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ここまでの俺の理解を、ちょっとまとめてみました。>風のようにさん、膝枕さん
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投稿者 都会暮らし 日時 2005 年 6 月 03 日 10:59:11: qpL7B6r4wrfEE

ちょっとZPFについてはおいといて、我々自身のことと、我々が暮らす社会について、自分なりの理解をまとめてみました。
聡明なお二人にとっては先刻承知なことかもしれませんが、俺の場合はどうしても自分の思考パターンに当てはめてみないと理解できない。
装飾を施さず、ナマのままで書き進んでいこうと思います。


                  ▼ ▼ ▼ ▼ ▼


もともと我々は、世界を「ありのまま」に認知できるように生まれてきたのに、他者とコミュニケーションする必要から作り出された「言語」を習得してゆく過程において、世界を「概念」で見るようになった。
逆に言えば人類が、文明創生の最初の段階で、現在のところは我々にとって未知なる「非言語コミュニケーション」を選択していたとしたら、世界の有様は過去も含め、全く別なものになっていた可能性がある。
 
概念で世界を認識するとは、どういうことか?
例えばここに、Aという人とBという人がいて、目の前にあるひとつのリンゴを見ていたとする。
AとBの外部に存在するリンゴを、AとBは同時に見ているのだけれど、そのリンゴはAとBがそれぞれに持つ「概念」というスクリーンに投影され認知されてしまうので、Aの認知するリンゴと、Bの認知するリンゴは、この段階において「ありのまま」から全くかけ離れたものとなってしまう。

Aが自らの内にとりこんだ「概念」としてのリンゴを、Aがどう料理しようと勝手である。
様々にデフォルメするかもしれないし、また様々な意味づけをするかもしれない。
Bにおいてもしかりだが、AもBも自分の概念に投影されたリンゴこそ正しいリンゴであると信じて疑わないので、ここにおいて人々は混乱をきたす。
「それは誤解である」という言い方があり、これは一方がもう一方の認識を「ねじまげて」認識しているという意味だが、何のことはない、最初から双方ともモノゴトを「ねじまげて」認識しているのだ。
「どうも誤解があるようだ」と気づく人はまだいいほうで、概ね我々の日常という現場においては、「わかってもらったようだ」とか「よくわかった」とか勝手に思い込んでしまい、摩擦が起こることは稀である。
「概念でもって認識する」とは即ち、「あるがまま」のものを「ねじまげて」認識することであると換言してもいい。

ここまでは前提である。
次にこれを前提として、我々が暮らす「社会」とは何であるかを考えてみる。
社会とは、【 概念でしか世界を認識できない人々が、共同概念として作り出したもの 】と仮定しておく。
即ち社会とは、複数の人間が存在することを絶対条件とするとし、家庭しかり、趣味のサークルしかり、国家しかりである。
もっと大きく「共同体=社会」と考えられなくもないが、とりあえずはそう規定しないほうがいい。
社会をどう規定するかということは大変重要なことなのだが、これについては後述する。
とりあえずは上記仮定をもって社会とする。

さて、【 概念でしか世界を認識できない人間が、その共同概念でもって作り上げた社会 】内部においては、やはり様々な共同概念を“再生産”していく以外に術はない。
その第一(別に第一でなくても、第二第三だって構わないのだが)として挙げなくてはならない概念は、「人々は理解し合える」という共同概念だろう。
この共同概念は非常に大切なもので、これなくしては人間同士、社会内部において共存していくことができない。
(つまり人間は相互を理解しているから一緒に暮らせるのではなく、「相互に理解できる」という誤解、即ち共同幻想を抱いているから一緒に暮らせるのだ。)

こういった、本来あるべき共同体の姿からかけ離れた社会においては、その脆弱性を補う自己保存本能に基づいて必然的に「価値意識」という共同概念が生まれる。
(この「価値意識」について論説していくと膨大なものとなってしまう為、ここでは「自分にとって一番大切なものはこれ、次に大切なものはこれ・・」程度に理解してもらえればよい。)

この価値意識は、(共同概念たる)社会内部において、どのように機能するのだろうか?
“社会の自己保存本能に基づいて生み出された共同概念”であることを念頭に、考察してみる。

冒頭において、人間は概念でしかモノを認識できないと書いた。
つまりは複数の人間間、また多くの人間が共同で暮す社会においては、もともとどう足掻いても相互理解には至らないという致命的な欠陥を抱えつつも、どこかで「折り合いをつける」必要が生じてくる。
自然の摂理として、整合性が求められる訳だ。
ここにおいて「価値意識」という、相互理解にとってかわる便利な概念が発動されることになる。
ものすごく簡単に言ってしまえば、「いいわけ」である。

「価値意識」というのは非常に便利な概念である。
何が便利なのかというと、この概念は社会と個人、個人と個人、また社会と社会といった関係性において、横断的に適用できる概念だからだ。

例えば個人と個人の関係性において見てみよう。
A夫とB子間で相互理解を試み、そこに「価値意識」が介在したとする。

A夫 「僕は君が、好きだ。」
B子 「ほんと? じゃあ、どのくらい好きか言って!」
A夫 「君がいちばん好きなものは、何?」
B子 「それはあなたよ、A夫さん。」
A夫 「僕も君が僕を好きなくらい、君のことが好きだよ。」
B子 「ほんと? 嬉しいっ! わたしたち、愛しあってるのねっ!」

かくてこの二人の、悲劇への序章が切って落とされた。(爆)

価値意識という概念を、こうやって具体的な例を引き合いに出して論ずるのは難しい。
上の例がトリックであることは火を見るよりも明らかだが、A夫とB子2人だけの関係性においては、これで両者納得できる。
基本的には個人と社会、社会と社会の間でも同じ理屈(?)が適用できるので、読者諸兄においてもご自分で考えられてみられたらよろしい。
また僭越ながら、この「価値意識」についてもっと調べたいと仰る向きには、養老孟司の「バカの壁」をお読みになるとよろしかろう。
もちろん筆者と論旨が違うし、「価値意識」という言葉も出てこないが、この「価値意識」という概念を介在させることによって、人間同士が容易に「相互理解できた」と錯誤するメカニズムを理解できることであろう。

                  ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

と、いうことで、とりあえずはここで切っておきます。
ほんとはもっと書き進んではいるのですが、内容がどんどん観念的になってきてしまい、自分でも何を書いているのかわからなくなってしまったので、少し頭を休めてから、また再開しようと思います。

くり返しますが、上記は俺の主張ではありません。
あくまで「自分が理解しているところのもの」に整理をつける意味で、書き留めておいたものです。
一部において、講釈じみた記述が散見できますが、それにしたって俺が「俺自身」に対して言っていることであり、これを読んでいる「読者」を意識しているような表現があったにしても、基本的に俺は誰かの目を意識して書いてはおりません。

ご批判は、心してお聞きします。
忌憚のないご意見を頂戴できれば幸甚です。

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