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満鉄調査部と企画院--戦時下の左翼知識人をめぐって (寺尾紗穂)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 25 日 03:20:56:ogcGl0q1DMbpk
 

満鉄調査部と企画院
戦時下の左翼知識人をめぐって

人文学部中国文学科2年 寺尾紗穂

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/9525/ronbun/terao22.html


はじめに

 1941年、内閣総理大臣直属の政府機関であった企画院の関係者17名が検挙された。翌42年から43年10月までには、南満州鉄道株式会社調査部関係者38名が「左翼分子」として検挙されていった。戦時経済システムの下、総力戦体制を支えた企画院に何故弾圧の手がのびたのか。日本の対中国侵略の拠点となり大陸に於いて絶大な影響力を誇った満鉄、その調査部の「左翼分子」達は何を考え、何を望んでいたのか。本稿では戦争と弾圧の時代にあった企画院と満鉄調査部、2つの機関のつながりさらに2つの事件の意味する所に光を当てられたら、と思う。

●企画院

1企画院事件

 1941年1月16日から18日にかけて企画院現役調査官三名が検挙された。その他企画院関係者14名も同年4月までに治安維持法容疑で検挙され、企画院事件として世に知られることになった。内閣総理大臣直属の機関であった企画院で何故このような事態が生まれたのだろうか。企画院の前身、内閣調査局は1935年5月、岡田内閣の下でやはり首相直属の機関として誕生している。総力戦体制に備えての統制経済主義の下、調査・率案を行った。37年5月には企画庁に改組、課・部・局長制度が導入され、10月には近衛内閣の下、資源局と合併、企画院となった。37年7月には日中戦争が始まっているので、この時期慌ただしく改組、合併が行われたのも頷ける。

 さて企画院事件の際、警察側は何を以て、どのような理由で17名もの関係者を検挙したのであろうか。『在満日系共産主義運動』(関東軍憲兵隊指令部編)には「企画院内における左翼運動」の一項が設けられている。この中では「左翼運動」は35年5月の内閣調査局時代に端を発し、和田博雄、正木千冬、勝間田清一等「左翼分子」調査官が37年5月の企画庁への改組の際、さらに「多数の左翼分子を流入」させた、とし彼等に付いて次のように述べる。

  「資本主義を否定し、国体を変革、社会主義社会を実現せんとする」究極目標と、
  当面の客観情勢と其の必然的なる社会発展の見通しの下に同企画庁が総合調査
  立案を成す官庁なるに便乗、職務を利用し、マルクス主義観点より日本の農業、
  工業、金融の他諸政策、経済体制の調査、立案を通じて資本主義の本質的矛盾を
  深刻化せしめると共に、一般大衆の啓蒙を図り、以て社会主義社会への主体的
  客観的諸条件を促進せんことを企図し(中略)活動を継承して来たものである。

 要するに戦時体制の強化に便乗して共産主義の目的達成を図った、という訳だ。では実際の企画院ではどのようなヴィジョンの下調査・研究が行われていたのか。

2企画院のヴィジョン

 昭和15年3月の企画院報告書の中では、目下の戦争遂行に際し「個人主義的経済体制」では立ち行かぬ、とした上で次のように述べている1。

  戦時統制経済の組織原理は、自由経済の思想を基調とせる現存経済機構を計画経
  済の運営に適応せしむる為、営利第一主義の思潮を去り公益優先主義に基き国民
  の創意の高揚を図るために経済に於ける国家意志の浸透と、能率の維持向上との
  二つの要求を充すものでなければならぬ

 正にこうした観点から物資動員計画のような立案がなされ、近衛内閣の国家総動員体制は固められていったと言えよう。ではもう少し具体的に企画院に於いてはどのような調査活動が行われていたのだろうか。企画院事件で検挙された前述の勝間田の場合を見ていきたい。勝間田は企画院農業班での調査に関わり、1931年頃からの農村不況への対応として

    ア 国民経済における日本農業の地位の再認識
  イ 土地所有関係実態調査

を取り上げた2。アについては、当時一般的であった小農理論、農本主義では農村の不況に太刀打ちできない、という見地から、イについては増加する小作争議に対して小作制度改革の必要性から行ったという。勝間田の思考方法がマルクス経済学の影響を受けていないとは言えないであろうが、それは勝間田に限ったことではなく、当時の多くの知識人に言えることである。笠信太郎の「日本経済の再編成」3が戦時経済下での生産力増進を説いて大ベストセラーになったと同時に共産主義理論の宣伝、と右翼の攻撃を受けた本であることを考えれば、当時の知識人像も少しは見えてこよう。では何故殊更政府機関である企画院の関係者が「左翼分子」として弾圧の対象になったのだろうか。

3事件の背景

 既述した笠の「日本経済の再編成」の理論は首相近衛直属の企画院の調査・立案にも大きな意味を持った。即ち笠の言う資本と経営の分離、利潤追求の抑制、配当制限等の概念は「経済新体制」として、近衛の推進した新体制運動につながる概念であリ、企画院においても大きく取り上げられたのである。その結果生まれたのが企画院の「経済新体制確立要綱」であった。こうした動きに焦った財界は企画院「赤化」非難を開始、近衛新体制打倒を目論み共産嫌いの観念右翼と手を結んだ。これには実際池田成彬と平沼騏一郎が関わったと言われている。1940年に成立した第二次近衛内閣はその平沼派が警察権、司法権を掌握した内閣であった4。近衛周辺が「アカ」いことを暴くことによって近衛体制を崩そうとしたこの財界の動きによって、企画院事件をはじめとして、調査部事件、横浜事件等、次々と左翼知識人のみならず自由主義的知識人まで検挙されていった。こうした一連の弾圧は新体制と旧体制の狭間、イデオロギーの狭間で生み出されたものであったと言えるだろう。

●調査部

1「今度は満鉄に手を入れますよ」

 1942年5月東条英機は大村満鉄総裁を前にこう語ったという。上で述べたような「アカ」狩りの流れに加えて、満鉄調査部は次第に関東軍にとって鼻持ちならない存在になっていた。もともと調査部と関東軍の関係は深い。調査機能を内部に持たない関東軍はその重要性を認識し、調査部と密接な関係を築いてきた。1923年に創設されたハルピン事務所調査課では宮崎正義らが関東軍参謀に協力、「石原莞爾=宮崎正義いらい実質的には関東軍の直属部隊」(石堂清倫)とも言えるような関係であったし、1932年には軍直属の調査機関「経済調査会」の設立に協力、移民政策、経済開発等植民地政策の立案・調査を行い、伊藤武雄、大上末広ら主要部員が幹部におさまった。彼等は後に「経調派」と呼ばれるグループを形成する。ちなみにこの調査会の34年からの委員長は張作霖爆破を計画したあの河本大作であった。
 こうした軍との蜜月も1939年以降急速に変わっていく。

2大調査部時代の3大調査

 1939年4月松岡洋右満鉄総裁の決定による「大調査部」が設置された。この経緯については軍部の意向を飲まざるを得なかった松岡を意識した「生ぐさい政治の妥協の産物」(山田豪一)といった見方や「既に満鉄調査部員の眼は北支、ついでに中支に向いていた」(野々村一雄)と、調査部内部からの大規模調査の必要性に注目する見方があるが、ここでは深く立ち入らない。ともかく「大調査部」発足に際し、多量の人員それも調査・研究の経験者を補給する必要がでてきた。ここで多量に中途採用されたのが「日本からの脱出者、マルクス主義、革新的運動の挫折者」(野々村)であり「当時内地において遊休状態にあった自由主義ないし左翼知識人」(伊藤武雄)であった。彼等の多くは調査部の中でも資料課に配属され、帝大出の多くが集まる綜合課(先に述べた経調派の人間が多い)にいく者は殆どいなかった。

 さてこの時期の調査には次に挙げる3つがある。

  ア支那抗戦力調査
  イ日満支ブロックインフレーション調査
  ウ戦時経済調査

 アには尾崎秀実、中西功、具島兼三郎らが関わり、尾崎の日本の高度な政治情報、中西の支那派遣軍総指令部や中共とのつながりや東亜同文書院生とのつながりによる広い情報網の成果で、極めて高水準の調査と評される。当時中西は中共の李徳生や王学文の指導下にあったとされるが彼の報告は延安の毛沢東まで届いており、毛もしばしばその報告を褒めたという5。イ、ウについては共に戦時経済体制の行き詰まりを明らかにし軍の生産規模縮小を暗に求める報告となっており軍の反感を買った事は想像に難くない。1941年関東軍は調査部に以下の申し入れを通達する。

  A調査範囲は満州国内に限る
  B本部は新京
  C組織運営全般を軍の独占指揮、監督下に置く

 この申し出を調査部は拒否。調査部事件が起きるのはこの翌年の9月の事である。

3経調派と資料課

 忘れてならないのは、満鉄内、調査部内でも絶えず意見の割れていたということである。調査部の軍部との蜜月の時期も、社員会や満鉄本社首脳部からは反発があったし、調査部後期の調査、日満支ブロックインフレーション調査や戦時経済調査の実施には資料課の反発があった。些か意外な結果であるが、反軍部的になろうとも最後まで調査結果を主張し続ける姿勢を崩さなかったのは中途採用組の資料課ではなく、経調派=綜合課であった。資料課の人間が調査結果を「国策決定の参考資料」と捉えていたのに対し、経調派の人間は飽く迄「政策への反映」「国策決定への参加」を求めており「国家意志の正しき方向への統一」を願っていた。石堂清倫は前者を「まずマルクスを勉強して、その延長線上で講座派と交わったもの」とし、後者を「講座派に心酔してそれからマルクスに入ったもの」と区別しているがなかなか興味深い。安直な見方としては「内地」で「ムショ」暮らしを経験した中途採用組は最早経調派と一緒になって「夢」を見る気にはなれなかった、といったところだろうか。

●一調査部員の検挙が意味するもの

1調査部と企画院

 さて、ここで企画院事件の際検挙された満鉄調査部員、川崎已三郎の存在に付いて考えてみたい。彼は企画院といかなる関係があったのだろうか。川崎が満鉄調査部第一調査室に着任したのは1939年6月以降のことである。先日亡くなったが当時同じく調査部員だった石堂清倫に「大変えらい人」と言わしめ、回想録を残す野々村一雄も「理論的指導者」と仰ぎ、中西功もしばしば指導を仰ぎに行ったという川崎に付いての詳しい資料は残念ながら手許にない。分かっているのは満鉄調査部時代、1940年にインフレーション理論研究会を立ち上げ、精力的に活動したということだ。川崎は次のように説いて、この研究会の設立を促したという。

    1日満支のインフレは単なる通貨膨張ではない
    2日本の戦時経済の戦時再生産構造による諸矛盾の結果
    3戦時再生産論とインフレの関係の明確化
    4それによる総合調査の方法論の確立と統一の必要性

 さて、企画院事件についてまとまった記述を割く『在満日系共産主義運動』には川崎が調査部に来る前、企画院で判任官を勤めていたことが明らかにされている。これで、川崎検挙の理由は一応付く。

 同著ではさらに企画院での川崎に付いて次の2点の「問題行動」を挙げている。一つは1938年の5月企画院内で支那問題研究会が開催された時、参加し発表したこと。もう一つは同年初頭、担当の上官に工・鉱場に付いての原案作成を求められ、「二百人以上工・鉱場に熟練工の養成を義務として課すること。目標を万能工の養成に置くこと。」としたことである。後者については勉強不足で何が警察側の気に入らないのか、どこが左翼的なのかはっきりとは分かりかねる。但し、企画院の目指す所の「戦時経済下での生産力拡充」に熟練工が多数必要であること6に加え川崎の応答内容が時代の要請に応えるものであることは確かだろう7。

 企画院時代にあまり取り立てて警察側の文書に書かれることがなかったにも拘らず、既に企画院判任官を退いた川崎にまで検挙の手が及んだ原因を私は、川崎の調査部での精力的な活躍にあったのではないかと思う。企画院に警察の目が移った時当然過去の関係者についても、調査はなされたことだろう。川崎は調査部に移って早々「インフレーション研究会」を立ち上げ、戦時経済の矛盾を浮き彫りにするような調査結果を出している。過去の関係者の中でも一際目立ったに違いない。企画院事件の翌年、満鉄調査部第一次検挙によって28名が検挙されていることを見ても、当時の状況下では川崎の検挙は遅かれ早かれ免れ得ないものだったと言えよう。

2調査部との接点

 企画院事件に関係した満鉄調査部員は川崎だけではなかった。警察側が「主なる関係者」として挙げたリストの中に満鉄調査部員はさらに3人いた8。どうやら依託調査、嘱託派遣、職員転出等を通じ満鉄調査部と「満・支総軍指令部を始め北支方面軍、企画院、東亜研究所、満州国調査機関、共和会、興農合作社等は夫々密接なる関係にあった」らしい。すべての機関が「密接な」関係にあったかどうかは分からないが、それぞれの機関にまたがって所属、時期をずらして所属した調査部員や、北支方面軍に強力なパイプを持つ部員はおり、軍からもらった数字で調査を進めることもあった。実際、前述した「戦時経済調査」は企画院の委託と言われ、調査部の「戦経幹事会」が作った「戦経調査企画院報告要旨」なる文書が残っている。重工業改善とその為の労働力保護が調査の主な結論と言えそうだが、こうした形で調査部から企画院へ、人材のみならず調査情報が渡されていたのである。いつ頃からこの両者の交流が開始されたか定かではないが、「企画庁」時代、即ち日中戦争の始まる段階から、中国・満州の事情に詳しい満鉄に人員派遣の要請があったというから事件発生まで4、5年は関係があったのだろう。その当初、広田弘毅総裁下の企画庁に赴任した調査部員は押川一郎と和田耕作で、当時30歳だった和田は着任に際し広田に丁寧に頭を下げられたという逸話がある。

 当時調査部員の多くは「合理的社会民主主義的政策の提言」が社会改良につながる、と信じていた。さればこそ弾圧の危険性を犯してまで戦時経済の矛盾、軍縮の必要性を示すデータを提示し続けたのだろう。こうした部員達の「危険な」調査の継続行為を野々村は厳しい弾圧下では非現実的な「幻想」とし、「幻想」の背景の一として過酷な弾圧による知識人の「思考停止」を挙げた。思考停止まで行かずとも内部矛盾を抱えたまま調査・立案に取り組まねばならない、こうした側面は結局「事務的官庁に矮小化した」企画院関係者にも大いにあてはまる部分があるだろう。そして、この二つの機関を繋ぐ「意味」もこの部分にあるように思う。

考察

 企画院事件は企画院の性質上、近衛新体制運動と密接なかかわりを持ち、それ故新体制運動によって進められる社会主義的戦時経済体制に危惧を抱く財界と、そうした体制下で左翼的知識人が増大することを恐れた観念右翼との結びつきによって引き起こされた事件である。政治とイデオロギーの間で生み出されたこの弾圧を前に自由主義的研究現場を守る術のなかった企画院はそうした意味で悲劇的である。しかし、本来の意味での総合的国策研究の機関としての役割を置き去りにしたまま、結局戦争遂行の「物資動員計画本部」になり変わったというその意味において、企画院及び企画院関係者はその目的と現実との間に大きな矛盾を抱え込んだまま存在したことになる。

 企画院同様警察側から「アカ」の巣窟として認識されていた満鉄調査部においては「インフレ原因と戦時経済体制の矛盾の明確化」を目的とした調査を実施し、「社会改良」を目標としていたが、当時の状況を冷静に判断すればそうした調査が受け入れられる可能性が低く、弾圧の可能性が高いことは容易に想像できるだろう。このことを以て「最後まで敢然と危険な調査を実行した」と受け止めるか「現状認識に欠けた夢想主義、思考停止だ」と取るかは人により様々だろう。ここで私が調査部の評価を下すつもりもない。ただ事実として、調査部の目的と現実の間には大きなギャップがあり、そこに矛盾的存在としての満鉄調査部を認めることができるだけだ。
 言うなれば企画院は消極的にその自己矛盾を抱え、結果として時流に流されていき、満鉄調査部は積極的に自己矛盾を抱え、結果として時流に逆らった、ということになろうか。その双方に前後して弾圧の手が加えられたことを思う時、どのような形であれ公の場に存在を認められなかった左翼知識人・自由主義知識人と、昭和10年代の弾圧の狂気に思いを致すのは言うまでもない。


参考文献

勝間田清一「企画院事件をめぐって」『語りつぐ昭和史 激動の半世紀3』朝日新聞社
室賀定信『昭和塾』日本経済新聞社
関東軍憲兵隊指令部編『在満日系共産主義運動』
蘇崇民『満鉄史』葦書房
野々村一雄『回想 満鉄調査部』勁草書房
野間清・三輪武・下條秀男・宮西義雄『満鉄調査部・綜合調査報告集』亜紀書房
草柳大蔵『実録満鉄調査部・下』朝日新聞社
石堂清倫『我が異端の昭和史・上』平凡社
原田勝正『満鉄』岩波書店
中西功『中国革命の嵐の中で』青木書店
中西功『死の壁の中から 妻への手紙』岩波書店
『現代史資料43 国家総動員1』みすず書房
小林英夫『満鉄 「知の集団」の誕生と死』吉川弘文館


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