★阿修羅♪ 現在地 HOME > 議論20 > 543.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
『βプロトコル』(3)法律の本質は暴力である、か?
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/543.html
投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 21:45:29: SjhUwzSd1dsNg
 

(回答先: 人類の課題としての『βプロトコル』(1) 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 16:33:41)

----
http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/solomon.html
人類社会を形成した原始のころには、荒々しい暴力に服したし、その後には法律に従うようになった。だがこの法律にしたところで、所詮仮面をかぶった暴力に他ならないではないか。こうした自然の法則から推して、正義は力であると言ってよいであろう。
----

----
http://www.asyura2.com/data001.htm
 社会の仕組みが始まった頃には、かれらは残忍で盲目的な力に服した。後には、法
律に服した。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。私は、自然法則
に従って、権利は力の中に横たわっていると結論する。
----

この指摘はある意味では正しい。法律というのは国家権力という暴力装置によって強制される規範だからである。

しかし、暴力と規範とでは異なる。むしろ正反対である。法律というモノは暴力と規範という正反対のものを内蔵する矛盾に満ちた存在である。

規範は内容の公正と適用の公平によって人々が、他人の行動や自分の行動の結果の予測することを可能にする。その予測可能性を前提にして、人々が自分の判断で行動できるようにするモノである。権力がそのような規範を維持するとき、人々は「権力の正当性」を承認するようになる。

それに対して権力による暴力は、人々に不安を与え、予測可能性を奪い、人々の行動を萎縮させるモノである。

法律が暴力であるということには別の意味がある。法律が権力の道具として利用される時、またその権力が暴力的である時、法律もまた暴力のための装置となる。これを形式的法治主義という。「国王は悪をなしえず」という考え方だ。

これに対して、権力が法的に規制されなければならない、という思想を、実質的法治主義、法の支配とか立憲主義とかいう。《人が人であるが故に守られなければならない利益》があり、権力はそれを犯してはならないという思想を人権主義という。これも権力への制約だ。国民が為政者の定めた法に制約されるのと同様に、為政者も国民が定めた法や道理に基づく法に制約されなければならない、という考え方である。

それとは別に、法律を暴力装置として使ったのでは、政治がうまくいかない。したがって、法律を暴力装置として使ってはいけない、という考え方もあるだろう。これを謙抑的法治主義とでもよんでおこうか。東洋的な徳治主知。

(1)このプロトコルの作者は法律をひどく嫌っているようである。後段をみると族長的専制支配を理想としているらしい。「主権在神といった考え方」なのかもしれない。法律を使わないでどうやって秩序を維持するかというと、法というよりは「官憲に対する服従」による秩序維持、検閲による思想統制、秘密警察による「見えない護衛」によって維持されると考えているようである。ここで語られているのはβ国がα国を支配した後の支配体制のことなので、本心からそう思っているということだ。

(2)「主権在神」のもとでの恐怖支配ということは、本当に実現可能なのだろうか? あり得ないとお思いかもしれないが、かつてはあったと言われている。この文章の作者は古代エジプトのファラオの王政を夢見ているのだろう。それを実現可能にするためには、β国の国民も家畜状態、奴隷状態にならなければならない。そんなことはあり得ない? 否、あり得るのである。人は奴隷にでも家畜にでもなりうる動物なのだ。

* 五年前に「ウシの管理のために埋めこみチップが使われているらしい。人間にもそのうち使われるようになるよ」と言ったらせせら笑われたモノだ。

(3)このような反法律主義の傾向は、現代社会にあるか? 小泉氏やブッシュ氏の法律の使い方、適用の仕方をみると思想統制のための口実として「法律」が活用されているようには見えないだろうか? 公平な適用も、公正な内容もひったくれもない、形式だけの「法律」を暴力装置として利用しているようには見えないだろうか?

(4)α国の人民としては、このような反法律主義(形式的法治主義)の傾向に対して、どのような対策を講じればよいのであろうか?

----

参考:

※1:「国王は悪をなしえず」
----
http://www.kyoto-su.ac.jp/~kazyoshi/constitution/kaisetsu/kokubai.html
歴史的には、国家が公権力を行使するにあたって、およそ「違法」ということはありえない(「国王は悪をなしえず」という法諺がイギリスにはある)ので、公権力が責任を負うことはない、とする考え方があった(「公権力無責任の法理」という)。
----

※2:「主権在神」
----
http://www.gs-itochu.com/normal/1/columns/1_23.html
1. 憲法というものがないイスラエルの政治制度
イスラエルの国のかたちは共和制である。成文憲法は存在せず、それぞれ、議会(1958年)、大統領(1964年)、政府(1968年)、軍の権限等を定めた基本法の集積が憲法の機能を果たしている。・・また、先進国で当然と思われいる主権在民の政治概念の代わりに、一部のイスラム国でシャリーア(聖法―水場に至る道という意味)が憲法の代わりをしているように、イスラエルでも主権在神といった考え方があり、ユダヤ教の考え方が所々に顔を出す。
----

※3:プロトコルの作者の後段での主張
----
http://www.asyura2.com/data002.htm
●人民はわれらが王を神と崇めて帰依献身しその専制に従うであろう
 われわれの政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するだろ
う。われわれ民族とわれらの国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民
が望むこと、国民がやっていること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使
う父の姿を見るだろう。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考
えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、わ
れわれが任命した者たちが私利私欲のためにではなく、ひたすら誠実に命令を実行し
ているだけであることを知ったときには、われらが王を神と崇めて帰依献身し、その
専制に従うであろう。<十五>

●われわれの法律の原則は官憲に対する服従である
 われわれが公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、われわれの法律はすべて、
いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固
としたものであるだろう。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であ
り、この原則によって荘重高潔なものとなる。<十五>

●一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない
 一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない。現在ですら
すでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集
められそこから配付されるようになっている。通信社は追って完全にわれわれの傘下
に入り、われわれが許可したものだけが一般に供給されるようになるだろう。

●われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる
 われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる。反政府暴動があるやも知れ
ず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れているという考えは断じて与えてはならな
い。<十八>
----

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 議論20掲示板



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。