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Re:三度、協同組合について・・さらに続きです。
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投稿者 ジャン 日時 2005 年 6 月 03 日 20:12:51: tV9DFzLB7Zpg6
 

(回答先: Re: 再び、協同組合について・・続きです。 投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 03 日 17:43:54)

 〈商品生産の揚棄〉を考えるB
 ――「単一の協同組合論」「一国一工場論」を素材として――

3)「マルクス=一国一工場説」の誤り

 マルクスの「示唆あるいは黙示するもの」というのはこうした記述だというが、これらははたしてマルクスが「一国一工場」体制を示唆あるいは黙示したものだといえるのだろうか。私はそうは言えないと思う。理由は以下の通りだ。
 @の「一大調和的体系」は「社会的な生産」について述べたものだ。どんな社会でも、社会全体の生産が人々の消費を賄えなければ、その社会は持続できない。その生産と消費の調和がどういう仕方で実現されるのかを対比しているのがこの部分で語っていることだ。すなわち資本制社会での社会的な生産と消費との調和が、無政府的なものであること、価値法則の貫徹を通した事後的で一時的なものでしかないことを念頭に置いて、それに連合労働による生産の自覚的コントロールを対置しているわけだ。
 Aの「一個同一」についても同じだ。資本制社会は個々の労働は他の労働とは切り離されたバラバラな、排他的な私的労働として支出され、その私的労働が価値法則を通じて結果的に社会的労働の一環であることが事後的に確認される。これに対して社会主義では、個々の労働が「協議した計画」に従って意識的に、事前的に、価値法則という回り道を通ることなく、直接的に社会的な有機的労働の一部として支出されることを述べているのだ。
 BはAの事を比喩的に述べているだけだ。
 Cは協同組合原理で成り立つ社会という、内部編成の性格を述べたものだ。
 Dは「全国民」からなる「巨大な連合体」という言葉を取り上げたものと思われるが、これは排他的な私的所有者相互間の関係として現れる弱肉強食の原理が貫徹する資本制社会に対して、「連合」という対極の関係として現れる社会主義を対比したものだと考えられる。ただしEの点も含めて、形態概念を重視するエンゲルスには、ケースによっては社会主体説や国家志向癖が見られることも否定できない。
 これらのケースは、どれもマルクスが「一国一工場」体制を明言したものでもないし、それを示唆、あるいは黙示したものと解釈することはできない。ところで連合労働を直接社会的労働として支出するというのが協同組合的社会だとする観点に対して、それを計画経済と同義と見なす国分氏の立論は違和感があるが、それは国分氏の論証を検討するなかで分析したい。

4)国分氏の「計画経済=一国一工場」理解

 国分氏は何らかの計画経済を志向する立場が「一国一工場」体制に帰着せざるを得ないことを、計画経済のいくつかのバリエーションの吟味を通じて”論証”している。以下それを見ていく。
 国分氏は計画経済の諸方式を1)集権的計画経済方式、2)分権的計画経済方式、3)混合的計画経済方式に三分類する(P67)。そして1)の集権的計画経済が当然のごとく「一国一工場」体制に帰着するものだとする他、3)の混合計画経済方式も分権的要素が強いもの以外はいずれ「一国一工場」体制に行き着くとする。
 残る分権的な計画経済方式も、「機能的」な「一国一工場」を経て、遅かれ早かれ「体制的」な「一国一工場」に転化する可能性が高いという。そしてソ連の実例をふまえて全面的な計画経済は存立不可能になり、市場と計画が相互補完的に共存する「混合経済」体制になるともいう。国分氏によれば、いずれにしても市場を全廃した計画経済体制は結果として必然的に「一国一工場」体制に帰着する、というわけだ。市場の廃止に替わりうるものとしては「一国一工場」体制=スターリン主義しかないことになる。
 これでは社会の富が商品として登場せざるを得ない特殊時代的な資本制社会の所有諸関係の分析を通し、そうした諸関係を変革することで脱商品経済、脱私的所有経済としての「連合生産様式」を展望するマルクス説など始めから理解しようがないのではないだろうか。
 国分氏がマルクスの見解を「市場を廃止」した「一国一工場」体制に親和的だと解釈するその裏側には、国分氏が「ソ連=一国一工場体制=専制体制」という強烈な問題意識がある。それ自体は正当だと思う。ソ連の「一国一工場」体制=専制体制がスターリン体制の初期の時代から、またあえて言えばレーニンの時代から労働者を所有や管理から排除する施策が始まっていたのは事実だからだ。
 しかしそのソ連とマルクスを直接的な因果関係で結びつけることは出来ない。マルクスのアソシエーション革命論が、歴史の発展過程の中で一端失われた生産手段の自己所有を、いわば生産諸条件と人間との本源的な統一を復活する――高次のレベルで――、というのがマルクスの基本的な歴史認識だったからだ。その「高次復活」というのは、「自らのものに対するような態様で関わること」(『先行する諸形態』)、言い換えれば生産諸条件、具体的に言えば生産手段やその管理運営に対する個々人の「当事者主権」の回復を追求することでもある。こうしたことはソ連で進行した事態とは全く逆のことなのだ。

5)マルクス=「社会主義=利潤分配制」説

 国分氏は社会主義を市場経済を前提とした連合社会、市場と計画が共存した混合経済体制だと解釈している。その根拠としてマルクスが書いた『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』(1867.2 マルクスエンゲルス全集16−194)の記述をあげている。この中には協同組合運動の功績、それが体制変革へとつながるための条件(全般的な社会的変化)、それに協同組合の運営原理などを述べた部分もある。その内容は次のようなものだ。

 『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』
五 協同組合運動(労働)
 国際労働者協会の任務は、労働者階級の自然発生的な運動を結合し、普遍化することであって、なんであろうと、空論的な学説を運動に指示したり押しつけたりすることではない。したがって、大会は特殊な協同組合制度を唱道すべきではなく、若干の一般原理を明らかにするだけにとどめるべきである。
 (イ)われわれは、協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を改造する諸力のひとつであることを認める。この運動の大きな功績は、資本に対する労働の隷属にもとずく、窮乏を生み出す現在の専制的制度を、自由で平等な生産者の連合社会という、福祉をもたらす共和的制度とおきかえることが可能だということを、実地に証明する点にある。
 (ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られるかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することはできない。
 (ハ)われわれは労働者に、協同組合商店よりは、むしろ協同組合生産にたずさわることを勧める。前者は現在の経済制度の表面にふれるだけであるが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。
 (ニ)われわれは、実例と教導との双方によって、言いかえれば、新しい協同組合工場の設立を促進することと、また説明し説教することの双方によって、協同組合の原理を宣伝するために、すべての協同組合がその協同収入の一部をさいて基金を作ることを勧告する。
 (ホ)協同組合がふつうの中間的株式会社(societes par actions)に堕落するのを防ぐため、協同組合に働くすべての労働者は、株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければならない。たんに一時的な便法として、低い率の利子を株主に支払うことには、われわれも同意する。

6)「従業員持ち株制」を否定したマルクス

 国分氏はこの中の協同組合原理を要約して次の4点をあげている。
 1)生産者の自由な生産管理、2)従業員持ち株制、3)利潤分配制(持ち株とは無関係)、4)株主には低率の利子の支払い、だ。
 本当にそう要約できるのだろうか、以下で見ていきたい。
 1)の点については、『代議員への指示』のイ)、ロ)、ハ)の記述から抽出される原理で、これには異論はない。
 同意できないのはまず第一に、国分氏がマルクスの『代議員への指示』の記述を、「過渡期社会(脱資本主義体制)の機軸をなす協同組合のあり方について言及」したものだと解釈していることだ。すなわち共産主義に至る前の連合労働にもとずく組合的所有=社会主義段階のことだ。
 しかしマルクスのこの文章は、『代議員への指示』の(五)として「協同組合運動」について助言したものであり、あくまで全般的社会的変化、社会の全般的条件の変化」以前の現実の協同組合運動のあり方について述べたものだ。したがってここでマルクスが言っているのは過渡期社会――この概念自体も問題有り――の協同組合原理とイコールではない。なぜなら資本主義体制のもとでの不可避の制約から免れられない要素もあるからだ。もちろんそうした制約があってもそうした原則が、将来の協同組合的社会の原理を内包するものだという理解については、当然のことだろう。
 二つめは、2)の従業員持ち株制についてだ。
 『代議員への指示』の(ホ)の部分からは「従業員持ち株制」を読みとれる記述はない。ただ労働者の中に株主とそうでない労働者が存在することを示唆するだけだ。そしてこの場合の株主とは協同組合設立の出資金の提供者のことであり、だから出資金を提供していない労働者の存在が含まれるのだろう。このことを従業員持ち株制だと解釈するから、次に触れるような、よくありそうな誤解も生まれてしまう。いわく「個々人的所有は生産者個々人による持ち分として再建されると同時に、そうした持ち分からなる個々人による共同所有Miteigntum=組合的所有も実現される」。これは以下で触れる。
 3)の利潤分配制については、より正確には「生産果実の分配制」と読み替えれば異論はない。「生産果実」とは労働過程によって新たに生み出した部分のことであって、資本制的生産の中では賃金部分と剰余価値部分を合わせたものだ。マルクスが「平等の『分け前』」(share alike=同様な、同等な分け前――shareとは「分割して共有する」が本義)と記述しているのは、賃金とか剰余価値―利潤という概念を否定しているからあえて「平等の『賃金』」とは記述しなかったのだ。こうした記述方法は、たとえば「交換」などという言葉を意識的に避け、「与える」「返してもらう」などと記述している『ゴータ綱領批判』等にもよく見られることであって、マルクスは意識的にそうした言葉を拒否していると理解すべきなのだ。
 それに利潤分配によって労働者が株式(出資金?)の所有者になる可能性が与えられる、としているのも、協同組合における労働者の地位や権利について誤認していると言わざるを得ない。繰り返しになるが、協同組合原理とは利潤分配ではなく「生産果実の分配」であって、協同組合の中では、賃金部分と利潤からの分け前部分という区別はなくなっている。だからマルクスは労働者が受け取るのは「賃金」ではなく「分け前」と記述しているのだ。労働者・生産者は、生活を賄う範囲を超えて「賃金」を支給され、それで配当目的などで株を取得するなどはない。もし「超過支給」が可能だとすれば、それは労働時間の短縮に向けられる。
 次に上記で「よくありそうな誤解」だと言った、国分氏の「個々人的所有は生産者個々人による持ち分として再建されると同時に、そうした持ち分からなる個々人による共同所有Miteigntum=組合的所有も実現される」という解釈だ。これも従来のように「個々人の所有を持ち寄ったものが組合的共同所有だ」という所有権優位の観点から理解するから出てくる誤解というほかはない。逆に、組合的共同所有の原則は、株の所有などに根拠づけられた権利関係に由来するものではなく、組合=企業の共同の占有者であることに由来するのだ。国分氏が引用したように理解するということは、国分氏自身のその記述の直前の正当な評価(占有補除者から占有者への格上げ……広西説)を忘れるものだろう。マルクスの「株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければならない。」という占有に基づく「平等な分け前」という取得様式そのものが、生産者による個々人的所有という性格を持つのだ。このことは4)項で指摘したとおりである。

7)「利潤分配制」を否定したマルクス

○第三の問題点は、4)の「株主には低率の利子の支払い」という記述についてだ。
 国分氏(広西氏も)はこれを利子取得者(資本家)の存在を容認しているものと受け取っているようだが、むしろ出資した労働者への処遇に言及しているものだと解釈すべきだろう。仮に協同組合の外の株主を想定していたとしても、支払うのは「利子」であって「配当」ではない。「配当」という概念は「持ち分」に比例した利潤の配分のことであり、その言葉自体が利潤と不可分一体の言葉だ。協同組合原則は資本制社会のなかでのものも含めて持ち株に比例した配当はしないのが普通である。だから「低率の利息」という記述の真意は、まず第一に「配当」を否定したことにある。(田畑稔氏もマルクスのこの記述が「配当」と「利息」を区別したものだと評価している。『マルクスとアソシエーション』114ページ)
 それに「利子」は利潤の構成部分であって、実際の率も配当に比較して低く設定されているのが普通だ。しかも当時のヨーロッパの協同組合においては「利子」は次第に引き下げていくというのが了解事項であり、この記述もそれに即して徐々に引き下げ、最後はなくなるという含意もある。なぜそういった「低率の利子」という記述が入っているかと言えば、それはあくまで資本制社会のなかでの協同組合であって、部分的に資本制原理を受け入れることもやむを得ないと考えたからだと推察できる。だからこそその利子の支払いについて「たんに一時的な便法として、低い率の利子を株主に支払うことには、われわれも同意する。」として、あくまで一時的措置、さらに「便法」という本来の原理から逸脱したものとして、しかも要求するのではなく「同意」という消極的表現になっているわけだ。しまもマルクスはこの「便法」についても、その比重が「配当」の性格を得ないようにわざわざ「低い率の利子」と歯止めを掛けるのを忘れなかった、ということなのだ。
 振り返ってみれば、マルクスは『資本論』をはじめとする様々な著作で、どのような諸条件が労働生産物を商品として生み出すか、を歴史的、概念的に明らかにしてきた。それは資本主義を揚棄した社会主義=協同組合的社会では商品生産とその流通が無くなること、社会主義がそれらを揚棄した社会であることを歴史内在的に立証するためだった。こうした一連の理論的な作業と具体的な記述に触れることなく、マルクスの文章の一部から独断的に「一国一工場」体制につながる「示唆」あるいは「黙示」を引き出すとすれば、それは連合所有、連合的生産様式に関する無理解の結果だとしか言いようがない。(廣)      (次号に続く

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