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シリーズ・現代の優生思想との対決(13)ポストモダンについて(ニヒリズムとの対決)
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/429.html
投稿者 手ポリオ 日時 2004 年 12 月 06 日 22:44:06:HcDLIonJaW4jM
 

当初の予定を変更して、「ポストモダン」のことを少し入れます。「近代の超克」を調べたときから、気になって仕方がない。また、別に出した[うたごえ運動と反戦運動〜くたばれ!フヌケと冷笑 http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1178.html ]のつづき、のようにもなります。さしあたり、下記のようなことになりました。なお、当初の予定は、次回にします。走りながら、今を生き、考え、行動するとは、こういうことになるのです。みっともないのが、生きている証し。事態はきわめて流動的で、人間社会は、エリートだけのものではない。

★「生きるに値しない命」として「存在自体を否定されている者」からの問いかけ。
こんなの、無視され、抹殺されても、当たり前なんだろうね・・・・・・。
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【タイトル】―――ポストモダン、とりあえずの理解―――
     〜本来の意味と、日本に輸入され悪用されている現状〜
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【テーゼ】
社会から排除され、あるいはその存在を抹殺された「障害者、精神障害者、狂気、非人間的な者等々」は一体何か?
理性、理想、目的、絶対精神という名のもとに闇に多くの者を葬り去る、切り捨てる歴史とは何か?
歴史の終点に立つ絶対理性や神学思想とは一体何か?
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【引用元】
http://uccjsoc-kanagawa.hp.infoseek.co.jp/discrimination/letter/letter4.html
『部落差別問題小委員会便り』第四号
日本基督教団 神奈川教区 社会委員会 部落差別問題小委員会 2003.2.20発行より。

【前置き】
(※そのサイトは、キリスト教団ではあるが、教団執行部のあり方に批判的な人たちのページです。
部落差別問題や沖縄問題、有事法制反対運動、靖国・天皇制、基地・自衛隊問題などに
直接かかわっている人たちのページです。
だから、この文の中では、仏教などの人たちとの連携も書かれています。
平和をつくる宗教者ネットというのは、国会前やいろんなデモや集会でも、よく見るおなじみさんだね。
知らないなら、いっぺん出てきてみればいい。今ひきこもりの私が言うのも、おかしなことだけどね。
また、共産主義などについても、教条主義的な目的論批判として書いてある。
そして、沖縄・辺野古に連帯する「国会前での毎日座り込み隊」や「防衛庁前の毎週抗議行動」に、
中心的に来ている人たちの多くが、この神奈川教区の人たちだった。
それに沖縄の平良夏芽牧師さんも、この系統の教会の人だと思う。
平良夏芽牧師さんは、初日から三日間、国会前に、沖縄から駆けつけていた。
その少しあとに、沖国大ヘリ墜落事件が起きた。
みんなつながっている。ちゃんとポストモダンの意味も、警戒すべき点と、本来の意味とを勉強し、
実践に役立てておられる。人間社会への視点の奥が深いし、理屈だけではなく、実践・活動の幅も広い。
国会などの現場へ行ってみて、それと合わせて、インターネットや文字のものなども見れば、
そういう見方ができるはずである。
ただし、私としては、少し物足りないところがある。それは、この一番下に書いておく。
単に文字だけを追って机上の文字談義で、理論的に勝ったの負けたのは、何の意味もない。
また、勝ち負けを避けて、一見誰も否定できそうもないような、きれいごとの世界を言ってみても、
どちらもが、それこそ、日本的80年代的(〜2000年代へと継続している)ポストモダンの罠に
はまっているのだ。それは、何の意味もないどころか、むしろ、害がある。
実際に底辺で苦しんで生きているナマの人間の心の叫びを、最優先するべきなのだ!)

【以下、一部抜粋】
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「冷静で正確なズレ〜私たちの脱構築」発題・渡辺誉一(大船教会)

ポストモダンからの問い

 ミシェル・フーコーが「非人間」というカテゴリーを見抜いた。…
キリスト教の歴史認識も、…伝統的な神学も、…ヘーゲル哲学等によって、…また近代社会思想も、民族、人種、階級(マルクス等)といったものが、「終点へ向かって発展・進歩してゆく」という捉え方で別表現されています。歴史の終点に絶対的なる神(理想的な社会主義、共産主義)を配置し、そこを目的とするので、ヘーゲル哲学もマルクス主義も神学も存在論的であり目的論的であり終末論的になります。
 フーコーやドゥルーズ=ガタリ、デリダといった人々は「それでは全てが終点という一方だけに向かう主体であり、それは決定済みであり、今向かい合っている他者との関係も枠にはまっている。」と考えました。彼等が注目したものは…そんな目的論や歴史の終点へ向かう流れから外れた者や、あなたは誰かとの問いに答えられない者はどうなるのかということでした。社会から排除され、あるいはその存在を抹殺された「障害者、精神障害者、狂気、同性愛者等々は一体誰か?」と考えました。「理性、絶対精神という名のもとに闇に多くの者を葬り去る、切り捨てる歴史とは何か?歴史の終点に立つ絶対理性や神学思想とは一体何か?」と疑問に思ったわけです。そこで彼らはそのような設定そのものをずらすことを思いついたのです。これを脱構築と呼んでいます。

日本に輸入された「ポストモダン」

 80年代から日本の「大衆から小衆へ」「個性化・多様化」という一見ポストモダン的なキーワードによって経済戦略が方向転換をしました。…多品種少量…消費者はそこに個性を発見した気になり…これを心理学的用語で「鏡像的同一性」といいます。J・ボードリヤールの論を借りれば、これは個性や多様ではなく記号体系の反映であり、記号支配であるということです。
 日本ではポストモダンが単なる「何でもあり、何でもよい」という表面的なものしか輸入されていませんので、個性的な自分と、個性的な他者との「差異」を認識し、それを尊重し、強制するためにはどうしたらよいのかという「応答責任」の視点や、人間存在のより幅広い捉え方へ進もうという視点が欠如しています。
 ですから…個は社会や他者とバラバラに切り離され…これを「解離性症候群」とも呼んでいるようで、国家という支配体制側は、メディアや教育機関を通して、このような状況に人々を飼いならすことを狙っています。ポストモダニストが、一番警戒し危険視した、支配体制を強く支える動きが、現在の日本社会に見え隠れしているようです。

私たちは耐えうるか?

 …こうした問いかけを受け止め「従来の歴史理解や終末論を超えて、予測不可能な限りない可能性と未来に耐えうるか?」…「近代主義が排除し抹殺してきた存在、更に今でもそのように抑圧されている人々にどう答えるか?」…「非人間とレッテル貼りをされてきた存在の歴史をどう回復するか?」ということを深く考え取り組むことが急務だと思います。
 それから注意しなければならない点として、ポストモダンという思想は既成のシステム論や全てのイデオロギーを破壊することのできるツールだということです。このツールを行使する時、破壊と新しいパラダイムの誕生が起こりますが、また別のタイプのシステムやイデオロギーを安定させてしまう危険があるということです。ボストコロニアルなどで議論される再領土化という問題…。
 人間は自由だという自覚が急速に進展し、従来の共同体と倫理の解体が進んだ19世紀末に、ニーチェが三つのことを予見しました。デカダン思想(形式的流行的ニヒリズム)、過去の倫理への反動的回帰(保守思想)、そしてもう一つは「超越性」の捏造です。
 …「教条主義」…。社会に横たわる問題群を切り捨てた「伝道」が叫ばれています。不況や社会不安という閉塞的な状況下で、社会を閉鎖的にするさまざまな問題に取り組まないで、具体的内容を書いた「伝道」を呼びかける動きに危険性を感じます。ある人々は「一部の人々の暴力が伝道を停滞させた」と仮想敵を作り上げ、…教団執行部という権力が…沖縄の問題等を切り捨てる様は、対立構造をたくみに作り出した力の行使に過ぎません。【※この「伝道」のところを、「反戦運動」とか「平和」とか「福祉」とか「差別撤廃」「人権」「労働問題」「愛と正義」「ラブ&ピース」などを、入れ替えてみればいい。】
 …他者との差異を認め尊重し共生を目指すことが大切だと思います。それは非常に遠い道のりだと思います。けれども私達の理解を超えた「限りなく広い人間理解」への一歩だと思います。
(以下略)
―――引用ここまで。

【私としての少し物足りないところ、について―――障害者のバリケード】
神奈川教会は、これだけ言うなら、「非人間とレッテル貼りをされてきた」ようなやり方を、実践の運動に結び付けてほしい。
それこそ「青い芝の会」が、
1977川崎駅前バス闘争で、バスの前に寝転がったり、
1979養護学校義務化反対運動で、文部省前で、いざりながら、はいながら、抗議行動したり、
1970年代〜80年代の一連の優生保護法反対運動、
1976和歌山県の施設で自殺した障害者のために、その和歌山センターに乗り込み、事務室を占拠し、バリケードを築いて立てこもり、糾弾闘争をしたら、機動隊を呼ばれて‘障害者運動史上初’の機動隊と障害者の闘争になったときのこと、機動隊はまともに手が出せず、一晩中、ただ遠巻きに眺めていた、障害者たちは体を机に針金でぐるぐる巻きにして、ウンコ、ションベン垂れ流しで、がんばった。みんなで歌を、言語障害の人も一緒に、大声で歌った「およげたいやきくん」
♪毎日毎日 ぼくらは鉄板の 上で焼かれて いやんなっちゃうよ
…♪おなかのアンコが重いけど 海は広いぞ 心がはずむ オーッ!
さらに、1981国際障害者年なんてブッ飛ばせコンサート!(略して「ブッコン81」)@京都大学西部講堂、
国連の欺瞞!清く正しい、けなげな、まともな障害者像の押し付けをブッ飛ばせ!イエーイ!
と金満里(キム・マンリ)の本『生きることのはじまり』(筑摩書房1996)に書いてある、
1975日本初・重度障害者の自立生活運動、在日朝鮮人二世、両手両足麻痺のポリオの障害者の女性。
その後、劇団「態変」主宰。現在、一児の母。
その他いっぱいある、などなども、応援・宣伝・語り継ぎをするべきで、今こそ、参考にすべきなのだ。
魂の躍動!人間賛歌!精神の解放!日常性の打破!価値の紊乱!地べたを這いつくばる虫けらの命!
聞け万国の障害者、汝の価値にめざむべし。

それらは、ほかにもビデオや本なども、たくさん出ている。それをみんなで無視したり、危ない奴らだとか言ったりして、排除・切り捨て・闇に葬り去る・バカにする、などということをされてきている。(しかも、私の入っていた障害者の会自体がそのバッシングをする代表のようなところだ)しかし、その危ないやり方こそを復活し、勝つためではなく、常にそういう視点を持ち、地べたを這いつくばり「超越者」にはならず、ニヒリズムに陥らず、昔の保守的軍国的全体主義に戻らせないように、また、新たな衣を装ったネオリベにだまされないように、追求しつづけるやり方の参考にするために、浮かび上がらせねばならないのだ。その根っ子には、優生思想との対決という確固たる視点があった。

「青い芝の会」の綱領の中の一つ《われらは安易な問題解決の路を選ばない》というのは、こういう意味だと思う。目先の要求だけ一部取り入れてもらって、喜んでお手柄にしているような、どこかの会とは、大違いなのだ。
終点は、ないのです。[近藤和也](つづく)
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【次回予告】は、元に戻り、当初の予定をします。どうもすみません。
シリーズ・現代の優生思想との対決(14)反・発達論、反・優生、反差別と共生のために
〜近代社会がなぜ「発達」という概念を必要としたのか?発達という概念が子ども・障害者への抑圧思想になったのではないか。21世紀人類の生き方が問われる時、新しい共生思想を考える。

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