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Re: 理外の理は理?
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投稿者 南青山 日時 2004 年 11 月 20 日 16:44:31:ahR4ulk6JJ6HU
 

(回答先: 丸山真男の『日本政治思想史研究』と子安宣邦さんの『伊藤仁斎』 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 11 月 20 日 05:29:18)

バルタン星人さん、どうもです。
以下、雑談的レスをつけさせていただきます。

小林秀雄については(というほど小林を読み込んでいるわけではないのですが)、若い頃は柄谷と中上の(かなりゆるい)対談『小林秀雄を超えて』のように、「小林がなんだ」と反発していたものですが、歳をとるとだんだん彼のやろうとしたことの多くが腑に落ちるようになってきた。
それも、後半の小林の仕事のほうがよくわかる。(笑)
しかも、講演や雑文を読むと、彼はフロイドとベルグソンにに大きな影響を受けていた。
影響というと語弊があるかもしれないので、共感と言い換えましょう(未完に終わった「感想」は非常に晦渋なベルグソン論でしたが)。
ベルグソン的な視点から彼の文章を読み返すと、いろいろな発見があり、面白い。『本居宣長』もその一つです。(出たばかりに読んだ時にはさっぱり訳がわからなかったですね)。
この辺は、有名なモーツァルト論の冒頭を思い出します。

「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。いかにも美しく、親しみやすく、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様なことさえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だというのである。ゲエテは決して冗談を言うつもりではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」――1829年)」

小林がモーツァルトで、小生がゲーテというつもりはありませんが、なるほど、年を取らないと出来ない考え方があるものだと。

バルタン星人さんは百も承知でしょうが、彼の仕事はアカデミズム、学術研究とは一線を画していた。
彼自身、自らを「隠居親父」と位置づけていて、「骨董屋の親父がよく頑張った」と言えば、たぶん喜んだと思います。
隠居老人の眼差しであり、それでけっこうというわけで、いわば達人の境地ですね。
古武術の大家、甲野善紀の『剣の精神誌』で紹介されている無住心剣術、真里谷円四郎を思い出します。
江戸時代中期、一千回の他流試合に一度も敗れなかった江戸時代最強の剣士(同書)の「相ヌケ」(無型の型)術。
これは型(かまえ)をとる、その瞬間、どこかに弱点(スキ)が生じる、ということで、型を無くす型、すなわち弱点のいっさいない型ということのようです。
実際、円四郎は不敗だったようで、唯一、同じ「相ヌケ」の使い手である師匠との対決のとき、引き分け(必然的と言えば言えるのですが)だったとか。
小生はわりとこういう話を信じるほうで、「宣長の「理を立てるな」という言説こそ「理」なんです。つまり自己言及性をはらんでいる」という論には組しない。
「無型の型」も「型」だろうから、どこかにスキがあるのではないか、というのは下司の勘ぐりで、ベルグソン流に言えば「砂糖が溶けるのにも時間がかかる」ということになる。
「理外の理も理」というのは、何度も言いますが、近代理性の悪弊、欠陥と思います。(カントはこうした近代理性の欠陥を隠す(逃げ込む)場として、物自体を創出したのではないでしょうか?――暴論かな)

彼の知に対する考え方は、誰だったか思い出せないのですが、江戸時代の思想家を理想と考えていました。
その人のもとには、全国の武士、商人、町民、百姓が集まってくる。
富豪もいれば貧乏人もいた。
それでも、彼の講義に熱心に聞きっていたと言う。
当時の裕福な商人などは、飲む打つ買うとほとんどの遊びをやり尽くしている。
しかし、そんな商人が彼の講義を聞いて涙を流すほど喜び、面白がったと言う。
世の中の本質を知ることの喜びに勝るものは何もないというわけです。
こうした市井の人々に相対して、現場の知、具体の知を伝える。
そうした知の源は何処にあるかというと、過去の思想家と現在の彼の対話(注釈)から生まれるというわけです。

前置きが長くなりましたが、丸山真男の『日本政治思想史研究』については別の機会に論じるとして、いくつか確認したいことがあります。

ひとつめは、「地球儀を見ても世界の本質はわからない〜」というのは小林の「古伝を外部から眺めて、何が見えると言うのか〜」の小生の転用で、小林が語っていることではありません。

二つ目は、バルタン星人さんは

「宣長の古事記読解は前レスで書きましたがフッサール的な「自然主義的態度」の停止です。つまりなんの前提もなしでテキストとして読むということです。宣長の言葉を借りれば

「ただただ、古ヘを記せる語の外には、何の隠れたる意をも理をも、こめたるものにあらず」
(以降ことわりないものは『古事記伝』より引用)

ですから現在から見て、過去を目的論的に再構成することについても否定しています。」

と書かれていますが、宣長の仕事が「フッサール的な「自然主義的態度」の停止」かどうかはともかく、「現在から見て、過去を目的論的に再構成することについても否定しています。」という点には異論はありません。
そもそも、小生がこの議論に割り込んだのは、バルタン星人さんの以下の様な書き込みに異論があったからです。

「本居宣長はヘーゲル主義者(メチャクチャなこと言い出しますが)だと思います。現在の原因を過去に投影(求める)する、いや作ってしまう。それが可能なのは鎖国とという「制度」のおかげだという事にはつゆとも気がつかない。「神国ニッポン」どうせ外の人間は誰も見てないんだから何言ったって平気さ、というノリですね。ほとんど石原慎太郎じゃないか(笑)」
http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/1192.html

あるいは、

「もちろん宣長がヘーゲルを読んでいたわけではありません。ヘーゲル的と言い直してもいいです。(笑)ヘーゲルだと「絶対理念の自己運動」なんですが、現在から見て過去を恣意的(目的論的)に意味づけて構成してしまう。ご紹介いただいた宣長の論法を見ればわかりますが
「稲殻の美しいこと、神代より外国に犯されたためしがないこと、田地多くして人民の多いことなど」というのは色々あったけど結果として(ある意味偶然に)そうなったということに過ぎないわけです。全く別の結果もありえた。それを「神に選ばれた国だから」という形で過去に「原因」を勝手に作っちゃうわけです。」
http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/1206.html

というくだりですね。
これに対して、小生は「Re: 本居宣長はヘーゲル主義者?」(http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/1200.html)を書いたのですが、バルタン星人さんは、「古事記伝」はヘーゲル主義的ではないが、秋成の論争では宣長はヘーゲル主義者でいかんということなのでしょうか。
それとも小生の読みが違っているのかな。

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