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言挙げのない世界は言挙げによって想像的に語られるしかない、それを逃れうる特権的な立場などない
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 11 月 21 日 12:56:37:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: Re: 理外の理は理? 投稿者 南青山 日時 2004 年 11 月 20 日 16:44:31)

南青山さん 無礼なレスに丁寧に対応していただき感謝しています。
まさか阿修羅で小林秀雄の話をするとは思ってもみませんでし。

>柄谷と中上の(かなりゆるい)対談『小林秀雄を超えて』のように、「小林がなんだ」と
>反発していたものですが、歳をとるとだんだん彼のやろうとしたことの多くが腑に
>落ちるようになってきた。

いやーネタ元が割れてしまいましたか。でももう一つ隠し玉がある。南青山さん先刻ご承知かもしれませんが、坂口安吾です。安吾は最初『不連続殺人事件』とか『安吾捕物帳』などのミステリーや小説から読んでいったのですが、「日本文化私観」を読んで驚嘆しました。「こういう知性が日本にいるのか」という事ですね。小林秀雄を読む前に「教祖の文学」を読んで 小林秀雄が御茶ノ水駅のホームから落ちた話で「ものがみえてるんじゃなかったのか」とか徹底的に小林を笑いのめして斬りまくる安吾に喝采し爆笑した。つまり読む前から小林秀雄が嫌いになった、これは読み手としてはかなり不幸ですね。(笑)


>小林がモーツァルトで、小生がゲーテというつもりはありませんが、なるほど、年を
>取らないと出来ない考え方があるものだと。

人間は年をとるという自然=身体から逃れられないというのがスピノザですね。


>彼自身、自らを「隠居親父」と位置づけていて、「骨董屋の親父がよく頑張った」と
>言えば、たぶん喜んだと思います。隠居老人の眼差しであり、それでけっこうという
>わけで、いわば達人の境地ですね。

それは小林が創作したフィクショナルな安全な場所じゃないでしょうか。小林が天皇主義者とは言いませんが通底するものが見えてくる。松岡正剛は「小林は日本とか民族とか言わない」と書いているけど、それを言うと勝負に負ける。そういう場には出ないで、そうした言説を一切無効にできる場と作るわけです。「何故見えぬ と言えないのだ」と言えば「いや、私にも見えるような気がしてきました、いや見えました」という話になる。それは差異、他者を排除しないと成立しないわけです。茶髪のピアスしたニイチャンに「見えねーよ、どこにアンだよ」と言われればガラガラポンじゃないでしょうか。


>古武術の大家、甲野善紀の『剣の精神誌』で紹介されている無住心剣術、真里谷円四郎を
>思い出します。

昔、王貞治だったか(川上?)「ボールの縫い目が見えた」 と言ったようです。今、同じ話があったら「そんなもの見えるわけがないだろう」と啓蒙的に批判する人は皆無でしょう。むしろ「ひょっとして、いや鍛錬すれば見えるのでは」と思う人がたぶん多数。
私も否定しません、人間の知覚自体がカント的な「物自体」と考えれば「はたらき」としてしか理解できないものだという「先験的な判断」もあります。
しかし、です。そうした「予見」はオウム的な神秘主義と容易に結びつきませんか?

実際、バッティングセンターに行って前に立ってみると120Km位のボールでも、縫い目どころか球さえ見えません、その前に恐怖心が先にたつ(笑)「それはお前が素人だからだ」と言われればそれまでです。
しかし王が言おうとしたのは「縫い目が見える」としか言いようのない、言語化不能なものだったんじゃないか。あるべき球のイメージに瞬間的にバットを叩きつけるような。それは「修行すれば縫い目が見える」という話とは全然違う、第一縫い目を見るために練習しているんじゃないってば。ですからミスターの有名な「バァーっと、前で捌く」とか言語明瞭意味不明なアドバイスも案外正解なのかもしれません。(大笑)
何の話か忘れそうですが、今の神秘主義への物判りの良さを120Kmの当たれば死ぬかもしれない球の前に立って、もう一回ひっくり返さないとダメなんじゃないかということです。つまり肉体という物質性から遊離した「思考ゲーム」みたいな神秘主義はクソの役にも立たない。
もし本当の神秘という物があるなら、吉本隆明が書いている「う....み」と発語するような精神と物質の間のギリギリの所から、逆に言葉や知が立ち現れるものだと思います。

前に書いたアメリカの実証論理学の「父」パースは山荘に籠って、無意味で長大な文字列(阿修羅の投稿時に生成されるIDのようなもの)を筋肉の動きと連動して記憶するという実験を繰り返しています。
パースが視野に入れていたものはアメリカンネイティブの無文字文明における、祭事としてのうた、おどりと伝承(記憶)ではなかったのか、うたい、おどるというのは酩酊状態になりますよね、以前ご紹介のティモシー・リアリーでいけばキノコとかも食べるわけでしょう。
パースは神秘的なものを「神秘主義」に還元するのではなく、愚直にも精神と物質の境界にあるものを「賢しらに言挙げ」ようとしています。(方法論的には行き詰るでしょうが)
ジャック・どんどんさんへ別レスで書きましたが(ある時期までの)アメリカ人の「わかろうとする」凄まじい知性への信頼は、生半かな啓蒙批判では太刀打ちできないと思います。

たしかに本居宣長の古事記読解も「言語化不能」な領域かもしれません、しかし宣長がやったように『古事記伝』というテキストを丹念に追跡することは出来るはずです。(言語化出きる、出来ないは別の話です。)子安宣邦さんが言っているように注釈学というのは知的な方法論なわけですから。それは王が「ボールの縫い目が見えた」という話とは全然違う。
小林秀雄は全然違うものを同じものとして見せている、レトリックというより詐術じゃないか。いや小林にそこまでの悪意はないんだとすれば、小林が『本居宣長』でやっているのは注釈じゃなくて宣長が排した「解釈」じゃないのか、解釈っていうのは「ボールの縫い目」の話になるわけです、想像ですから。「確かに俺には見えた」「賢しらに言挙げする者の眼には見えぬ」って。(笑)


>「理外の理も理」というのは、何度も言いますが、近代理性の悪弊、欠陥と思います。
>(カントはこうした近代理性の欠陥を隠す(逃げ込む)場として、物自体を創出したの
>ではないでしょうか?――暴論かな)

江藤淳が中上健次の『千年の愉楽』の解説で「新宮の路地(被差別部落)にあった文字で汚染されていないオリュノオバの『ものかたり』は文字化(言挙げ)されることで滅びた、しかし、そうしなければ残らないんだ」と悲痛というより、ほとんど泣きながら書いている切実さも小林にはないわけです。つまり言挙げのない世界は言挙げによって想像的に語られるしかない、それを逃れうる特権的な立場などないのだというのが江藤淳の「倫理性」であって、だから江藤淳のテキストは今でも読むに耐える。小林秀雄には江藤の様な倫理性が根本的に欠けていると思います。

上田秋成が言おうとしているのは「俺はまだ話が通じる、それだけ言うなら外の人間と勝負してこい」っていう事です。小林はパースと勝負しても絶対勝てないんじゃないか、でもそういう場には絶対出ない。むしろそういう場に出たのが丸山真男で、フーコーが言っているのは単なる異国趣味=オリエンタリズムではないと思います。

なんで「小林叩き」にこだわるか(笑)というと、そうゆう言説が蔓延しているからです。
別に特別の意図はありませんが、雑談板に前に梅棹さんの「日本語はアジア共通語たりえる」という投稿があったと思います。内容はともかく本当にそう思うのなら朝鮮語、中国語とは言わない、せめて英訳して出版しろ、韓国、中国、ベトナムその他の言語学会に乗り込んで、まず言説でねじ伏せてみろということです。アジアと言いながら全部国内向けのリップサービスでしょう。かつて日本経済はアジアを席巻した、落ち目になった今、もう一度頑張ろうじゃなくて想像的に回復しようとする、そういう下らない言説は聞き飽きた。
そもそも「外」に出て「理を立てるな、言挙げするな」といったら、「よし、じゃあ暴力でいいんだな」って半殺しにされるのがオチでしょう、「他者性」ってそういうことじゃないのか。つまり宣長の政治的言説は鎖国という「制度」がないと成り立たない。


>バルタン星人さんは、「古事記伝」はヘーゲル主義的ではないが、秋成の論争では宣長
>はヘーゲル主義者でいかんということなのでしょうか。

方法論としての「からごごろ批判」と政治的言説としてのむき出しの「韓」批判のずれ(日本のテキストの特権化)にこだわっているわけです。宣長と秋成の論争は「今」に持ってきても全く違和感がない、あるプロトタイプになっているわけです。いわば宣長と秋成の論争を限りなく日本の言説空間は反復してきた、宣長が超国家主義者ナショナリストではなく秋成が市民主義者、左翼でありうるはずがないにも関わらずです。

ヘーゲルについては「歴史を目的論的に構成する」或いは空間的なものを歴史化してしまう、垂直に並べ替えてしまうというような意で使いました。「何じゃそれ」と言われそうですが、別にこだわっている訳ではなりませんので撤回するのはやぶさかではありません。(アリバイ的に言えば「むちゃくちゃな事言いますが」とおことわりはいれてますけど(笑))
ヘーゲルの歴史哲学は要する(暴論モード)に「プラトンやデカルトもライプニッツも良く頑張ったが、まぁ俺の前座みたいなものだ」ということでしょう。絶対理念の自己実現のための過程だと言って哲学を哲学史化するわけです。すべてには原因があり目的のための過程だという「筋書きのあるドラマ」ですね。

ルイ・アルチュセールが『マルクスのために』(だったとおもう)で「哲学というのは措定と反措定の反復だ」と言っていますが、フーテンの寅じゃないけど「おいちゃん、それを言っちゃーオシマイだよ」。(笑)
たしかに丸山真男のように宣長を荻生徂徠に還元できるかもしれない、しかしフッサールじゃないけど「還元できない剰余」が残る。それが差異なんじゃないか、そもそも還元し、さらに還元するということではスピノザや伊藤仁斎みたいな「突然変異種」は判らないわけです。古いも新しいもない、平たく言えば同じモノを右から見たり左からみて論じている、空間的に差異として「同居」しているわけです。
野口武彦が紹介している江戸時代の儒者富永仲基は「加上」の原則というのを唱えています。なんらかの思想の提唱者は必ず先行思想の上に出ようとする、さらに自らの根拠=始源を先行思想より古い時代に遡ろうとするということです。(ちなみに仲基も大阪の人です。こういうカントの批判哲学に近いものがポンと出てくる大阪(平賀源内もそうですが)っていうのは本当に面白い)しかし「加上」の原則がはたらくのは特権的な中心があるからです。

ある言説を特権的な中心にするのは「制度」だと思います。「正しい」からではない。だから「新たな」言説はまず「批判」としてあらわれるわけです。経験論に対しては合理論で立ち向かい、合理論に対しては経験論で立ち向かう、「今」という文脈で「正しい」と思うことを言う、言挙げするしかないと思っています。(浅田彰モード終わり)

肝心の宣長と天皇制の話が飛んでしまいましたが長くなりましたので別投稿で仕切りなおします。(まだつづくのか と呆れられそうですが)


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