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Re: イタリアの黒いプリンス byアレン・ダグラス (3)
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/671.html
投稿者 kamenoko 日時 2005 年 6 月 06 日 15:22:17: pabqsWuV.mDlg

(回答先: イタリアの黒いプリンス byアレン・ダグラス (1) 投稿者 kamenoko 日時 2005 年 6 月 06 日 15:16:23)

http://www.larouchepub.com/other/2005/3205_italy_black_prince.html
イタリアの黒いプリンス
対国家テロ戦争 by アレン・ダグラス
(2)からの続き

NATOのイタリア戦域

45年にボルゲーゼを救ったOSS高官ジェイムス・ジーザス・アングルトンは、
イタリア軍と秘密情報部にアングラ組織を作り、ここから伊グラディオ
セクションを発足させた。献身的な新英派でありプロ・ファシストの
アングルトンは、ナショナル・キャッシュ・レジスター社のイタリア支部
を所有していた父ジェイムス・ヒュー・アングルトンとともに、少年時代の
ほとんどをイタリアで過ごす。親ヒトラー、親ムッソリーニを公言して
いたアングルトン シニアは、イタリア米商工会議所の会長でもあり、
ムッソリーニの秘密情報部と密接な関係を持っていた。アレン・ダレスの
ビジネス相手であったとする報告も複数存在する。父と息子は共に、英国
の要請で設立された対スパイ特別ユニットOSSとX-2のために働いた。
名目上は米国の組織であったが、欧州と世界のX-2本部はロンドンにあった。
大戦期間を通じてX-2の訓練を行い事実上動かしていたのは英国で、そこ
から工作員が欧州全域に派遣された。44年の前半、ジェイムス・ヒュー・
アングルトンはピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio )陸軍大尉ほか
イタリア軍リーダーたちと軍情報部のX-2連絡員で、戦前のイタリアに優れた
情報網を築く。

アングルトン ジュニアがX-2の工作員としてイタリアに上陸したのは、44年
10月のことだった。間もなく彼の情報員/エージェントのひとりとなった
ボルゲーゼとの関係は、OSSにイタリア政府から裁判のための引渡し要求が
出るまで続く。米国はアングルトン率いるX-2に、イタリア警察、軍情報部、
秘密情報局の”工作活動リソース”を自由裁量で使える権限を与えた。
ここから以後数十年続くパターンが形成される。ダレスと英国の引き立て
で、若いアングルトンはローマのX-2部隊長からイタリア全土のOSS
カウンタースパイ・チーフに昇進。28の年で、OSSの後身でCIAの工作部門の
礎となるストラテジック・サービス・ユニット イタリア支部の秘密活動、
情報、カウンター情報を司るチーフとなる。ここでの彼は、43-45年に
イタリアOSSの工作ヘッドを勤め、のちにリンドン・ラルーシュの友となる
マックス・コルヴォ(Max Corvo)のような愛国主義者の高官たちが、FDR
の死後にダレス派にパージされるという事実に大いに助けられた。

イタリア初のステイ・ビハインド部隊の設立と、ファシストを戦後の欧州
から逃がすためのバチカン・リンク”ラット・ライン”の組織という
アングルトンの任務に不可欠だったのは、マルタ騎士団(Sovereign
Military Order of Malta SMOM)だ。ローマに本拠地を置く名目上
カトリック組織SMOMは、メンバーに欧州のオリガルキー、特にイタリアの
黒い貴族を引き込んでいる。46年アングルトンはSMOMから最高位の叙勲
を受けた。”黒いプリンス”家系のメンバー、プリンスS.ジャコモ・
ボルゲーゼは32年からSMOMのBailiff Grand Cross of Honor of Devotion
であり、P2の創設者リチオ・ジェッリほか情報局ヘッドを含むP2の高位
メンバーたちの幾人かもここに属している。

アングルトンは49年にCIA行政長官ロスコー・ヒレンケッター(Roscoe
Hillenkoetter)の特別アシスタントとなり、55年にはアレン・ダレス長官
(53-61年)からCIAのカウンター情報部門のチーフに指名され、その後
米情報局の将来に計り知れないダメージを与えて74年にCIAチーフ
ウイリアム・コルビー(William Colby )から罷免されるまで、この
ポストに留まった。(5)

アングルトンがイタリアとの緊密な関係を保ちつつ米情報部で昇進を続けて
いた頃、NATOはグラディオの基礎を固めていた。49年と50年に発令された
NSCの指示のもと、CIAはイタリア警察の対暴動スペシャリスト秘密部隊
発足に助力する。大半は旧ムッソリーニ秘密警察から引き抜かれた精鋭で
固められた。新生軍情報局SIFARは、”ゴッドファーザー”の異名をとる
隠された米情報工作部カーメル・オフィスの指示のもとで組織された。
同じ頃、ボルゲーゼはアングルトン(53年に長官になったダレスから、
公式にイタリア配属指令を受けた)の権限下でCIA工作員とともに、対PCI
準軍事的部隊を組織していた。51年12月2日、MSI名誉党首に指名された
ボルゲーゼは党大会のスピーチで、もし(彼の期待通りに)冷戦が白熱
したらMSIは’好ましい対象’とはみなされなくなるだろうと宣言。
同月MSIのメンバー2人がパリのNATO本部に赴いて、組織のNATOへの忠誠を
誓う。52年、NATO主導の”覚醒オペレーション”が開始され、SIFARは
PCIの影響力をすべての分野から駆逐するために、政治的、心理的工作の
採用を命じられるが、これには内密の武力行使も含まれていた。米国は
48-53年の”反共産主義”イタリアに、大枚4億ドルを注ぎ込んだ。

ボルゲーゼと旧XMAS幹部は、これらの計画で千両役者を演じる。実際ある
米軍情報部員は、ボルゲーゼを新生イタリアの王に推す計画を描いたほど
だが、サヴォイ家と支援者たちの騒音で水に流れた。王政主義者とMSIは
しばしば同盟関係にあり、43-45年ボルゲーゼのXMASは時折王政主義
オソッポ(Osoppo)旅団のために働いた。グリーン/マッシニャーニに
よると、「大変興味深いことに、未来のグラディオ ステイ・ビハインド
組織の核はオソッポ・パルチザンから生じた」。ボルゲーゼのXMASは
グラディオ部隊の採用基盤でもあったため、戦中からの協力関係は
明らかに継続していたのだ。

53年、ボルゲーゼは当時イタリアとユーゴスラビア双方が領有権を主張
していた北アドリア海の都市トリエステで暴動を起こすために、MSIの
ボランティア約500人を引き連れていった。「ヴァレリオ・ボルゲーゼと
共にトリエステへ」をスローガンに、ファシスト(およびマルティニスト
フリーメーソン)ガブリエル・ダヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)に
よる19年のフィウメ(Fiume)行進、22年のムッソリーニのローマ行進を
再現した。”伊トリエステ・イストリア防衛委員会”の代理として
振舞うネオ・ファシストは、イタリア秘密情報部から武器の提供を受けて
いた。翌年トリエステはイタリアに返還される。

55年、ボルゲーゼはグラディオ採用の重要地盤であった旧サロ帝国軍人会
会長に就任。その後”アルト・アディジェのイタリアらしさを守る三色旗
委員会”のリーダーのひとりとなる。アルト・アディジェ、もしくは南
チロルの地に、イタリアは極初期のステイ・ビハインド部隊を見出す。
イタリア領ながら言語はドイツ語であり、民族対立を煽るのに有益な地方
だった。

56年、NATOはグラディオを正式に発足させる。イタリアで90年に発見
された文書によると、グラディオの武力は40の主力グループに分かれて
いた。サボタージュに特化された10部隊、諜報、プロパガンダ、脱獄・
逃走戦略にそれぞれ6部隊、残りの12部隊がゲリラ工作。英米が運営する
グラディオ特別訓練キャンプは西岸サルディニア島に置かれた。

同年、マルタ騎士団貴婦人(Dame)で、タイム・アンド・ライフ誌
発行人ヘンリー・ルーチェ(ファシスト系文化の自由評議会のキー
スポンサー)の妻、クレア・ブース米大使が、SIFARの新長官にSMOMの
メンバーを”推薦”。62年、CIAはまだSIFARに影響力を持っていた
デ・ロレンツォをカラビニエーリの長官に就任させる手助けをした。
デ・ロレンツォは、彼の目にも米軍随行員ヴァーノン・ウォルターズの目
にも完全なる’反共産主義’と映らない高官たちのパージを開始した。

一方CIAのローマ支部長ウィリアム・ハーヴェイは、左翼に爆弾を投げたり
攻撃を仕掛ける”実行チーム”を集めていた。63年、チームはローマの
平和的デモ行進に攻撃を仕掛け、200名が負傷、市に多大な損害を与えた。
部隊はその後グラディオと結びついたと、ある秘密情報部員は証言する。
63年、グラディオはイタリア商業産業銀行(Banco di Credito
Commerciale e Industriale)頭取に就任。莫大な報酬が約束された
’儀礼的ポスト’は、彼の手腕発揮のために編み出されたものだ。
シチリアの融資家ミケーレ・シンドーナ(Michele Sindona)が極初期に
所有していた銀行のひとつである。第二次大戦中はファシストだった
シンドーナは、シチリアマフィアのヘロイン資金のマネーロンダリングを
行い、その後P2の権力層に連なる。ボルゲーゼの銀行が関わる保守派の
利権の分野は、ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルゥーヨ(Rafael
Trujillo)の息子、フランコのスペイン、バチカンの反動的なサークル、
キリスト教民主党など広範囲にまたがっていた。最終的にこの銀行は倒産
したが、ボルゲーゼはほとんどお咎めなしで離職した。 「特出すべきは、
ボルゲーゼが国内は言うに及ばず国外にも多くの接点を持っていた点で
あり、これらの接点は非常に高いレベルまで到達している。彼が生き残る
ために必要とした資金は、おそらく戦後これらのソースから得たのだろう」
グリーン/マッシニャーニはこう記し、彼の経歴がスペインでのオットー・
スコルツェニーのそれに似ている点に注目している。

 一連の政変

63-64年、シナルキーの国際関与がキューバのミサイル危機、ケネディ
大統領(とエンリコ・マッテイ)暗殺、ドゴール仏大統領暗殺未遂、
ベトナム戦争勃発、若者のカウンターカルチャー ロック-ドラッグ-
セックス等に向かい始めるが、イタリアが免除されたわけではなかった。

64年、初めて政権の座に就いたアルド・モーロ(Aldo Moro)首相が
閣内社会主義政党と交渉を開始すると、シナルキーは”プラン・ソロ”と
名付けた政変脅迫を解き放った。表の役者はアントニオ・セーニ大統領
(Antonio Segni)、主役はボルゲーゼだ。

グラディオ関係の政変脅迫は、モーロの’左への門戸開放’がその一貫した
根拠だった。しかしながら(イタリア政変の世界的な枝分れと)イタリア
経済成長阻止を目論むシナルジーと完全に合致する別の根拠がイタリア自身
にあったのだ。これはEIRのプランソロにも重要性を増してきた。対テロ、
イタリア専門家クラウディオ・チェラーニ(Claudio Celani)によると、
「セーニ、右派キリスト教民主党は、軍秘密情報部SIFARの財政部門チーフ
レンツォ・ロッカ(Renzo Rocca)に操られていた。(SIFARの任務終了後
トリノの車メーカーFIAT(オリガルキー アニェッリ家の)に転職した)
ロッカはセーニに、社会主義政党が閣僚入りするようなことがあれば、
金融・経済は大恐慌になるだろうと報告したのです。実際、独占企業の
オーナーたち(ムッソリーニ体制を支援したのと同族)は、新しい政府が
彼らが不動産、エネルギー、金融、経済政策にふるうパワーの崩壊を
招く再編成を行うのではないかと恐れてはいたのですが」。

ロッカのアドバイスを受けたセーニは、SIFAR長官ジョヴァンニ・デ・
ロレンツォ(Giovanni De Lorenzo)を呼び、暴動が起きた際に検挙
すべき政治リーダーたちのリスト作成を命じる。デ・ロレンツォが準備した
”プラン・ソロ”には、サルディニアのグラディオキャンプに収容すべき
731人のリストが含まれていた。グリーン/マッシニャーニはこう見る。
「カラビニエーリ(警察軍)を後方支援したのは、政治的に問題のない
民間人で、その大部分は旧デーチマ・マス、落下傘部隊、サロ帝国の
元兵士や船員だった」。ボルゲーゼの協力者で造船帝国の相続人
レモ・オルランディーニ(Remo Orlandini)によると、「デ・ロレンツォの
友人ボルゲーゼ」は、この政変計画への個人的参加を予定していた。
目論みは失敗し、”怒り心頭”のボルゲーゼが残された。

65年5月初旬、ローマのパルコ・デイ・プリンチーピホテルである会合が
もたれた。イタリア検察は69-74年の”緊張戦略(Strategy of Tension)”
計画のための会合とみている。これは”革命闘争”をテーマに、イタリア
軍スタッフが運営する研究機関が開催したもので、参加者たちはPCIの脅威
への先制攻撃としての”革命戦争”をいかに組み込むかで策略を巡らせた。
(60年代の後半を通じて、PCIの得票数は上昇し続けていた)
ファシストテログループのリーダーたち、Avanguardia Nazionale (AN)党、
Ordine Nuovo (ON)党、プロファシスト記者、軍人、そして様々な分野の
シークレットサービスらが出席した。ファシスト記者では、イタリア秘密
情報局工作員でもあり、会議の4年前に米海軍兵学校で”政変テクニック
とその展望”をテーマに講演したグイド・ジャネッティーニ(Guido
Giannettini)がいた。ボルゲーゼ自身は出席しなかったが、彼の副官で
あるAN党首ステファノ・デッレ・チアイエ(Stefano Delle Chiaie)の
顔はあった。デッレ・チアイエはおそらく、60年初頭に内務省の秘密
部隊UARに引き入れられ、70年の政変企てではボルゲーゼの右腕となった。

60年代から70年の政変企てまでの間、ボルゲーゼは少なくとも3つの
ファシストテロ組織を設立、もしくは設立に直接関わる。デッレ・チアイエ
のAN、ON、そしてSID(65年SIFARから名称変更)の資料によると”国の
制度を崩壊させて政変を起こす”目的で自ら設立したFN(Fronte Nazionale)
であり、うち2つの組織がパルコ・デイ・プリンチーピの会議に代表を送る。
NATOもしくはイタリア裏情報組織、知られているものではUARとSIFAR/SIDの
工作員が3つの組織を動かしていた。ボルゲーゼの副官デッレ・チアイエが
UARエージェントであったことはほぼ間違いなく、グリーン/マッシニャーニ
によると、”ANはUARの産物と考えられており、FN、ON、ANメンバーの多くは
サルディニアのNATO特別キャンプで、偽情報工作とゲリラ戦の訓練を受けて
いた”。しかしONの爆破犯ヴィンツェンツォ・ヴィンチグエラが告発された
のは、”AN、ONといった右翼の動きは必ずしもイタリアやNATOの秘密情報部
と連携したものではない。彼らに扇動されたものもあった”。

NATOの介入はイタリアだけに限られてはいない。67年のギリシャは、テロ
リズムの波に屈せず、ゲオルグ・パパンドレウ前首相率いるセンター
ユニオン党を再び政権の座に送り込もうとしていた。67年4月20-21日夜半、
ギリシャ軍が政変を起こす。”共産主義の反乱”対しNATOが構想を練って
いたプロメテウス(Prometheus)計画に基づき、ギリシャステイ・ビハ
インド軍LOKも参加した。ミケーレ・シンドーナのP2が資金の一部を負担し、
そのはるか前からイタリア人を準軍事的訓練のために送り込んでいた。

68年、グラディオはNATOのサルディニア基地での訓練を促進していた。
グラディオのイタリア工作活動を調査したアーサー・E・ロウズ(Arthur E.
Rowse)の報告書では、”数年内にここから4千名が戦略的ポストに就いた。
カラビニエーリの営舎も含めて、少なく見積もっても139の兵器庫が自由に
使えたようだ”。イタリアで発生したテロは68年に147件、69年に398件、
ピークの78年に2498件。ボルゲーゼは要の役割を果たす。

FN党初期のメンバーのひとりボルゲーゼの構想”中道を越えた右と左”は、
P2の頭目でありマルタ騎士リチオ・ジェッリ(Licio Gelli)のものでも
あった。ボルゲーゼのようにフランコ、ムッソリーニと共に戦った
ジェッリは50年SIFARに引き入れられ、CIAとデ・ロレンツォの連絡役を
務めた。

FN内で”コマンダー”として知られたボルゲーゼは、”工作部隊”を
全土に配置。FNは(ANのように)表の顔である”A”グループと、Aの
メンバーすら存在を知らない裏の”B”グループの2つのグループで
構成されていた。Bグループはイタリア政府転覆を目的とした”緊張
戦略”に投入され、16人が死亡58人が負傷した69年12月12日の
ピアッツァ・フォンターナ(Piazza Fontana )爆破事件を起こした。
ボルゲーゼと通じたONメンバーたちが容疑者として拘束されたが、
P2と秘密情報部の隠蔽工作で釈放された。

テロと政変は、69年ニクソン大統領就任後にエスカレートする。彼の
国防アドバイザー ヘンリー・キッシンジャーがアレクサンダー・
ヘイグ議員を通じてリチオ・ジェッリに指令を出し、ジェッリは高位の
米共和党員たちと密接な関係をもつ。シナルキストのキッシンジャーは、
イタリアの主権に痛烈に反対を唱えていた。米国は当時政権内にいた
社会党とともに、”反共産主義”軍(ネオ・ファシスト党MSIを含む)
への資金の流れをつくり、70年だけで10億ドルを注ぎ込む。「資金は
(米国駐伊大使グラハム)マーティンを伝ってバチカンの銀行家、
ボルゲーゼの友でありパトロンだったシンドーナに流れた」グリーン/
マッシニャーニはこうみている。

70年6月1日、ボルゲーゼはデッレ・チアイエを”B”グループのヘッドに
据えて政変計画を進め、マーティン米大使は70年10月にSIDのチーフに
納まった彼の仲介人ヴィート・ミチェリ(Vito Miceli)を通じて、
幾つかの基金を動かす。ミチェリはSIDのチーフになる前に、造船企業の
跡取りでボルゲーゼの連絡員だったレモ・オルランディの家で、数回
ボルゲーゼに会っている。マーティンはいわゆる通常ルートの外交官
ではない。タイの大使館から到着したばかりの怒れる右翼マーチン将軍は、
タイ政府を米国側につけてベトナム戦争に参戦させるために軍備を大幅に
増強し、73年までイタリアに駐在したのちサイゴンに渡る。マーティンは
70年にボルゲーゼ、FN工作員ピエル・タレンティ(Pier Talenti)、
おそらくオルランディーニと会っていたCIA工作員ヒュー・フェンウィッチ
(Hugh Fenwich)らと接触を持つ。タレンティが所有するバス会社は、
政変工作に使われていたようだ。

政変を目指して、ボルゲーゼはローマに政治的・軍事的本拠を置く。うち
軍事的それは、オルランディーニの造船所であった。70年12月7日夜半、
デッレ・チアイエ率いる50名のAN準軍事的グループは、アングルトンの
古参工作員フェデリコ・ダマートURAチーフの誘導で内務省の部隊本部に
進入。新聞が記事は、アングルトン自身はクーデターが開始される直前に
ローマ入りし、直後に去ったと伝えている。他の狙撃兵たちはローマ、
ミラノへ移動し、カラブリア州のマフィアたちはカラビニエーリ(警察
軍)の制服を着てそれぞれの役を演じ、ボルゲーゼはテレビで読み上げる
ためのクーデター正当化宣言を準備していた。彼の意図は、イタリアの
狙撃兵たちをベトナムに送ることだったが、最後の瞬間に電話が鳴り、
クーデターは中止された。

フランコのスペインに逃れてから74年に死を迎えるまでのボルゲーゼの
活動は謎に包まれたままであるが、デッレ・チアイエと共に74年4月29日
チリの独裁者アウグスト・ピノチェトと会ったことは知られている。
オペレーション・コンドルでの拷問と虐殺の中心人物、チリ警察情報部
長官ヨルゲ・カラスコ(Jorge Carrasco)も同席していた。ボルゲーゼ
74年にスペインで死亡。デッレ・チアイエによると、70年クーデターの
捜査がイタリアで進行中だったために毒殺されたとのことである。
フランコの死の翌年に、デッレ・チアイエはオペレーション・コンドルの
中心的役割を果たすためにチリへ飛び、その後はボリビアで悪名高い
ゲシュタポ クラウス・バービー(Klaus Barbie)と合流し、同様の
仕事を続けた。

・・・続く

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