているのか。
私の考える自然の根本とは、生きていく上で何も「必要としていない」ということだと思っております。(究極は石です)
「必要とする」ことが多くなるにつれ、何者かに支配されている構図、つまり人間の現在の社会に近くなるという状態ではないかと思います。
鳥は食料を必要としておりますが、食料を得るために種を蒔いたり刈り取ったりは必要なく、誰からもその行動に制限は加えられません。食べられる(殺される)ことはありますが、それも見方によっては善なのかもしれません。
また動物が他の動物を放置する行為は、相手を必要としていないから放置するのであり、その相手方も他を必要としないのではないでしょうか。
そこに善悪は発生するものではなく、ただの行動・事例があるだけだと思います。
また善を真実とするのであれば、動物の世界はすべて彼らの(その主体の)善となります。
また、人間が善悪と把握するのは、相手を必要とする度合いが高くなるほど広がりをみせ多様化してくるのではと考えております。

>思考力(思念)が悪だと言いたいわけではありません。思考力によって将来悪につなが
るかもしれない愚行を
>回避することもできます。思考力が悪用されているのが善なる観念であると考えています。
>善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為
>す存在者であるはずだ」という確信によるものです。
>ですから、私が生きているうちにそれが実現されて(まずムリ)、人が感じるままでは善
>を為さないことがわかれば、前言を翻して善なるものの必要性を主張します(笑)

概ね同意はできます。ただすこし私の理解力不足なのかしれませんが、うまく飲み込めない部分もありますので、私なりに把握して行きます。
支配層は支配するという行為を悪とわかっていても善なる行為として被支配者層に押し付けそして彼らを洗脳しております。なぜ支配者層が悪の行為をしなければならないかと考えると、それは自分にとってその相手(被支配者層)が持っているものが必要であるという発想からきており、それを自分だけが手に入れようとする利己的な部分に罪悪感的な悪を感じているのではないでしょうか。
そして被支配者層にしてみれば、押し付けられた悪を善と解すように洗脳させられ、同じように他の人間を必要とする手段とし洗脳を受け入れ、それを善と解する。

そしてこの構図が解消されるとすると、他人の押し付けによる善悪の定義は解消され、人間本来の善(真実)を追究する行為に戻るという感じでしょうか。

また、生きているうちにその構図が解消されることが実現されるに私は一票を入れさせてもらいます。(笑)

>「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」

については真実ということは善ということになるのであればその通りだと思います。
ただ、究極的には、人間は支配―被支配構造から“完全に”抜け出すことが可能であるなら、感じるままに行動をすることができますが、それが善なのか悪なのか把握することはできない状態、つまりひとつの事例・行動になるのではないかと思います。

やはり善悪と定義すると、一般概念的には把握することはできるのですが、それは普遍的なものではなく、常に変動するものであり理解することに苦しみます。
ですから、あっしらさんの定義する善が、その主体にとっての「真実」という認識であれば、概ね私も同一の考え方になるのだと思っております。

うまく把握できていないことも多いと思いますので、なにか論点の違い等があれば、ご指摘下さい。

ありがとうございました。

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