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『三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争』
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 11 月 22 日 14:27:03:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 三島由紀夫氏から日本国民へのメッセージ 投稿者 天 日時 2004 年 11 月 21 日 18:49:47)

『三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争』新潮社(角川文庫)

1969年5月13日 東大教養学部(駒場)で三島由紀夫と全共闘の討論会が開催されました。その中から天皇制を巡る議論を中心に抜粋します。



−−略−−

全共闘G 全然問題を変えて、三島さん結婚していますか?

三島 ハッハッハッ、してるよ。

全共闘C してるよね。(笑)

全共闘G それで奥さんのほかの女で何か気に入ったのがいたとして、どうします。

全共闘C 抱くよね。

三島 それはそうだ。(笑)

全共闘G 相手が承知してくれなければ?それを抱きたい時

三島 いやまあ、それはたいてい承知するよ、おれなら。(笑)

全共闘C じゃあ、うちの女房に声かけてごらん。絶対ふられるから。

三島 ああそうか、主義が違うから それはくだらな過ぎるよ。もうちょっとなんとかしようや。(笑)

全共闘G いやあ、ぼくの個人的興味で……。

天皇と民衆をつなぐメンタリティ

全共闘H ぼくの問題はわりと高次元で、まともになるんだけれども、三島にとっての天皇と、われわれにとっての国家と、その辺の関係から話していって、少し何かゆきつくんじゃないかと思うのです。まず提起するならば、三島がね、今『英霊の声』以来、天皇についていろいろ
書いているし、感情を書き散らしていると。しかし、ぼくが思うのに、今天皇がいないからこそ三島はああいうことを書いているのであって、今天皇がいたら、ああいうことを書くはずがない。つまり非現存であるからこそ、三島に言わせれば、至高としての、同時に至禁としての美が存在すると。そうではないかと思うのです。それなのに、なぜ三島が、いわば自衛隊に一日入隊なんかして、あるいは変な右翼のまねごとなんかするのか。三島が美を追う物書きであれば、美は美の中で完結するのだから、変な甘っちょろい、ぐだぐだした行動なんかしないで、そこにとじこもっておればいいのであって、三島がその美の中にとじこもらないで、行動に出てくる時、その天皇としての美が、実は共同幻想として、共同規範として、非常にみっともないものになってしまうと。その辺に三島の欠点があるのではないかとぼくは思うわけです。

三島 今のは、非常に勤皇の士の御言葉を伺って、私は非常にうれしい。(笑)あなたはあくまで天皇の美しいイメージをとっておきたいがために、私を書斎にとじこめておきたい。(笑)あなたの気持の奥底にあるものはそれだ。この尽忠愛国の志に尽きると思う。(笑)

全共闘C まじめに話せよ、まじめに!

三島 君、まじめというのはこの中に入っているんだよ!言葉というのはそういうものだ。この中にまじめが入っているんだ。わかるか!

全共闘C わかるよ、そのやり方は。相手の文体を裏返すのはさ。そんなのみえすいていると言うんだよ。

三島 ああ、お互いみえすいている.(笑)これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと・現在言われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないでで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢見ていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。しかしながら、これには天皇という言葉がが戦前ついていた。それが今はつかなのは、つけてもしようがないと諸君はおもっているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。これは・本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。それがくっついた時には、成功しないものも成功するかもしれないのだ。私が今、天皇、天皇というのは、今まさに洞察されたように、今の天皇は非常に私の考える天皇ではいらっしゃらない(笑)からこそ言える。そして、私の考える天皇にしたいからこそ私は言っているのであって、これは確かにおっしゃるとおりである。し かし、それを実現するには……。

全共闘H 匪賊共闘は、刑務所で死ね。

三島 うん、それはそのとおりだ。しかしだ……。

全共闘H 朕はたらふく喰っているぞ。御名御璽…-。

三島 朕はたらふく喰っているというのはだね、それは共産党の、諸君の嫌いな民青なんかの考えそうな、非常に下劣な文章である。ところが、天皇というものはそれほど堂々たるブルジョアではないんだ。もし天皇がたらふく喰っているような堂々たるブルジョアであったら、革命というものはもっと容易であった。それでないからこそ、革命はむずかしいんじゃないか。そして、そのむずかしさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇と呼んでいいかどうかわからない。たまたまぼくは天皇という名前をそこに与えるわけだ。それをキャッチしなければ諸君も成功しないし、ぼくも成功しない。諸君にとっては、ぼくの行動は全くみっともない。自衛隊なんか入って、何かミリタリー・ルックきたりなんかして、みっともないと言うだろうが、私に言わせれば、あんな覆面かぶって、大掃除の手伝いみたいなのもみっともない。(笑)これは私に言わせればそうなんであって、行動の無効性ということについちゃあ、五十歩百歩だと私は今のところ信じている。何とかしてこれを有効性に持っていく時は殺し合う時だ。いま殺し合う時期であれば、お互いに殺し合う。しかし、そこまでいかなければ、最後の話がつかないんじゃないかということを私は言いたいのです。

全共闘E あなたの言う民衆って何ですか?民衆って!

全共闘C 一応弁証法でやろうとしているよ、この人。君たちを相手どって。

全共闘E 民衆の底辺からなんて言われたけれどねえ、一体民衆の底辺というのは何なんですか。
全共闘C 農耕民族というやつよ、早い話が。

全共闘G それを聞きたいな。

全共闘H 民衆という言葉を使った時は、すでに民衆はないわけなんだ。

三島 それは言葉の問題かもしれない。(全共闘 言葉の問題じゃないよ!)民衆の底辺というのは、日本人の持続したメンタリティということで、時問の問題をぼくはさっきからたびたび言っているわけだ。そうして、空問を形成する日本人というのは諸君のような新しい日本人だ。ところが時間の中に生きている日本人というのはまだ日本にはいっぱいいるのだ。どうしても空問というものを理解できない日本人がいるのだよ。そして、それは民青もそうかもしれないが、民青の反対側もそうかもしれない。そして、一定の時間の中にしか生きていない人間、その人間の中にあるものだね、私は日本人のメンタリティの一つの大きな要素と考えるのだ。そのメンタリティをどうするのかという問題を言っているわけだね。

−−略−−

三島 今のお話の中で、その現在的な時問あるいは超歴史的な未来の時間と言われたけれども、それは大体同じ次元と考えていいのですか?現在、現在ということと、未来ということは……。
全共闘E もちろんね、そこで現在ということを立てること自体がすでに現在と立てることは一つの認識の作用であるから、一つの目的意識性があるからこそそういった現在性というものを設定し得るということがあるわけですよ。その意味でたとえば三島さんが過去的な時間というかな、認識の問題じゃなしに三島さんそのものにおいて、その三島さんの今までの生活史の中で非常に重要性を占めてきた過去のあらゆる事象の総合形態そのものが三島さんの中で認識を設定する一番重要な視点となるならば、すでにそこにおいて現在ということを立てるということ自体において三島さんとぽくとの違いということが当然出てくる。それをふまえて現在と未来の同一性ということを言うならばいいですよ。

三島 そうするとあなたの言う現在というものは常に目的論的な意味が含まれていると理解していい?そうね。しかるがゆえにそれは未来へ論理的に連続すると考える。それでいいわけだな。ぼくにとってはつまり現在というものは全然目的論的に絶対把握されない。従って現在というものと過去というものあるいは未来というものとも完全に次元が違うんだね。私は絵描きでもない音楽家でもない小説家ですね。これは言葉でしょう。言葉というものは共同体の中で一定の共通する言葉というのがあるからこそ言語芸術というものがあるので、こうやって諸君の
前にいて私がロシア語を話したならばわかる人が何人いるかわからない。日本語という一つの共通の媒体によって諸君と意思を疎通してああ、疎通しないかもしれないが少なくとも言葉というものを使っているわけだ。そして言葉というものはそれこそ一定の持続がなければ諸君の間に伝播する力がないわけだ。
だが、諸君に向って私が初めて使った言葉をここで何だか大橋巨泉の万年筆の広告みたいなことを言ったって、初めての人にはそれが何を意味するかわから
ない。意味を生ずるのは、言葉がすでにそこに使われて、一定の空間の共同体の中で一定の時間の持続に従って約束のうちで使われているから言葉になる。そしてそれはどうしたって過去に属するのだ。そして過去で一世代だけでなくて何世代にわたってリファインされてきたから文学言語というものはそこに成立されている。そこで私が使っているマテリアルとしての言葉が過去に属する言葉だ。そ して私の現在というものは、私がその言葉を自分の意識下に押し込めながら、そ言葉を自分の蔵(注:潜在意識あるいは集合的無意識)の中からひっぱり出して現
在の自分の選択に役立てている。
その選択というのは、一語一語で文章を書く時、自分はどう書くべきか。彼女が笑ったと書くべきか、彼女は笑ったと書くべきか。彼女は花のように笑ったと書くべきか。花のように笑ったというと川端康成みたいだからこれはよそうとか。(笑)彼女は悲しそうな月のような美しい表情をしたというのは誰それさんみたいだからよそうとか、そこでセレクションをしながら言語をここへ配列していくわけだ。それは私の現在の行為であり選択である。私はその過去と現在というものを別の次元のものとみなしているから、私は一応過去の長い集積を文化の集積として持っているけれども、その集積自体を尊重するような思想にはくみさない。私はいつも文化的遺産というものを大事にする思想というものを軽蔑してきた。なぜならこれは死物だから。そして名前を言っちゃ悪いが中村真一郎さんとかああいう人たちの文化主義というものは、私は昔から嫌いだった。というのは彼らは文化というものをそういうふうに形成された遺物としてしか見ないからだ。で、自分たちは作品というものをその遺物に似せることしかできないからだ。
私は文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。外在すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の行為である。その行為の集積が自分の作品になるんだが、その作品もでき上っちまえばこれも過去に押しやられちゃう。そうやってわれわれ生きているのが文士というものの生活です。ところが未来というものは何だ。私は未来というものは不定型なものだ、これはあなた方にとっても不定型であると同時に私にとっても不定型だ。その未来というもののこのゼリー状の未来を現在の一瞬一瞬の行為でもって少しでもこうやって押していく。押せば形になっちゃう。形になっちゃえばつまらない。づまらないけれどもまた押す、またゼリーが形になる、またつまらない、そうやって押して暮してるんだ、ね。しかし私はそのアンフォルメルなゼリー状の未来というものに何ものも賭けたくないんだ。そういうものに賭けたくないからこそ現在の瞬問、瞬問 のセレクションに生きようとして生きているんだ。だから私にとっては未来というものと現在というものと過去というものは画然と違った三つのもので、その間に目的論というものは介在しない。それが私のあなたに対する答えというか、私としての立場ですね。

−−略−−
天皇とフリーセックスと神人分離の思想

三島 実はね、この天皇の問題、少し長くなりますよ。いいですか。私は今の陛下についても、ほんとうは後宮をお持ちになった方がいいと思っている。(笑)それで、大体私の天皇観というのはいわゆる右翼の儒教的天皇観と全然違うのですよ。古事記をよく読まれるとわかると思うのですが、古事記の下巻が仁徳天皇から始まっている。これは何を意味するかというと、仁徳天皇から儒教的天皇像というものが、確立されちゃったわけです。そして「民のかまどはにぎわいにけり」というような感じの天皇像が確立しちゃった。それがずっと教育勅語まで糸をひいているわけですな。私は教育勅語におけるあの徳目を一番とにかく裏切っているのは古事記における天皇だと思うのですよ。「父母に孝に兄弟に友に」と書いてあるけれども、古事記の天皇というのは兄弟が平気で殺し合うし、父母をちっとも尊敬してない。それから不道徳のかぎりを尽されている天皇もあるわけだ。ところが古事記では一番私のみるところで重要なのは中問にあ日本武尊神話だと思っている。古事記の中であの日本武尊だけが皇太子であるにもかかわらず天皇と同じ敬称で呼ばれている。これは天皇自身も自分の皇子のことを人神だと呼んでおられる。
これはどういうことを意味するかといいますと、日本武尊のお父さんの景行天皇がある時に田舎へ行かれて、非常な美女を見染められた。これを宮廷へつれてこようと思って日本武尊のお兄さんにあの女をつれて参れとこうおっしゃった。ところがお兄さんが途中でその女をやっちゃって自分のメカケにし、隠れちゃった。そして天皇のところへは別の女をつれて行ってこれでございますと言ったので、景行天皇はムッとされたけれども何も言われないでそのままに放置され、その女には冷たくされた。そして弟の小碓命すなわち日本武尊はかねがね兄さんのやり方はひどいものだと思っていた。ある時朝ごはんにお兄さんおおうすのみこと
の大碓命が出てこないので、天皇が、「どうして朝ごはんに出てこないのか、おまえ行って見てこい」と日本武尊に言うのですね。そうすると日本武尊がはばかりに入っている兄さんをいきなりとっつかまえて八つざきにして殺してしまう、こういうような話が出てきて、天皇はこれについて非常におそれおののいて日本武尊をよその土地へ征伐に出してしまう。非常に危険な征服の戦争です。そうするとやっと戦功をたてて帰ってくるとまたあぶないところに出してしまう。それで、日本武尊が伊勢神宮に行って叔母さんの倭比売に天皇は私に死ねとおっしゃ
るのじゃなかろうかと言って泣いて嘆くところが出てきます。これを私は古事記の中で非常に重要な箇処だと思うのは、あそこでいわゆる統治的天皇と神としての天皇とが分れてしまったのだ。神人分離ということがあそこで起ったのじゃないかと思われる。
私の言う天皇というのはその統治的な人間天皇のことを言っているのじゃないのだ。人間天皇というのは統治的天皇ですから儒教的原理にしばられて、それこそ明治維新以後あるいはキリスト教にもしばられたでしょう。一夫一婦制を守られて国民の道徳の規範となっておられる。これは非常に人間とし
て不自然だ。私は陛下が万葉集時代の陛下のような自由なフリー・セックスの陛下であってほしいと思っている。それが私の天皇像で、これがそのまま生かされるるかどうかわかりませんが、私が人間天皇という時には統治的天皇・権力形態としての天皇を意味しているわけです。だから私は天皇というものに昔の神ながらの天皇というものの一つの流れをもう一度再現したいと思っているわけです。

全共闘C そうすると自己一体化させたいというところに美を見出すわけ?

三島 そうですね。

全共闘C それは単なる一種のオナニズムだ、イマージュと自己の。事物に対して何らなすすべがないわけですよ。

三島 そうじゃなくて、日本文化というものはそういうものが…-。

全共闘C だってそうでしょう。あなたはだから日本人であるという限界を越えることはできなくなってしまうということでしょう。

三島 できなくていいのだよ。ぼくは日本人であって、日本人として生れ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然ぼくは抜けたいと思わない、ぼく自身。だからあなたから見ればかわいそうだと思うだろうが。

全共闘C それは思いますよね、ぼくなんか。

三島 しかしやっぱりぽくは日本人である以上日本人以外のものでありたいと思わないのだな。
全共闘C しかし日本、日本人というのはどこに事物としてあるわけですか。

三島 事物としては外国へ行けばわかりますよ。英語しゃべっていると自分は日本人じゃないような気がするのです。英語が多少うまくなると。そして道歩いていて姿がショーウィンドーに映ると、このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、あ、日本人が歩いている、だれだろうと思うとてめえなんだな。これはどうしても外国へ行くと痛感するね。

全共闘C しかし人間すら事物にまでいかない限り無理ですよ。

三島 その国籍を脱却するということは……。

全共闘C 脱却ということよりも、むしろ最初から国籍はないのであって…-。

三島 あなた国籍がないわけだろう。自由人としてぼくはあなたを尊敬するよ。それでいいよ.だけれどもぽくは国籍持って日本人であることから抜けられないない。これはぼくは自分の宿命であると信じているわけだ。

全共闘C それは一種の関係づけでやられているわけですね。

三島 そうそう。

全共闘C だから当然歴史にもやられちゃうわけだし……。

三島 やられちゃうというか、つまり歴史にやられたい。

全共闘C むしろ、いるということに。

三島 そういうことに喜びを感じる。(笑)

全共闘C 幻想の中で。

三島 幻想の中で。

−−略−−

三島 今の人問天皇と幻想天皇との二重構造は、天皇というものはそういうあであるからだ。なぜなら、大正天皇は御病気だった、明治天皇は偉かった・何々天皇はどうだった.何とか天皇はどうだとか、というふうに・ほとんど天皇制というものは天皇個人のパーソナリティによって連続してきたものじゃない。それは天皇としうものが一つの純粋持続であるし、天皇の個性は全然問題にしない。今の天皇は一部の人が考えるように非常に立派な方だ、今どきめずらしい素直な立派な方でそれだからこそ私はあの天皇は大好きで、あの天皇のためなら何でも尽くす、こういう考えを私は持っているわけじゃないのです。
それは小泉信三とかオールド・リベラリストたちの天皇観です。私の天皇観というのは、さっきも申し上げたように、日本武尊が、つまり白鳥に化すると。そういう時に、つまり神のような天皇、神的な天皇というものが文化の領域に移されなければ危険であるという判断を景行天皇が下されたわけです。自分の息子というものを文化の、詩の英雄として完全に神話化しなければ危険である。そして自分は統治的天皇として、神話や伝説と違った世界で、生きていこう、こういうことを景行天皇は考えられたのじゃないかと付度する。そして、私の言う天皇というものは人間天皇と、つまり統治的天皇と、文化的なそういう詩的、神話的天皇とが一つの人問でダブルイメージを持ち、二重構造を持って存在している、その現実の天皇お一人お一人のパーソナリティとは関係がないのだというところが私の核心で、これは天皇機関説を考えられればすぐわかることだと思うのです。いわゆる絶対天皇制という もののもとで、大正天皇が御病気であったということは外国ではたいへんなことなんです。それが自然にああいうふうに伝承されていったということが戦前ですらあったのですね。

全共闘Gさっきの古事記のたとえ話を聞きまして、ぼくもそういうおおらかなセックス
というかーそういう一つの天皇の理念形として立てるーこのこと自体はどうこうというわけじゃないのだけれども、先ほどD君が言ったように、それは全然現実から遊離した天皇である。つまり、たとえばそうした形で現在天皇がおおら かなセックスを楽しむということになったらどうなるか、たとえば現在において、天皇云々といってテレビのコマーシャル……。

全共闘E ヨーヨーヨー、ムキになって挙げつらっているとさ、バカみるぞ、おまえ! あのさ、三島由紀夫にとっての天皇なんて…-自分の作品でしかないんだからさ。

−−つづく−−

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