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政治漫画も立派なジャーナリズムである。私はAAも作品によっては政治漫画と考えます。
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/681.html
投稿者 TORA 日時 2005 年 1 月 21 日 09:01:47:CP1Vgnax47n1s
 

(回答先: TORA氏のアスキーアート投稿について 投稿者 アルトン 日時 2005 年 1 月 21 日 06:46:01)

新聞漫画なぜ面白くなくなってしまったか  (WELCOMEマンガ大学 )
http://homepage2.nifty.com/goromaru/mannga-medhia.htm

 日本の漫画が産業と呼ばれるほどに発展していくなかで、逆にすっかり衰退してしまった漫画分野に新聞漫画がある。一口に「新聞漫画」とくくるよりは、連載4コマ漫画と政治諷刺漫画と具体的に区別しておく方がいいだろう。

 しかし、面白くなくなってしまったという点では、両者共に歩調を合わせていたかのように見える。現在の状況を言えば、若い漫画ファンは当然の如く新聞の漫画を全くと言っていいほど読まない。四十代五十台の漫画ファンさえ、もう殆ど興味を失ってしまっているのではないだろうか。

 長谷川町子の『サザエさん』(「朝日新聞」朝刊)が連載終了後、筆者も新聞漫画が面白いという話を周辺から聞いたことが全く無い。政治風刺ヒトコマ物においてもだ。

 大新聞社専属の近藤日出造・那須良輔らが健筆をふるった50年代を過ぎて、70年の安保反対運動のさなか、近藤が『まんが安保』なる小冊子を執筆し、政府側に大量に売りさばくあたりから、新聞社専属の政治漫画家たちは完全に権力への批判・批評精神を失い、漫画家としての力を喪失してしまった。それは彼ら自身が、有力漫画家のグループ「漫画集団」の権威と大新聞社の権威の上に乗っかり仕事をしていたせいでもあった。そんな権力的漫画家が政治状況を「漫画風に」絵解きして見せても、読者が感動するはずはないのである。

 だが彼らをしのぐ新しい政治諷刺漫画家は新聞界に現れてはこなかった。その原因はどこにあるのだろうか。漫画雑誌に若い作家のエネルギーが吸収されてしまったからだとは単純に言い切れない。何か新聞編集面に大きな問題が存在しているように思えるのだ。

 例えば、新聞は社会の公器であるから、政治的に「公正中立」の立場をとるという編集方針に漫画家を従うようにさせることに、まやかしがなかったのか。体制側権力のやり方に怒りを感じた漫画家が、政治的中立の諷刺漫画を描かされたとしたら、面白い作品が出来上がる筈はないのである。

 近藤が右寄りの作品を描くと、左翼的読者が怒るが、同じ紙面に左寄りの作品も載っていて鬱憤を晴らせるならまあ納得出来るかもしれないが、大新聞にはそのような編集上の発想や、バランス感覚は微塵も無かった。結局NHK的な立場でのどっちつかずのユーモアしか認められなっかったのだ。

 これは、4コマ物家庭漫画についても言える。読者は中学生から80歳あたりまでの男女が読むから、それらの人々を愉快にしてくれるような作品を描いて欲しいという、雑誌ではとても考えられない編集上の注文だ。そんなことが出来たら、天才のうえに超の字が付くだろう。貧しい終戦直後、メシを食うためには家族が一心同体になって努力しなければならなかった時代なら、家族が笑う時も同じ時間や空間を共有出来たかも知れない。だが、そんな時代は過ぎ去ってしまっている。なのに、新聞編集部はその理想を漫画家に求めていやしないか。

 2000年の現在だって4コマ漫画では、植田まさし・東海林さだお・いしいひさいちといった優れたギャグ漫画家が執筆しているのである。本来なら、彼らの作品は充分面白くなるはずなのである。だがそうはなっていない。しかし彼らの雑誌作品は今も面白いのだ。

 新聞紙面の4コマ1点だけのシリーズ形式では、この複雑な現実を面白くとらえる事は、もう不可能なのだろうか。現代の漫画にとって新聞というメディアはすでに魅力のないものに変質してしまったのであろうか。新聞漫画の歴史を振り返りつつ、もう少しその原因を考えてみることにしよう。

 

欧米新聞漫画前史と日本の源流

 ヨーロッパの諷刺絵画が、後の新聞漫画の原型になっていることは、絵画史の中で良く知られている。その代表的人物は、イギリスの画家ウイリアム・ホガース(1697〜1764)である。彼はロンドンの底辺民衆の<物語>を、連作絵画『売春婦の遍歴』(1733)や『放蕩息子の一代記』(1735)といったテーマで画廊展示し、更に銅版画で出版することによって話題を呼んだ。前者は6枚の絵からなる連作であった。

 ホガースの作品はルポルタージュ的な興味をもって大衆に迎えられた。その人気をみて、彼の作品をソックリ真似た版画が出るまでになる。それに抗議したホガースはこうした悪質な海賊版の刊行を禁止するよう議会に訴えた。画家や原版保有者を保護するよう請願したのである。このことによって「ホガース法」が成立する。これが著作権法のはしりとなったことも興味深い。

 もうひとつは、印刷術の技術革新という側面もわすれてはならない。1796年、アーロス・ゼーネフェルダーによって発明された石版画は、石の上にエンピツでデッサン出来る上に、殆ど無制限に増刷が可能になった。これがエッチングや木版画の地位を奪っていく。

 1814年頃にはこれがパリへも移植されてきた。1930年、そのパリで絵入りの印刷物「ラ・カリカチュール」(LA CARICATURE――週刊)を刊行したのが画家のシャルル・フィリポンだった。彼は知人の画家たちにも仕事を与え、ドーミエを編集人にして、ルイ・フィリップ王<梨頭>を盛んに攻撃したのである。ドーミエは王をガルガンチュアに例えた絵を描きからかった。これは訴訟沙汰になり裁判に敗れ300フランの罰金と6ヶ月の禁固刑を言い渡されるが、フィリポンは1832年には毎日刊行の新聞「ル・シャリヴァリ」を創刊した。予約購読者は三千人を超えていたと言う。人気は拡大していったのである。

 アメリカでの新聞漫画の人気作品と言うと、1896年2月16日の日曜日に、ニューヨーク市で発行されていた「ワールド」紙にR・F・アウトコールトが描いた残酷ギャグの連載『ホーガンス・マレー』である。

 この主人公が黄色の洋服を着た暴れん坊の少年だったところから『イエロー・キッド』と呼ばれしたしまれた。これは先輩漫画家の『熊と虎』の人気を奪ってしまう。1900年代に入ると、日刊紙はどこでも漫画欄をもうけ『マットとジェフ』(パット・フィッシャー*1907年)、『親爺教育』(ジョージ・マクマナス*1912年)、『ガソリン横丁』(フランク・キング*1921年)などの家庭生活を主題とした作品が登場する。

 特に、『ガソリン横丁』が載った「ディリー・ニュース」は全国的に配布するシンジケートを持つようになったので、漫画もアメリカ文明の舞台に踊り出る事になった。

 

 日本の新聞漫画の源流を探ると、幕末期の元治元年(1864)に遡る。この年の「日本貿易新聞」に、洋服を着た人物が自分の首を右の小脇に抱えて立っている絵が掲載されている。この漫画は、元治元年の四国連合艦隊の長州諸砲台砲撃事件経過を解説した記事中に描かれたもので、首(砲台)を奪われてもなんとか立ち続けている長州(人物)を皮肉っているように解釈される。(『[日本]漫画の事典』清水勲・三省堂)

 しかしこの作品は文久三年(1863)に外国人によって長崎と横浜で発行された、いわゆる外字新聞のひとつ「ジャパン・コンマーシャル・ニュース」に掲載されていたものを転載したものに過ぎない。

 日本人による新聞漫画は、明治七年六月に刊行された「絵新聞日本地」に描かれたものだ。作品は幕末から明治初期に多くの戯画を描いた河鍋暁斎が執筆している。これは新聞と言っても、彼が仮名垣魯文と組んで創刊した雑誌形式のものだ。タイトルからも分かるように、C・ワーグマンが1861年に横浜で創刊した漫画雑誌「ジャパン・パンチ」を真似て編集された、全ページが漫画の小冊子である。諷刺の対象は板垣退助や福沢諭吉で、中味は保守的であり人気は出ず、2号で休刊してしまった。

 その後、誌名に新聞とつけた漫画雑誌がさまざま刊行されるようになっていくのだが、報道を中心とした新聞に本格的な漫画が登場するのは、明治三十年代になってからである。

 描き手は北沢楽天。19歳のときに、横浜の英字週刊新聞社ボックス・オブ・キューリオス社に入社し、オーストラリア出身のフランク・ナンキベルの助手として漫画の技法を会得した北沢は、福沢諭吉に見出されて時事新報社へ引き抜かれた。 彼は明治三十五年から、「時事新報」の<日曜「時事漫画」>の主筆になり、実力を発揮し出す。

 社を主宰していたた福沢は「絵でもって大衆を動かすのは漫画以外にない」と考えていたのである。そこで彼は今泉に続いて北沢を起用し、北沢が好評なのをみて三十五年一月十二日から1ページ分全体を楽天に描かせた。このスペースで楽天は時局諷刺・風俗漫画はもとより、アメリカ大衆紙の連載漫画の形式で『田吾作と杢兵衛の東京見物』という長期連載物やサラリーマン物『』や、農民と職人を主人公にした作品を描いた。『茶目と凸坊』という子供向けの漫画まで有る。

 こうしてみると、新聞掲載の漫画の形式・テーマなどは、もうこの時期に出来あがってしまっていて、現代の新聞はそのスタイルを全く超えることが出来ずにいるといっていい。これでは、現代の読者の興味を喚起出来ないのも当然かもしれないのだ。

 スター漫画家・北沢楽天の活躍をみて、大正中期の新聞社はどこも専属の漫画家を擁するようになった。「朝日新聞」岡本一平、「中央新聞」下川、「読売新聞」前川、「やまと新聞」宍戸、「国民新聞」池部…他に清水対岳坊といった具合である。 

 この頃の「時事新報」は小川治平だ。楽天は本格的な漫画付録を定期的に刊行したいと考え、弟子を養成するため「漫画好楽会」を結成、大正十年には新聞紙大の色刷り4ページ立ての漫画付録「時事漫画」を創刊した。現代で言えばプロダクション・システムによる漫画紙の企画制作だ。北沢は多作により自分の作品がマンネリ化してしまっているのを自覚し、アイデアの優れた小川を政治諷刺物に起用し楽天ワールドをカバーしようとしたのである。

 岡本一平は「朝日新聞」に小説を書いていた夏目漱石に見出され、明治四十五年に朝日新聞社に入社している。一平は似顔絵に優れ、そこに添える文章にも新鮮な軽快さや味わいがあり、作家からも評判が高かった。

 彼の作品は昭和四年に『一平全集』(先進社*15巻)としてまとめられているが、その

巻タイトルに『哲学宗教随筆漫画漫文集』(第1巻)『演劇漫画漫文集・漫画戯曲集』(第4巻)『漫画財政読本・映画漫画漫文集』(第14巻)…というように<漫文>とクレジットされている巻が多い。

 4コマ連載物の最初のビッグヒットと言えば、「報知新聞」の麻生豊が描いた『ノンキナトウサン』だ。これは大正十二年に「日刊アサヒグラフ」に連載されたジョージ・マクマナス作の漫画『親爺教育』(ジグスとマギー)の絵に影響を受けている。大正九年の戦後恐慌や、関東大震災後の不景気で、大量の失業者が出ていたが、ノントウはその失業にもめげず暮らす、チョットのんびりした中年男。それが読者の共感を得、人気が出て新聞の発行部数が伸びた。

 「朝日旧友会報」(昭和三十二年)に書かれた麻生豊の証言によれば、当時の編集長・高田知一郎が罹災者を慰める連載漫画を描いてくれと依頼したのだと言う。

 前述の「日刊アサヒグラフ」では、嘱託の織田が原作の文を担当し樺島勝一が絵を描いた『正チャンの冒険』を掲載し、人気を博した。大正十二年九月一日の関東大震災の日に休刊になると、連載は「朝日新聞」に移り人気を拡大する。かわいいリスを連れた主人公のかぶる毛糸帽子が「正チャン帽」として流行したほどだ。

 昭和期に入っての話題は、「読売新聞」社長の正力松太郎がの部数拡大のために漫画を重視し、五年八月に漫画部を新設、麻生豊・宍戸左行・堤寒三・柳瀬・下川凹天らを入社させ、十月から日曜版に付録「読売サンデー漫画」を付けはじめた事である。カラー4ページで、柳瀬の『金持教育』、麻生の『赤ちゃん閣下』や田中の『甘辛新家庭』などを連載した。

 その連載作品のひとつ宍戸の『スピード太郎』は、世界的国際社会を舞台にして、日本の少年が怪盗団を相手に大活躍するという冒険漫画だった。画面構成やコマ割りテンポなど、手塚漫画の前駆をいく新鮮なものであり、漫画史に残る作品でもある。

 朝日新聞社の「アサヒグラフ」「アサヒカメラ」「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」は、アメリカのナンセンス漫画に強い影響を受けた若手漫画家グループ・新漫画派集団の作家たちに積極的にアプローチし、紙面を提供した。近藤日出造・横山隆一・杉浦幸雄・矢崎茂四らが中心メンバーである。彼らは後に「漫画集団」となり、日本の漫画界の中核となる。

 下川は昭和四年に、「毎夕新聞」「新愛知新聞」などに掲載した作品などで、政治・社会・生活・婦人というジャンルに分けて300ページ余りの漫画集『裸の世相と女』を刊行している。その中の「政治漫画篇」には<主義主張は掲載新聞に依るものであって、筆者自身のもので無いことをお断りして置きます。>と註を付けているのが注目である。「毎夕」は左翼的な論調をもった小新聞だったので、あるいはこの編集部あたりが彼にテーマを指定していたのかも知れない。

 ここまで概観してきただけでも、かつての新聞漫画の編集バラエティが、現在の状況を完全に上回っているのが感じられるであろう。漫画の新しい情報は新聞にあり、年々新形式の漫画を発信していたのが新聞だったのである。大きな可能性を持った新人も、新聞から世に出て行った。

 そうした有力新人の一人、横山隆一は昭和十一年一月より「朝日新聞」に『江戸っ子健ちゃん』を8か月連載する。この中に登場した健ちゃんの友達フクちゃんに人気が出たので、連載終了の翌日から『養子のフクちゃん』を新連載した。これがブームとなり十二年には東宝で映画化される。当時5歳だった中村メイコがフクちゃんを演じた。

 漫画の方は十三年一月から『フクちゃん部隊』と改題され、連載が継続される。しかしタイトルからも分かるように、日本軍国主義の暗雲はジャーナリズムの世界をも暗く覆っていく。十七年になると、漫画家の各団体は「日本漫画奉公会」一本に統一させられ、事実上大政翼賛会の宣伝画家としてしか、作品活動が出来なくなってしまう。

 勿論、徴兵されたり従軍漫画家として、東南アジアや中国の各地に派遣もされた。松下井知夫、那須良輔は参謀本部の嘱託として「伝単」(戦地で敵国側に撒く、日本の宣伝ビラ)を描かされた。太平洋戦争末期の日本漫画はまさに絶滅に瀕したのだった。那須良輔の書いた『漫画家生活50年』(平凡社・1985年)によると、昭和十八年に召集解除を受け、中国から帰還したとある。その後、新橋に近い田村町の闇食堂の二階に有った雑誌「漫画」の同人事務所で、陸軍報道部の指揮による仕事をさせられた。

 美術評論家の石子順造は『現代マンガの思想』(太平出版社1970)に、この時期のことについて、<太平洋戦争中は、大政翼賛会宣伝部の推薦をうけて、近藤日出造を主導者とする日本のマンガ家のほとんどすべてが、「聖戦完遂」の教宣マンガを描きちらしていた。物資の乏しかった戦中に、色刷りで敗戦時まで毎月刊行されつづけた『漫画』誌は、裏返していえば、日本のマンガが国家によってもっとも評価され、手厚く遇された「銘記さるべき漫画の歴史」(富田英三)なのである。国家によるそのような教宣マンガと、いまでも大商業紙・誌に紙面をもっているかれらの作品、あるいは戦後派のいわゆる政治マンガなどを比較してみるといい。そこにどれほどの異同が見出されるだろうか。少なくも戦中の「強制された表現」などというのが、いい逃れでさえなく、むしろ題材に恵まれて生き生きと描いたものであることが、今日でも変わらぬ者の同じ手つきにうかがえるにちがいないのだ。>と書いている。

 当時、近藤日出造・横山隆一・横井福次郎・和田義三らは共同で、神谷町に小さな家を一軒借りた。皆、妻子を疎開させた漫画家だった。そこも二十年三月の大空襲で焼けてしまう。もう全員郷里に引き上げるしかなく、那須は九州の球磨へと帰った。

 

戦後の新聞漫画の復活

 そして終戦。

 軍部から解放された新聞漫画はどんな状況であったか。前述の『漫画家生活50年』から引用してみよう。

――日本の政界漫画は(あえて政治漫画とは申しません)北沢楽天先生から、岡本一平先生、グロス先生から、柳瀬正夢先生の諸先輩が、近代ジャーナリズムの上に大きな足跡をのこされているが、その中でも、一平流派が、戦後清水崑ちゃんによって開花した、とみていいだろう。第一次吉田内閣時代から、片山内閣時代にかけて、崑ちゃんの政界漫画は、朝日新聞の第一面をにぎわした。同じ仲間の近藤さんも、戦前からの読売新聞に(昭和22年)、引き続き崑ちゃん(「朝日新聞」・「新夕刊」)に負けずに活躍をはじめていた。私も両先輩のシゲキをうけていた矢さき、横山隆ちゃんのスイセンで、毎日新聞におちついて、政界漫画の勉強をはじめた。――

 

 (註)ここでグロス先生とあるのは、ドイツ表現派やダダなどに影響を受けた漫画家ゲオルゲ・グロッスのことと考えられる。彼は第一次大戦後のドイツが生んだ最大の漫画家である。ナチ政権誕生までのベルリンで、強烈なプロレタリア漫画を発表した。ドイツ革命敗北の1919年には、弾圧者ノスケに抗議して漫画集『支配階級の顔』を刊行した。インフレでのしあっがったブルジョワに対して、苦しい生活を強いられる労働者、売春婦、街にあふれる傷病兵の姿を描き出した。

 柳瀬は彼やアメリカのグロッパーの影響を受け、「無産者新聞」「赤旗」「戦旗」などに作品を発表。昭和七年には治安維持法違反容疑で検挙されたりもした漫画家だ。もうひとつ、いわゆるプロレタリアの立場から<労働漫画>を描いた片寄みつぐが、戦後初めて創刊されたタブロイド版の新聞「民報」について、思い出を『戦後漫画思想史』(未来社・1980年)に書いているので書き抜いてみよう。

 ――「民報」は、大新聞社が戦争犯罪人の追放で社長が退陣、どこもどうしてよいかわからぬ状態のなかから、各社の部長クラスが同盟通信社の上海支局長だった松本重治を中心に進歩的な小型新聞を創刊したものだが、そのささやかな創刊パーティに、どこからともなくビールの小さな樽が運びこまれ、戦後初めてのんだことも忘れられない。――

 片寄は美術評論家の植村鷹千代に推薦され、ここで谷内六郎・鈴木善太郎らと作品を描いた。連載漫画『愉しきピース君』を塩田英二郎が描き、彼ら三人は社会・風俗漫画を担当した。ところが、政治漫画は近藤日出造が描く事になったと言われ彼らは怒った。近藤は軍部の御用雑誌「漫画」で鬼畜米英撃滅を描いていた戦争犯罪人ではないかと社長に迫った。しかし仲良くやってくれと言われてしまう。

――そんな気配を感じてか、近藤氏は私たちに近づかず、もっぱら避けているようだったが、やがて「漫画」が再刊される、君たち三人の作品をトップに載せてやるよ、と誘われた。(中略)一緒に仕事をしてみると、一見高姿勢の近藤は、偉い人には全く低姿勢だった。「民報」の社会部長は俳人でもあり同時に鋭い川柳作家でもあった栗林農夫(一石路)であったが、政治漫画のアイデアは氏によって出され、近藤はそれを描いていた。――

 部長は、近藤に黙ってまかせておくと保守も革新も区別なく描いてしまうのだから困ったものさ、と片寄に言っていたという。昭和20年の暮れ頃の話しである。

 

 

 さてここで終戦直後の4コマ新聞漫画の連載で話題になったものを書き出してみよう。

 昭和二十一年一月一日より『マアチャンの日記帳』*手塚治虫(「毎日小学生新聞」・大阪)

 昭和二十一年三月より『ヤネウラ3ちゃん』*南部正太郎(「大阪新聞」「報知新聞」)

 昭和二十四年一月一日より『ブロンディ』*チック・ヤング(「朝日新聞」)

 昭和二十四年十一月二十七日より『轟先生』*秋好馨(「読売新聞」戦前作品の再開)

 昭和二十四年十二月一日より『サザエさん』*長谷川町子(「朝日新聞」)

 昭和二十五年十二月一日より『デンスケ』*横山隆一(「毎日新聞」)

 昭和二十五年より『プーサン』*横山泰三(「毎日新聞」)

 昭和二十六年ニ月一日より『クリちゃん』*根本進(「朝日新聞」夕刊)などである。

 これとは全く違った「週刊子供マンガ新聞」の創刊というのも有った。昭和21年3月、タブロイド判多色刷り4〜8ページで発行され毎週日曜日に宅配した。執筆者は横山隆一・横井福次郎・清水崑・塩田英二郎・和田義三らで、15万部も売ったこともあった。しかし

子供雑誌が創刊されるに従って消滅していく。

 現在のように多数のページを持てなかった新聞は、戦前のように漫画に大きなスペースをさいて、読者獲得を狙う余裕は無かった。しかし活字に飢えていた日本人はこれで満足出来たから、新聞は活字中心で充分部数を伸ばせたのである。

 昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約が結ばれることになったとき、その調印式の取材に三大新聞社は三人の漫画家記者を現地に派遣した。横山隆一(毎日)・清水崑(朝日)・近藤日出造(読売)が政治記者に随行し、東京に作画した原稿を電送した。三人一緒に電送してくるので、毎日新聞社にいた那須が受像機に写る絵を鑑定分別する役をやったという。このあたりが戦後の新聞漫画のピークと言えるかも知れない。

 那須良輔は著書の中で新聞漫画の小型化を嘆いている。彼は、吉田内閣以降は国民の政治不信が深まり、読者が政治に関心を持てなくなったことが「政界漫画」を衰退させた一因とみている。そんな時期に、シャープな丸ペンの直線で描く横山泰三のヒトコマ物『社会戯評』(昭和二十九年ニ月一日から「朝日新聞」朝刊1面)が登場し新風をおくった。

 この作品の評価が高かったのは昭和三十年代の中期までであろう。その後はやはり解説・説明文字による図解的な作品へと後退してしまう。1960年代から70年にかけての安全保障条約を巡る長い政治騒乱期に、読者の心を揺さぶる新聞政治漫画は皆無に等しかったと極言しても良いくらいである。

 替りに、大学キャンパスでは白土三平の劇画『忍者武芸帳・影丸伝』が<政治的>に読まれているという伝説が生まれた。だからといって、新聞社が完全に漫画に対して興味を失ってしまったわけではない。60年の終り頃、赤塚不二夫の『おそ松くん』が大ブームになった時、彼は朝日新聞編集部に原稿依頼を受けている。マネージ役でぼくも編集部へ同道したが、その際の編集側の言葉が今でも忘れられない。学芸部長はこう言ったのだ。

「赤塚さん、ウチで連載をやることにしましたので、他の作品はもう全ておやめになっても結構ですよ」冗談ではなく真剣な態度であった。

 ぼくは思わず、ちょっと待って下さいと言った。赤塚のフジオ・プロダクションは多人数で仕事をしておりますので、連載一本では人件費が払えません。制作ページ数と原稿料はどれくらいになるのでしょうかと。 注文は紙面の二分の一程度で、週刊連載だった。当時の赤塚の制作スピードでいえば一回分・半日仕事であった。何と言う編集部の大袈裟なものの言いようであろうか。

「それとね、あなたの作品によく出るケンカとか泥棒などは扱わないで欲しいんです」「えっ?『サザエさん』では、出刃包丁を持った強盗が良く登場してますが、どうして…」そう赤塚が聞くと、本当はダメなんです、でも『サザエさん』は人気があるもんでと部長氏は言う。ぼくは、赤塚も物凄く人気が有るんですですけどと口に出掛かったがやめた。これでは話しても無駄である。
「と言う事は、幼年向けの漫画を描けばいいんですね。分かりました。やりましょう」赤塚はそう答えたが、彼が最も興味のない分野の仕事であった。彼らはただ「少年サンデー」や「少年マガジン」の漫画が異常に増殖していることに関心が有り、その関心度を読者に示すために、それらの雑誌の人気作家を紙面にちょっと登場させてみたいと考えたのに過ぎなかったのだ。

 その証拠に赤塚の連載は短期で、次には石ノ森章太郎が短期連載した。漫画の本質を掘り起こし、新聞独自の子供向け作品を育てようとは考えていなかったのだ。だから永井豪の『ハレンチ学園』が悪書であると、一部のPTAなどが騒ぐと、すぐ新聞もその尻馬に乗って批判的な記事を盛んに書いたのである。

 

新聞漫画編集の諸問題点

 清水勲氏が1992年の全国紙・ブロック紙9紙の漫画連載を、年間論評と共に、リストアップしているので、そこから三大紙について書き抜いてみよう。(「COMIC BOX」1993年VOL95より)

 「読売新聞」<コマ物>植田まさし『コボちゃん』(朝刊)・鈴木義司『サンワリ君』(夕刊) <政治漫画>ふきやま朗・祐天寺三郎・大下健一、R・ルリー <土曜頁>岡本敏『世相寸評』(朝)・馬場のぼる『土曜漫評』(夕):このほか夕刊に、島あゆみ『オンナ時評』、日曜頁に、鈴木義司『マンガ笑評』、やなせたかし『とべ!アンパンマン』

 「朝日新聞」<コマ物>いしいひさいち『となりのやまだ君』(朝)・園山俊二『ペエスケ』(夕)・高宮信一『のーべる城のおとのさん』(夕) <夕刊経済特集頁>山井教雄(政治・世相諷刺漫画)・中尊寺ゆつこ『お嬢品経済学』・(一コマ)横山泰三『社会戯評』・(四コマ)秋月りす『どーでもいいけど』 <日曜ページ>(コマ物)みつはしちかこ『ハーイあっこです』・西村宗『1コマ世相漫画』

 「毎日新聞」<コマ物>東海林さだお『アサッテ君』(朝)加藤芳郎『まっぴら君』(夕)<政治漫画> 所ゆきよし・西村晃一 <日曜頁>日暮修一『モーニングジャック』・古谷三敏&ファミリー企画『ぐうたらママ』 <企画特集頁>宍倉ユキオ『楽ラクママ』

ブロック紙の「北海道新聞」・「西日本新聞」<コマ物>佃公彦『ほのぼの君』(朝)・多々良圭『ターラくん』(夕) <政治漫画>石山弘

 一見バラエティがあるように見えるが、一日単位の紙面で見ると漫画は片隅にしか無い感じである。清水は政治漫画が読者をうならせる条件として、次の3つがクリアーされる必要があるという。

作者の主張が強く感じられる(最近は解説画に終始しているものが多い)
政治家などの登場人物に表情がある(主張を伝える重要な手段として表情のゆたかさがある)
キャプションに迫力がある(短文の中に主張が込められているものが良い)
 1992年の政治漫画でこれらの条件を最も満たしていたのは、朝日新聞朝刊の山田紳作品だった。そう清水は書いている。しかしぼくが思うのは、新聞で作者の個人的政治主張を強烈に打ち出す漫画家が、自由に作品を発表出来る編集環境にあるのか?と言う事だ。<ニュースの正確な報道>が新聞の使命であって、社説の論調に沿わない<作者>の主張などは排除されてしまうに違いない。娯楽雑誌とは異なるのだという権威意識がこんな時に必ず頭をもたげる。
 ちなみに、1990年11月16日(金曜)付「ワシントンポスト」紙の場合について、水野良太郎が書いているので、これも紹介しておこう。

 同紙には九点もの政治諷刺漫画、四〇本の連載漫画(含・劇画)、四点のひとコマ漫画が掲載されている。十一月一八日付の日曜版にはフルサイズの四色刷り一ニ頁の漫画版が付いている。四〇本の色刷り連載漫画と一ニ点のひとコマ漫画の構成。日本では信じられない漫画の量である。(『漫画文化の内幕』・河出書房新社)

 ぼくが昔アメリカで見た日曜版も同様だった。水野が劇画と書いているが、日本の場合と大分異なっている筈だ。ぼくが見た範囲では、ちょっとリアルな絵柄の古典的な探偵漫画『ディック・トレイシー』が四コマで掲載されていて<続く>となっていたのには、いささかガッカリした。ギャグ・4コマ物と同じスペースしか与えられていない。これでは味も素っ気も無いではないか。本数は多いが、ただの作品見本市みたいな状態なのだ。後はコミック・ブックで読めといった印象を受けたものだ。

 水野は同書の中で、欧米のマスコミの漫画担当スタッフは、そのスペシャリストとしての立場が絶対的であり、日本のように辞令一本で配属された、漫画に素人の編集者や編集長が口出しをするということも無いと書いている。編集長がチェックするのは政治漫画ぐらいで、それらが掲載紙のステイタス・イメージになるだけに専門外の素人が選択すれば、品の無いドタバタ・ゲラゲラ漫画になりかねないリスクを充分に知っているからだという。

 漫画ディレクターが存在する事は確かにうらやましい。それが有れば、前述の赤塚作品新連載時のような低レベルな会話はせずに済む。水野は一流紙や本格的な成人向けの雑誌などには、上品なウイットやユーモアとセンス、一発の鋭い諷刺があるヒトコマ漫画が掲載されるべきだと主張してやまない。

 それを新聞で実現するためには、漫画の絵にもアイデアにも広く深い見識を持った専門の編集ディレクターが必要だと言うのだ。その通りであろう。事実、彼が余り歓迎しない泥臭い娯楽漫画雑誌の世界でも、現在ではキャリア30年の漫画専門の編集者が多数居て、もはや単に活字専門の編集者が簡単に手を出せる状況にはない。近年、文芸系大手出版社が数社、漫画雑誌を創刊したが、はやばやと廃刊に追い込まれてしまったのは、このあたりの状況を甘く見過ぎてスタートしたからである。そうした事をふまえてみると、新聞社の漫画に対する編集上の取り組みは、余りにもお粗末だと言えよう。水野が嘆くのも当然だ。

 最近、新聞社の漫画へのアプローチで注目を浴びたものと言うと、朝日新聞社が立ち上げた「手塚治虫文化賞」であろう。読売新聞社は「読売国際漫画大賞」を昭和55年から設定している。第1回はタイのピチョク・ムクダマニーが大賞を受賞。他に近藤日出造賞・課題部門賞・自由部門賞・選考委員特別賞・幼児小学生最優秀賞・中学生最優秀賞・高校生最優秀賞などがある。

 しかしここにも新聞社の<各層に満遍なく>という中立志向が働いていやしないか。選考委員も専門家という事でなく、有名人を集めて興味を引こうとしている。だから結局、賞の性格が出て来ない。これでは、真に力が有り才能が有る個性的な新人を発見し、それを育てる事は出来ないのだ。

 社にしてみれば<事業>にウエイトを置いているから、編集部に作家がフィードバックされる事が無い。一回一回の祭りで終わってしまうのである。この点では朝日の賞もメセナとして行っているので、同様の事が言える。

 「手塚治虫文化賞」は1997年からスタートした。ぼくは第一回から3年間選考委員を務めている。
この賞では、1年間に日本で刊行された単行本(漫画のジャンルは問わない)を対象に、20人以上の選考委員が持ち点制で作品を推薦し2段階で絞ったうえで、大賞と優秀賞を決めている。密室の審査会は行わず点数は郵送だ。誰がどの作品に何点を投じたかは全て紙面に公開している。(細かい部分はインターネットのホームページ上で見られる)

 選考委員には小説家・俳優・ミュージッシャンもいるが、ほとんどが漫画関係者で、朝日新聞社側が推薦する枠は特別賞に限られている。第1回は内記稔夫が特別賞だった。内記は20年間自費で収集した14万冊以上の漫画本を、自分のビル内の「現代マンガ図書館」で公開してきた人物である。

 この賞も、4年目から読者推薦の応募を受け付けることを始めた。新しい賞をPRするにはいいかも知れないが、これも全ゆる層をカバーしようという中立公正主義に近い。
賞の狙いや基準・意義などがもともとアイマイなのに、ますます平均化した結果しか出せなくなって行くのではないだろうか。作家を顕彰するのか、強力な新人を発掘するのかと言えば、顕彰する方にウエイトが掛かってしまう。

 同社の「朝日新聞」(朝刊)に長年4コマ物『フジ三太郎』を執筆したサトウサンペイは、同紙2000年1月20日付のコラム<私空間>に『新聞マンガ』と題して、「横山泰三賞」とか「長谷川町子賞」とかも有ってよいように思うと書いている。そして、ワシントン・ポスト紙の社主キャサリン・グラハムの著書『わが人生』(小野善邦訳)から、「漫画は発行部数に非常に重要であった――(中略)実際に、漫画は新聞のもつ最良、最重要の資産であった」という言葉を引用している。

 サトウの言うように「新人の発掘は、特ダネの発想と同根のもの」であって、やはり編集者が走りまわって(インターネット・サーフィンでもいいから)探してこなくてはダメだ。その作家を長い事掛かって育て、その過程で新聞漫画編集のプロになるしか方法は有るまい。

 清水勲は「COMIC BOX」(1995年99号)で――日本のカートゥーン、とくに政治漫画は世界に出ていかない。それは『サザエさん』と同じように日本人にしかわからない漫画になってしまったからである。もっと表現方法に国際性を持たせ、日本の政治状況を世界に伝えることも必要ではないか。――と書いている。

 彼は少なくとも韓国やアメリカの新聞と共有するような形はとれないのかと言う。貴重な提言であり、面白い編集プランだ。グローバル化などとお題目を繰り返すより、清水の言葉を実行する方がずっとリアリティが有る。欧米ではこちらの漫画分野の方が情報の浸透度が高いのであるから、やってみる価値は充分あるのだ。

 

ぼくの「日刊アスカ」での体験

 新聞漫画に対する注文や理想論を書いたが、ぼくも新聞漫画編集では苦い経験が有るので、その体験を具体的に述べてみたい。

 1993年12月13日から翌年の5月20日迄、<コミックペーパー>と銘打った夕刊タブロイド版「日刊アスカ」という新聞が首都圏で販売された事がある。ぼくはその編集部の片隅に机を持って、創刊前のダミー版制作の時から廃刊までの半年間顧問のような資格で神保町の編集部へ通った。60年代に「週刊少年サンデー」編集部に在籍し、一時期赤塚不二夫の担当記者をやり、後に「週刊ポスト」のトップになった関根進が、小学館を退職後その「日刊アスカ」の編集主幹となり、ぼくに手伝えと声を掛けてきたのだった。

 そもそも創刊のきっかけは、飛鳥新社という中小出版社が出した『磯野の家の謎』(新書判)がベストセラーとなり、その利益10億円をタブロイド夕刊紙の刊行に投資したことであった。大きな編集組織を持たねば刊行が不可能な新聞というメディアを、たった10億円の小資金と新会社〈日刊アスカ>という小組織で発刊するために、記事より漫画を主軸にするというのが編集プランだった。

 それによると、全紙面32ページの中に長篇ストーリー漫画6ページ(1面に4ページ分を掲載)日替わりの6本連載:下半面見開きの短篇漫画も、同様に日替わり6本連載:4コマ物を日に5〜8本:中国香港のひとコマ物1本:それに見開きワイド判の「ニュース・コミック」を連日掲載するというものだった。

 あとは政治記事、芸能ニュース、競馬予想で埋めるという。ぼくは「ニュース・コミック」のプランナーの一人として編集部に常駐し、プランが出来次第ネーム構成をやりその作画を漫画班が作家に発注し入稿する事になった。紙面はマッキントッシュで制作されると言う。

 ぼくはダミー3号目の企画から参加した。しかし、実際にその編集作業になってみると、漫画班ではデスクの山川紀生一人しか漫画編集の経験が無いことが分かった。彼は秋田書店で手塚治虫担当を経て、サンリオの雑誌「リリカ」の編集長を務めてきていたが、連載ストーリー物に掛かりっきりである。

 4コマ物は、企業向け漫画を編集しているプロダクションに外注だ。「ニュース・コミック」は政治部の若手記者にテーマ出しをさせると言う事だったが、いざ企画会議をやってみると、殆ど取材経験も無く紙面を飾る大きなニュースをどう漫画に反映させたらいいのか、全くと言っていいくらいアイデアが無い。

 結局、「日刊ゲンダイ」から移籍してきたベテラン経験者である政治班のデスクとの話し合いで幾つかのテーマを決め、若手に材料集めをやってもらう。どうも政治班も漫画班と同じ状況だ。そして全紙面の実務的編集長は、飛鳥新社で雑誌の編集長を務めていた人物であった。

 ぼくはまず山川デスクと絵の描き手を探すことにした。日替わりだから、最低6人は必要である。もし、この新聞が長期間刊行出来るなら10人は欲しい。しかし、この分野に適格な漫画家と言うと、似顔が得意で短篇ギャグが描ける人でないと困る。山藤章二がこれに挑戦してくれたら、面白いものが出来ると思ったが、そんな大変な仕事を毎日やるのは到底無理だと既に断られてしまっていた。「毎日」なんて注文していたのか!無茶である。この分野の仕事の困難さが理解出来ていないようだ。山川紀生だったら、週に1回と注文したはずである。

 似顔が描ける漫画家というと、まず殆どの人がひとコマ物か4コマ物ぐらいしか描いた経験が無い。「日刊アスカ」の企画は新ジャンルを開拓するに等しいのである。だから漫画家に馴れてもらうまで、ぼくがネーム構成を担当するというのが、編集主幹の考えだった。しかし、絵を担当する作家を山川デスクとリストアップしようとしても、適役がなかなか見つからないのである。

 とうとう、名古屋の方で「スポーツニッポン」の仕事をしている柳たかおをトップバッターに選ぶことになった。若くて絵に新鮮味があるし、似顔だけが突出した絵柄でなく、柔軟性に富んでいたからだ。だが東京に常駐して、プラン会議に参加して自分でネームを担当することが不可能だった。それだけのペイをアスカ側が予算面で出来ないのである。 だからぼくのプランをFAXし、急いで作画してもらうしかない。別に東京在住の数人の漫画家にも、ネームを渡し、見本原稿を描いてもらう。試行錯誤、右往左往する内にたちまち創刊日がせまってきた。

 長篇ストーリー漫画はだいぶ以前から依頼していたから、順調に原稿が取れているようだ。しかし、原稿内の活字に問題が生じた。漫画のせりふはアンチックという漢字はゴシックで、ひらがなは太目の明朝体が混じった写植文字で普通打たれている。ところがマックのソフトにはその字体が無い。だったら新聞本文と同じ活字で打てば良いだろうと言うのは、漫画を知らない編集者である。

 漫画のネームは何十年と、前記の字体で読者に読み継がれてきているのだ。これが、少しでも変わってしまうと、漫画の画面が変に印象の弱いものに見える。疑問の人は同じ絵の原稿で、明朝体だけにしたものを別に作って見比べて欲しい。こういうニュアンスを無視した漫画印刷物は、絶対に読者受けしないのである。読者は活字の書体なんか気にもしていないが、無意識の内にその違いに違和感を感じるものなのだ。

 そこで、漫画だけは写植で版下を作り製版し、その刷り出しをマックに入力した。

(余談であるが、赤塚不二夫が「週刊文春」に10年間連載した『ギャグゲリラ』は、せりふをペンの手書き文字にしていた。この文字の清書を担当したのは、北見けんいちであるが、彼は連載中にフジオ・プロを退社し独立している。しかし、文字書きだけは最後まで担当してもらった。字体を変えぬためである。)

さてその後だが…編集者50余名、オペレーター30名近くのスタッフが日夜働き詰めて、いざ創刊となった時、JR駅に配紙出来ないという事態になった。数社のコンビニと首都圏の地下鉄だけだという。その上に他のタブロイド紙より定価が10円高に決定したと報告があった。

 全員集会が開かれると、競馬班の記者が「もともと中味が薄い娯楽雑誌みたいなもののに、10円も高くては、絶対売れません!!」と発言した。その通りだと思ったが、TVには島田紳助の出演したコマーシャルが流されていた。東京進出を狙っていた吉本興行がアスカに参加したというのだ。しかし、資本を投下してくれた様子は無い。島田を貸し出してくれたと言う事か。経理関係には無関係のぼくにはその辺の事情は不明である。吉本の若者が一人、編集部に在籍することになった。

 とにかく発行部数20万部でスタート。「ニュース・コミック」は手持ち原稿が1〜2点の状態で、毎日綱渡りだ。年末、超多忙スケジュールながら、それでも忘年会が催され、そこではまずまずの売れ行きだとの報告があった。7割ぐらい売れたのか?

 正月の休みに入ったが「ニュース・コミック」の描き手不足の事態は改善出来ず、結局休みを利用して、自分でも絵を描くことになってしまう。そして、新年再開になると、たちまち部数が減少を始めた。CFが終了し、創刊の話題性が薄れ、ニュース取材の貧弱さが露呈すると読者は離れていってしまった。

 安定した面白さを維持していたのは、ジョージ秋山・柳沢きみお・ケニー鍋島+前川つかさ・やまさき拓味・山之内幸夫+高橋はるまさ・塚本知子の長篇ストーリー漫画陣と、競馬予想記事だけであった。(漫画は日刊アスカ社が解散する前に単行本化され売れ行きも悪くなかった)

 2月を過ぎると、社長が資金の大半を使ってしまったと、スタッフ全員を前にして<告白>。どうした訳か、編集主幹の関根進の姿が見えない日が多くなり、しまいに社長自らデスクを集め編集会議を開く姿が見られた。上層部でいろいろ意見の対立が有ったようである。編集内容の変更が始まった。

 「ニュース・コミック」は経費と時間がかかるから廃止し、スペースを小さくした「ミニ事件劇画」風に変えられ、さらに「この会社の表と裏」という解説漫画になってしまった。そして4コマ物も本数を減らすという。短篇も…。いつの間にか<コミックペーパー>のサブタイトルが無くなっている!

 毎日200万円の赤字が出ていると再び社長が全員に<告白>。3月頃、5万部ぐらい刷れていたのだろうか?確かめる気にもなれない。あちらこちら新聞を探しても発見出来ないので「ツチノコ新聞だ」と某外人タレントに発言される程になってしまった。

 記事が取材出来ないので、競馬データを会社から買って予想記事ページを増やし、パチンコの出玉予想も載せる。ギャンブルペーパーにしてその場を遣り繰りしようというのだろうか。いよいよぼくがここに居る理由が無くなってきた。小社の悲しさである。繋ぎの投資が無い限り、漫画面のテコ入れは不可能である。新聞という組織を維持するためには、初期の資金が10億円ではあまりにも少額ということは、編集員だれしもが理解していても、手の打ちようはもう無いのである。

 新聞漫画で何か新しいジャンルを創り出せるかも知れないという、その可能性にひかれて、編集部にやってきたのだがスタートラインでもう躓いてしまった。もう辞めようと、5月の連休前に山川デスクと話し合った。しかしなにがしかの仕事が継続中なので、すぐサヨナラは出来ぬ。でも、机上に積みあがった漫画本を少しずつバッグに入れて家に持ち帰った。経理上きりのいい、20日頃がけじめをつけるのには都合が良いだろう。

 当日、仕事道具もバッグに仕舞い込んでいると、デスクがやって来て「ベランダへ出ませんか」と言う。「まだ、スタッフには言ってないんですが、19日深夜に今日をもって休刊を決定しました」ついに来たか。かくして小さな夢は砕け散ったのである。

「10億円…。これで漫画月刊誌作らせてくれればねえ」山川デスクはぼやいた。ぼくにとっては2度目の編集企画経験である。きっと失敗するぞという予感がしても、そこで新しい経験が出来るとなれば、喜んで飛び込んでしまう。その気持ちは今もって変わらない。失敗の経験を積み重ねない限り成功は見えない。    漫画市場は倍々ゲームのように発展してきたが、雑誌の廃刊数は出版分野で一番多い筈だ。死屍累々である。その過程でノウハウが磨かれたのだ。

 新聞社が、無傷のままで優れた新しい新聞漫画を読者に提供しようなどと考えている間は、その夢は絶対に実現しないであろう。



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