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1992年5月――地球市民革命、そして民主党(高野猛)
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投稿者 愚民党 日時 2004 年 7 月 12 日 00:18:09:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 政党助成金9年間の合計は? 投稿者 愚民党 日時 2004 年 7 月 11 日 23:52:38)



1992年5月――地球市民革命、そして民主党 高野猛

http://www.smn.co.jp/takano/who.html#demo

 89年から91年にかけて、冷戦崩壊の現場を求めて世界各地を飛び回った体験をもとに、すでに何冊か本を出していたが、いわば総集編として『地球市民革命』(学習研究社)を92年5月に出した。年に最低1冊は本を出している私にも、この本は特別に思い入れの強い本で、もちろんインサイダーや他の雑誌に書き散らしたものを活用しはしたものの、400字詰め原稿用紙にして約  枚を1年ほどかかって書き下ろした。そのタイトルは、「地球規模で近代国家のありように対する新しい市民革命が起きている」という意味と、「その革命の担い手は地球市民という意識を持った人たちである」という意味がダブらせてあって、そこに冷戦崩壊期の世界への私の基本的な視点が集約されている。

 私の説では、冷戦下で米ソを先頭に各国が核兵器をも含めて重武装して激しく利害を競ったのは、1つの目的に向かって国民を総動員する近代国民国家システムの行き着く先だったのであり、冷戦が終わることによってその基礎にある近代国家もまた終わりに近づいていく。そこでは、相変わらず冷戦時代の思考を引きずって“国益”の囚われ人であることを止められない人々と、平和、環境、人権、貧困の克服など地球普遍的な価値の形成に重きを置いて、そのためには国家の枠組みを無視し、あるいはもしそれが邪魔なら壊してでも行動しようとする「地球的に考えて、地域から行動する(Think Globally, Act Locally)」ような人々との対立・抗争が時代の軸をなす。そして、その後者の人々の中心は、どうも「1968年世代」――西側世界ではその年に最も高揚した「ベトナム反戦」の運動に何らかの形で関わりながらそれぞれに自国の戦後秩序の耐え難さに異議を申し立てようとした若者たちであり、東側世界ではその年に起きた「プラハの春」をソ連赤軍の戦車が踏みにじるのを見て「人間の顔をした社会主義」の到来の余りに遠いことに絶望しかかった若者たちではないのだろうか、というのが私の問題意識だった。

《ニューウェーブ》

 この革命の火付け役としてのゴルバチョフ評価に始まって、「ペレストロイカは世界を巡り、東洋において完結する」という韓国の抵抗詩人・金芝河のテーゼを紹介することで終わっているその本のあとがきで、私は、本当はこのあとにもう1章設けて、では日本では何が起きているかを書こうと思ったが、どうもそれほどの中身がないので、また機会を改めて「日本編」を書くつもりだ、と述べた。

 そうは言っても、日本でも「68年世代」が政治の舞台に少しずつ登場し始めていた。89年夏の参院選と90年冬の衆院選を通じて、労組出身の高齢者が中心になっていた社会党に、弁護士や医者やその他いろいろな社会分野で経験を積んだ全共闘世代の人々が1つの塊として入ってきて、すぐに「ニューウェーブの会」を結成して執行部の党大会方針案に意見書を提出するなど、めざましい活動を開始した。

 私はそれまで、社会党という政党にほとんど関心を持たなかったが、ニューウェーブの中に学生運動時代の仲間だった人たちが含まれていたこともあって、彼らの勉強会に顔を出したりした。フランスの「カルチェラタンの世代」は早くも70年代初めに仏社会党の再建に取り組み、その10年後にはミッテラン政権を作っていたし、ドイツの「SDS(社会主義学生同盟)世代」もそれから少し遅れて独社民党の政策と体質の転換を促す主力部隊となっていた。

 15年から20年遅れではあるけれども、同じようなことがこの日本でも起きて、政治を活性化させる可能性があると私は期待した。しかしまあこの世代の人々は、1人1人が自分なりの意見をしっかり主張するのはいいのだが、反面、俺が俺がが強すぎてまとまりに欠け、離合集散を繰り返すことになった。

《シリウス》

 92年には、当時は社民連にいた菅直人を中心にして社会党のニューウェーブ系が加わって「シリウス」というグループが出来て、赤坂に事務所を置いて政策勉強会を進めつつ、社民連を率いていた江田五月をかついで社会党を乗っ取ろうという計画進めたが、江田が決意し切れないでモタモタしている間に93年7月の総選挙、自民党分裂、細川政権誕生という一大政界再編ドラマの第1幕に突入してしまい、立ち消えになる。そのため菅は、ややもして「さきがけ」に加わった。

 私は(非議員では唯1人)このシリウスの会合にもしばしば顔を出し、92年10月、金丸信・前自民党副総裁が佐川疑獄で議員辞職しそれをめぐって竹下派=経世会が事実上分裂に陥った頃に、自民党体制の崩壊と政界再編の爆発を予想しつつ、「ネットワーク型新党」の可能性についての最初のメモを作成して仲間たちに配布した。

 改革への期待の中で誕生した細川政権が詰まらないスキャンダルで94年4月に挫折、後を継いだ羽田政権も2カ月の短命に終わったあと、改革の方向を維持・発展させられるかどうかが6月政局の焦点になった。私は、あくまで自民党を野党に留めて改革を継続するには、社会党とさきがけが政権に復帰して第2次羽田政権を作る以外にないと考え、社会党の久保亘書記長とそれを支持する同党のニューウェーブ系を含む中堅・若手も同じ考えだった。

 しかし、さきがけの人々は、それまで10カ月間に当時は新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一のイチイチ・コンビの強引な手法にウンザリしていて、新生党や公明党との政権復元には熱心でなかった。他方、小沢は羽田政権を作り直すよりも、自民党から海部俊樹元首相を引っぱり出して同党を分裂させ、新生・公明・民社の3党と一緒に海部政権を作るという成算のない陰謀に陶酔していた。

 こうした混沌の中で、自民党が社会党の高齢者グループに密かに働きかけて、自民党が社会党の村山富市委員長を首相に担いで政権に復帰するという奇策を成功させ、自社さの村山政権が誕生、改革の道は閉ざされてしまった。

《新民連》

 この局面で、新党運動は、社会党内で村山政権の誕生に反対した山花貞夫・赤松広隆の前委員長・書記長コンビを中心とする「新民連」に受け継がれた。これには、やがて新進党という名の「小沢新党」に合流することを潔しとしなかった日本新党の海江田万里が加わり、さらにさきがけの自民党との連立に不満だった佐藤謙一郎らさきがけの10人ほども賛同して、11月26日に日比谷のプレスビルで「新党シンポジウム」を開いた。

 このとき私は山花らの要請でコーディネーターを務めた。山花は「来年1月中旬までに新党を結成する」と宣言したが、私はその集まりの前の打ち合わせの段階からそれには疑問があると述べた。山花新党は、社会党が言わば「社民リベラル」に脱皮することを意味するのか、それともその脱皮と同時に海江田らの言わば「市民リベラル」やさきがけなどの「保守リベラル」が一挙に合流してまさに「民主リベラル」大合同が実現するのか――後者を考えているとすれば時期尚早というか、まだそこまでの機は熟していないのではないか、ということだったが、集会ではその点ははっきりしないまま「新党」結成方針を拍手で採択した。

 私はなおその点にこだわり、新党の意味をもう一度整理したほうがいいのではないかという趣旨の「私なりの総括」をメモして、山花・海江田のほか社会党の改革派の人たちに配布した。その議論が煮詰まらないまま山花は「自分一人でも社会党に離党届を叩きつけよう」という思い詰めた心境になって行き、95年1月17日にまさに行動を起こそうとしたその朝に阪神大震災が勃発して、新民連は吹き飛んでしまった。

《リベラル・フォーラム》

 2月に入って、横路孝弘北海道知事が鳩山由紀夫と会談した。4月の知事選を前に横路は後継者を指名していたが、その頃鳩山も(すでにさきがけの将来に見切りをつけていたのか)知事選に出馬する意向を漏らしていて、横路陣営には大脅威だった。それで横路が声をかけて2人が会ったわけだが、知事選の話は早々に終わって、政界の現状とリベラル勢力の結集の必要性に話が及んだ。横路は退任後は中央政界に復帰して新党づくりの新しい波を起こさなければならないと考えていて、その点で鳩山と大いに意見が一致した。そこで、新民連が消し飛んで宙に浮いた格好になっていた海江田にも声をかけて、新党協議のための秘密会合「リベラル・フォーラム」を始めることになった。

 1〜2回あとから私も呼ばれ、さらに4月に入ってかつてニューウェーブの中心にいた仙谷由人=前衆議院議員(当時落選中で現民主党企画局長)、五島正規=社会党副書記長(当時)、それにさきがけの市民派若手の高見裕一(当時落選中)が順次呼び込まれ、横路の私設秘書的な立場にあった松本収(現民主党政調事務局長)を書記役にして赤坂プリンスホテルで深夜に集まっては熱心に議論した。これが96年10月に結成される民主党の原点である。

 しかしいつまで密談だけしていても仕方がないということで、参院選が終わったあと7月25日に上記のメンバー全員に新進党の船田元を加えて公開シンポジウムを開催し、同フォーラムの事務所も構えて公然と活動を始めた。

 他方、東京では、その7月参院選では、さきがけは中村敦夫、海江田のローカル政党「東京市民21」は見城みえ子、社会党は鈴木喜久子、をそれぞれ立てて健闘したが、同じ層を食い合う格好で3人とも落選した。さきがけ東京代表の菅直人と海江田と社会党東京委員長の村田清順が3人の候補者を慰労するために開いた会食の席で、3人の票を合わせれば100万近くになること、3党がバラバラで闘えば衆院選でも同じようなことが起きて、自民・新進の保守2大政党制が東京で真っ先に成立する可能性が大きいことなどが話題になり、何としても3党が協力して東京に「第3極」の芽を作らなければならないとの合意が出来上がった。それで8月末にその3党に東京生活者ネットなど市民派も含めて「リベラル東京会議」が結成された。私はここにも引っぱり出され、「選挙区調整委員長」という面倒な役目を負った。

《社会党新党協議会》

 一方、社会党は5月の臨時党大会で「リベラル新党結成」の方針を決め、学者・文化人に呼びかけてその準備委員会が作られることになり、久保亘書記長の要請で私や日本女子大の高木郁朗教授、宗教評論家の丸山照雄などがその中心に座った。私はこの時点ではまだ、リベラル・フォーラムの動きと久保を中心とする社会党の改革運動はいずれ合流することが可能だし、そうなることが望ましいと考えていたので、請われるままにそれに参加した。その頃に書いた「新党問題レジュメ」に私の気持ちが盛られている。が、何度か会合を重ねる中で、私は久保の煮えきらない態度にたちまちウンザリしてしまった。

 問題の本質は新民連のときと同じで、久保には社会党内で徹底的な党内闘争を仕掛けて血を流して同党を変えようというつもりは毛頭なく、外から我々のような人間を寄せ集めてマブすことで社会党が新しい何かに変わったかのようなフリをしようとしているだけであることが明らかになった。加えて6月に入って国会で、自社さ連立の名において全く愚劣きわまりない内容の「戦後50年決議」が採択され、私はプッツンしてしまって、新党準備会への「辞退届」を出した。私の社会党浸透運動との決別は、いくつかの新聞がニュースとして採り上げるほどのちょっとした“事件”となった。

 その協議会は丸山を中心にその後半年間続けられ、社会党は何度か先延ばしした挙げ句に翌96年1月19日に新党に踏み切るとの方針を決めた。そこで12月18日に「新党結成プレ集会」なるものが開かれ、村山富市首相=社会党委員長が挨拶に立ったものの、赤松に「お前がいるから新党が出来ないんだ!」とヤジられ、さらに続いて登壇した丸山に「社会党は嘘つきだ」と罵倒される始末だった。

 この時点で、村山=社会党と武村=さきがけが合流する形での「新党」運動は完全に破綻した。そんなものが仮に出来たとしても、若い有能な人たちは誰も付いて行かず、自民党に呑み込まれて「自民党村山派」のようなものになり終わることは目に見えていた。そこでリベラル・フォーラムとしては、村山・武村の動きにも、社さ合同という路線にも、一切幻想を捨てて、21世紀の新しいリベラル政治を創り出そうという決意を持った個々人が自らの信念に従って結集する以外にないという方向を確認した。

 そこから、鳩山由紀夫を軸とした「民主党」結成への動きが本格的に始まった。5月から8月にかけて、何度も挫折しそうになりながら進んだその水面下の協議の真相は、いずれ詳しく語ることがあるだろう。ともかくも8月末に至って、それまで村山・武村を無視ないし排除して新党を作ることに賛成でなかった菅直人が合流することになり、私が原案を執筆した「理念」についても鳩山と菅の間で合意が成り、一気に9月中旬の民主党結成準備委員会の旗揚げに進んだ。

《民主党結成》

 準備委員会の結成の会場で、党外「文化人」を代表して祝辞を述べた私は、「4年前に『地球市民革命』という本を書いて、その最後の章で日本の“68年世代”は何をしているかを書こうと思ったが書くことがなかった。それで自ら首を突っ込んで、書くべきことを創り出さなければならなかった。これでようやく安心してその本の続編を書くことが出来る」と言った。

 しかしジョークの分からない人がいるもので、ジャーナリストのくせに出すぎたことをして生意気だという批評もあった。また、ああいう一党一派に片寄った人間がテレビの番組で政治について論評するのは好ましくないという自民党筋からの批判も出て、ビビッたテレビ朝日は「選挙期間中はサンデー・プロジェクトへの出演をご遠慮願いたい」と通告してきた。私は、自分が職業としてジャーナリストである以前に、人間として一個の市民であり、自らの信念に従って政治ボランティアとして働く権利も義務もあると考えているが、それを言って分かる相手ではないので、黙ってその通りにした。

 まあとにかく「民主党」は面白い体験だった。出来上がった党が、私が思い描いていたものとはだいぶ違っているのは仕方があるまい。2、3度の選挙を経るうちに勢力と能力を蓄えて、遅くとも2005年頃までには彼らが政権をとって、そこから何かが始まるだろうと期待しているいる。(未完)

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