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Re: 再び、協同組合について・・続きです。
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/1000.html
投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 03 日 17:43:54: tV9DFzLB7Zpg6
 

(回答先: 再び、協同組合について・・転載ばかりですみません。 投稿者 ジャン 日時 2005 年 4 月 23 日 09:14:48)

 ワーカーズのサイトに続きが載りました。何かの役にたつかもしれませんから引き続き転載しておきます。
 ワヤクチャさんは、商品生産社会のままでの共産主義を協同組合でとお考えのようですが、
 ワーカーズのほうは、同じ協同組合でも商品生産社会の矛盾の止揚を考えているようです。

(以下、ワーカーズのサイトからの転載の続き)
 〈商品生産の揚棄〉を考えるA ――「単一の協同組合論」「一国一工場論」を素材として――

4)占有概念の欠如と所有概念の誤解

 少し煩雑になるが、占有と所有についてもう少し考えてみたい。
 たとえばマルクスは『資本制的生産に先行する諸形態』で、太古の共同体からの私的所有の発生過程、あるいは生産手段と労働力の分離についての考察が示されている。そこでは私的所有と共同所有を厳密に区別している。たとえばローマの共同体の場合、国家市民個人にあてがわれた土地所有の性格を、国家的所有との対比で私的所有だと言っている。それは国家が別に管理する共同地の利用から個々の国家市民を閉め出しているという、排他的な関係が見られたからだ。そうした関係を媒介として個々の国家市民の土地所有の私的所有性を認めたのだ。
 それに対してマルクスは、古ゲルマンの共同体での個々の大家族の耕地については、その土地所有の性格を「個々人的所有」(individuel property)だと性格づけている。耕地はローマでもゲルマンでもともに個人によって用益(使用・収益)されているにもかかわらず、だ。ゲルマンの場合には用益は個別だが、共同体全体の取得様式に照らし合わせたときには排他的な関係が見いだせなかった。だからゲルマンの個々の大家族の土地所有の性格を、マルクスは私的所有ではなく個々人的所有(共同所有性格の一つの形態)だったと理解したのだ。そこではローマにおけるのとは反対に、個々の耕地の周囲に拡がる森林などの共同地を狩猟などの目的に共通占有していること、言い換えれば個々の耕地からの収穫を補完する形でそれぞれの家族が共同地からの取得を個々の耕地の広さに比例する形で共通に収穫していた、という関係を見いだしたからだ。そうした個々の家族と共同地に媒介される共同体との関係が、排他的なものではない関係性を見いだしたからこそ、マルクスは古ゲルマンの共同体の個々の家族の耕作地の所有性格を私的所有という性格ではなく「個々人的所有」だと性格づけたわけだ。
 付け加えれば、マルクスは古ゲルマンの共同体で性格づけたゲマインベジッツ(gemeinbesitz)という言葉を、中世ツンフト(同業組合)の親方と職人の関係でも用いている。これは親方の下で働く一人前の職人については、親方の収入の内の一定の割合を受け取る権利のようなものがあるからだ。この言葉は、親方と職人の関係は、親方の収入を一定割合で親方と職人が共通に占有している関係にある、という性格を示す言葉になっている。
 さらに付け加えれば、マルクスは「生まれたばかりの共産主義社会」と「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』)を明確に区別していた。この場合、「生まれたばかりの共産主義」を、マルクスは協同組合的社会だと理解しており、そうした段階は、歴史上の不可避の通過点だと理解している。この通過点としての歴史的段階というのは、マルクスが太古の共同体とそこから生まれた貢納制、奴隷制、封建制という階級関係が顕在化した二次形態を明確に区別していたことと照応している。いわば生まれたばかりの共産主義という段階は一次的形態であり、高次の段階は二次的形態だと把握してたと思われる。
 こうしたマルクスの所有概念によれば、所有の社会的性格を表現する私的所有や共同所有というのは、資本主義社会における「所有権」のような権利関係、法的関係ではなく、取得様式をふまえた反省的な概念、人と人との関係、人と生産諸条件との関係が投射された反省的な性格概念なのだ。それに対して「所有権」というのは、私的所有という排他的な所有の性格を法的に権利関係として表現した概念ということになる。だから協同組合的社会での所有の共同的性格も、個々の生産者・労働者、あるいは個々の協同組合の「所有権」という法的関係、権利関係を表すものではなく、実態として共同で占有しているという現実から発生する生産果実の取得様式に照らして、結果的に性格づけられる概念なのだ。そうした協同組合的社会では、個々の生産者と生産手段の関係、あるいは社会の構成員との間での取得は排他的ではない連帯的なものになるからこそ、そこでの所有関係が共同的性格のものであると性格づけられるのだ。
 少しくどくどと所有概念についてこだわってきたのは、この理解如何によって協同組合的社会では商品生産を揚棄出来ないとか、あるいは何らかの協議・計画経済は上意下達の指令型経済にならざるを得ないとかいうアソシエーション社会の具体的なイメージが、まるっきり違って理解できるからだ。それは以下の議論の展開に従って自ずと明らかになると思う。

5)カウツキーをなぞる協同組合「批判者」

 カウツキーの所有概念や国家概念の理解は、カウツキーが当時のドイツ社会民主党の権威に任ぜられていた割には、きわめて杜撰である。この『エルフルト綱領解説』が書かれたのが1892年だから、もちろん『資本論』(フランス語版も)出ていたし、『ゴータ綱領批判』も出ていた。これらだけでもマルクスが未来社会をどのように展望していたかという、その輪郭は示されていた。そこでもマルクスは商品生産を揚棄するためとして、安易に「全国で一つの協同組合」「国家的協同組合」に逃げ込まなかった。逆にいかなる生産システムが生産物を商品として生み出し、それが市場で売買されるかを歴史的、概念的に究明する姿勢を貫いた。
 マルクスが歴史的、概念的な究明に力を注いだのには理由がある。マルクスは何らかの「プラン」を描いてそれを証明するための実験に走った西欧社会主義の先駆者の多くに批判的だった。だから将来社会を現実の歴史の発展のただ中に位置づけることによって、歴史に内在した将来社会の展望を発見することに努力したからだ。
 カウツキーの『解説』は、協同組合的社会の姿を唯一の協同組合、すなわち国家そのものと同一視することで「一国一工場体制」へと行き着いた。その「一国一工場体制」を作り上げたソ連が国家と官僚組織の肥大化というグロテスクな姿を現すとともに、「一国一工場体制」を「監獄あるいは兵営」として放棄するに至ったのもむべなるかなという以外にない。『解説』当時のカウツキーの解説は、まさに私的所有や商品生産社会を揚棄したアソシエーション社会の豊かな可能性を台無しにするものだったのだ。しかし『解説』は、スターリン体制以前に書かれたものとしてまだ罪は軽い。
 翻って現代でも、協同組合の連合社会をアソシエーション社会=社会主義だとする見解に反対する意見がある。それらは安易に国家規模の単一の協同組合、あるいは単一の「労働者共同体」を対置する。が、これらはカウツキーの議論から一歩も出るものではない。いわゆる「一国一工場体制」そのものだ。そこではカウツキーの議論と同じように、協同組合の連合社会が商品生産を必然化するとの根拠らしきものを語ってはいる。しかしそのわりには、その国家的協同組合や労働者共同体では全体の生産・流通・分配システムを円滑に行うために何らかの調整機関が必要になり、その調整機関が生産者から自立化し、やがては生産者と区別された特権的な階級に転化することはない、という”根拠”については何も語っていないからだ。

4,「利潤分配制の連合社会」説――国分説の検討

1)国分氏と彼の著作について

 これまで大まかに検討してきたカウツキーの協同組合社会の理解と対極にあるのが国分氏の説だ。
 国分氏は『21世紀社会主義への挑戦』(社会主義理論学会 2001・5・5)という論文集で『一国一工場体制から利潤分配制の連合社会へ』という小論で自説を展開している。この小論は『デスポティズムとアソシアシオン構想』(1998年)という著作を下敷きにしたもので、著者のスタンスと見解を端的にまとめたものだ。とりあえず、前者の小論を中心に検討していきたい。
 国分氏の問題意識は『デスポティズムとアソシアシオン構想』という著作の表題にもなっているように、マルクスのいわゆる東洋的専制体制がいかに歴史的に生成したのか、という関心を下敷きにしたアソシエーション構想だ。こうした国分氏の基本的なスタンスは、上記の小論でも次のような前書きから始まることでもはっきりしている。そこでは、20世紀社会主義の最大の問題はスターリン主義であり、そのスターリン主義がソ連に於いて「搾取と抑圧からの解放という社会主義の理念を……総体奴隷制という規定がぴったり当てはまる文字通りの悪夢に一変させた」として、ソ連=スターリン主義体制を断罪している。そのことを前提として国分氏は「21世紀の社会主義について語ろうとするならば、まずはスターリン主義の根底を理論的に解明してこれを徹底的に批判することが必須の先決要件であり、その結果として初めてスターリン主義とは異なるもう一つの社会主義、すなわち自由と平等をもたらすアソシアシオン=連合社会体制としての社会主義について展望することが許されるであろう。」という。
 国分氏についてさらに若干付け加えさせてもらえば、彼は周知のように広西氏の『資本論の誤訳』復刻版(こぶし書房 2002・3・30)で『広西のマルクス解釈と利潤分配制社会主義論――その批判的な摂取に寄せて』という詳細な解説を書いているように、広西説に大きな関心を寄せ、そのマルクス解釈の中心部分を受け入れつつ自らのアソシアシオン構想を形成してきた人だ。広西説の解釈にしても、人を食ったような毒舌を交えたアクの強い印象にもめげず、その内部に深く踏み込んで積極的な評価と批判的部分とを選り分けている。私としては『デスポティズムとアソシアシオン構想』という著作についても、広西説を摂取しながら氏自身の問題意識としてのスターリン主義の克服を意図した彼独自のアソシアシオン構想を集大成した著作として、アソシエーション革命を志向する人にとって大いに参考になるのではないかと思っている。ただ残念なのは、協同組合的社会=商品生産社会としている点などで広西氏と同じようなマルクス理解での見解の相違があることだが、それらについては以下で検討していくことにする。

2)マルクスにも読み取れる「一国一工場論」――国分氏の解釈

 国分氏は、20世紀社会主義の最大の問題は「総体的奴隷制」ともいうべきソ連社会の現実そのもの、及びそれをもたらしたスターリン主義だとし、それが東欧革命からソ連の崩壊を経て、今では思想としても運動としても社会主義の崩壊をもたらし、社会民主主義ですら壊滅的状態に陥っている、という事実認識を語っている。こうした状況を克服していくには、スターリン主義の根底を理論的に解明してこれを徹底的に批判することで初めてアソシアシオン=連合社会体制を展望できるという。
 国分氏は、スターリン主義の土台をR・バーロ以降の「一国一工場」体制の内に見てとる。「一国一工場」体制というのは、@国有=共同所有、A社会主義社会=「一国一工場」体制、B国家独占体制、C社会主義段階における「階級のない」国家の存続、というようなものだ。国分氏はその核心はAの社会主義社会=「一国一工場」体制にあると見なしている。
 国分氏は「一国一工場」体制の源流を、これから見るように「サン・シモン派に酷似したレーニンの社会主義論」(国分氏)だけでなくマルクス自身にも起因していると踏み込んだ評価を下している。大谷禎之助氏など、アソシエーション的社会主義の立場に立つ多くの論者が「一国一工場」体制はスターリンが創り上げたものであり、レーニンもまた「一国一工場」体制を示唆していたがマルクスはそうは言っていない、という解釈をしているのに比べて、大胆な評価だ。が、そうは言っても国分氏自身もマルクスが社会主義=「一国一工場」体制であると明言した記述はないことは認めざるを得ない。ただしエンゲルスはもちろんのこと、マルクスにおいても「一国一工場」体制を示唆あるいは黙示するものは多いという。それらを以下のように例示している。

@「社会的生産を自由な協同労働の一大調和的体系one large and harmonioussystemに転化する……。」(マルクス「暫定中央評議会派遣員への指示」,1868年)。ここでは不定冠詞ではなく数詞が使用されており、「一国一工場」体制が強く示唆されていると言える。
A「共同の生産手段を用いて労働し,協議した計画に従って,多くの労働を一個同一のune senle et meme社会的労働力として支出する自由な人々の連合を考えてみよう。」(『フランス語版資本論』,1875年)
B「工場制度のこれら熱狂的な弁護者たちは,『一体諸君は社会を一つの工場une fabriqueに変えたいのか?』と金切り声を出す。工場体制が結構なのはプロレタリアにとってだけだ!」(『フランス語版資本論』)。二重括弧の部分はブルジョアたちの言葉であるから,確かにこれをもってマルクスが「一国一工場」体制を唱えたと見なすことはできないが,それに続く部分を加えた全体からはこの体制に否定的なニュアンスは伝わって来ない。ちなみに英訳版では「一つの工場」はone immense hactoryとなっている。
C組合die Genossenschaftを組合的社会=共産主義社会と同義に用いている。(『ゴータ綱領批判』,1875年)。ここでは定冠詞が用いられており,共産主義社会は「一大組合」であるとする解釈を許容する。
D「……すべての生産手段が全国民から成る巨大な連合体 a vast associationの手に集積されたならば……」(エンゲルス『共産党宣』英訳版,1888年)。
E「社会の総指導部には,農民組合Genossenschaftを次第により高い形態に導き入れ,その組合全体ならびにその個別成員の権利・義務を,大共同社会の他の諸部門のそれと均等にするために,必要な影響力が確保される。」「組合的なgenossenschaft1ich諸経営では賃労働の搾取をますます除去し,大きな全国的生産組合の,平等な権利,義務を持った諸部門への漸次的な転化を導入することができる。」(エンゲルス「フランスとドイツにおける農民問題」,1894年)。「大共同社会」や「大きな全国的生産組合」の諸部門という表現は一国規模での「一大生産組合」を示唆するものである。
(次号に続く)  

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