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(更新板) 「比治山の天女」伝説の地に水晶・緑色凝灰岩の玉:奈具岡遺跡【歴史倶楽部】弥生時代の玉作り工房
http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/320.html
投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 04 日 13:31:50:SoCnfA7pPD5s2
 

(回答先: (更新板) 縄文時代の丸木舟:浦入遺跡【歴史倶楽部】1万年に渡って築いた高度な「海の文化」 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 04 日 13:28:09)

(初版は、引用元のURL変更により、画像の殆どが表示不能となったので、管理人さんに削除して頂きました。今回、変更後のURLを引用して、更新版をUPします。)

★ 我がルーツを辿る_(2)遺跡各論_(2-2)奈具岡遺跡:弥生時代中期


奈具岡遺跡
[引用: 奈具神社と奈具岡遺跡 2002.6.30

【奈具神社】


奈具神社[(前:竹野郡、現:京丹後市)弥栄町船木、延喜式内社]

丹後風土記「比治山の天女」伝説に出てくる天女(豊宇賀能売命=豊受大神)が祀られている。風土記によると「ここに来りてわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。

【奈具岡遺跡(弥栄町)】

弥栄町の奈具岡遺跡では、水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期(約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未製品や、加工に使われた工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉である。ここでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。大規模な玉造工房が稼動していたのである。

ここでは、鉄製の工具が使われ、玉の穴をあけるにも、鉄針を用い効率良く生産された。この生産と交易が丹後の経済力の基盤となった。鉄片が8kg発掘されているが、この鉄片は素材から作った製品の端切れであって、単純に計算すれば、平均的な弥生時代の鉄斧なら300個分はあろうという素材の量だという。玉造には鉄錐という加工道具を用いるがそれだけの為ではなく、広範な交易を目的に生産された証拠だと言う見方もある。しかし、それだけの鉄素材を一体どこから入手していたのだろうか。

水晶玉などの装身具は本来中国では高位の人々の習慣だった。紀元前一世紀頃、漢代に衣服に綴じ付けたり女性が着用する風習が生まれたと言われる。朝鮮半島そして日本海沿岸地域も、ほぼ時を同じくして同じ文化が移入して来たような感がある。稲作に鉄具が用いられる前に玉造りに鉄製工具が普及したという説は、ここ丹後半島においては妙に納得させられる。
弥生・古墳時代を通じて玉は至極の宝石であり、その風習は現代に至っても続いている点を考えると、古墳に多く残されているのも理解できる。

丹後では、紀元前から培ってきた内外の交易を結びつけるノウハウ、先進技術を駆使して素材を加工する技術などを基盤として、やがて弥生後期には、大宮町三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、岩滝町大風呂南1号墓、峰山町赤坂今井墳丘墓など、豊富な鉄とガラスを副葬品に持つ首長墓を生み出す。弥生後期の首長墓のようすは、北部九州や畿内地域よりむしろ、出雲や因幡を加えた日本海中西部地域の首長層の方が、弥生後期の日本列島内では有力な存在であったように思える。

また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にも出現する。分布圏の中心から遠く離れた銅鐸の存在は、おそらく両地域から丹後の先進物資の入手のためにもたらされたものであろう。ただ、弥生中期後葉から後期にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見されていない。大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。この事実は、丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、つまり丹後の首長層がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、朝鮮半島南部の伽耶地域に求められる。

奈具岡遺跡では、100点以上もの鉄製品が出土している。ここでは、堅くて加工が難しい水晶玉造りのために、鉄製工具を使用していた。そしてそれを自前で生産していた事が、鍛冶工房跡の発掘によって判明している。奈具岡遺跡は「玉造総合工場」であった。
こうした奈具岡遺跡の存在は丹後の中でも非常に特殊であり、この遺跡の先進性を示している。

奈具岡遺跡で確認された竪穴式住居の総数は約100軒で、丹後地方では屈指の規模であるが、この遺跡は工房であって居住空間ではなかったと言う説もある。ここでは水晶製と緑色凝灰岩製の2種類の玉造りが行われていた。緑色凝灰岩の玉造りの方が先に、弥生中期中葉頃に始まったとされ、後葉に水晶造りが始まったと考えられている。これらの製作された水晶玉はどこへ運ばれたのであろうか。
丹後地方で水晶玉を墳墓に副葬した例は、三坂神社墳墓群3号墓にしか見つかっていないので、丹後以外の何処かへ運ばれたのは間違いない。人によっては、前述の鉄資源の入手のために、朝鮮半島伽耶地域へ運ばれたと言う意見もあるが、今の所証明はされていない。
現時点では、丹後の玉の行方はわからないのである。

もうひとつこの遺跡の特徴として、奈具岡遺跡はガラス生産も行っていたのである。ガラス製勾玉の破片や、小さなガラス片が多出ている。丹後地方では、扇谷遺跡で中期初頭と考えられるガラスの塊が出土し、時期は不明だが途中が丘遺跡でもガラス片が出土している。しかし、具体的なガラス生産の様子がうかがえるのは、ここ奈具岡遺跡のみである。鉄器工具、玉、ガラスと、その生産活動の全てを工具製作から一貫して行っていた一大コンビナートが奈具岡遺跡なのである。


■ 竹野郡弥栄町奈具岡遺跡の玉作りと鉄製工具の導入

       

丹後半島のほぼ中央を貫流する竹野川は、幅狭い浸食谷を形成しつつ日本海へと注ぐ。奈具岡遺跡は竹野川の中流域、西岸段丘上に立地する玉作りを専業とする(弥生)中期後葉の集落である。平成7,8年の調査では、74基もの竪穴遺構や竪穴式住居跡が検出された。
碧玉、緑色凝灰岩や水晶など、50kg以上にもなる原石・未製品・失敗品・剥片類をはじめとした膨大な石材群とともに、石錐・石鋸・筋砥石、鉄製工具などの加工生産具も出土し、原石から製品までの製作工程が明らかになった。鉄製工具類やその未製品も多量に出土し、鞴羽口や鍛冶炉の存在から玉作り用の鉄製工具の加工も集落内で行われていたことがわかった。このような鉄製品のなかに、先述した漢で生産された夾雑物の少ない強靱な鋳鋼素材が見つかっている。拳大ほどの水晶結晶体からわずか5mm以下の小さな玉に加工する際に、このような鋼素材で作られた各種鉄製工具が利用されたものと思われる。奈具岡遺跡の水晶玉作りで復元される加工方法は次のようである。

すなわち、水晶の結晶面や不純物が嵌入した部分を打割除去し、直方体の素材石核を整える。その長辺を左右から交互に打割して板状剥片を作出し、それを縦方向に分割して角柱体と楔形剥片を量産する。前者は調整剥離を加え四角柱体に整形する。これを研磨した多角柱体の小口面から小玉の規格に分割して穿孔し、直径3〜5mm程の小玉数個を生産する。後者の楔形剥片は、打点側を切り離して調整剥離を加えて穿孔して、直径3mmほどの算盤玉1個に仕上げる。このような玉作の工程に各種鉄製工具が使われている。断面長二等辺三角形の鉄塊や先端がやや細くなる板状の工具は、水晶結晶体を分割する際に楔として使われ、マイナス・ドライバーの先端部分に似た小さな棒状の工具は、角柱体の調整剥離と小玉の分割に使われたものと思われる。
だが、玉の穿孔には安山岩や碧玉の石錐が依然として使われていた。日本海沿岸の諸地域では、後期後半以降に直径1mm前後の針状の鉄棒が鍛冶によって製作され、これが錐として使用されることとなる。

ところでこのような碧玉・緑色凝灰岩や水晶の玉類を大量に生産するために奈具岡遺跡の弥生集落は営まれていたとみられるが、水晶製装身具は、丹後地方では後期初頭の中郡大宮町三坂神社墳墓群3号墓第10号主体部で検出された16点のみなのである。
他に生産地である奈具岡遺跡以外にはその出土例をみないことから、他地域への贈答品に供されたと考えるのが妥当であろう。
時期は下るが「魏志倭人伝」には、壹与が魏に献上した貢物として「白珠五千」が挙げられているが、このような水晶の白い珠が鉄資源と交換された可能性も考慮すべきであろう。

日常の食料や衣類の獲得など、自らの親族や隣人達との互酬的な交換活動とは異なり、遠隔地の貴重な財産の入手には、それなりの社会の成熟が前庭となる。つまり交渉先との政治的関係を取り結ぶための情報収集はもちろんのこと、遠隔地との贈答のために、返礼となる特殊な貴重財を生産しなければならない。それには労働力の集約的投入を行わねばならず、特殊な生産技術の習得やその生産に関わる集団の編成を行うことが必要不可欠となる。外部社会との貴重財の交易とは、普段見慣れない彼方の宝物を手に入れるためだけでなく、内部社会においては労働の集約化を促し、労働価値を新たな威信という上位の価値体系に変換させる手段であるとも言える。後期には、このような彼方の地から来た貴重財の一部が首長の威信財として利用され、かつ墓に副葬されはじめることになる。

(丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員 野島永)

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