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日本に来たユダヤの民 (古代日本謎の中東思想渡来考)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 07 日 16:28:30: ogcGl0q1DMbpk
 

日本に来たユダヤの民

http://www006.upp.so-net.ne.jp/yuyumuso/uuhasso/okuhito/oku2/qbl-13.html

 失われた十支族を求めて

 カバラはユダヤの神秘思想と言われる。伝承では、エジプトで得た知識を持ってモーゼが民族を率いて出て、ヘブライ王国の基を築いたとされる。

 ヘブライはソロモン王の後、分裂して北のイスラエル王国と南のユダ王国となり、イスラエルは先にアッシリアに滅ぼされ、民族は「より東の未到の地に行こう」の言葉を残して行方知れずとなり、ユダはしばらく後に新バビロニア(カルデア)に滅ぼされ、民族の知識階層がバビロンに連行された。

 そこで彼らは、半自由人としての生活を送りながら民族の団結を呼び起こすユダヤ教思想を確立した。そうした試練と民族の存亡をかけるストレスの中で、他を凌ぐ知的優秀さが求められ、洗練されゆく知識の流れの中で、カバラが熟成したとみられている。

 カルデアはやがてペルシァに滅ぼされ、バビロンの拘禁を解かれたユダヤ人たちは喜んで故地に戻ったとするのが旧約聖書の論理だが、後世の研究では幽囚の時の彼らの生活はかなり豊かであったため、パレスチナの瓦礫の故地には魅力がなく、定着したかどうかは疑わしいというのが定評を越えた説として見直されている。

 では、どこへ行ったのか。おりしも預言者がヤーヴェに立ち返れと唱え、ユダヤ民族の一本化を実現する理想を掲げた時代であった。ヘブライの再建のためにイスラエルの失われた十支族の行方を追ってシルクロードを東遷し、中国、朝鮮を経て日本にまでやってきた者もいたと考えられるのである。

 日猶同源を証拠だてる論議とともに、日本に残る固有名詞や習俗から、ユダヤ民族の流入を証明しようという研究は、かなり以前からあった。

 最も古いものとしては、明治8年にイギリス人のN・マクレオドが著書「日本古代史の縮図」において、日本人の生活、習慣、祭りについて、旧約聖書の古代イスラエルとの類似に言及したものがある。(*19)

 戦前には、アイデルバーグが、神道上の習慣と旧約聖書の記述を照合比較するとともに、古来の日本語の固有名詞が古代ヘブライ語で解釈できることを述べている。

 たとえば天皇の呼称スメラミコトは、古代ヘブライ語で解釈でき、スメラが発音上のサマリア(イスラエル王国の首都)で、ミコトが皇帝の意味で、あわせるとサマリアの皇帝を表わすのだという。

 また、初代神武天皇の称号カムヤマトイワレビコは、古代ヘブライ語やアラム語で解釈され、カム(創設する)ヤマト(神の民)イワレ(ヘブライ)ビコ(崇高なる)で、「神のヘブライの民の崇高な創設者」の意味になるという。

 三種の神器の一つ、「八坂の勾玉」も、ヤサカが神への信仰を意味し、マガタマがヘブライ文字のヨッド(,)を模したもので、イスラエルの神を表わすという。

 また、ミカドとは十支族のうちのガド族の出自を示しているのだともいう。

 こうしたことを事実とするなら、一国の王の名前に、以上のような意味付けを与えることの宣伝力は、相当なものと考えざるをえない。執拗に古代人一般に対して、「ユダヤの統率者ここに在り」と喧伝しているのも同じことになる。

 理解できぬ者は別としても、古代ヘブライ語に多少なりとも通じた内外のユダヤの民には、強いインパクトを与え続けたのではあるまいか。

 もしかすると、古代皇室には既にエゼキエル思想が反映しており、イスラエルの十支族の末裔が早くから日本に浸透していたのを察知了解して、預言に従って離散したヘブライの民を結集すべく図った一つの方策だったかも知れない。

「人の子よ、汝一片の木を取り
その上にユダおよびそのともなるイスラエルの子孫と書き、
また一片の木を取りその上にヨセフおよびそのともなる
イスラエルの全家と書くべし。
・・しかして汝これを供に合わせて一本の木となせ。
・・我イスラエルの子孫をその往けるところの国々より出し、
四方よりかれを集めてその地に導き、
その地において汝らを一つの民となして
イスラエルの山々に居らしめん。
・・再び二つの国に分かれざるべし。
彼等また・・身を汚すことあらじ。・・」

(エゼキエル書三十七章十六〜二十三)

 信仰が人々を支配し、明日の分からぬ過去の時代においては、どれほど強い影響を持っていたか知れはしない。かつて約束を違えたことのないとされる神が、そうした約束を与えたのであるから、なおのことである。

 神功皇后は、新羅征伐を繰り返したが、朝鮮半島に定着したユダヤの民を浮遊させ、移動を促す陽動作戦ともとれる。

 皇后が百済から献上された七支刀は、神聖数「7」に基づくユダヤの象徴的燭台メノラを模したものであり、内外に「ユダヤ求む」を印象付けるには著しく、応神朝にはユダヤ系として知られた秦氏の祖、弓月君が大量帰化した事実も一連の出来事として説明がつく。

 現在のイスラエルのユダヤ人入植政策の古代版が、まさに古代日本において行なわれていたかも知れないのだ。


苛酷な新天地でのエルサレムの創造

 そうすると、日本の古代の為政者は、国土計画において何を行なおうとしたのか。それは、新天地でのエルサレムの創造ではなかっただろうか。

 畿内を中心として究極的な図形を配置していることをみると、この地に統治の中心を持ってこようとしたことは明らかである。そのために、日本の黎明期に起こされた事件が、神武天皇の東征である。この謎にまつわる考察は後程行なうことにするが、土地の選定が質よりも形式重視で行なわれたことを、次の事実から知っていただこう。

 歴史学者には割合知られていない盲点がある。それは、地質学的なレベルの問題で、奈良盆地の広域が古代黎明期においては、まさに天照大神の所望された「豊芦原の瑞穂の国」に表現されるように、水滴り豊かな葦生い茂る湿地であったことである。湖底だったとも考えられている。(*22)

 それによれば、わざわざ盆地の水を排出するのに、生駒山系を最短距離で打ち抜く、大和川の疏水工事が行なわれているとさえいい、それでも明治の初頭まで深い泥田として湿地のなごりが残っていたくらいで、水耕にようやく利用できても、疫病の発生しやすさなどの点から、決して住環境に適した土地ではなかったはずだというのだ。確かに古代の奈良では疫病が頻発したが、この理由と考えられなくない。

 それを今や、「奈良盆地は自然の要害」説が押し切った形になっている。確かに、東西と南を高い山に仕切られ、交通の難所にある秘境。だが、もし山岳を敵に奪い取られたなら、ふもとの様子は筒抜けであり、これほど簡単に破られる都もなかろう。

 また、国際使節を迎えるにあたっても、決して有利な位置に無かったために実用面の要求から難波に幾度も遷都され、副都ともされた。

 またそれ以前にも、東征途上の西日本には、中国山地を控えた温暖な肥沃地帯が広がり、いくらでも国造りのできる土地があるはずであった。

 つまり、本質的に信奉する祭祀の要求する形式に徹底的に従ったとしか考えられないのである。それは過去の世界のどこでも重大な動機として有り得たことだ。

 また、故地を偲ばせる地形を醸していることも重要かも知れない。既に琵琶湖と淡路島が相似形をしており、それが古代人の神仙観に幾何学的発想を与えていたことを述べた。

 パレスチナにあるガリラヤ湖も、やや小さい(縦最大21キロ、横最大12キロ)とはいえ、琵琶湖と形状が似ている。湖には上ヨルダン川が流れ込み、下ヨルダン川として出ていくが、これらの川は奇しくも南北の真直ぐなラインを形成する。

 その相似図において、この川の入射位置と角度は、淡路島から(京都御所を経て)琵琶湖に入射し伊吹山に至る鬼門のルートに符合するのである。


 また、南北に流れるヨルダン川とはあまりにも奇遇。これこそカナートならぬ、遠敷ー奈良の地下水道の発想の原型かも知れないのだ。

 そこで、次のように推測するのである。

 早くから思想上の形式的、地形的に条件の整った畿内の土地に目が向けられた。
 新民族は征服が成功すると、まずカバラのシンボルで広大な結界を作り、大スケールの祭祀システムを稼働させつつ、この範囲にある土地の住環境造りを進めていった。

 この時の奈良盆地の水は厄介であり、大和川の疏水工事がこの時に行なわれた。水位を下げる一方、土砂の搬入工事も行なわれた。唐古・鍵遺跡は、こうして造られた一つのモデル地区であり、拡大拠点であったのではないだろうか。

 第二のエルサレムの候補地としては、もとより五芒星の作る内五角形の心央にくる奈良の地こそ究極のものであった。しかし、そこは奈良盆地で最も低地であり、まず手狭ながらも湿地帯の南高台、明日香の地を最初の都市造営地としなければならなかった。

 生駒山系に立って眺めた時、大和の湖面の南方に葦の生い茂る湿地に連なる土地があり、それゆえ大和言葉で「彼・州・処」とか「葦・処」と呼び、水鳥がしきりと飛び立っていたので、その印象から漢語の「飛鳥」を充てたものであろう。

 それがまた、朝鮮語の発音上の「安宿」と捉えられたが、偶然ではなく巧妙な国際性を意識した掛詞として考案されたものだからである。

 古代黎明期には、大和言葉が確立しつつも、各種の渡来人で構成される国家であったから、関係各方面に配慮した固有名詞が生まれたと考えられる。

 エルサレムとは「平安の地」を意味する。初期の明日香は朝鮮語の「安宿」、すなわち平安に住み得る土地の意味と朝鮮を経由してきたユダヤ人には了解され、日本語に万民が慣れた後世には「平らかな」奈良となり、漢語の浸透をみた平安京ではその言葉通りに、いずれもエルサレムを大勢的な汎用語で言い換えた宮都の呼称となっているのである。

 また、宮都の形状をみると、東西南北に面を仕切った街の外観は、エゼキエル書の神の示したエルサレムの街さながらである。特に藤原京と平安京の内裏は、ヘブライの十二支族それぞれの出入りする門が、四面に名前こそ違えど設定されているかの感がある。中国式都城の様式を真似たり、道教思想のみが反映しているのではない。カバラは、顕在的な宗教思想や構築物を隠れ蓑にして息づいているのである。

 そして、人々にこう語りかける。「知る人ぞ知れ」と。古代において、その「知る人」とは、ユダヤ系の住民であったのだ。都がエルサレムにちなむ。それは彼らに対して強烈なインパクトになったはずである。

 ならば、都人はユダヤ人だったのか。それがそうともならなかったところが、歴史事実の奇妙さなのではないだろうか。


エゼキエルの影響下の遺物、習俗

 ユダヤ人への喧伝策、エルサレムの建設とくるなら、当然民族の一本化を前提にした習俗も執り行われてこようものである。

 エゼキエルは、その時の在り方をエゼキエル書第四十章以降に、神に伴われ異象のうちに来たるべきエルサレムの光景を見たこととして申し送っている。(聖書を併読されるよう)

 ヤーヴェは燔祭、罪祭、愆祭を人々に求めている。鬼の俎と鬼の雪隠は、そのための家畜を屠る台と容器であろう。また、酒船石は聖所を清めるための家畜の血を採取する台であろう。犠牲の牡牛を屠るのに適した大きさであり、主に頚からの流血を採る溝がつけられているとみられる。

 神社の柱や鳥居が朱塗となったのは、正月の元日に牡牛の血で清める指示に基づくものだろう(四十五章十八〜十九)。

 神社の境内地や宮都の内裏といった聖所にあって神職に在るものは、毛衣を着ず、頭には麻の冠をし、麻の衣、麻の袴を着用した(四十四章十六〜十九)。後に絹が使われたのは、秦氏の主張が通ったものだろう。

 年一回、新嘗祭のときには、祭司の首長である天皇が、その年採れた新穀を食味した(四十四章三十)。

 おりしも仏教全盛期に、桓武天皇は「上帝を祭り、燔祭を捧げた」と書紀に記される。上帝は道教の最高神のことであるが、燔祭の意義からヤーヴェが暗示されている(四十六章二)。

 現在でも、各神社では「お一日参り」が行なわれるが、これは旧暦の新月にヤーヴェを詣でる指示に因む(四十六章一、三)。

 中臣姓が祭祀職、秦姓が技術職の世襲の名で、政界に出るときには藤原姓に変えているのは、相続地の問題をクリアしたものと捉えられる(四十六章十六〜十八)。

 古代宮都は東西南北に整然と仕切られていた(四十八章全体)。

 平城京の北方、平安京の北方には不浄を入れない禁苑があり(四十五章一〜三)、その南から大内裏が形成され、祭司と官僚機関があった(四十五章三〜五)。また宮都の中に在る者は、ひどく虐げられることはなかった(四十五章六〜八)。

 天武天皇の企画した藤原京は、ほぼ正方形をしており、東西南北の各面には三門づつ計十二門が配されていた(四十八章三十〜三十五)。

 平安京大内裏の南東に、豊かな地下水が湧き出る土地があり、神泉苑とされた。自然が残されて多くの種類の植物が茂り、水鳥も多くいた。天皇の避暑のための行幸地となり、都が日照りで渇水したときなどには民衆のために門が開けられた。これは、ヤーヴェの約束した癒しの湧水地としての性格のものだった(四十七章一〜十二)のではないか。

 律令位階制度は、上厚下簿のシステムであった。位階による官人の特別優遇は、給与、税制、裁判にまで及び、本人ばかりか一族まで恩恵を受けていた。また、五位以上の貴族は常に同じ門閥から再生産されるシステム(蔭位の制)になっていた。官人の役所における仕事は概ね午前中だけであり、租税と労役に苦しむ一般民衆とは極楽と地獄の開きであった。これは異邦人との差を明らかにしたものと捉えられる(四十四章九〜十八)。

 奈良時代から平安時代に変わるにつれ、上厚下簿の傾向がより強まったが、高下貴賤の差を神の指示に基づくものとして、古来から神を堅持してきた血と素性の知れた家柄を高位に維持するシステムを作ったものとみられる。

 また、畿内では、諸税のうち「庸」が免除「調」が半納される民政上の優遇措置があったが、これは中国のように都の場所によって範囲が変動するものではなかった。つまり、カバラの結界の許に在る者を高く、それ以外を低くして、民衆におのずと神に選ばれた民の自覚を与えようとしたのであろう(四十七章十三〜四十八章全体)。

 新天地のエルサレム造りは、律令国家の完成を以て贖われると考えられたようだ。その筋書きを書き、指針を積極的に与えたのは天武天皇であったろう。カバラに通ずる秘書、古事記を編纂されたからである。その基礎はカバラ行者たちの修業の地(後述)の入り口にあたる吉野での隠遁時代に培われたのではないだろうか。

 なお、エゼキエル預言は、唯物主義、科学万能主義の今においても、ロマンのあるテーマである。というのも、現在が科学の進歩の末、環境破壊を押し止められなくなった黙示録の時代でもあるからだ。

 イスラエルは外部の批判をもろともせず、日夜大量のユダヤ入植政策を推し進め、預言成就の下地造りに懸命であるし、実体調査に懸命なユダヤ民族調査団は、日本における失われたユダヤ支族の消息の確たる証拠を求めて奔走していたと聞く。

 そして、日猶同源が灰色という段階にある時、それに黒のとどめを刺すのが掲出した古代祭祀霊場の描く図形群なのである。そんな荒唐無稽な話を誰が信じるのだろうかと思われるかも知れないが、絶対思考の彼らであれば、鬼の首を取ったように思うに違いない。


ユダヤ人渡来に関する諸論

 さて、近年に至っては、M・トケイヤーが信仰上の習俗、祭りにおいて、様々な類似点を挙げている。

1、山を神の座と仰ぐ日本修験道と、山の頂を聖地とする古代ユダヤの宗教性の類似

2、八坂神社、平安神宮などの朱塗の古代ユダヤ神殿のものとの共通性

3、神社の狛犬とユダヤ神殿前のライオン像の共通性

4、生後30日目に赤子を初詣でさせる習慣は日本とユダヤだけ

5、塩で身を清めるみそぎの習慣も日本とユダヤだけ

6、日本の神官と古代ユダヤの僧侶の服装の類似

7、日本のお守りとユダヤのメズサ(護符)の伝統の類似

8、皇室の菊の紋章と、古代ユダヤ神殿の嘆きの壁の菊の紋章の符合

9、山伏(修験者)の兎巾と、ユダヤ教信徒のヒラクリティーの類似(これ関しては、特に表1・2にまとめてみた)


10、京都太秦の秦河勝にまつわる大酒神社がダビデを意味し、広隆寺横のいさら井(イスラエルの意)などの史蹟が古代ユダヤ人の居留地をかもす(この太秦と秦氏ユダヤ起源説に関しては、佐伯好郎氏の「太秦を論ず」が著名となった)

 また、北九州におけるユダヤ人定着についての次のような研究家の諸説がある。

1、北九州の宇佐文化圏にある重籐遺跡で発見された2〜3万トンもの鉄滓跡は、古代に一大精錬所があったことを物語り、ソロモン時代の赤土を精練して鉄をとる方法と同じである

 王の命でタルシン船団で遠洋航海したヘブライ人、鉄の民ヒッタイト人、航海術に長けたフェニキア人でなる一団がマレー、海南島などに製鉄拠点を築いた後、渡って来たものと考えられている。(*19)

2、北九州一帯から西日本、中部にかけての謎の岩文字(ペトログラフ)は現在までに七十箇所六百点以上見付かっているが、シュメール古拙文字なる絵文字である

 シュメール文化を引き継いだヒッタイト人によるものと解釈されている。(*23 )

3、「隋書倭国伝」の秦王国の記載(608年)と正倉院蔵の戸籍表における秦姓の人数が豊前豊後地方のユダヤ系秦氏定着の事実を物語る

 彼らの「石を以て祭る」風習が、ヤコブの石枕の故事の反映とみられること、宇佐八幡宮の御神体「真薦の枕」が石枕とノアの方舟に由来することなどが言われている。

 真薦枕は、八幡神の託宣により始まったが、なぜか方舟の形をしている。託宣を伝えた者は宇佐宮の禰宜(巫女)であるが、辛島勝姓をもつ秦族の女であり、そこにユダヤ的価値観が反映しても不思議はないという。(*19)

 より歴然としているのが、吉野ケ里遺跡近傍の鰐神社の木造りの船に枕型の石を乗せた御神体で、その石にはユダヤのシンボルである「メノラ」が刻まれている。

4、求菩提山の伝承「求菩提山雑記」には、継体天皇の頃の狂暴な八鬼の伝説を伝え、対応するように同山の鬼神社にカラス天狗らしい八体の像が祭られ、また求菩提資料館蔵の「太郎天曼陀羅」絵にはセム系人種特有の顔立ちの八天狗が描かれる

 求菩提山頂には、人工的な配列の巨石、男根型の立石(ヤコブの石柱)、女陰のような組石など、ユダヤ的な巨石信仰の跡がある他、開山以前5世紀の土器も見付かっており、秦氏のがもたらしたものに違いないとしている。(*19)


カバラ祭祀を担った天狗、先修験者

 天狗の伝承は、北海道を除く全国に広がるが、多分に敬虔に自己修業に生涯をかけたカバラ行者であったと筆者は考える。カバラの伝えるところによれば、相当に修業を積んだ者なら超能力(神通力)を得て天狗のように天駆けることも可能とされる。

 彼らは、日本に来た当初は体制に準ずる行動をとっていたのだろうが、為政者たちが大規模に国体に対してカバラを適用しようと図ったのに対し、体制から離れて静かな修業の場を求めて山岳に入り、世の流れから離脱を図ったのであろう。前1世紀頃、パレスチナの死海西岸の洞窟で静かにカバラの瞑想修業に専念する集団があったと伝えられるように、本来の彼らの目的は、自己修業にあったのである。求菩提山や紀伊熊野山中には、修業のための窟が多く遺るのはそのためだ。

 だが、神武東征に係る全国的な騒乱は彼らさえも飲み込み、新旧いづれかに従った形で、ある者は大和近傍に残り、ある者は中部以北の蝦夷地に入り、あるいは人跡の及ばぬ山地に入ったものと解される。

 前者は、行動を共にした以上、畿内の山岳地帯で修業する理想と引き替えに、大和朝廷から国体レベルのカバラ祭祀に特別な関与を命じられたに違いない。

 なぜなら、畿内の菱十字型、正近似五角形の中に、天狗伝承の地としては北から、天狗岳、鞍馬山、伊吹山、竹生島、愛宕山、八日市、大峰山系、大台が原、少し外れて多度山と実に多く存在し、南北ライン上に都合3つ、セフィラ(球)上に2つまでが位置しているからである。これは、日本の他の地域に比べ、圧倒的な密度である。

 だが、やがて彼らは、朝廷から反骨分子として疎んぜられ、かといって尋常でない能力を恐れられて敬遠され、異端の天狗として畏れ憚られることになったのだろう。

 では、ユダヤ結集の先駆けたる大和朝廷がこれを敬遠しだしたというのだろうか。その理由は、彼等の非妥協性もさることながら、政策の転換によると考えられる。

 継体帝の擁立において、皇統の断裂論議がなされることがある。それが原因かどうかは分からないが、先述の求菩提山の天狗に初めて迫害が及んだ記事を見ることができる。また、この頃から大陸文化の摂取が盛んとなってくる。

 これは、当初あったとみられる自国の秘教カバラを見限る動きと考えられなくもなく、またそれとともに歴史も鮮明度を増してくるのである。

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古代日本謎の中東思想渡来考

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