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【長井氏の発言に整合性を感じる根拠と「公正」のパラドクス】NHK問題に関する様々な意見2【数学屋のメガネ】
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/903.html
投稿者 一市民 日時 2005 年 1 月 24 日 17:56:05:ya1mGpcrMdyAE
 

(回答先: 朝日新聞とNHKの大喧嘩は「中核派」vs「革マル派」の内ゲバに似ている(宮崎正弘の国際ニュース) 投稿者 TORA 日時 2005 年 1 月 24 日 16:30:16)

http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/12858389.html
数学屋のメガネ

数理論理学を勉強してきました。そのメガネで世界を眺めてみたいと思います。
2005年01月23日

NHK問題に関する様々な意見 2

NHKの問題を、未だに末梢的な事実の問題だととらえている人間は、木を見て森を見ることが出来ない人間だ。こういう人間は、例えば戦時中のように、大本営放送しか得られない時代には、民衆は正しい判断をすることが出来ず、ただ操られるだけだと考えるかも知れない。しかし、大局的な観点から事実を見直すことで、ハッキリと得られなかった情報を見えない糸でつなぐことが出来るのだ。

冷静な目を持っている人なら、聖戦で勝利の連続だと言われていた先の戦争が、周りの事実と合致しないことに気づいただろう。勝利の連続であるのに、なぜ生活がますます苦しくなるのか。勝利の連続であるのに、なぜ若い男が全て兵隊にとられるようなことになるのか。しかも戦死者がなぜそんなにも多くなるのか。周りに、朝鮮からつれてこられた人を知る立場にいる人は、その実態を見れば、これが「聖戦」と呼べるものであるだろうかと疑問を持っただろう。

それを確かめる情報は、戦後にならなければ得られなかっただろうが、その情報がなくても疑問を持ち続けることは出来る。軍国主義下では、そのような冷静な目を養う教育はなかっただろうから、このような見方ができる人は少なかっただろう。しかし、それを歴史として学び、民主主義の中で育った我々は、たとえ事実が知られなくても、知られた事実の中に整合性を見て、何が正しいかを判断することが出来るし、少なくともおかしなものに疑問を持つことが出来る

僕が長井さんの言葉に整合性を感じるのは、次のような事実をつなぎ合わせられるからである。

・番組は、放送日前日にほとんど完成していた。
・放送日前日に、番組の変更のための試写をすることはほとんどあり得ないのに、その異例のことが行われた。
・制作者の側に、納得のいく説明のないまま番組の変更がなされた。内容に関する議論を経た上での変更ではなく、ほとんど業務命令の形でなされた。
・放送当日も、異例の変更がなされた。これは、制作者の全てが反対したにもかかわらず変更が行われた。

これは、長井さんが直接関わった事実であり、他にも多くの人が関わった事柄であるので、NHK上層部も否定していない。つまり、事実として確定していると考えられる。この事実に加えて、

・NHKの幹部職員が、放送前日に安倍氏を訪ねて、番組のことについての話をした。(内容については問わない。話をしたということが肝心なことだ。)

ということは、NHKも安倍氏も否定していないので事実である。この事実と、長井氏が語る事実をつなげて考えれば、「政治の介入」が行われたと考える整合性が出てくる。それは、番組の変更という事実が、なぜ行われたかということについて、NHKの側が説得性のある説明をしていないからだ

もし、長井さんの語ることが事実でないと主張するのなら、その証明には二つの方法がある。一つは事実でないことを直接証明することだ。つまり、ウソだという証拠を提出せよ、ということだ。たぶんこれは出来ないだろう。そうすると、もう一つの方法である、論理的な整合性という面の証明をするしかないだろう。長井さんが語ることに整合性がないと論証するか、NHKと安倍氏の側に整合性があると論証するかのどちらかだ。

僕も、安倍氏がウソを言っていると直接証明することは出来ないし、長井氏が本当を語っていると直接証明することも出来ない。だからこそ、論理的整合性で証明をしようとしている。僕と反対の意見を持っている人間は、そのどちらをしてくれるのだろうか。直接の事実の提示か、それとも論理的な論証か。そのいずれも出来ないで、単に長井さんが語ることが事実であることを示せと、それしか言えないようなら、論理に対する無知を自分で告白しているようなものだ。そういう人間には、このことに関して何も語る資格はない。

なお蛇足ながら、朝日が法的な対抗手段を執ったと言うことの意味を解釈しておきたい。法律というのは、たとえ真実であっても証拠がなければ裁判には負けると言うことがある。ひどい時には、権力の側の捏造した証拠に負けることもある。民主主義の手本の国アメリカでさえも、<サッコ・バンゼッティ事件>や<ローゼンバーグ夫妻裁判>のような例がある。そういうことを考えあわすと、法的対抗手段を執ったというのは、朝日の側が動かぬ証拠を握っているのではないかという推測もある。今後に注目していきたいものだ。


神保哲生氏の、ビデオニュース・ドットコムのページの「「ジャーナリストやメディア関係者によるNHK問題に関する記者会見とアピール (2005年1月18日)」 」からまた、発言を拾ってみよう。


高橋哲哉(東京大学教授)
・長井さんの語ることには非常に説得力があると感じた。当時から、噂は局内にあった。それまでに知られていた、このような事柄が、長井さんの発言でつながった、ブラックボックスだったものの中身が分かったというような感じ。


この感覚は僕とほぼ同じだ。僕が上で語ったような内容を、高橋さんも感じているとしたら、嬉しいと思う。論理というのは、ブラックボックスを解明するための方法のようなものだ。これが解明出来れば、その出力としての、結果という事実は得られているのだから、入力としての未知の事実は、方程式を解くように解明されていると考えられるだろう。歴史的事実の解明などは全てそうされていると思う。この問題も、いずれはそういう形で解明されるだろう。

服部孝章(立教大学教授)
・朝日新聞の報道を受けて、NHKの側が調べれば、どこへ行ったかはすぐに記録としては分かるだろう。公用車だったのだから。それが発表が遅れたというのは、NHKの側も問題を軽く見ていたのではないだろうか。だから、今「言った」とか「言わない」とかでもめているような内容も、当初軽く見ていたために、軽く言ってしまったのではないか。安倍・中川両氏についても同じ。
・安倍さんがソフトでリベラルという印象を持っている人々が多いことを再認識しなければならない。これはテレビのイメージの問題でもある。


これは、「語るに落ちる」という現象を論理的に理解すると、こう判断できるという見方だ。NHKは統治権力への従属が日常的だったから、普通の感覚を失っていたのだろう。こういうのも「構造的無知」と呼ぶような現象ではないかと思う。他の所では、かなり悪知恵もきく、頭のいい人たちでも、このようなところでは全くの愚かさを見せるというのが「構造的無知」なんだろうなと思う。

安倍さんのイメージについては、ヒトラーの宣伝を例にとるまでもなく、情緒に訴えるということの危険性を感じる。僕はほとんど情緒に動かされない人間だが、そういう免疫性のついた人間に増えてもらいたいものだと思う。

森達也(映画監督)
・制作者の意見として、番組が放送当日3分削られると言うことは、普通は絶対にあり得ない。NHKは、当時の裁判で、「よくあること」と言ったが、よくも言えたものだと思う。
・その裁判では「期待権」を裏切ったという判決だったが、これはとんでもない判決だ。これを認めたら、取材された方の期待通りの番組しかできない。政治家の汚職をつかんで放送しようとしても、それは期待に反することだから、放送できなくなる。
・もう一度、「公正」「中立」「客観」「不偏不党」というものを考え直そうと思う。取材を始めた時点で、それは主観からスタートしている。幻想としての「公正」「中立」を求められたら報道は出来ない。「公正」「中立」が既定の事実であるかのように政治家にいわせてはならない。
・「自主規制」というのはない。規制は全て「他律規制」だ。しかし、その「他」の主体がない。具体的な相手が規制しているのではなく、何となくみんなの顔色を見て規制している。
・年配の人の言葉だけれど、軍国主義の時代の方が、今よりもいいたいことが言えたという感想があった。


森さんの指摘は実に鋭い。言葉の問題で、「公正」とか「中立」とかいう言葉を、表面的にとらえるのではなく、その中にある矛盾(パラドックス)の構造を含んで理解しなければならないということだと僕は受け取った。

かつて本多勝一さんも、白紙の「客観的」報道はあり得ないという主張をしていた。それは、何を書くかという選択において、すでに記者の主観が入っているのだから、主観を全く排除した客観はあり得ないという主張だった。「全て」というキーワードが矛盾をもたらすということから考えると、このように「全て」を含んだ「客観」などという言葉を基に考えた「公正」「中立」は、パラドックスからは逃れられないということになるだろう。

つまり、政治家が語る「公正」は、政治家の主観から得られる「公正」であり、それが全ての人に承認される「公正」ではないということだ。「公正」であるかないかという判断は、「公正」には出来ないということだ。「公正」に出来ないのであるから、後は民主主義という制度のもとで、民主主義的に判断するしかない。「公正」という判断が正しいかどうかは分からないが、多くの人に問いかけて、民意を問うことで判断するしかないだろう。それが「言論の自由」というものだ。

「自主規制」という言葉の解釈も秀逸だ。「他律規制」という言葉と共に考えるというのは、きわめて弁証法的な扱い方のように感じる。複雑なウラを隠し持った存在に関しては、表面的な理解ではなく、ウラのウラを読むような弁証法的な理解が必要だ。すぐれた人の語ることには、具体的な弁証法がたくさん含まれているとは、かつて三浦つとむさんが語っていたことだが、森さんの言葉にそれを感じる。

「自主規制」は、自分の判断によってある種の規制をすることだ。しかし、その判断にはいつも「他人がどう受け取るか」ということが入り込んで規制を考える。そこのところをとらえて「他律規制」だと森さんは見抜いている。形としては、確かにNHKが勝手に番組を変えたのだろう。しかし、上層部の判断は、明らかに政治家の方を向いていて、その意志を忖度して判断しているのだ。まさに「他律規制」に違いない。

最後の年配の方の言葉は、今の時代が、すでにファシズムの時代になっているということの感覚を語ったものだろう。この判断は、ジャーナリストの斎藤貴男さんと同じ感覚だ。今は、何を語っても命を奪われるというところまでは行かない。それでも我々は、ものをいうのに「自主規制」ならぬ「他律規制」をしてしまうのだろうか。完成されたファシズムは、力によって支配し、思い通りに動かすのではない。国民自らがそれに従うような行動をとるようにする。

日本は、奴隷の主体性を作ることに成功し、ファシズム体制を確立したのだろうか。しかし、権力の側も、成功のウラに失敗があることを思い知るだろう。奴隷の主体性の持ち主では、権力を支える能力が育たないからだ。奴隷が増えた日本は、やがて衰退し、アジアのリーダーとしての地位は、やがて中国や韓国に取って代わられるだろう。その日は近いかも知れない。

Posted by khideaki at 11:28

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