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第六章 共通点 1 神示と霊訓 救済と自己努力/善と悪/小我と大我
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投稿者 謝寅. 日時 2004 年 12 月 18 日 12:08:58:vaLSO7uEJsNvE
 

(回答先: 第六章 共通点 1 神示と霊訓 霊訓について/意外な共通点(大本教・民間信仰・民俗) [99-03-18] 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 19:19:50)

*諸教同根/迷信の破壊・立て壊し*
 
 
 
…吾人の観る所を以ってすれば、元来宗教なるものは、其の教祖が其の国土に応じ、其の時代に適する教義を立てたるものなり、されば甲国に適する宗教必ずしも乙国に適するにあらず。又上古の人心を救ひたる宗教必ずしも、現代を済ふとは言ふべからず。事物は皆国によって相違し、時によりて変遷す。

…(中略)…

 一国に最も適する宗教はその国の宗教なり。宗教は何れもその国その時代の思想上の産物なり、されば最適なる宗教は発生時代におけるその国の宗教なり、故に如何なる宗教にでも、他国に入るに及びては、必ず意義又は形式において、少なからず変遷する事を常とす。

-『宗教の害毒』/出口王仁三郎著より-
 
 
 
 火をもって、パブテスマ(洗礼)を行ふと云ふ事は、人間を霊的に救済すると云ふ事である。これ大乗の教であって、今までの誤れる総てのものを焼き尽くし、真の教を布かれる事である。

 水をもってパブテスマを行ふという事は、人間を体的に救済する事である。  キリストの本当の教が伝わらぬやうになった時。仏法に於いては釈迦の本当の教が伝はらないやうになった時、それが世の終わりである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。

この時にあたって、本当の耶蘇(やそ※キリスト教の事)教、誠の仏法を起すのが世の立替である。

-いづれも『水鏡』/出口王仁三郎著より-
 
 
 
 文化の進んだ二十世紀の現代には、既にすでに大部分の人民より捨てられて居るのは当然である。既成仏教もまた、キリスト的の脅嚇や誤魔化しがあって、これとても既にすでに宗教としての価値は認められない。

 仏教の大乗部は別として、小乗部の教理なぞは婆、嫁だましの世迷い言である。数千年以前の人知未開の世に適した宗教の教理を、今日に施行せんとするのは、三冬厳寒の頃に用いた綿入着物を土用三伏の酷暑の時代に着用せよと教ゆると同様にして、愚の骨頂である。

 かかる教理を、臆面もなくまことしやかに説いて居るその野呂さ、迂愚さと言ったら、到底論ずるの価値さへなきものである。  自分の言ふキリストとはそんなつまらぬ貧弱なものではない。霊肉共に安心立命させ、人類の生活に向かって、も少し活動力のあるものである。大本人の中には自分をナザレのイエス・キリストに擬するものがまゝある様だが、実に迷惑千万である。

 自分がかつて霊界物語に説いたキリストとナザレのイエスとは全然別人である事をここに言明しておく。  然るにこの大神示を説く人々が、ともすれば既成宗教を例証に引くことの多きに過ぐるは無用の事である。今までのものは真理ではない、説くに及ばぬ。我々は神示されたる、最後の真理を力説したらよいのである。

-いづれも『月鏡』/出口王仁三郎著より-
 
 
 
「もうこれからは宗教のない世になるんや。しやから神殿なんて必要ない。石でも積んで拝んどいたらええ」(王仁三郎氏が、蒙古遠征から帰国後、亀岡天恩郷にてのセリフとされる)

 私は元来宗教は嫌いだ。宗教家あつかいされると私は癪にさわる。世の中に宗教家ほど憐れむべきものはない。時代錯誤の教典にしがみついて、やたらに戒律を強いる。人間には天賦的に、省みる、恥じる、悔いる、畏る、覚る、の霊能があるのに、その上何を必要とするのか。まるで人間を獣あつかいにするのが既成宗教である。

 この人生を殊更に苦の世界と呼んでみたり、美しい地上を厭離穢土などと言って人心を混惑させている。実に言語道断である。宗教は阿片なりという言葉があるが、既成宗教ことごとくが実にその通りである。神仏の慈愛を説き人の践むべき道を明かす宗教家が、これに抗弁するだけの信念がないとは何という情けないことだ。

現代は――今後も既成宗教の力によっては何事も成し得られない。天地を和め人心を安らかにすることの出来ない既成宗教は、時代とともに自然消滅してゆくだろうが、一刻も速やかに、霊的にも体的にも力のある権威のある、人間に真生命を与うる宗教が生まれなければいかぬ。

 物質的方面にのみ解決をあせり、霊魂の実在を無視するマルキシズムも困るが、下手な倫理に神仏を調合して世人を迷わす、既成宗教家の真理に対する無智と時代の進歩を理解できぬ迷盲は一そう困る。

-『瑞祥新聞』/出口王仁三郎著より-
 
 
 
●神も佛事も人民も勇んで暮らす世になるぞよと明治二十五年から知らしてあるぞよ。それでこの大本は、外国の神の教や、佛(ほとけ)の教を悪く申されんぞよ。ヤソも佛も儒も其の国々の国魂相応の教がさして在るので在るから、この大本は大本の教さえ致して居りたら外の宗教を毀(う)つと云ふ事は致されんぞよ。こう申すと又鼻高が、艮の金神でさえも外国の教や、佛を悪く申すでないかと、理屈を申すで在ろうが、外国の教と神が申すのは、宗教やヤソ教の事では無い、物質至上主義金銀爲本の政治の事を申すのであるぞよ。誠の純粋(きっすい)の日本魂の人民には、外国の宗教は要らぬなれど、未だ其処まで身魂の研けて居らぬ、中と下との身魂の済度には、無ければならぬ道具であるぞよ。外国の宗教と申しても元は天地の先祖の教であるから、日本の教の枝葉であるから、余り悪く申して枝葉を切ると、幹が却って教育(そだた)ぬから、神は元は一株であるから、それで是までの筆先に、谷々にの小川の水も大河へ、末で一つの海に入る仕組みであると申してあろうがな。

-『伊能売神諭』/出口王仁三郎伝達より-
 
 
 
●何処の教会も元はよいのであるが、取り次ぎ役員がワヤにしてゐるのぞ、今の姿は何事ぞ。

●スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違の神々様、この世の罪穢れを、この神様にきせて、無理矢理に北に押し込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候に持ちあらしたのざ。

 それで人皇の世と曇り汚して、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世に致して、さらにさらにわからぬ事にいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃ。わかりたか。

 釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。

●どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民沢山できるぞ。ミタマの神がいくら頑張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。

 世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に伝ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかえるのざぞ。臣民の道はもとより、獣の道もつくりかへぞ。

 戦の手伝い位誰でも出来るが、今度の御用はなかなかに難しいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けてくれよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。

●神の国には神の国のやりかたあるぞ。支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、元は一つであるなれど、神の教が一等良いと申しても、そのままでは外国には通らんぞ。

●国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いてくれよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな。

-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
 
 
 
モーゼスの霊訓

 天啓は皆神から出る。或る時代に顕れた啓示と、他の時代に顕れた啓示との間に、矛盾撞着のある筈はない。(中略)神の言葉は常に単純である。

 人間はこれに満足する事が出来ず。或いは注釈をもってこれに混ぜ、或いは推理推論をもってこれを包んだ。かくて歳月の経過とともに、神よりいでしものが、何時しかその本来の面目を失い、矛盾、撞着、虚妄、愚劣の不純分子をもって充たされるに至った。

 かかるがゆえに、新たなる啓示が出現した時は、まずもって、古い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃蕩するの必要に迫られる。まずもって破壊した後でなければ、新しい真理の建設が不可能と言う事になる。  

 霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が”信仰”と呼んでいるものをくつがえす事になります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。  またキリスト教のみが神の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ伝導していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんのひとかけらのみが授けられたのです。

 現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の存在を信じず律法を字句どおりに解釈した者達)とよく似た者、キリスト教徒の中にもあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者達)とよく似た者が見受けられます。

 一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義によって産め尽されて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。

 信仰心が薄れていく第一の徴候はその霊的概念が忘れられることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、全く無意味な形式ばかりをいじくり回す様になります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰徴し始めることは確実です。
 
 
 
シルバーバーチの霊訓
  
 多数の教会は暗黒時代の遺物である。神はどんな建物にも閉じ込められるものではない。神はいづこにも在りたまう。彼らは考える。石を築き大きな尖塔を造り、窓に色ガラスをはめるが故に、神を喜ばせているのであると。

 神は何を喜び給うか、太陽が人々の心を明るくし、雨が穀物の実りをもたらす時、神は喜び給うのである。しかしながら神の賜物と神の子等との間には、教会がある。政治家がある、財務官がある。総てこれらは掃討されねばならぬもの。今やその掃討が始まっている。  私たちは色々な気質・多様な生活慣習・思想・流行に直面せねばならなくなっている。私達は通信を、国民性や環境、民族的慣習とに応じて適合させねばならない。

 各国民それぞれの言語とその制約の中で、通信を行わねばならない。だが、こういう力の背後には、常に同一の推進力が働いているのである。  天地開闢のはじめより、霊師達は人類に、神についての啓示を与える為に、地上へやって来ていた。彼らはその時代の言葉で語りかけた。啓示はその時代の要求に合致したものであり、またその国情、その民族の進歩の度合いに相応したものであった。
つまり啓示は、人々の理解を超えるほど高すぎてはいけないのであって、理解して貰えるような方法で啓示されねばならなかったのだ。
 
 
 
ベールの彼方の生活 
  
 これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛したことです。生ける生命を一冊の書物によってがんじがらめにしたことです。バイブルの由来と中身をあるがままに見つめずに・・・それはそれなりに素晴らしいものであり、大体において間違っては居ないのですが・・・それが真理の総てであり、その中には何一つ間違いがないと思い込んだのです。しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いています。  

 吾々に明かされた矯正法は他でもない、”地上的キリストの取り壊し”でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆している事でもあります。説明しましょう

 建物を例にしてお話しすれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建直しのきく場合があります。全部取り壊さずに建ったまま修復できます。が一方、全部そっくり解体し、基礎だけを残して全く新しい材料で立て直さなければならないものもあります。

 地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストのことではありません。神学的教義・キリスト教的ドグマによってでっちあげられたキリストの事です。
 
 
 
 考えてみれば、王仁三郎氏は常から、「諸教同根」説を唱えていました。しかし、その言動には「反宗教」或いは宗教を破壊する観念が、見え隠れしていました。

 思えばトンチンカンな事だったのですが、上記霊訓等と合わせて考えると、成る程とうなずける気が致します。それにしても、神示に更に推理推論で混ぜ捏ね返す、そんな傾向が自分にもあるので、気を付けないと・・・と思います。

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