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生身のヘレン・ケラー〜【T】社会主義者・急進論者・反戦 /【U】性衝動と未婚の苦悩
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/354.html
投稿者 手ポリオ 日時 2004 年 11 月 21 日 17:43:35:HcDLIonJaW4jM
 

【T】社会主義者・急進論者・反戦

ヘレン・ケラーは、20世紀初頭にできたばかりのアメリカ社会党に入党し、第一次大戦の反戦運動をやり、ロシア革命を熱狂的に支持し、FBIからも監視され、人種差別を無くす会の論客でもあり、NAACPの黒人解放運動や、労働運動にも参加し、若年労働や死刑制度に反対し、筋金入りの婦人参政権論者で婦人参政権運動にも参加し(アメリカでさえも1920年に婦人参政権成立)、デモにも出て、社会主義的急進論の本『闇の外へ』も書き、ルーズベルト大統領夫人に書簡も送り、経済改革や労働者階級の状態についての講演会もして、さらに彼女は、性病のような〈おおっぴらには口にできない〉問題についてさえ議論し、「社会の不平等と様々な不幸の根は貧困に他ならない」との信念を語りました。
百万長者の慈善家アンドリュー・カーネギーがケラーに5千ドルの終身年金の給付を申し出た時、彼女はその申し出を丁重に辞退しました。ケラーは、「本当に困窮している多くの人たちを目の前にして、自分だけのためのお金を受け取ることは、私が新たに習得した社会哲学とは一致するものではありません。」「私はすでにかなりの分け前にあずかっていますし、数百万ドルでも彼ら困窮している人たちの正当な取り分としてはまだ少いのです」と書いています。
第2次世界大戦中に友人に当てた書簡で彼女は「慈善は社会悪に対する悲劇的免罪符にすぎない」と言い切った。「単なる慈善事業ではなく、社会全体の責任です」
彼女の左翼的言動が潜在的寄付者の感情を逆撫でするとの虞(おそれ)から、彼女に米国盲人援護協会側から圧力が加えられたとも考えられるが、彼女は自らの信条を終生貫いたのである。「私の反骨精神は今も生きています。」
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■「小原二三夫の部屋」という全盲の人のホームページより。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/index.htm

私は視覚障害者(全盲)で、普段は点字を使って情報を入手し、また仕事もしています。
 4年近く前からインターネットを利用しています。今では多くの情報をインターネット上で探したり、また各種情報源や英語教材用に多くのメールマガジンを利用しています。そしてそれらを、いろいろな装置を介して、点字(と音声)で読んでいます。

【資料】 急進論者ヘレン・ケラー―スーパーヒロインの秘話 (2001年9月30日)小原二三夫
http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/helen/helen_shiryou1.html

ところで、数ヶ月前以前の点字のノート類を整理していたら、以下に掲げる資料が出てきました。数年前の何かの雑誌ないし新聞からの抜書のようなのですが、出典や著者がどこにも書いておらず、分かりませんでした。おそらく1998年がヘレン・ケラー没後30年でしたので、それに関連して書かれたものだと思われます。
 一般にはあまり知られていない事実もふくまれていますので、点字のノートから普通の文字に直して転載します。なお、注記は私によるものです。(以下本文)

急進論者ヘレン・ケラー―スーパーヒロインの秘話

FBI(連邦検察局)はこの人物に関する調査資料を保存していた。男女同権論を唱え、NAACP(National Association for the Advancement of Colored People 全国黒人地位向上協会[注1])の活動を早くから擁護し、また人種差別を無くす会の論客でもあったこの女性がヘレン・ケラーだとはにわかには信じがたい。
 生後18ヶ月で視力と聴力を奪われたヘレンが過酷な3重苦を克服し、運命を切り開いていった人性の記憶は我々の精神を常に鼓舞してくれるのだが、彼女についてのスーパーヒロインとしてのあの崇高なイメージを定着させたものは、おもにアカデミー賞受賞英画『奇跡の人』であった。
 しかし、宗教的とも言える気高い彼女の肖像の裏面に、はたして何が隠されていたのだろう。
 神話は今も作られているのだ。現在AFB(米国盲人援護協会[注2])は全国ツアーでエキジビションを繰り広げているが、そのメインテーマとして、ヘレン・ケラーの一生、とくにAFBの寄金調達係、ロビイスト(院外活動家)としての役割に焦点が当てられている。
 エキジビションのメダマとしては、彼女の点字の聖書や、記録英画『我が生涯』で自ら演じたヘレンの役で受賞したアカデミー賞、そして今もベストセラーの自伝的小説『Story of My Life』が数カ国に訳されて展示されている。
 驚くには値しないが、今回のエキジビションでもヘレン・ケラーの左翼的政治色をほのめかす物はない。「私たちは何も隠していません」とこのイベントの正当性を主張するリザ・グレコ(AFBの副会長でPR担当者)は語っている。「44年間も私たち視覚障害者と他のすべての障害者の人権擁護のためにひたすら働き続けた彼女の業績をこのイベントを通じて広く社会にアピールすることに決めました。」
 1924年にAFBで活動を開始する以前の彼女は公然と婦人参政権を主張し、若年労働や死刑制度に反対した。アラバマ生れの彼女は、1916年にNAACPに百ドルの義援金を添えてその活動を支持する書簡を送り家族の怒りを買ったが、「社会の不平等と様々な不幸の根は貧困に他ならない」との信念から社会党入党も辞さなかった。
 人生の大半を盲人の援護基金調達に捧げたにもかかわらず、第2次世界大戦中に友人に当てた書簡で彼女は「慈善は社会悪に対する悲劇的免罪符にすぎない」と言い切った。しかしAFBに参加した後は左翼的言動はあえて差し控えた。ジョゼフ・ラッシュが『ヘレンとその師』(1980)[注3]の中で指摘しているように、AFBの稼ぎ頭だった彼女の左翼的言動が潜在的寄付者の感情を逆撫でするとの虞(おそれ)から、彼女に協会側から圧力が加えられたとも考えられる。
 その遺産は現在の盲人援護活動に受け継がれている。すなわちこの種の団体や組織には概して政治色はきわめて希薄である。
 もしヘレン・ケラーの急進的思想が広く世間に知られたら寄付金は激減するだろう。全米障害者協議会のボニー・オデイはそう言って、公共の場所での会としての自制にもかかわらず、彼女は自らの信条を終生貫いたのである。
 1930年代にいたりヘレン・ケラーはエレノア・ルーズベルト[注4]に、1913年の社会主義的著作『闇の外へ』について書簡を送った、そしてその中で次のように心の内を明かした。
 「私が当時言及したいくつかの事態はすでに昔語りとなりました。しかし私の反骨精神は今も生きています。」
(本文はここまで)
 [注1] 全国黒人地位向上協会。 1909年設立の、発の全国的な黒人解放組織。白人の自由主義者が中心だったが、唯一の黒人幹部としてW.E.B.デュボイス(1868-1963。1895年、黒人として初の博士号をハーバード大学史学科より得る。1905年、黒人の市民権確立を目指したナイアガラ運動を組織し、以後終生黒人解放運動・平和運動に尽力)が参加。
 [注2] American Foundation for the Blind. 1921年設立の非営利組織。
 [注3] ジャーナリストの Joseph P. Lash の書いたヘレン・ケラーの伝記「Helen and Teacher』のこと。
 [注4] Anna Eleanor Roosevelt(1884〜1962)。32代大統領フランクリン・ルーズベルトの夫人。1905年結婚、21年以後は小児麻痺で療養中の夫の精神的な支えとなり、33年にルーズベルトが大統領に当選すると、婦人問題や人権問題など多方面に活躍。45年に夫が亡くなった後も53年までは国連のアメリカ代表を務め、国連人権宣言の起草に積極的な役割を果たした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
●翻訳コーナー 小原二三夫

“HELEN KELLER (Women of Achievement)”「ヘレン・ケラー(偉業を達成した女性)」
by Dennis Wepman  Copyright 1987/06/01 U.S.定価:$22.95
by Chelsea House Publishers, New York, Philadelphia
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1555466621/qid=1100978059/sr=1-1/ref=sr_1_24_1/249-7647952-3686754

この本の、第4章の(3)〜(5)では、ヘレン・ケラーの社会的・政治的な考えや恋愛について、簡単ではありますが述べられています。いわば〈奇跡の聖女〉としてではない、一人の人間・女性として生き考え悩んできた面だと言えます。ケラーのこのような面にももっと光があてられ、注目されていいと思います。

第4章 昼 
(3) http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/helen/helen43.html
・・・
1905年、アニー・サリバンはジョン・メイシーと結婚しました。短い新婚旅行の後、2人はヘレン・ケラーと共にレンサム(ボストン近郊)に落ち付きました。
・・・
1909年、ジョン・メイシーは社会党に参加しました。当時、社会党はちょうど人気急上昇中の時期でした。カリスマ的な指導者ユージン・V.デブズ[12]に率いられた社会党は、数千の新しいメンバーを引きつけていました。彼らの職業は農夫から大学教授まで、その所得は数セントから数百ドルまでと、広範囲にわたっていました。

  [12] Eugene V. Debs:1855〜1926.アメリカの労働運動、社会主義運動の指導者。1893年、産別のアメリカ鉄道組合を組織。翌年、プルマン鉄道会社に起こったストライキを支援。逮捕・投獄されたが、獄中で社会主義を学ぶ。98年に社会民主党を組織、1900年にはその大統領候補となった。翌年、アメリカ社会党の創設に加わり、以後4回同党の大統領候補になる。彼の指導下で社会党は着実に支持を広げ、1912年の大統領選挙では90万票余(得票率6%)を得た。第1次大戦に際し、党内反戦派の立場を貫き、18年にスパイ防止法違反で逮捕され10年の禁固刑を受ける。20年の大統領選には獄中から出馬し、91万票を得た。アメリカ史上、最も人気のあった民衆指導者の1人とされる。

 ケラーは、貧困およびそれがアメリカの子供たちにもたらす影響について長い間心を痛めていました。また彼女は、筋金入りの婦人参政権[13]論者にも成っていました。メイシーが説明してくれた社会党の基本的な考え方は彼女自身の考えとも近似していましたので、彼女もまた社会党に加わりました。(アニー・サリバンは、この3人世帯の中では少数派でした。政治的に保守的だった彼女は、社会主義にも婦人参政権にも不信を持っていました。)

  [13] アメリカの婦人参政権:1869年、婦人参政権協会が設立され、翌年にはユタ州で女性の参政権が認められる。20世紀に入ると各地で運動が盛り上がり、1914年にネバダ州とモンタナ州で婦人参政権が認められる。1919年6月、連邦議会で女性の参政権を認める憲法修正第19条が可決され、各州で修正第19条を批准し、20年8月、発効、婦人参政権が確立される。

 ケラーは今や、女性の権利のような論争の的となる問題について書き始めました。さらに彼女は、性病に起因する幼児の失明のような〈おおっぴらには口にできない〉問題についてさえ議論するようになりました。彼女は「女性の投票権」を求めるデモ行進に加わり、経済改革や労働者階級の状態について講義したり書いたりしました。
 1909年、アメリカがインフレに襲われると、レンサムの家の人たちは、家計をやりくりするのがますます困難になっていることに気付きはじめました。それなのに、百万長者の慈善家アンドリュー・カーネギーがケラーに5千ドルの終身年金の給付を申し出た時、彼女はその申し出を丁重に辞退しました。本当に困窮している多くの人たちを目の前にして、自分だけのためのお金を受け取ることは、彼女が新たに習得した社会哲学とは一致するものではありません。ケラーは、「私はすでにかなりの分け前にあずかっていますし、数百万ドルでも彼ら困窮している人たちの正当な取り分としてはまだ少いのです」と書いています。
 1913年、ケラーは、社会問題についてのエッセイ集『暗闇から外へ』を出版しました。この本にたいする批評家たちの反応は気乗りしないものでしたし、また一般読者の 反応も同じようなものでした。ケラーは、その社会主義的見解のゆえに、さらには政治的な見解を〈持つこと自体〉のゆえに批判されました。ある評論家は、この本には判断の間違いがたくさんあり、それは疑いもなく「(著者の)発達の限界」がもたらしたものだ、と言いました。
 そのうちに、ケラーが女性問題、政治、経済に関する記事を書いても、そういう記事の掲載を拒否する編集者がどんどん増えてゆきました。世の中は、ヘレン・ケラーが自分自身以外の事について何を考えようとも、それらにはいっさい関心を持っていないように思われました。ケラーとその友人メイシー家にとって、金銭が重大な問題になってきました。さらに事態を悪化させたのは、7年になるメイシー夫妻の結婚生活に、危機の徴候がみえてきたことです。ジョン・メイシーはもともと大酒家でしたが、以前にまして酒量がふえてきました。結婚当初はスリムできれいだった妻も、体重が増えてきました。そして病気がちで、よく疲れ切っていました。こうして、レンサムの家は次第に冷えきった場所になっていったのです。

(4) http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/helen/helen44.html
ヘレン・ケラーは筋金入りの平和主義者でした。1914年にヨーロッパで戦争が勃発すると、彼女は、合衆国がこの戦いにかかわるのには反対であることを明言しました。1915年のニューヨーク市でのスピーチで、彼女は次のように述べています。「私は世界を私の祖国と考えます。だから戦争は何であれ、私にとっては、世界の構成員に不和をもたらす、まことに嫌悪すべきものなのです。真の愛国主義とは同胞愛であり、あらゆる人間相互間の奉仕である、と私は主徴します。」
 戦争への反対を公言したアメリカ人はけっしてケラー1人ではなかったのですが、第1次世界大戦についての彼女の見解は、合衆国が 1917年に参戦してからはとくに、多くの同郷の市民にも不評を買いました。

(5) http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/helen/helen45.html
1916年の秋、ケラーは彼女の生涯でもっとも痛ましい出来事を経験しました。
 その夏の反戦をうったえる講演には冷やかな反応しかなく、彼女はめずらしく落胆した気分になっていました。またサリバンは重い病気になっていて、医者の考えでは、彼女は結核に罹っていてニューヨーク州立の療養所で数ヶ月間過ごさなければなりませんでした。そのため母ケイト・ケラーが娘の面倒を見るためにすぐにレンサムにやって来ました。
 ケラーとサリバンは夏の講演旅行を手伝ってもらうために既に臨事の秘書を1人採用していました。彼はピーター・フェイガンという 29歳のジャーナリストで、社会主義と平和主義についてケラーと同じ見解を持ち、点字と指文字をすでに独学していました。 36歳のケラーはこの青年に温かさと思いやりを感じましたが、母は彼を嫌いました。ケイト・ケラーは娘の急進的な政治思想に不賛成でしたし、ましてやフェイガンのそれはなおさら悪いものだと考えました。
・・・
(このあと、1916年9月ヘレン36歳の時、ピーター・フェイガン(29歳)との恋愛と、母や家族の猛反対で駆け落ち失敗、フェイガンはライフル銃で追い払われる大悲恋の模様と、1917年チャップリンがヘレンとサリバンの主役の映画『救出』を作るが大失敗(なお、当時は無声映画)、などが詳細に綴られる。)
ヘレン・ケラー「短い恋愛は、私の人生の中で、暗い水に囲まれた小さな喜びの島として残るでしょう。愛され望まれるという経験をしたことをうれしく思っています。」・・・

―――「小原二三夫の部屋」には、他に次のものもあり。
 
『奇跡の人、塙保己一――ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』 (堺正一著、埼玉新聞社、2001年6月。点字版は東京ヘレンケラー協会より発行)(2002年1月7日)
http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/dokusho/dokusho5.html

ヘレン・ケラー年譜 
http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/helen/helen_nenpu.html
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【U】性衝動と未婚の苦悩

―――“素晴らしい思想、笑顔の裏に自分のぶざまさ、無力さをできるだけ隠すものなのです。私の心のエネルギーを、困難な課題の達成、私よりも恵まれない人たちへの奉仕に、全部注いだのです。”―――

■長瀬修「障害・障害学の散歩道」2000年8月号
No7 ヘレン・ケラーの再評価−20世紀の終りとセクシャリティー(倉本智明)より。
http://www.akashi.co.jp/menue/rensai/syougai_7.htm

ドロシー・ハーマン "Helen Keller: A Life"(ヘレン・ケラー:ある生涯)1998という新しい伝記から。
ある男性から結婚を申し込まれた42歳のヘレン・ケラーが書いた返事が掲載されている。(※メイシー先生=アニー・サリバン)

「身体的障害、抑圧が鎮めることができない原始的本能、心の願い全てが、貴方様の願いに応えたいと弾けんばかりです。若い時から男性の愛情を望んできております。運命はどうしてこれほど奇妙な形で私をもてあそんだのか、どうして自分では満たすことができない身体的能力を持たされ、身が焦がされるのか、思い悩んだ時もありました。しかし、偉大な教師である「時」はその役割を果たしました。不可能なことを求めても仕方ないことが分かりました。女盛りが空しく失われてしまうことを嘆いても仕方ないことも。夫婦生活のない一生を送ることが私の運命であると感じるようになり、この運命を受け入れるようになったのです。
人間とはどういうものかご存知でしょう。普通の心の機微はご承知でしょう。しかし、見えない、聞こえない、きちんと話せないという三重苦の重さをお分かりになってらっしゃるでしょうか。私の本を読まれたに違いありませんが、誤った印象をお持ちになったかもしれません。不平不満を活字にはしないものです。自分の傷をさらけ出して、無遠慮な連中にジロジロ見られるようにはしないものです。素晴らしい思想、笑顔の裏に自分のぶざまさ、無力さをできるだけ隠すものなのです。活字にしたものから私の実生活を知ることはできません。貴方は見ること、聞くことができます。だから、どこに行くのも連れて行ってもらい、単純なことすらも手伝ってもらわねばならない暮らしが大変やっかいなことがお分かりにならないでしょう。お手紙を拝読して、私のおかれた状況、不便さを痛感しました。お分かり頂けないかも知れませんが、貴方の人生と私の人生とのほとんど想像を絶する違いが私には分かるのです。
普通の男性の充実した人生を送っていらっしゃる御様子です。私は内向きに生きて参りました。全ての女には子供っぽいところがあると申します。実際、私には子供っぽいところがたくさんあります。実世界を私は知らないと親友たちは申します。ある意味で、私の人生は非常に孤独なものでした。本が最も親密な仲間ですから。家事についても私は物思いに沈んだ傍観者に過ぎません・・・こういった事情にある私と結婚したいという貴方のお気持ちには驚かされます。私が夫にとってどれほどの逃れようのない重荷になるかを考えただけで、私の心は震えます。
・・・時はその役割を果たした、女盛りが空しく失われてしまうことを嘆かなくなったと申し上げました。しかし、強いられた、暗い諦めの心境をほのめかしているのではありません。メイシー先生は、私にとって子供時代から暗闇の中で明かりでいらっしゃいました。そのメイシー先生の賢明で愛情あふれるご指導で、天性の強い性的衝動に私は立ち向かい、このエネルギーを共感、仕事に向けて参りました。神から授かった生殖的衝動を抑え込もうとすることなど夢にも思ったことはありません。私の心のエネルギーを、困難な課題の達成、私よりも恵まれない人たちへの奉仕に、全部注いだのです。その結果として、幸せな人生を送ってきています。そして願わくんば、人の役に立つ人生を」

「ヘレンの人生の始めの部分だけを知っている人がほとんどである。しかし、本物のヘレン・ケラーは成長し、その成人してからの生活は感動的な子ども時代よりも、困難だった。」

「七才の時に現れたのは、本来のヘレンだったのだろうか。言葉の力で野蛮人、動物のような生き物から人間になった、アニー・サリバンが造りだした偽の仮面だったのだろうか」

「美人で、知性にあふれ、ピンと張り詰め、情熱に満ちた女性だった。障害がなければ全く別の人生だったかもしれない。甘やかされ、わがままで、セックスアピールに満ちた南部美人として生きたのかもしれないのである」

ヘレン・ケラーの見直しについては、セクシャリティーという視点に加えて、政治という視点が必要である。「障害と政治」に関して、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の場合は、障害が消され、ヘレン・ケラーについては後者(政治)が消されていると、英国の障害学者であるマイケル・オリバーが記している("Understanding Disability",1996, MacMillan)。ルーズベルト大統領が車イス生活を送っていたことが隠されていた…。FDR記念館では現在、車イスを使っている同大統領の像が建設中である。これは米国の障害者運動の成果である。ヘレン・ケラーについてはロシア革命、労働運動支持など社会主義者としての部分が意図的に消されてきたというのである。あなたは自分がよく知っている盲ろうのことや、障害者のことをしていればいいのとヘレン・ケラーはよく言われていたと、ハーマンの伝記は記している。(※ルーズベルト大統領は足ポリオ。)

ヘレンケラーは平和論者としても知られ、米国の第一次・二次大戦参加に極力反対したため、一部の人達から中傷され、一時窮境に立たされたこともあった。人種差別主義にも強く反対し、婦人参政権論者であった。彼女は社会主義を唱える政党に参加し、ロシアのボルシェビキ革命を熱狂的に支持した。(〜この段落の部分のみ、明石書店ニュース『聾・聴覚障害百科事典』「ヘレン・ケラー」の項 http://www.akashi.co.jp/menue/books/1651/keller.htm より。)

■"Helen Keller: A Life" Dorothy Herrmann(ハードカバー)→Alfred a Knopf出版 1998/08/01
  同(ペーパーパック)→Univ of Chicago Pr (T)出版 U.S. 定価:$20.00 1999/11/01
 まだ、日本語翻訳本は、出ていないらしい。ドロシー・ハーマンは、ヘレン・ケラー伝記の専門家。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0226327639/qid=1100931668/sr=1-10/ref=sr_1_10_10/249-7647952-3686754
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【ご参考】
※ヘレン・アダムス・ケラー  Helen Adams Keller (1880/6/27〜1968/6/1)87歳没。

アメリカ・アラバマ州タスカンビア生まれ。生後1歳8カ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、耳と目をおかされ言葉もしゃべれない、三重苦となった。父アーサー・ケラー大尉はヘレンを連れて、電話の発明者で障害者教育につくしていたワシントン市のアレキサンダー・グラハム・ベル(彼の母が耳が聞こえない)氏を訪れ、その紹介でパーキンス盲学校の校長アナグノス氏に手紙を出して、ヘレンのために家庭教師のあっせんを依頼した。
1887年ヘレン7歳少し前の時、当時21歳の弱視障害の妙齢アニー・マンスフィールド・サリヴァン嬢が家庭教師としてやってきた。……「w・a・t・e・r」……1900年ヘレン20歳の秋、ハーバード大学附属のラッドクリフ女子大学入学、世界歴史始まって最初のことと、当時の新聞はほめたたえたのである。
大学を卒業したヘレンはサリバン先生と二人三脚で体の不自由な人の救済のために募金活動を始めた。ヘレンにとって、自分と同じような苦しみを味わっている人がいることは堪えられないことだった。「体が不自由で苦しんでいる人たちに希望を与え、勇気づけることができるのは、同じように体の不自由な私しかいない。健常者がいくら励ましても、障害者にとっては、同情と哀れみとしか受け取られないのだから・・・」ヘレン・ケラーが身障者の隠れた能力を示すまでは、身障者を社会のお荷物として厄介者扱いをし、障害者を助けることは、お情けの慈善事業であり、裕福な慈善家にさせておけばよいという考えが強くありました。「体の不自由な人たちに温かい手を差し伸べるのは、単なる慈善事業ではなく、社会全体の責任です」ヘレンの訴えによって人々の考え方が変っていきました。それまで細々と行われてきた「慈善事業」が、政府や自治体の「福祉政策」となっていったのです。
36歳の夏、サリヴァン女史病気療養中の時、臨時に秘書を勤めた年下の青年ピーター・フェイガン(29歳)から愛の告白をうけ、身も心もとけるような恋の喜びに胸をうちふるわせたことがあった。青春に遅れてほころびかけた恋のつぼみではあったが、母の猛烈な反対で悲しい破たんに終り、楽天主義を強く唱えるさすがのヘレンも、失恋の打ち傷に身も世もあらぬ悲しい幾日かもあった。…(このあとが上記へつながる。)「私と一緒になるのは、彫像と結婚するようなものです」「私のような障害者と結婚したら重荷を背負い込むだけです」
 
〜社会福祉法人「日本ヘレンケラー財団 since 1950」のホームページ http://www.helenkeller.or.jp/ 
〜「偉人館−奇跡の人 ヘレン・ケラー」のページ http://www.infosnow.ne.jp/~uwabe/izinkan12.htm 
〜中島さんの書評「ヘレン・ケラー」  (ヘレン・ケラー著、井上一夫訳、講談社、1987年) http://www.ktknet.ne.jp/henomohe/book2/heren.htm
〜朝日新聞日曜版「100人の20世紀」1999・10・31 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022573899/249-7647952-3686754

※ヘレンの日本来訪・・・1937,1948,1955、戦前と戦後で3回。サリバン先生は1936年10月20日亡くなりました。70歳。その翌年1937年4月15日来日。その3ヵ月後の1937年7月7日盧溝橋事件・日中戦争。1941.6.19.ヘレンは岩橋武夫さん(1920年代以降日本の盲人の指導者、日本ライトハウス設立、戦後は日盲連創設)に手紙を書きました。「親愛なるタケオへ 世界は怒りと涙の場になりつつあります。お互いの国をどのような不幸が襲っても私たちはその災いの中から力を生み出しましょう。」・・・しかし、1941.12.8.・・・そして、1948.8.29.ヘレン68歳、再来日。広島・原爆被爆地、長崎の浦上にバラック住まいの永井隆博士をも訪れている。・・・ヘレンの言葉「戦争がもたらした困難や利己主義などといったものは、簡単にはぬぐいきれません。しかし、私たちが確固たる信念を持ったならば未来において子孫は必ずや私たちの先見の明に感謝するでしょう。人びとに力を貸し、その不幸な境遇を乗り越えさせる信念こそ今、最も必要なものなのです。」 ヘレン・ケラーの声明〜一・厚生省と文部省は障害者の支援に積極的に協力すべきこと(以下略)。翌1949年12月3日「身体障害者福祉法」が成立。障害者への差別禁止・・・1955.5.28.岩橋さんの遺影に花をたむけるため来日(プライベート)、アメリカ占領下の沖縄へも行き全盲の子供たちと交流。  http://www.infoeddy.ne.jp/~minimint/rainichikiroku.htm
※日本ライトハウス 岩橋武夫 ヘレン・ケラーを迎えて http://www.lighthouse.or.jp/rekisi.html

■朝日新聞・日曜版の連載企画「100人の20世紀」1999年10月31日「ヘレン・ケラー〜一度だけの恋実らず」ドロシー・ハーマンへのインタビューも行われていて、記事はハーマンの伝記もしっかりと踏まえている。
この記事は後に『100人の20世紀(下)』(朝日新聞社、2000年1月)に収録されている。この記事に基づいたテレビ朝日の番組は2000年2月13日に放映された。
・『100人の20世紀(下)』単行本(ソフトカバー)朝日新聞社¥1890(悪税込)2000/01
・『100人の20世紀(下)』朝日文庫¥840(悪税込)2001/08
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022613513/qid=1100926861/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7647952-3686754 

■米国テレビドラマ"Monday After the Miracle:A Play in Three Acts"98年11月15日。日本では2000年1月3日にNHK教育TVで『奇跡の翌日・その後のヘレン・ケラーとアニー・サリバン』というタイトルで初放映。戯曲(舞台演劇)"The Miracle Worker"『奇跡の人』1959の作者であるウィリアム・ギブソン(のち62年に映画化、舞台版でも監督だったアーサー・ペン監督によりパティー・デューク、アン・バンクロフトも舞台版からそのまんまキャスティング。ギブスン自身が脚色)が1982年に続編として創作しブロードウェーで上演されたものをテレビ化。 http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=159587 その原作原書 http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/068911396X/harapanmediatech/104-7226877-4484756

■『現代思想』1995年3月号 森壮也「手話の言語学に向けて もうひとりのヘレン・ケラー」

■両手足切断で「だるま女」としてサーカスの見世物などの興業もした障害者運動家・中村久子氏は、尼僧の甲斐和里子氏との対談の中で、「 ヘレン・ケラーなんて、未来死んだら、どこへ行くやら素姓の知れんような者。そりゃ、気の毒じゃァあるが、わしは尊敬せん(笑)。ただ不幸な体で働くというだけなら、他にもあろう。だが、御法義喜んで、お浄土に手ぶらで行くと決心してしもうとる、土産を持って行かんのやという、あなたのその言葉にほうっとほれたワ」
(「大乗」昭和33年7月号) http://www.ktknet.ne.jp/henomohe/book2/heren.htm

【その他・関連】―――――――――――――――――――――――――――――――― 

■石川准(全盲の社会学者にしてコンピューター・ソフトウェア開発者、静岡県立大学国際関係学部教授、日本の「障害学」創始者の一人、1956年生まれ)HP http://fuji.u-shizuoka-ken.ac.jp/~ishikawa/index.html

■本『見えないものと見えるもの:社交とアシストの障害学』石川准・著、医学書院 2004/1/13 ¥2100(悪税込)
〜第3章 人はいつ暴力的になるのか 2.善良であろうとする人々の暴力 3.永遠の愛は人間的ではない 
〜第4章 セクシュアリティのツボ 1.人は自己の特権を侵さない者にそそられるのか 2.私はアンビバレンスに魅了される 3.セックスを脱規格化する ・・・ほか。【全盲の人には、美人とかブスとかは関係ない?黒人とか白人とかも関係ない…手ポリオ記】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4260333135/qid=1100936404/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7647952-3686754

■結婚と優生思想の本『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか――性道徳と優生思想の百年間』加藤秀一 ちくま新書 2004/8/10 ¥720+悪税・・・優生結婚、結婚=家族という制度の、「総体日本人」の改良という国家戦略と共存する「近代性」の複雑さを明らかにする。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061878/qid%3D1100946013/249-7647952-3686754

■障害者の介助ヘルパー「セックスボランティア」…人間の本性に迫ると共に、当たり前のこととして肩の力を抜いておおらかに考える。 http://www.asyura2.com/0401/health8/msg/801.html
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■ドキュメンタリー映画「聾唖者達の沖縄戦」2000年度制作/カラー・白黒/字幕付き/77分/演出・構成:千々岩恵子
 ビデオ4000円+包装料送料500円=4500円 http://www.arsvi.com/0d/kei.htm

■青い芝の会と、反・優生思想…ゆえに「愛と正義を否定する」…健康の欺瞞性
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/349.html

■戦争と精神障害者(身体障害者の記述も含む)
http://www.asyura2.com/0406/war60/msg/404.html

■【本の紹介】『米食い虫、非国民とののしられながら―戦争を生き抜いた肢体障害者たちの証言―』700円(カンパ) http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/656.html
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【手ポリオ近藤・付記】 〜優生思想・社会ダーウィニズム〜
ヘレンが結婚しなかったのは、母がいつまでも子供を手放したくないこともあったみたいだが、当時の社会状況・時代背景によるものが大きいと思う。それと、反戦運動や社会運動への圧力もだ。それらは、日常の中にある優生思想・社会ダーウィニズムのせいだ。ヘレンが重宝がられ、奇跡の人として偉人扱いされるのも、その裏返しのことだ。ヘレンにとって、当然、反戦と障害者運動とは表裏一体のものだった。障害者は障害者運動だけしていればよいということではない。それは、労働組合は労働者の労働条件の運動だけしていればよいというのではないことや、人種差別や婦人運動なども、同じこと。すべては、反戦・版優生思想の運動へとつながらなければ成らない。このことは「青い芝の会」でも言われていたことだ[ http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/990.html ]。しかし、当時はヘレンとサリバン先生らのおかげで、ようやく「国家」の責任としての福祉政策や婦人参政権が始められた時代だった。だが、それも、やがて戦争の巨大な渦に巻き込まれてゆく。ところで、今では、全身性マヒの重度障害の人でも結婚している人はいくらでもいる。子供が5人で孫が何人もいる人も知っている。バツイチ・バツニもいる。しかし、結婚することが必ずしも幸せではないと考える人もいてもいい。それは障害があるからとか、ないからではなく、個人の自由だ。ただ、障害や何かの差別のせいで、どちらにするかを決められてはならない。その裏には社会にはびこる優生思想がある。
今また、戦争の巨大な渦が巻き起こっている。自衛隊がイラクへ派兵されるうらおもてで、障害者の福祉は徐々に切り捨てられ、一部の養護学校にだけ、あの戦争賛美の教科書が押し付けられ、おカネで買う福祉、競争して勝ち抜く福祉、銃後の戦時福祉政策へと、どんどん進められている。しかも、「人道・安全・保護・平和・命・福祉」という言葉で戦争を正当化されてゆく時代である。優秀なエリート障害者や、お国に文句を言わない従順な障害者のみだけをぎりぎりで生かしておき、その他は自助努力・自己責任・自業自得として切り捨て、見殺しにする福祉・・・それは、優生思想の福祉である。
戦後のほうがむしろ優生思想は国家によって法的に、また、日常の個人によって無意識的に強化されて来た。そんな世間の空気を突破するためには、今までの偉人伝のような、うわべのきれいごとの建て前のヘレン・ケラーではなく、本音、暗い面、生きた人間としての「生身のヘレン・ケラー」として見直す必要があると思う。決して今までの評価をおとしめたり、辱めたりするのではない。むしろ、お仕着せや特別な偉い人ではない、雲の上の聖女ではなく、欠点も短所もある、ありのままを丸ごと認め、当たり前の身近な、ひとりのナマの人間として捉えるから、自分たちでも出来る等身大の活動につながり、自分の心からの共感や尊敬も出来るのだ、と思う。そして、それが、日常の中にある無意識の戦争構造=「レッセフェール優生思想」との政治的な争点をあぶり出し、たたかう運動へと盛り上げていくことになるのである。それは、障害者だけでなく、あらゆる差別の解消運動へと連帯し共同し、それが戦争構造をなくしていく道へとつながるのだ。性・結婚の問題も同様である。
障害者の福祉運動をする時には、必ず絶対に「反戦」を第一にするべきである。そこを避ける者は、すべて偽善の慈善・欺瞞・優生思想の側にいるのだ。ヘレン・ケラーは、青い芝の会よりもはるか以前に、そのことに気が付き行動していた。そこが彼女の偉大なところなのである。それを消したり隠したりしてはならない。わがままで、セックスアピールに満ちた、盲・聾・唖の三重苦の、南部美人の社会主義者、そういう人が反戦運動・反政府運動・反優生思想の活動をじゃんじゃんやる!サイコー!!
ありのままの生身のヘレン・ケラーの反戦の意志を受け継ぎ実践する時が、今こそ来た!「私の反骨精神は今も生きています。」

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