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戦時一色の教育体制
http://www.asyura2.com/0403/dispute17/msg/1104.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:52:02:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 国民精神総動員運動の実施 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:48:50)

戦時一色の教育体制

http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec01/cont00/docu033.htm

戦時一色の教育体制
 ―尋常高等小学校が国民学校になる―

読谷尋常高等小学校(昭和16年)
 「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に続いて「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」で知られる国定教科書『国語読本』が登場したのは一九三二年(昭和七)である。
 日中戦争の始まった一九三七年(昭和十二)には内閣に直属する教育審議会が設置され、戦時教育体制の確立、すなわち全教育を皇国の道に則(のっと)る方向へ組織がえしていく動きが活発となった。
 そして、一九四一年(昭和十六)三月一日勅令によって「国民学校令」が公布され、四月一日から、それまでの尋常高等小学校にかわって国民学校が誕生することになった。
 「国民学校令」第一条では「皇国ノ道ニ則リテ、初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とうたっており、皇国民の錬成という考え方が全面に出ている。

 「国民学校令」に続いて三月十四日「国民学校令施行細則」の総則第一条では「東亜ノ大勢ニ付テ知ラシメ、皇国ノ地位ト使命トノ自覚ニ基キ大国民タルノ資質ヲ啓培スル」と述べており、子どもたちは早くも戦時体制に組み込まれていったことがわかる。
青少年学徒ニ賜ハリタル勅語
 国本ニ培ヒ国力ヲ養ヒ以テ国家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任実ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ双肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史実ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑑ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気風ヲ振励シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ
【解説】この勅語は、一九三九年(昭和十四)五月二十二日「陸軍現役将校学校配属令施行十五年記念、全国学生生徒代表御親閲式」が宮城前広場において行われたとき、天皇が荒木貞夫文相(陸軍大将)を通じて与えたものである。
 こののち学校の各儀式にこの勅語が読まれ、学生生徒の「本分」を守り「質実剛健」の気風を高め、「国家隆昌」の責任を上から重く負わせたのであった。
 これから、「国体の本義」「臣民の道」などの出版物の強制とともに、青少年に強い国家主義精神を植え付けるのに役立たせていった。

国民学校での少国民づくり
 比嘉隆
 私は、日清、日露、日中戦争の軍歌を聞きながら育った。「肉弾三勇士」とか「木口小平は死んでもラッパを口から離しませんでした」など、子供ながらによく聞かされていた。
 昭和十三年に渡慶次尋常小学校へ入学した。修身・国史で「天皇陛下は我が大日本帝国をお治めになる尊いお方にあらせられます。自分達はそういう尊いお方の赤子としてこの国に生まれたことを非常に誇りに思いなさい」という内容の教えを受けた。
 戦時体制が確立するにつれて、学校行事でも子供たちに戦争への協力を求めたり、将来兵士になることを求めたりする内容のものが多くなっていた。
 学芸会の劇や運動会の競技でも肉弾三勇士、土嚢運搬(俵かつぎ)といった戦争色が強いものがあった。空襲に備えて、バケツリレーや救助・避難の訓練も学校で行なわれた。学校教育のなかで、「戦地の兵隊さんへ」という手紙(作文)を書いて慰問袋に入れて送ったこともあった。
 子供達は登下校する際には奉安殿に最敬礼をした。また全体朝礼の時は「宮城遙拝」といって皇居のある東京の方向を拝むことが行なわれた。「四大節」には学校で式が行なわれ「君が代」を歌い、天皇・皇居の「御真影」(写真)に最敬礼をし、学校長の読む「教育勅語」を聞かされた。
 そんな時代なので遊びといえば、いつも兵隊ごっこをしていた。兵隊の襟に着ける階級章をクレヨンで書いて作り、それを襟に付けたりして遊んだ。上級生は将校の階級章をつけ、後輩には一般兵のものをつけさせていたので、いやがったりしていた。四年生でも階級章の違いをよく知っていた。そして「陣地取り合戦」をしたり、「乃木大将」とか「東郷元帥」という名前もよく出た。
 子供ながらに「撃ちてし止まん!」とか「欲しがりません、勝つまでは!」などと直情的に口にしていたものである。また、当時、「軍神大舛大尉に続け」ともよく言われていた。このような言葉を言うこと自体が誇りでもあった。軍国少年という言葉があるが、当時は周りの友達もみんなそうであった。大舛大尉が沖縄八重山出身だというので尚更のことであった。
 当時の少年に、大きくなったら何になりたいか、と聞かれて「学校の先生」と答える子どもは誰もいなかっただろう。みんな「大きくなったら兵隊さんになる!」と異口同音に答えたはずだ。みんな一つの目標に向かって進んでいる時代だった。
 国民学校での教育は、とにかく体を「鍛える」ということで、強く育って、立派な兵隊になることが目標だった。合同訓練というものがあり、校庭で全校児童が一斉に分列行進の練習をした。
 また、上級生の指導を受けて避難訓練をした。空襲警報が鳴ったときは「あわてないで、騒がないで、落ち着いて」という歌を歌いながら、片手は前の人の肩に乗せて列になって歩いた。近くの大きな木の下に隠れた。
 「爆風が怖いのだ」と教わって、防空頭巾で耳を隠して、手で押さえていたが、当時の私は「爆風」という意味さえよく理解していなかった。また沖縄は暑くて、防空頭巾などをかぶってはいられたものじゃなかったので、男の子は頭巾の両側を上へ折り曲げて、「航空隊!」といって遊んでいた。そんなものだった。
 小学生でも奉仕作業を多くやらされた。四年生くらいになると、二人一組で芝生取りをやった。飛行場の滑走路に敷き詰めるためのものであった。
 飛行場作りだけでなく、対戦車壕掘りもやった。私の家は高志保の西のはずれにあり、県道沿いであった。そこから下へ行くと渡慶次になるのだが、現在のたまきスーパーがある辺りから儀間にかけて、海岸線に平行に対戦車壕がたくさん作られていた。国民学校四、五年生の頃、部落から徴用された防衛隊や上級生たちと一緒によく掘っていたものだ。学校の校舎はほとんど兵舎になっていたので、勉強どころではなかった。戦車壕は、はじめはV字型に掘っていた。これは海岸から上陸してくる米軍の戦車の落とし穴であった。また、米軍から落とし穴と気づかれないように偽装する必要もあった。そこで竹やガジュマルの葉などを上からかぶせていた。
 しかし、しばらくするとV字型では、戦車が上っていくからと言って、L字型に掘るように指導を受けた。今思うに、全く幼稚な考えなのだ。アメリカの戦車がたとえこの落とし穴に落ちたとしても、キャタピラを逆に回転させれば簡単に抜け出すことができたのだから。そんなことも解らずにやっていたのだ。
 昭和十七年二月十五日シンガポール陥落の時、部落内のちょうちん行列に参加した。夜にちょうちんを持ち、渡慶次国民学校から、喜名の観音堂まで歩いた(観音堂までは上級生)。
 普段から、親子離れ離れになるかもしれない、またいつ死ぬかもしれないということで、みな胸に白い布に墨で書かれた名札を縫い付けてあった。私のものには「渡慶次国民学校・高志保分団・比嘉隆」と書かれてあったと覚えている。

 事実そのころの国民学校では学校をあげて戦没者の「英霊」を迎えたり、遠足の訪問地に軍人関係の施設が選ばれたりしている。
 国民学校の教科の編成をみると「国民科」「理数科」「体錬科」「芸能科」があり、国民科には修身、国語、国史、地理が含まれていた。修身では天皇に対する忠と愛国精神、すなわち「忠君愛国」が力説された。同時に重視されたのが体錬科である。履修内容は体操と武道となっており、実際には男子は木製の銃を使い、女子は木製の薙刀(なぎなた)を使っての訓練が多かった。

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