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黄泉国神話 (倭国大乱)古代史の復元
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投稿者 愚民党 日時 2004 年 11 月 24 日 11:47:07:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 鬼怒天皇物語 投稿者 愚民党 日時 2004 年 11 月 24 日 11:25:10)

黄泉国神話

第三項 黄泉国神話

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-18tairanyomi.html

(1) 出雲対大和の戦い

 日本神話の中にも関連すると考えられるものがある。それは,黄泉国神話である。「イザナギ命が死んだイザナミ命を追って黄泉国へ行き,そこで争い,イザナギ命が逃げ帰り,黄泉津平坂の地で別れた。」という内容である。黄泉国とはイザナミが死んだ国で,イザナミ陵があることから,出雲国と考えられる。

 この神話は,出雲国とどこかが戦争をしたことを意味しているようであるが,イザナギ命の行動の跡は,出雲地方周辺に全く見られないことと,黄泉津平坂は島根県の揖屋の地にあり,出雲の東側で出雲中心地の入口にあたることから考えて,これは,出雲と対戦した相手が,出雲の東側に存在し,イザナギのいた日向地方ではないことを意味している。日向地方ならば,国譲りの戦いの時,出雲の西側の稲佐の浜に上陸していることでも明らかなように,出雲西部から攻めるのが普通である。

 スサノオの聖地である出雲と対戦しうる国となれば,相当力を持った国でなければならない。日向でないとすれば,後は大和としか考えられない。大和だとすれば、その時期はいつのことであろうか。大和朝廷成立以前は,中国地方に畿内系土器が全く見られず,畿内人が大量に押し寄せたとは思えない。出雲と大和の戦いがあったのは,大和朝廷成立後と考えられる。大和朝廷成立後であれば,倭の大乱以外に考えられない。この神話は,倭の大乱を意味しているのではないかと思う。


島根県の八雲村にイザナミ御陵(神納山)が存在している。雲陽誌に、「神納山は、剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギノミコトを追った女神イザナミノミコトが、みずから魂をこの地へ納められたところであるので神納という。」

この神納山の御陵から続いている丘陵によって、日吉・岩坂平野と意宇平野に分けられているが、この丘陵の東の端に剱神社がある。神話に「女神イザナミノミコトを失った男神イザナギノミコトは、あきらめきれず黄泉の国まで行ったが、みにくい姿をみて逃げた。黄泉の国の軍勢に追われた男神は剱を打ち振って防がれたので、剱山という。」
とある。意宇川はその昔この地で大きく蛇行しており、江戸時代に土木工事をしてまっすぐにしたそうである。ちょうどその曲がったところに剱山がある。イザナミとイザナギはこの剱山で戦い、イザナギがここから黄泉津平坂まで退却したようである。黄泉津平坂周辺の伝承地をたどると、平坂は安来市と東出雲町の間にある丘陵地を越え
る旧峠道だったようである。丘陵地の東側が比良坂で西側が伊賦夜坂と呼ぶそうである。イザナギがイザナミ軍に追われて意宇川沿いに退却してきたとき通過すると思われる場所にある。イザナギはイザナミ軍に追われたとき、竹や桃で防いだと記録されているが、どちらもこの周辺に存在している。また、最後に分かれたときイザナギは千引岩でその出口をふさいだといわれているが、巨大な岩がその境界付近に存在している。これらがどんな歴史的事実を反映しているのか分からないが古事記に記されている黄泉津平坂の条件はすべて満たしている。

 黄泉津平坂でイザナミが「あなたの世界の人間を毎日千人殺すぞ」と言うと、イザナギがそれでは「毎日千五百の人を生もう」と言って分かれた。これは何かの交渉を意味しているようである。倭の大乱は、魏志倭人伝によるとどちらかが勝利を収めたのではなく、卑弥呼共立というように、和平交渉をして収まったようである。このことより、黄泉津平坂の地でのイザナミとイザナギの交渉は、出雲・朝廷それぞれが条件を出し合って、和平交渉をしたことを意味していると解釈する。


また、あの世との入口だという伝承地が剱山の麓にある岩屋とか、すぐ北側の松江市の神魂神社の地とかにある。この周辺は昔からあの世との境目という認識があったようである。墓が多いというのも理由かもしれないがこの頃の墳墓はこの周辺ではない。おそらく、倭の大乱の激戦地で、多くの将兵が戦死したためそのように呼ばれることになったのではあるまいか。神納山のイザナミ陵はその戦死者を集団埋葬した場所かもしれない。

しかし、これが倭の大乱だとすると、イザナギ命(朝廷軍)は出雲の本拠地と思われる位置まで来て戦っていることになる。また、その激突の位置が本拠地のすぐ南に位置する八雲村である。意宇川沿いに朝廷軍が出雲国中心部(松江市南部)に進攻したとすれば、その衝突地点はその東側(東出雲町)と考えられる。しかし、伝承によれば衝突地点は八雲村との境にある剣山周辺である。最初朝廷軍が木次の出雲軍の応援に行って留守だったとも考えたが、出雲の海岸沿いは当時高地性集落からの遠望が利き、集団で軍が進軍すればその動きが出雲側に筒抜けになる。イザナギ(朝廷)軍は安来近辺の黄泉津平坂から丘陵越えで八雲村東岩坂に出たのではないかと判断する。この場合は激戦地が剣山周辺となる。

 黄泉津比良坂の神蹟においてあった比良坂神蹟保存会編「黄泉津比良坂物語」によると、大昔のこの周辺の道の経路が示されていた。まず、西へ向かうと付谷から山越えして五反田、そこから勝負を越して須田方面に向かうと記録されていた。須田から峠ひとつ超えれば八雲村東岩坂であり、倭の大乱激戦地である。また、東へ向かえば、中意東磐坂から、馬場に出て雉子谷を超えて高丸から安来市の岩舟方面に通じると記録されている。この岩船のすぐ南には楽々布久神社がある広瀬町石原である。

 孝霊天皇軍が楽々布久神社から出雲聖域の八雲村に進軍した経路はまさにこれであろう。まとめると次のコースである。


広瀬町石原(楽々布久神社)→岩舟→高丸→馬場→中意磐坂→黄泉津比良坂→付谷→五反田→勝負→須田→八雲村東岩坂

である。 出雲軍に追われて退却した経路はこの逆である。また、「黄泉津比良坂物語」にはイザナギを黄泉津比良坂の坂本で助けた桃の実の神オホカムヅミ命は黄泉津比良坂東方の山上にある荒神森と推定している。この地は現在平賀と呼ばれており字に坂本も残っている。この地に孝霊天皇がオホカムヅミ命を将とする軍を控えさせていたのではあるまいか。孝霊天皇軍が退却してきたとき、オホカムヅミ軍によって追っ手を食い止めることができ、この地で対陣することになったものと推定する。


(2) 三貴子
 このように考えると,次のような一致が見られる。この大乱が,黄泉国神話の基となっているとすれば,イザナギ=孝霊天皇となり,その子である三貴子(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)はアマテラス=倭迹迹日百襲姫で,ツキヨミ=大吉備津彦命(稚武彦)で,スサノオ=若建吉備津彦命(弟稚武彦)となる。神話では,三貴子の割にツキヨミの影が薄く,神社伝承でもツキヨミの行動の跡とか生活の跡とかが存在しないのである。しかしながら,神話ではスサノオ・アマテラスと肩を並べる三貴子の一人として存在している。この三貴子が倭の大乱時の将軍(三皇子)であるとすれば説明可能である。また,三貴子はイザナギの禊によって誕生し、アマテラスが高天原を
,ツキヨミが夜の食国を,スサノオが海原を治めることになったが,この三人は,大乱の後の和平交渉(禊)により、倭迹迹日百襲姫が大和(高天原)を治め,大吉備津日子(稚武彦)が吉備国で祭祀(夜の食国)を,若建吉備津日子(弟稚武彦)が鬼(山賊・海賊)の平定(海原)をすることになったのと大変よく対応している。また,スサノオが高天原を追放されて出雲に降り立った最初の地は「鳥髪」となっているが,これは中国山地の奥地で,海上からこの地に最初につくのは難しい。若建吉備津彦が吉備国を平定後,阿毘縁の関を打ち破って斐伊川沿いに進んだとき,出雲国で最初に着くのがまさに「鳥上」である。

 また、イザナギ・イザナミの国生神話はスサノオ・ニギハヤヒの国家統一事業のことではあるが、孝霊天皇・吉備津彦の中国・四国地方の鬼の平定事業と見ることもできる。イザナギは妻であるイザナミが亡くなったのち黄泉国へ行っているが、孝霊天皇は皇后である細姫を孝霊71年に日南町宮内の楽楽福神社の地で伯耆国平定(国生み)中失っている(死因は熱病か?あるいは皇子出産によるものか?)。その後、出雲を攻めているのである。さらに、黄泉国から戻った後、イザナギの禊により三貴子以外にもさまざまな神が誕生しているが、これも、大乱の後の和平条約によりおこなわれたさまざまな改革に対応していると考えることができる。このように倭の大乱前後で起こったさまざまな出来事は黄泉国神話ときわめてよく対応しているのである。

 なぜ、古事記、日本書紀では倭の大乱をこのような黄泉国神話の形で残したのであろうか。倭の大乱は古代日本における最大級の戦争であり、その後遺症は人々の心に長く影響を与えた。平安時代の神賀詞にも見られるとおり、古事記・日本書紀を記録する時代になってもまだその後遺症は残っていたと考えられる。朝廷は出雲に気を使い、出雲は朝廷を意識していたのである。このようなときに、朝廷の立場で出雲を悪く書くようなことはとてもできないであろう。その結果倭の大乱そのものを古事記・日本書紀から抹殺し、かわりにわけの分からない黄泉国神話を作ったものと考える。



神納山(イザナミ御陵・八雲村)
 孝霊73年孝霊天皇が広瀬町佐々布久神社に布陣して、安来支庁を攻めた後、その余勢を利用し、黄泉津平坂を超え丘陵沿いを西に進み、八雲村東岩坂に達し、そこから出雲の宗教上の中心地である松江市大庭町付近に攻め込もうとしたとき、松江市と八雲村の市町村境辺りで激突し多数の戦死者が出たためこのあたりがあの世との境目といわれるようになったと判断する。

 高天原を追い出されたスサノオは出雲国の鳥上に天降ったと言われているが、鳥上は阿毘縁を破った吉備津彦が到達した地で吉備津彦は斐伊川に沿ってくだり、斐伊川沿いでヤマタノオロチを退治している。スサノオのヤマタノオロチ退治は別に存在するが、ここでも、ヤマタノオロチを出雲振根とするときれいな対応が見られる。

この黄泉国神話は朝廷軍が出雲中心域に進入したことを伝えていることになる。朝廷軍に中心域に入られてしまえば出雲軍としては完敗である。しかし、一度入られた朝廷軍を出雲軍は追い返しているのである。追い返すだけの戦力が残っていれば、やすやすと中心域への侵入を許すはずもない。朝廷軍は出雲軍を撃破して進入したのではなく、奇策を用いて進入したということになる。それが軍を二手に分けたという横田町の伝承であろう。それにしても、孝霊天皇(イザナギ)は何を目的として出雲の中心域までやってきたのであろうか。

 倭の大乱の後、方形周溝墓が出雲に出現することから出雲が大和朝廷の支配下に下ったことが判断される。このことから、孝霊天皇が出雲中心域に来た目的が出雲の朝廷への併合にあることになる。出雲を朝廷に併合するのはきわめて難しいことと考えられる。それを実行するためにはどうしてもそれを指示するスサノオ(言代主)の言葉が必要だったのではあるまいか。もし、その言葉が得られれば、スサノオの言葉に出雲が逆らうことはありえず、全出雲軍は朝廷に降伏し、出雲が朝廷の支配下に下ることが考えられる。熊野大社の神官(言代主)の言葉を得るために進入したと考えるのであるが、どうであろうか。黄泉国神話と重ね合わせるとこのような物語になる。

 八雲村東岩坂に侵入した朝廷軍は主力をそこに控えさせ、天皇及び側近のみで、熊野大社に参内し、言代主の言葉を聞こうとした。言代主をイザナミ、孝霊天皇をイザナギとすると、黄泉国神話の黄泉国での二人の対話に対応するのである。

(3) 古事記・日本書紀の沈黙

 しかし,これだけの大乱に関して古事記・日本書紀は沈黙しているのである。神社伝承がしっかりと残っていることからして,知らなかったはずはなく,あえて無視したものと考えられる。無視するということは,古事記・日本書紀の編集者にとって都合の悪い内容であるためということになる。古事記・日本書紀では,スサノオ・ニギハヤヒの業績をほとんど完全に抹殺していることから推察して,この大乱の発生原因がこの二人に絡んでいることがうかがわれる。

            (4)  出雲王朝の謎
古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。これについて考察してみたい。

出雲王朝系図

  スサノオ─@ヤシマジヌミ─Aフハノモジクヌスヌ─Bフカブチミズヤレハナ─Cオミズヌ─Dアメノフニギヌ─┐
  ┌────────────────────────────────────────────┘
  └Eオオクニヌシ─Fトリナルミ─Gクニオシドミ─Hハヤミカノタケサハヤジヌミ─Iミカヌシ─┐
  ┌──────────────────────────────────────┘
  └Jタヒリキシマルミ─Kミロナミ─Lヌノシトリナルミ─Mアメノヒベラオオシナドミ─Nトオツヤマザキタラシ


代数 王名 王妃名 王妃の父 王妃の祖父 よみ
1 八島士奴美 木花知流比賣 大山津見 ヤシマジヌミ
2 布波能母遅久奴須奴 日河比賣 淤迦美 フハノモジクヌスヌ
3 深淵之水夜禮花 天之都度閇知泥神 布怒豆怒 フカブチミズヤレハナ
4 淤美豆神 布帝耳神 刺国大 オミズヌ
5 天之冬衣神 刺国若比賣 アメノフニギヌ
6 大国主 鳥耳 八島牟遅 オオクニヌシ
7 鳥鳴海 日名照額田毘道男伊許知邇 トリナルミ
8 国忍富 葦那陀迦 クニオシドミ
9 佐波夜遅奴美 前玉比賣 天之甕主 ハヤミカノタケサハヤジヌミ
10 甕主日子 比那良志毘賣 淤加美 ミカヌシ
11 多比理岐志麻流美 活玉前玉比賣 比比良木之其花麻豆美 タヒリキシマルミ
12 美呂浪 青沼馬沼押比賣 敷山主 ミロナミ
13 布忍富鳥鳴海 若尽女 ヌノシトリナルミ
14 天日腹大科度美 遠津待根 天狭霧 大山津見神 アメノヒベラオオシナドミ
15 遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ

@のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、Cオミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。(国引きとは国土開発と解釈している。)、さらに、オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。またD天之冬衣神は天葺根ともいいスサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから@からEまでは同世代と考えることができる。Fのトリナルミは@ヤシマジヌミの娘を母としている。つまりFトリナルミは神武天皇の父であるウガヤフキアエズと同世代と見ることができる。古事記によればここからは直系と記録されている。単純に計算するとNトオツヤマザキタラシは第10代崇神天皇と大体同世代となる。出雲の国は大和朝廷が成立してもしばらくは出雲の自治が認められていた。その自治に終止符が打たれたのは倭の大乱の後である。おそらくこのときに出雲を治めていたのがNトオツヤマザキタラシではあるまいか。

 天穂日命の系統の系図も伝わっているが6世ぐらいが同世代であると推定される。この出雲王朝の系図も6世ぐらいが同世代と推定される。同じ系統かとも考えたが、どうも違うようである。天穂日命の系統が祭祀をつかさどっているのに対しこちらは、政治的色彩が強く感じられる。これは出雲の自治政府ではないかと考えられる。当時の出雲では祭礼は最優先で大変重要な存在であったと想像される。祭礼をする人物と政治をする人物が同一人物というのではかなり無理がある。大和朝廷でも初期は長子が祭主となり次子が天皇となったように別であった。出雲でも同じ状態ではなかったのだろうか。倭の大乱が終結した結果、出雲自治を廃止し、出雲を朝廷の支配下に置いたため、祭祀としての穂日命の系統のみを残し、政治としての出雲王朝は廃止されたのではあるまいか。

 あまりに母の系統もばらばらであるためにこの系統は世襲制ではなかったのではないかとも思える。スサノオがBC5年ごろ最初に朝鮮半島に渡ったときに出雲国の留守を@ヤシマジヌミに託してから、オオクニヌシがスサノオなきあとに引き継いだのがAD25年ごろである。この間30年が5代である。1代平均6年である。また、Nトオツヤマサキタラシが退位したのは186年ごろと見られ、この間160年が10代で1代平均16年である。世襲制とすればあまりに短く、@ヤシマジヌミとEオオクニヌシは同世代である。@からDまでの時期は別に出雲国王スサノオが生存したわけであり、F以降Nまではスサノオ祭祀者が別に存在している。いずれにしてもこの15代は権威の象徴ではないのである。

  出雲王朝の系図を見るとき、いろいろな特徴が見られる。まず、H甕主の母が前玉比賣でありその父も天之甕主である。天之甕主と前玉比賣の子が甕主日子と思える。また、K美呂浪の母も活玉前玉比賣となり共に母が同一人物であることをうかがわせ、H甕主とJ美呂浪が兄弟である可能性も考えられる。さらに、L布忍富鳥鳴海はF鳥鳴海とG国忍富を合成したような名でG国忍富と兄弟か親子かということを思わせる。いずれにせよ、出雲王朝は唯の直系とは思えない点が多い。当時の出雲は祭政一致の政治が厳しく行われており、上の指示通りに動く中間管理的な身分であったと考えられる。ある年齢になったときに即位し、高齢になると退位して次の人物に変わる。権威の象徴が別に存在する以上、政治を行うにはこの方が良かったのではあるまいか。

 Nトオツヤマザキタラシは愛知県犬山市の鳴海神社で祭られている。これは出雲王朝廃止後、東海地方に移動して、スサノオ祭祀を広めようと活躍したためか、あるいは派遣された人物が最後の王を祭ったものか。

次にこの大乱の発生原因を探ってみたい。

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-18tairanyomi.html
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古代史の復元
http://www.geocities.jp/mb1527/index.htm

目次
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